W 死に苦しむ


                   出る息入る息を待たず
                             (諺)




前口上

あけましておめでとう。
正月来るたびに
すべての人が言う常套句。
その意味今年はこう考えた。
今まで生かされてきたことの感謝。
今まで生き抜いてきたことの言祝ぎ。
「死」を覚悟した人間ならではこその
悟りであり諦めの裏返しの表現。
人間生きている限り棄てきれぬ
「生」の執念残っている中
われ思うその私がいる限り
まさに私は生きていると思いたい。
この思いどうしようもない「生けるもの」の性である。
この思いどうしようもない「生けるもの」の定めである。


@

母の遺品を整理していると
母の日記帳が出てきた。
いつ、どこで、だれが、なにを、どうしたと
一日に起こった出来事を淡々と書き記していた。
おかげで郷里での母の交友ぶりや
世話になった身内のことがよくわかった。
この誰に見せるでなく
ぼけ防止のために書いたという日記帳だったが
何の関わりもない他人からすれば
何の感慨も呼び起こさない文の羅列でしかない。
でも、血の関わりのある子供からすれば
名の知れた人の書き残した日記よりも
高名な学者が著した歴史書よりも
価値のあるものに、私には、なっていた。


A

家族の死に涙するのは当然としても
家族以外には冷淡なもの。
例えば列車転覆事故による多数の死者の発生。
日本や日本人に様々な教訓を残した。
他人に盲目なのは人間のさが。
さらに身内と言っても家族でなければ
日本人は真にどれだけ涙するのか。
自分の所属する同僚に対して。
自分の住む社会の人に対して。
自分の住む国の人間に対して。
自分の生きている時代の世界の人に対して。
そういう人たちに起こった出来事に対して
今の日本人は家族の人の出来事と見なければ
他人事としてもてあそぶように思えてならない。


B

別に悟ったわけでもあるまいが
生死は紙一重だ。
そのくせ人は誰しも
生きることを欲し死ぬことを避けようとする。
その上生きることはよいことで
死ぬことは悪いことだと値踏みする。
私も病気してわかったことだが
倒れて薄れゆく意識の中で
何がなんだかわからなく
そのくせこのまま死んでいくのかなあと
むしろ心地よい思いでなすがままにまかせたが
回復した後から聞くと
家族が呼び寄せられていたのだと知って
何が生死を決めたのかその思い複雑だった。


C

落ちれば確実に死ぬような高いところで
綱渡りをしているのが今の自分の生き方。
生老病死を悟るお釈迦さんの気持ちは
理屈としては判るも
人間死すべきものと諦めさせられているということか。
それでも遂にその時が来た時
その時来たかと覚悟するつもりではいる…が
運悪く肉体的激痛が起こってきたなら
心頭滅却の心境に達しられるかどうか…。
入院時に大静脈破裂で死ぬ寸前の若い患者が
生き抜くことより痛み止めて貰う方に気を取られ
何でも言うことを聞くからと
家族や神仏にただただ頼んでいたことが
今になって生々しくも思いだされてきた。


D

久しぶりに村人として盆行事に参加した。
その幾つかが簡略化され省略されている。
都会に籍を置く内は帰省しても
別段気にもならなかったが
内から見ると気になってきた。
伝統気にする古老が亡くなり
食うため一度は都会生活をした者は
伝統なくなることを合理的と喜び
はじめからの故郷喪失者は
親の故郷なんて知ったことではないと考える。
そして根っからの村人は
時代の流れを感じてあきらめ気味になっている。
かくて死者弔うお盆行事は廃れ
家の墓守る風習も風化していく。


E

いじめによる自殺を巡る報道が
メディアによってかまびすしくなされているのに
なんと天下の文部科学省の報告が
ここ数年のいじめによる自殺者件数は0。
この何ともまか不思議な報告。
確かなのは教育関係者もお役人も
責任感麻痺させる制度の奴隷と言うことだ。
仮にも最少の件数1を出していたのなら
姑息であること見え見えでも
中にはよい人もいるものだと言えるのだが
件数0はそのいい訳さえも許さぬ真実を露呈している。
保身のための理窟づくりについては
彼らは相変わらずうまいが
それでは日本は美しい国どころか怖い国になると思った。


