八:媒の間
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境もへだたりぬれば、
言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。
(第七十三段)
媒・口上
かつては大本営発表。
皇軍の留まること知らぬ活躍を
メディアで知らされた臣民は
造作もなく八紘一宇の世ができると狂喜した。
新しくは画面に映し出された油まみれの白鳥。
独裁者ならではの仕打ちなのだと
メディア通して伝えられた視聴者は
後ろめたさもなく空爆ショーを楽しんだ。
情報とは所詮、力持つ者が
おのが野望を果たすための操作なのだと
見切れぬ下々にも責めはあろうが
さりとて依らしむるべし知らしめぬべしの土壌の中で
安住したままに
21世紀を迎えた日本もどうかと思う。
媒一
投げたらいかん。
生きればいいこともあるぞ。
お前を悲しむ者もいるのだぞ。
生きてくれ。
死に逝く者を引き留めようとする数々の言葉。
すばらしいと思った。
生かしてはおかぬ。
これが最後だ。
死んでも悲しむ者がいないのだ。
死ね。
殺され逝く者に浴びせられる怨嗟の言葉。
当然だと思った。
テレビドラマのセリフからも
私は人生を教えられてきたような気もする。
媒二
こちらは何も知らぬから
マスコミが情報を提供してくれるのは
日頃から有り難いと思っている。
こちらが野次馬気分でいるときは
マスコミの人たちのたかぶった詰問は
時には面白いとさえ思っている。
しかしこちらがマスコミのターゲットにされたとなると
話はがらりと変わる。
こちらの思惑は伝わっていない。
マスコミの思惑だけが伝わっている。
結局のところ
見たり聞いたり会ったりした中で
よく調べたりしてほんまものだなと思うのは
十に一つくらいかなということになつている。
媒三
年とると
自然にでてくる「今の若い者は……」
人類最初の落書きといわれるこの言葉
私も言うようになってきた。
別に咎めているのでも
怒っているのでもない。
聞いて分からぬ日本語使っていても
絵文字もどきのメール語使っていても
若い者の間で通じているとなると
「学力低下」となじるのも
年とる者の頑なさから来ているのかもしれない。
そう言えば物書きする私ですらも
ワープロを使うようになって
漢字を忘れてしまうようになった。
媒四
しまりがなくなってきたのは
やはり老いぼれたせいか。
たかがテレビドラマなのに
感動場面に出くわすと
涙が出てくる。
いらだち覚えるようになってきたのは
やはり老いぼれたせいか。
ほんに些細なことなのに
意に添わぬ場面に出くわすと
腹が立ってくる。
社会への目を閉ざしたわけではないのに
まるで甘やかされた子供のように
まるでやり場のない若者のように
己だけの世界に浸りきることが多くなった。
媒五
昨日までマスコミの寵児であったが
今日は落ちた偶像。
人間は観念使う生き物だから
それに一喜一憂するのは当然としても
メディアという観念操作装置が
日常世界にのさばりだしてから
時間の経つのが何と速くなったことか。
私の昔の感覚ならば
少なくも1年かかるものが
わずか1ヶ月で片が付いてしまっている。
いや増す身体的反応の鈍さに
ただでさえおたおたとしているのに
今の社会の変化のスピードに
「あっ、あっ、あっ」と言うしか能がない私である。
媒六
文字文化で育った人間だから
本なら何でも好きというタイプである。
だからエロ本、暴露本も本の内ということで
妙に理屈を付けて買ったこともあった。
専門馬鹿、これ一筋という言葉に
妙に愛着覚える性格から
その出版社
エロ本、暴露本だけを専門にするのなら
それなりの敬意を表しもしようが
すばらしい辞書出す出版社まで
エロ本、暴露本だしているのはいかがなものか。
そういえば日本では
絶対矛盾の自己同一を旨とするから
こんなこと出版界だけの話ではなかった。
媒七
インターネットで検索すると
知りたいテーマは
まあ調べられる。
携帯電話を持ってれば
人里離れたところでも
すぐ相手をつかまえられる。
何かをする気の人間は
