Ⅰ 生に苦しむ



                      人の一生は重荷を負うて
                      遠き道を行くが如し
                               (徳川家康)



前口上

今度も来たか1月1日。
それこそ人間がこしらえた
単なる数字。
この日すべての生けとし生けるものが
今あることを同じ空間で共有する。
そこで交わされる「あけましておめでとう」とか
A Happy New Yearとかは
儀礼的でしかないだろうが
中には、ごく少数の者が
「ああ、今年も生きているんだ」と思う。
そう、不意の病気に倒れ死ぬところであったが
なんとか生かされて
「今、思うこと」をブログできる幸せ与えられた
「私」のように。



いくつも大病患いながら
古希近くまで生きてきた。
「古希稀れ」の言葉を思えば
生きすぎたかなと思わないでもないが
平均寿命までは未だだし
もう少しはとつい願ってしまう。
人間とは悲しいほどに欲深い。
生きれば生きたで苦しむ。
悟ってはご破算にし
また悟ってはご破算にし
またまた悟ってはご破算にする。
その繰り返しの中で
人間は一方では成長していき他方では堕落していく。
人間とは楽しいほどにどうにもならない存在である。



都会で生活してきた者が
定年までを勤め上げ
これで人のしがらみ逃れると
喜んではみたものの
これからは何してもいいのだと思うと
かえって緊張感を覚える。
昔の垢を洗い落としているつもりで
せいせいしていても
その最中にも
自分ではなくなってきていることの不安も覚える。
人は第二の人生歩めていいなと
簡単には言うが
それがまた大変なことなんだと
気づくようにも人はなるのである。



定年なったら念願の
悠々自適の生活や
晴耕雨読の毎日を
送りたいと思ったのは幻想だった。
いざ現実にその日迎えてからというものは
煩悩故に思ったように進まない。
思うことしようと思って出来るのは
結局神さまだけと
分けじり顔で嘆くより
思うことしようと思ってできないことこそ
人の自由のゆえんと思えば
残された人生
少しは楽しくなると
割り切るほかはないだろう。



組織の決定ほど恐ろしいものはない。
どんなに間尺に合わぬ提案でも
どんなにおかしな提案でも
それが組織の決定となれば
中の個人は抗えない。
その渦におれば
悲喜こもごもに翻弄され
その渦からはずされれば
組織から立ち去れの脅しまで受ける。
挙げ句の果てに
リストラという名で首切られた天命の世代は
唯一首切られぬお役人の作る
百年安心という幻の年金政策を頼りに
残りの人生託さねばならなくなった。



去る者は日々に疎し。
このごろだんだん実感してきた。
同じ組織の利害関係で結びついていた人とは
離れれば真っ先に疎くなる。
「知」で繋がった者同士の弱さである。
同じ住むところで生活ともにしていた人とは
離れれば次第に疎くなってくる。
「地」で繋がった者同士の弱さである。
同じ血を共有している人とは
離れればやっとの思いで疎く見なしてしまう。
「血」で繋がった者同士の弱さである。
それでも人間は人間。
今までの人と疎くなれば
新しい人求めて生きていかねばならないのである。



確かに日本で生きていくことは喜ばしい。
第二次世界大戦以後は戦争しなかった国だから。
そのかわり平和ぼけしてしまった。
確かに日本で生きていくことは腹立たしい。
お上の言うことは嘘が多いから。
そのかわり甘えることを覚えてしまった。
確かに日本で生きていくことは哀しい。
未だに村社会だから。
そのかわり日本の良さを味わってしまった。
確かに日本で生きていくことは楽しい。
日本人として安心して生きていけるから。
そのかわり世界の常識を忘れてしまった。
自由だとか民主主義だとか教えられたが
その意味わからずにここまで来てしまった。



過去のことは忘れた。
未来のことはわからない。
だから現在が大事なのだ。
ドラマの主人公が言えば
何とかっこよい生き方なのかと感じ入る。
現在あるのは過去あるお陰だ。
現在することが未来を作るのだ。
だから未来のために現在が大事なのだ。
正直一途の人が言えば
何とお人好しな生き方なのかとあざ笑う。
あまりに利己的な生き方が賛美され
あまりに利他的な生き方が侮蔑される
そんな風潮が
現在の華やかさを生んでいる。



学校の給食で
鯨食べて育った世代の人間には
もはや死ぬまで鯨は食べられないのかと思うと
時代も変わったと痛感する。
環境保全運動がもたらした負の部分として
鯨が食べられなくなり
それを嘆かない日本人が増えつつある。
鯨を捕ると絶滅するからの理由は
我慢もしよう。
でも鯨は人のように知能高いからとか
鯨の捕り方残酷だからとかで
捕鯨反対を叫ばれたのではたまったものではない。
生きるために食することまで
否定されたような思いである。



何かをしても時が過ぎれば一日が終わる。
何もしないでも時が過ぎれば一日が終わる。
楽しくても一日は一日。
悲しくても一日は一日。
昨日の一日はどんなだったろう。
明日の一日はどんなだろう。
これまで2万5千日近くも生きてきたが
そのたった一日が
今や非常に気になってくるというのは
一体どういうことなのか。
そのことが
今を生きることの大切さを
今になって伝え教えようとしているのだとしたら
今までの人生何だったのだろうか。



言うまいと思えど今日の暑さかな。
この川柳
夏は暑いものと達観している者でさえも
思わず口走る。
この異常な暑さ。
地球温暖化を憂える環境学者は
前倒しされただけの当然の帰結と
したりげに解説する。
ひたすら暑さに耐えようとする生身の体を持つ人間。
何とか暑さに打ち克とうとする知恵の固まり持つ人間。
この2種類の人間
いずれも環境の産物でしかないが
狂気におののくか、機械に馴らされるか
生き残りをかけて人間は変様していくだろう。



年金もらえる年まで生きてきた。
だから贅沢は言えないのかもしれない。
戦争知らない世代を生きてきた。
だから贅沢は言えないのかもしれない。
家族持ち子どももできた。
だから贅沢は言えないのかもしれない。
これ以上何の不満もない筈だが
下に落ちたくないという誇りと
上に昇りたいという羨みは
どうしようもない人のさがだ。
だからこそ人なのだと悟りきれないでいる輩には
一日一日が何事もなく過ごせたことを
お天道様に感謝するなんて
惚けた人間の話なのだろう。



ドンキホーテに見られるごとく
社会に迷惑かけたり
人から馬鹿にされたりしても
やはり本人はケロッとしている。
ハムレットに見られるごとく
しがらみに囚われたりすると
そこそこの選択したとしても
やはり本人は後悔ばかりしている。
夢ばかり追いすぎると現実を忘れ
現実に引きずられると夢は実現できない。
だから人生色々で面白いと
悟り顔で言ったところでどうにかなるものでもない。
時にはドンキホーテ、時にはハムレットを演じてきた私の人生も
健康なればこその人生芝居だった。



一人称の私が
いくら私が、私がと叫ぼうが
三人称の私が
意味不明の言葉をはいている。
本人はしっかりしているつもりでも
他人はそうとは受け取ってくれない。
でも「あいつはおかしなやつだ」と
思われている内はまだましである。
その内にいくら私が、私がと叫ぼうが
あたかも私がいないかのように
振る舞いだしてきたとしたら
もう私は生きている存在ではなくなって
単なる「もの」となってきていると思うと
ぞっとする気持ちに襲われる。

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