六:順の間


世にしたがはん人は、まづ機嫌を知るべし。
ついで悪しき事は、人の耳にもさかひ、心にもたがひて、その事ならず。
さやうの折節を心得べきなり。
ただし、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、
ついで悪しとて止むことなし。
(第百五十五段)


 順口上

記憶とどめる私の箱が
どんどんどんどん壊れだし
共に生きたかつての知己が
ひとり、ひとりと消えていく。
それだけ生きれば当然と
悟る気持ちも湧きいでず
何となくむなしく
何となく悲しく
そろそろ自分もかなと
打ちひしがれていく一方で
せっかく与えてもらった命なんだから
しぶとくしぶとく生き抜いて
無様な姿をさらすのも
一つの生き方かなと寂しく思う。


 順一

ありのままに生きるのは
よいことだと思ったから
ありのままに生きようとし
努力もしたけれど
やはりありのままに生ききれなかった。
初めは今以上の己を求めてこそ
人生と言い訳したりもしたが
その内に己を大きく見せても
人はそれほどに評価もしないし
己の力以上にも出来はしないとわかってきた。
それで
ありのままに生きるとは
人生の撤収作業を始めてから出来る
生き方なのだと思うようになった。


 順二

若いときの一日は短い。
一年は長い。
年とれば一日は長く
一年は短いそうだ。
若いときにそう聞いた。
ああ、そうなんだろうなと思った。
還暦すぎて再び聞いた。
ああ、確かにそうだったと思った。
それで、それで?
何かをしても一日は一日。
何もしないでも一日は一日。
だったら何かをせねばならぬのだと
急かされて人は
自分の人生作ってきたのであった。


 順三

気がつけば私がこの世にいて
だんだんと自己顕示欲が強くなって
人の領域にずかずか踏み込んでいく。
でも人は私がその場にいるから
私に相手するのであって
私がその場にいなかったなら
人は私の存在すら知らない。
私がそこにおり
そして離れても
人からすれば
いつの間にか私がそこにおり
いつの間にか私がそこにいなくなった。
人の思いとはそんなものだろうし
人生もそんなものなのだろう。


 順四

年明けた1月1日
今、「今、思うこと」をしたためている。
ということは今私は生きているということだ。
ならば私も人並みに
「あけましておめでとう」と言わずばなるまい。
まずは私が生きていたということのために。
そして私の知る人が生きていたということのために。
そして私がこれからふれあう人のために。
「あけましておめでとう」とは
若ければ1年の区切りを示す挨拶だが
年とれば1年の訪れをいとおしむ言葉だ。
出逢いの喜びがあったとしても
悲しみの別れを受けとめねばならぬ
無常の響きを隠した言葉なのだ。


 順五

生きていくということに
飽きたわけでは決してないが
死ぬということが
そんなに怖いことでもなく
夢も見ない眠りの世界に行くだけのことなのだと
たまには思うようにもなった。
今はただこれが最後の眠りだと思う状況でないので
いい加減な悟りなのかも知れないが
苦しみもなく見苦しくもなく
死ねたらぐらいには思っている。
それでも我欲とは恐ろしいもので
この後も生きている人に
すべてを任したという心境になりきれないのが
気がかりの一つにはなっている。


 順六

女が化粧するのは何故なのか。
ありきたりの答えはあるにはあるのだが
これまで深く考えたことはなかった。
だが最近己の顔を鏡で見て
あまりにも変わっているのに気がついて
珍説に思い至った。
人が化粧するのは
己をよく見せたいからでもなく
己の醜さ隠したいからでもない。
死に逝く者の顔に近くなって
その恐怖を感じたくないからであると。
だからすべての化粧とは
美意識からでなく
恐怖心からなされるものなのである。


 順七

年をとり時代が変わったことで
昔できたことで
今できなくなっていったことが多くなった。
それでつい
こんなこと昔ならできたのにと
心中で臍をかむのはいいのだが
それをよそ様にいうようでは
現役でいる資格はないだろう。
ところが人間いつまでも
見栄とか欲とかに踊らされるものだから
なかなか引け時が分からない。
だから無能でも現役でいられたのだろう。
いや無能だからこそ
現役でいられたのだろう。


 順八

還暦過ぎると
死の影がいつもつきまとう。
年上の先輩はいうに及ばず
すでに死んだ同い年や年下の人も数知れず。
60年以上も生きているというこの事実
一体長く生きたのか
それともまだまだこれからなのか。
平均寿命の短い南の国でならば
生きすぎたということになるが
日本の国の住人でいると
60すぎても現役続けられる。
だから70すぎての死ですらも
早すぎた死などと
衒いもなく日本では言えるのだろう。


 順九

還暦すぎた世代は、今
停年という因果を含められている。
それでもまだ現役でおられる人は
リストラという脅威にさらされている。
でもそれは贅沢な嘆きごとなのか。
第一、最大の不幸とも言うべき
戦争がなかったし
医療技術も上がったおかげで
昔なら一巻の終わりの病気でも
薬や手術で治るようになった。
その上、年金がもらえる身分(?)でもあるので
欲さえ掻かねば寿命まで永えられる。
見ようによっては世界でもまれなほどに
恵まれた時代の日本に生きておったのである。


 順一〇

平和とか健康とかは
それが意識されず
語られない内が花なんだ。
それに平和とか健康とかは
ありがたがられず
当たり前のように見える内が一番なんだ。
さてさて還暦すぎたこの私
今の日本に住んだおかげで
あまり平和を考えなかったが
やっとこの頃平和を考えるようになった。
この年まで生きたおかげで
しょっちゅう体が痛くなったり痺れたりするようになり
やっとその健康とやらを
毎日考えさせられるようになった。


 順一一

人生なるようにしかならないもんだと
悟ったつもりで生きてきた。
いい方になったなら
やっぱりそうだろうとしたり顔になるのに
悪い方になったなら
やっばりそうだろうとしたり顔にはならない。
生きていること自体
罪なのだと悟るキリストでなく
生きていること自体
煩悩なのだと悟るお釈迦様でもない限り
どんなに悟ったつもりでも
思うようにならないことが次々重なれば
理屈で承知はしても
やっぱりいらいら顔して見せる私なのである。


 順一二

われ思う、故にわれありと
ことさら己を意識する人も
眠りの世界に入れば
意識はなくなる。
手術で麻酔をかけられれば
意識はとぎれる。
この容赦なき無の襲来にも
甘んじられるのは
やがて目が覚め
意識が戻ることを信じているからだ。
この繰り返しのお陰で
「もうじき死ぬな」と予感している人でも
それでお仕舞いだとあがきもせずに
次の世界に移る心の準備をしようとするのだ。


 順一三

どんな私であったとしても
私が私でなくなれば
すべてを次に託して
潔く散らねばならない。
後に残る者の賢きを望んでも
後に残る者の愚かさを嘆いても
後に残る者には
後に残る者の生き方がある。
去りゆく者の執念がいかようであれ
去りゆく者の怨念がいかようであれ
後に残る者の存念次第なのだから
私が私でなくなれば
すべてを腹に飲み込んで
後を任せねばならないのだ。

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