壱:憶の間
しづかに思へば、
よろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。
人しづまりて後、長き夜のすさびに、なにとなき具足とりしたため、
残し置かじと思ふ反古など破りすつる中に、
なき人の手ならひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、
ただ、その折りのここちすれ。このごろある人の文だに、
久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。
手なれし具足なども、心もなくて変わらず久しき、いとかなし。
(徒然草第二十九段)
口上
生まれたことの記憶がなくて
最初に見たのが動くもので
後になってそれが平兵衛屋さんちの牛とわかってから
私の人生
「今」につながる一本道だった。
長かったのか、短かったのか
時間は物理的に計算されても
所詮は「一炊の夢」のような気もする。
それでもまだ
夢と現実の区別がつくほどまともなんだろうが
最近、夢も現実の一つと思いだし
時たま夢日記を書くようになったが
はや惚けてきたのか
夢日記の中身が本当のことのように思えてきた。
憶一
還暦すぎてまでも
生き恥晒していると思った人は
三つの波間を漂った。
「戦後」という名の波間では
戦争で食いつぶしたお陰で
食うことのために働いた。
「安保後」という名の波間では
アメリカの傘に入ったお陰で
豊かになるために働いた。
「バブル後」という名の波間では
お上を過信したお陰で
自力で働かねばと気がついた。
だから還暦すぎてまでも
生き恥晒すなんて言えるどころではなくなった。
憶二
天皇といえば昭和天皇。
皇太子といえば今上天皇。
雁治郎といえば二代目。
扇雀といえば今の雁治郎。
福田といえば福田赳夫。
田中といえば田中角栄。
時移り世代が変わっても
とっさに出てくるイメージは
昔なじんだ人の顔。
別れて何十年も会わない友のイメージも
黒髪の凛としたものばかりであった。
そう思って
風呂場で自分の顔をしみじみ見ると
白髪のしわしわ顔が私を見ていた。
憶三
昼は明るく夜は暗い。
夏は暑くて冬は寒い。
雨降れば家で晴れれば外で。
そう思って人は何万年も生きてき
それでいろんな文化も生まれた。
そのリズムとテンポは自然にとけあっていた。
そのうち欲目たぎらす人間が
夜でも明るくなるように
冬でも暖かくなるように
雨でも働けるようにと考えだして
今、その通りになった。
そしたら昼でもどす暗く
夏でも冷たくなりだして
言うこと聞かぬ自然に変わっていった。
憶四
深夜でも昼間のような明るさの
そんな時代の、そんな日本に
今、生きている。
子供の頃は
さすが行灯やローソクではなかったが
5燭の明るさの裸電球が一つ
ススぼけた仏壇のある部屋にあって
他の部屋の灯りにもなるようになっていた。
今からすれば
家全体が暗かったけれど
それを当たり前のように受け入れていた。
今ならそんな暗さはごめんだと思うのだが
でも不思議にも
そんな生活、もう一度してみたいと思うのである。
憶五
田舎では
ススだらけのでイロリのある部屋。
祖父が使っていた手漕ぎの船。
死ねば土葬にされた村人の墓場。
大きな屋根のついたお寺のような小学校。
都会では
子供の遊び場であった路地。
共同便所・共同炊事場の長屋。
一家が一つ蚊帳の中で寝た借家。
三畳一間の下宿先。
私事ながら
私が生きてきた60余年。
これまで私が出逢った宴の場所は
今、影も形もなくなっていた。
憶六
嫌なことや悲しいことは
記憶の箱から飛び散るからこそ
人生これからも生きようと思う。
楽しいことや嬉しいことは
記憶の箱に留まるからこそ
これまでの人生よかったと思う。
とは言えそんな講釈は
これからも長々生きられる人のものでしかない。
人の名前を忘れ
普段使う言葉でさえ出てこないばかりか
楽しいことや嬉しいことまで
本当かどうかと疑わしくなると
嫌なことや悲しいことまで
記憶の箱に戻ってくれよとつい思ってしまう。
憶七
記憶力がよかったのは確かだった。
学校時代はノートを取らず
社会に出てもメモを取らなかった。
自慢するほどのことでもなかったが
それで不自由だなんて思わなかった。
天命の年になってからその報いがきた。
必要な言葉やイメージはすぐには浮かばず
昔、憶えたことまでかすれていくようになった。
さりとてノートやメモはなく
昔がどんどん失われていく感じだった。
それでもどうにかつじつま合わせをしていたが
昔へと遡る幅も
先へと馳せる幅も狭くなる思い増す中で
確かさ求めて私は今を藻掻いている。
憶八
赤いトマト。
黄色いトマト。
大きなトマト。
小さなトマト。
丸いトマト。
丸くはないトマト。
日本のトマト。
輸入されたトマト。
トマトの形をしていないトマト。
トマトの味をしていないトマト。
これらはすべて店屋で買え
いつでもどこでも食べられる。
でも50年前とそっくりな味わいのトマトを
今一度食べてみたいと思う。
憶九
私が育った村には
澄んできれいな遠浅の
長さ700メートルの白浜海岸があった。
大人には大事な漁の仕事場だったので
時には楽しい一家の食事場となった。
子供には恰好の遊び場だったので
白浜では野球を
岩場では泳ぎを楽しんだ。
50年後の今は
漁の仕事場ではなく
遊び場でもなくなった。
天が与えた絶好の海水浴場だったので
夏は観光地として姿を変え
村人の心もすっかり変わってしまった。
憶十
学校で何度も何度も教えられたのは
これからの日本は
戦争をしない国になったということや
国連というものを中心に
世界貢献していくということだった。
夜なのに何故電球に被いをするのか
幼いながらも了解していたから
これらの教えはよくわかったし
だからそういう日本にするためにも
頑張るのだと思ったりもした。
お陰で平和ぼけのレッテル押されたが
アメリカ一国に盲従する今の日本を見て
「私の50年は何だったんだ」と
年取る者特有の無力感に襲われている。
憶十一 2011/12/21に再掲
人間生まれたら必ず死ぬとは
誰もが了解していることだから
私もそろそろだなとは覚悟している。
それでも時々思うことがある。
人間死ぬのがわかっていて
どうして生き続けようとしているのだろうか。
人間死んだらおしまいなのに
どうして死んだ後のことまで
人は考えてしまうのだろうか。
これらは考えてみれば
とりとめもない話である。
とりとめもない話とわかっていても
そのしつこさから
私は逃れることができない。
憶十二
曾祖父や曾祖母の想い出
祖父や祖母の想い出
そして父や母の想い出は
私が生きている限りはなくならない。
私や限られた身内を除けば
もはや戸籍簿や名簿で確認されるだけの
名もなく生まれ名もなく去りゆく彼らであった。
しかし
私が生きている限りは彼らは存在していた。
自分の時代を精一杯生き
何かを社会に残し
何かを未来に託そうとした。
私が生きている限りはそれは確かであった。
そう、私が生きている限りは……
憶十三
親父の死んだ年を超えても
しぶとく私は生きている。
何となく申し訳ないような気もするが
親父は親父、自分は自分と
生きていることのいいわけをしている。
自分の体を切り刻んでも
生き延びてこられた運の良さに
何はともあれ感謝すべきなのに
七〇、八〇の今なおかくしゃくとしている
年上のお歴々を見るにつけ
嫉妬の入り交じる複雑な気持ちになる。
時代に取り残されてるなと思う一方で
「まだまだ、し残していることがある」との思いが
必死で今を支えている。
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