F

個人の死に苦しむのもよいが
人類の滅亡そのものにも苦しむことできないか。
「未知のウイルス」とやらが変に暴れ出している。
このやっかいな半生き物との戦いは
環境問題同様に人類の存亡に不可避となろう。
今回の「新型インフルエンザ」の蔓延。
幸い毒性弱いらしく運のよい蔓延となったが
今後はそういうわけには行かぬだろう。
それより又も露呈したのが日本村特有の陋習。
感染受けた人に対する排除と差別の意識は強烈だ。
「社会に迷惑をかけた」は
当事者には誤りの言葉となり
他人には非難の言葉となる。
人類が滅亡する時にも日本人はそう言うのだろうか。


G

70近くも日本で生きてきても
日本のことはよくわからない。
つい最近の事例を見ても
沖縄の集団自殺で軍隊の命令はなかったとしたり
それを教科書にまで載せようという動きあっりして
苦衷の体験した人たちの子孫の反感を買っている。
自分たちに都合の悪い事実なら
抹殺したいというこの気持ち。
わからぬでもないが心は複雑だ。
日本人がどんな事実でも
「なかったことにしよう」とか
「水に流そう」とか言う気持ち
わかるようにならなければ
日本という国もわからないのではないだろうか。


H

35年前に父が亡くなった時には
村には土葬の習慣があり
家から父の遺体を乗せた車を引いて墓地まで行き
そこで儀式を行った後埋葬した。
神秘的で荘厳な思いを持ったこと覚えている。
そこに到る必要なことはすべて
家族や親戚や村人が取り仕切っていた。
今は土葬から火葬に変わり
葬儀会館で葬儀会社の人が
ほとんどすべてのことを代行し
遺族はそのスケジュールに乗って
ただ単に従っておりさえすればよい。
時代も変わったものだと
今回の母の葬儀の時は複雑な思いであった。


I

実際に介護を行うと
ずいぶんと人生勉強させて貰う。
生きるとは何かの問題。
老いるとは何かの問題。
病むとは何かの問題。
そして死ぬとは何かの問題。
お釈迦さんの苦しんだ問題がそこに凝縮されている。
その上に下世話には
社会・経済・政治や家族の問題にまで及んでいる。
介護に疲れ生まれた「犯罪者」には「同情」するし
わが身のことを思うと
姥捨て山の風習やぽっくり死への信仰
そして安楽死や尊厳死の問題が
昔話や冗談話のようには思えなくなってくる。


J

太く生きたのだから
何時死んでもいいだとか
長生きしたのだから
何時お迎えが来てもいいだとかは
死が訪れようとしている時であっても
さらりと言えないのが人の常。
況や
したいことも充分出来なかったけど
何時死んでもいいとか
平均寿命にはまだまだだけど
何時お迎えが来てもいいとかを
さらりと言えないのは
人間が出来ていないからではない。
人間がよくわかっているからである。


K

私がこの世にいたとしても
それでどれだけ歴史が変わるのか。
私がこの世にいなくても
それでも歴史は変わるものは変わる。
では私が生きているとはどういう意味があるのか。
てなことを言えば
私は悟りきった人間になったとでも言えるのか。
それとも負け犬で死に損ないの戯言と
偉ぶる人から軽蔑の物言いされるのか。
物わかりのいい人は
人は空気を吸うそれだけでも
生きる意味があるのだとしたりげに言うが
では本当に空気を吸うだけの人間で死んでいったなら
それでもいいのだと賢しげに言えるだろうか。


L

生きていくこと自体が煩悩ということ認めれば
煩悩断ち切れとの悟りし者の説教は
死ぬ以外にはないと言われているようなもの。
涅槃の世界という
いかにも死後の世界を美化した言い方は
お釈迦様が人間に残した究極の幻影。
ところが愚者なればこそ持つ
まだ死にたくはない
まだまだしたいことがあるとの思いは
その悟りし者を偽善者と決めつけなければ
生き抜いていくことの正当性が得られないのである。
幸い私は悟りし者の言うことを何となくわかれば
愚者の言うことも何となくわかる。
そのいい加減さが今の私を長らえさせている。

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