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椿が花木として鑑賞されるようになったのは、室町末から桃山時代になってからの事らしい。

この時期に公卿、僧侶、武士の間に華道や茶道が盛んになってきて、椿が観賞用の花木として愛用されるようになっていった。その後、幾たびかの戦乱を挟むが桃山、元禄の文化的熟盛期を経て、「椿」は観賞用の花木として確立していったようである。

この時期の逸話として、慶長8年(1603年)徳川家康が江戸に開幕したその年に、醍醐三宝院の座主義演が将軍へ白椿を献上、その意図するところは関東に白椿は珍しいことによせて、白玉椿の「八千代の栄」「長寿」の意味をこめて、末永き世の安寧を願ったものであろう。

その後二代将軍家忠が諸国から椿を集めたことから、その注目度は一気に加速し、民間にまで広まったようである。

間もなく「百椿図」などが編纂されたことをみると、品種改良なども行われていったのであろう。




参考画像として寛文年の立花の絵馬を借掲する。
(出典は次ページ記載)

下の皿は当花苑のコレクションであるが、藍九谷の皿で時代的に同時期の作と思われる。花の表現に似た雰囲気のあるところが大変興味深い。

古伊万里の初期からこの時期に、椿図の作品が少なからず見られるのは、こうした背景があったのである。