これほど便利な道具はないだろう。
ついおっちょこちょいな私なんぞも
ホームページ作って
自分を晒してしまったが
その内に「やっぱりな」と思い至った。
何でも調べたり話しかけたり出来るってことは
私もまた調べられたり話しかけられたりするってことに。
媒八
メディアの力は恐ろしいと思った。
中国にある日本の領事館に
北朝鮮の人が亡命しようとして引き戻されている姿の映像。
三国が絡んで起こった事実であることは確かだが
まるで見えざる作者がいるような気がした。
だからドラマのようだというのはそれ以上に失礼だろう。
北朝鮮の人は本気で亡命しようとしたのだから。
中国の警官はそれを本気で止めようとしたのだから。
日本の領事館員は本当に日本人らしく振る舞っていたのだから。
気がかりなのはこの事実がもたらす波及効果だろう。
国を愛する者であれ、国にいや気をさしている者であれ
友好国の人であれ、仮想敵国の人であれ
はたまた政治家であれ、そしてメディア関係者であれ
この事実を利用しない手はないと思っているのだから。
媒九
日本語のワープロができ
気がつけばペンだこが柔になっていた。
インターネットができ
気がつけば手紙書かなくなっていた。
体の一部を変え
習慣を変えてしまったおかげで
何十年にわたってつきあわされてきたわが万年筆は
もはや二度と使われることもないのを承知で
引き出しにしまい込まれている。
インクも捨てられたのだから本当に役にも立たないのだ。
役にも立たないから捨ててもよいのだ、と
引き出しが開けられる度にそう思う。
それでも捨てないでいるのは
私が捨てられるような思いがあるからなのだ。
媒一〇
「もはや戦後は終わった」や
「戦争を知らない子供達」の言葉さえもが
格別に感慨を催さない
普通名詞と化している。
空襲による焼夷弾の焼け跡の姿や
威張り散らすように聞こえた進駐軍の若者の声が
時たま今を主張しているだけの
無意味な記録となっている。
確かに本とかCDの代替えで
バーチャルにはその歴史を思い出させるだろう。
だがその生の感触を
その生きた感情をよみがえらせるのは
しぶとく生きてきたものの取り残されてしまった
文明の孤児でしかないのだ。
媒一一
日本が言い続けてきたいわゆる「拉致問題」が
北朝鮮による国家的犯罪であることが判明した。
ならば日本が北朝鮮に対して
事実の究明と明確な形の謝罪と補償を求めるのは当然である。
その毅然たる態度を持つと言うことは
過去の日本が朝鮮半島の多くの人たちを
日本に強制連行した事実を認める姿勢と無関係ではない。
厄介なのは北朝鮮にしても、日本にしても
すべて国益のために行ったとすることだ。
そのために国家という最大の権力機構は
他国民に対してはもとより、自国民に対しても
いつも悲しい犠牲を強いているのだ。
もはやワイドショー化された「拉致問題」を見るようになって
そんな思いがよぎってくる私である。
媒一二
機械が番組作るわけじゃなし
人が番組作るから
何か作為があるものと
思って構えてみても
同じシーンを何度も何度も見せられると
ついそれを信じてしまう悲しい人のさが。
金正日の北朝鮮の話にしても
ウサマ・ビンラディンのテロの話にしても
サダム・フセインのイラクの話しにしても
日頃お世話になってるメディアのこと
こうも何度も言うのだから
真実言ってるに違いないと
いつの間にか認めてしまっているところが
今の私の悲しいさがとなっている。
媒一三
メディアをはじめとして
今の日本人の大半は
アメリカ軍による空からの攻撃については
「空爆」という言葉を使っている。
今の日本人にはおかしくはない言葉使いだが
この言葉使う人は明らかに
攻撃をする側にたっていると思う。
なぜならば
60歳以上の日本人は
攻撃をしているというイメージよりも
攻撃を受けているというイメージをもつ
「空襲」という言葉を使っていたからだ。
言葉のあやだといえばそれまでだが
「時代は変わったのだ」の思いひとしおだ。
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