五: 若の間


若き時は、血気に余り、心、物に動きて、情欲多し。
身を危ぶめて砕けやすき事、珠を走らせしむるに似たり。
美麗を好みて宝をつひやし、これを捨てて苔の袂にやつれ、
勇める心盛りにして、物と争ひ、心に恥ぢうらやみ、好む所、日々に定まらず。
色にふけり情けにめで、行ひはいさぎよくして、
百年の身を誤り、命を失へるためし願はしくて、身の全く久しからん事をば思はず。
(第百七十二段)



 若口上

お国のために死んでこそ
まことの人の姿だと
教え込まれて育った老人は
紆余曲折の50年を送ってきた。
自分の得にもならぬことをしてこそ人なのだ
人のために尽くしてこそ人なのだと
いつまでも説き明かす人は
時代遅れの懲りないおっさんとからかわれた。
コンビニ前でたむろする若者からは
「何で俺が自分の得にもならんこと、せなあかんのや」
「何で俺が人のすること、せなあかんのや」と
おめず臆せず言われ馬鹿にされてきたが
きな臭くなる日本と引き替えに
たまには相づち打つ若者が現れてきた。


 若一

きまじめ人間が多く
時代も社会もきまじめだったので
私の時の成人式は厳粛だった。
時移り世相も変わった今
成人式は様変わり
厳粛さは吹っ飛んだ。
目上の人の話しを聞きもせず
四方山話に花咲かせ
酒を飲んでのトラブルが相次いだ。
あきらめのよい私なんぞは
これが新しい型の成人式かの心境だが
他者への尊敬と忍耐こそ
日本の原動力と信じる日本人には
告訴も辞さないほどの心境だろう。


 若二

せっかちなところもあるので
こちらの意思を伝えたいがために
一方的にまくし立てることがある。
今になって思えば、そんな時
相手が相づち打っていても
十分の一もわかっていなかった気がする。
案の定
一巡するほどに齢を重ねる身となって
スローな七五調にならされていた私は
今のミュージシャンの歌を
調子くずした動物のうなり声としか
思えないのに
いかにも分かっている振りをして
相づち打っているのだった。


 若三

年とると
つい昔の自分を基準にして
物事を考えてしまう。
昔の私は社会のことを考えていた。
だのに今の若者は社会のことを考えていない。
昔の私はよく働いていた。
だのに今の若者はあまり働いていない。
昔の私は目的意識をしっかり持っていた。
だのに今の若者は目的意識がない。
昔の私はしっかりしていて
今の若者は駄目だというつもりはないが
やっぱり思ってしまっているのである。
悔しいけれど
それが年とる者の感性なのである。


 若四

今の若い人に「尊敬する人は?」と尋ねた。
そしたら「ふん」とそっぽを向かれた。
昔の私を思い出しながら
「一人や二人はいるだろう?」としつこく尋ねた。
そしたら「なんで答えな、いかんのか」という顔をしながら
「いない」と答えた。
「そんなはずはないだろう?」と聞くのも馬鹿らしくなったが
今は本当にいないのだなと思うようになった。
そうだろう。
頭が賢いと思われている人や
力があると思われている人や
清廉潔白と思われている人が
本当はそうではないのだと
年とる私でさえ思うようになるご時世なのだから。


 若五

野球場でのあの熱気!
サッカー場でのあの興奮!
コンサート会場でのあの激しさ!
どこからでてくるのかと思わせる
若者のパワーとエネルギー!
しかし
公の仕事とか義務的な仕事とかになると
途端に
無気力になり白け気分に襲われる。
このギャップは何なのだ。
あの熱気と興奮と激しさを
ほんの少しでもいいから
世のため人のために回してくれよと
つい言いたくなるのだ、古い日本人ほど。


 若六

オリンピックやワールドカップで
日本の選手が活躍してくれると
正直言ってうれしい。
でも六十を過ぎた者から言わせてもらうと
日本の選手の髪の毛が
黒でないのが気になって仕方がない。
日本人なら、やはり黒髪と
決めつける時代遅れは承知だが
こうもまあ、赤や茶色や金色見ると
目が悪くなった私には
外国のチームのように見えてならない。
選手はそれが似合っていると思うのだろうが
それが似合っていないと思っている
古い感覚の日本人がまだいることも忘れないでくれ。


 若七

日本も国際化の波を受け容れるようになったのか。
経済大国になったおかげで
日本の都市には色々な髪の人が行き来した。
サッカーのワールドカップが開かれたおかげで
日本の片田舎にも色々な肌の人が行き来した。
そこには国籍は日本人でないのに
心は日本人以上に日本人的な金髪の人がいた。
国籍は日本人であるのに
心は日本人らしからぬ茶髪の人がいた。
もしも本当に日本が国際化したのなら
本当に黒色の髪の毛でない日本人が
本当に黄色の肌でない日本人が
どこかしこにいても誰も不思議がらない時代が来るだろう
と、私は思っている。


 若八

ワールドカップの浮かれぶりを見れば
今の若者のパワーのあることはよくわかった。
引きずられて年輩者もにわかサッカーフアンになった。
日頃の日本が日本だけに
老いも若きも憂さ晴らしになっているのは確かだろう。
が、心配もある。
このデフレスパイダルの中で
日本を導くお偉い方は
お祭りすんだ後のことをしっかりしてくれるのか。
この白けムードの中で
ニッポン、ニッポンと叫んだお若い方は
以後も日本の国のことを気にしてくれるのか。
どうもそのどちらからも
「それとこれとは話は別」と言われそうな気もする。


 若九

自由・民主・平等の教育で
育ってきたわが身でありながら
人は皆平等だとする考え方はおかしいと
つい思ってしまっているのに
われながら驚いている。
年端もいかぬ子が年以上のことをしたり
修行中の身が修行終えた人のすることをしたりするのを見ると
何となく釈然としなくなるのである。
年端もいかぬ子は年端のいかぬままに
修行中の身は修行中の身のままに
まずしなければならないことをしてから
したいことをしたらよいのだと
つい思ってしまうのであるが
これもやはり年取ったせいなのだろうか。


 若十

戦後の日本を統治したアメリカ軍の最高司令官が
日本人の精神年齢は12才と言ったとか。
当時まだ未成年であった私も
何と日本人を馬鹿にした言いぐさと思ったものだが
50年たった今
ひょっとしたら正しかったのではと
私の心はぐらつきだしている。
そりゃあそうだろう。
政治家や官僚はもちろんのこと
日本のオピニオンリーダーと認められる人たちまでも
日本はまだまだアメリカの庇護を受けねばと言う。
そのくせ己の欲だけちゃっかり見たそうとする。
それでは未成年だから何しても許され甘えられるという
今の悪ガキの言いぐさと同じではないか。


 若十一

確かに顔つきだけは子どもだ。
でも体つきは悠に私を越している。
力も私よりも強いだろう。
そんな若者を雑踏の中で見る
半世紀前に生まれた人は
何かしら威圧感を感じてしまう。
別にそれで困るわけでもない。
でもそんな彼らと並べば
子どものような背丈になることに
何かしらコンプレックスを感じてしまうのである。
これというのもいわゆる一つの
若い者には負けたくない
まだまだ力があるのだと
思う心の残り火なのだろう。


 若十二

何も反戦運動をしないのが
悪いと言っているわけではない。
野球やサッカーなどの遊びには
あれほど興じるほどのエネルギーがあるのなら
たまには政治的発言をし
政治的行動をしてみてもいいではないかというのが
かつてはそのような経験をしてきた者の
自己顕示してみたくなる思いである。
今世界ではパレスチナ・イラク問題で渦巻いているのに
ここ日本では涙ほどの動きでしかないことに
今さら嘆いたとても詮無いが
これとて「安保反対」とアメリカに逆らいながら
ちゃっかりアメリカの文化や製品を享受してきたことに対する
後の若い世代の人たちのしっぺ返しだったのか。


 若十三

先に60年以上も生きていたのだから
これから60年以上も生きるる人に
一言ぐらい言える資格はあると思う。
とは言え時代も変わるのだから
過去の時代の教訓が
どれだけ受け容れられるのか
それを知る術もない。
私の生きてきた歴史が無視されるのなら
先のことなど知ったことではないと
それなりに開き直りもできようが
それでも「あとはまかす」とか
「うまくやってくれよ」とか
思わず言ってしまうこの気持ち
託された人にはわかってくれよと思う。

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