十之巻 時のぜんまいを巻く人





                           十とせー
                           時のぜんまい巻く人は
                           巻く人は
                           死の影いつでも踏んでいる
                           踏んでいる



 口上

21世紀が多少でも予想できると
だから21世紀も生きて確かめたいと思う。
21世紀が皆目想像できなくとも
だから21世紀も生きて味わいたいと思う。
永遠に生きたいと願う以上
未来にも関りたいと思うのは当たり前。
眠りの世界に入っても
いずれ目覚めるのだと信じて疑わぬように
人間は死んでも
いずれ生き返れると思いたがるものだ。
ともあれ20世紀を生きた人間よ。
20世紀の挽歌があったとしても
それは21世紀の前奏曲でしかないと
思ってお茶を濁すしかないのだ。



 人は千年先まで考えられるのか?

21世紀をかすめて消える人物が
21世紀の百年を語り
千年先まで考えるのは何故なのか。
孫・子の行く末を思うとか
子孫の繁栄願うとか
血の存続願う本能がそうさせるとか
たわいのない話はもう聞き飽きた。
問題なのは
死んで物でしかなくなる己が
存在を確かめる精神世界を閉ざされ
己の残したものですら
金額に換算されてしまうのが分かっていながら
何故に
千年先までのことを語ろうとしたいかなのだ。



 死んだ後はどうなるの?

百歳まで生きられないると承知の上は
21世紀のすべてを見聞きできるとは
誰も思ってやしない。
それでも死んだ後はどうなるかは
あれこれ気になってくるものだ。
子供に何かを残してやりたいからとか
自分の遺伝子残したいからとかでは
どうもすっきりしないし
まだまだ社会のお役に立ちたいからとか
それだけ社会を思う生き物だからとかも
どうもすっきりしない。
そんなことあれやこれやと考えると
どんなにあきらめの気持ち持った人でも
だから21世紀も生きたいと思う本音が出るようだ。



 人間は死んだ?

アダムとイブなる人間が
楽園追放されてから
人は神には逆らえなくなった。
「神は死んだ」が言えるようになったのは
20世紀からだったが
その途端
まっとうな人たちまでが
「神は死んだ」を咀嚼した機械の中に
「人間」の復権を求めて暴れ出した。
哲学の側からのかけ声は
むなしく欲望の権化にとってかわられ
代わりに
「人間は死んだ」の預言が
21世紀の子供らに発しられた。



 20世紀人は何を危惧するのか?

人間は姿形を持つ生き物だけに
ある時ある場所でしか振る舞えぬ。
ならば知るならすべてのことを知りたい。
ならばするならすべてのことをしたい。
そのためにいつまでも生きていたい。
そのために神にもなりたい。
ひとたび生を受けた者皆そう思いつつ
その夢かなわぬことを悟って
むなしく死んでいった。
ところが20世紀の人間は
異常なまでの技術の進歩を見たために
ひょっとしたら21世紀の人間だけは
全知・全能の夢かなえるのではと期待したりする一方で
それで人間できるのかなと危惧したりもするのである。



 21世紀末の憂鬱はあるのか?

19世紀末の憂鬱はシニカルな文化人の戯言だった。
英知によって造られた空間の中で
人間生活を満喫できると信じたオプティミズムは
20世紀に突入して
確かなリアリティーをかいま見た。
物欲あふれる人々の心は満たされ
機械となった人々の心は華やいだ。
その見返りとして「沈黙の春」が唱われ
「失われし未来」の像が描かれ
20世紀末の憂鬱が取って代わった。
憂鬱とは所詮憂鬱でしかないが
21世紀末の憂鬱まで語られれば
百年先まで人類が存続することになり
それはそれでよいと思わねばならない。



 これからも人間はバベルの塔を建てるのか?

重力に逆らって空を自由に飛びたい。
その上暑さを無視して地球のマグマに入りたい。
空間を無視して瞬時に行きたいところに移りたい。
その上大きさを無視してミクロの世界に潜りたい。
時間を無視してもう一度過去に戻りたい。
その上未来へも向かいたい。
姿形を持つ身であるが
我思う故に我ありの人間の
見果てぬ夢が21世紀になっても続くだろう。
人間が地球に住んでいるということが
無限界の数の条件満たす幸運の
重なればこそ可能なことを知りつつも
バベルの塔を幾つも建ててきた人間の
歯止めを知らぬ欲はこれからも続くのだ。



 21世紀の問題とは?

20世紀に積み残された問題は
21世紀に解決されるだろうか。
南北の格差は縮まるだろうか。
国際連合は世界連邦を作れるだろうか。
アメリカは世界の憲兵であり続けたいのだろうか。
中国は台湾をどうするのだろうか。
アラブとイスラエルは和解するだろうか。
バルカン半島の民族問題は解決するのだろうか。
朝鮮半島は一つの国になれるのだろうか。
そしてロシアは北方四島を返すのだろうか。
それらを見届けられずに死んでいく人間が
あれこれ考えてみても
どうにかなると言うのではない。
だけど20世紀を生きただけに気にはなるのである。



 21世紀の人間は何を実現するのか?

ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?
21世紀
ジュリエットはロミオの心が分かるのだろうか。
少なくとも自分の心は分かるのだろうか。
人間は何故死ぬのでしょう?
21世紀
不如帰の浪子は千年も万年も生きられるのだろうか。
少なくとも老化は防げるのだろうか。
宿題出来る別の僕っていない?
21世紀
ドラエモンはのび太のコピーを作ってくれるだろうか。
少なくとも人間の仕事をするロボットは生まれるのだろうか。
21世紀の人間は何を夢とし
何を実現するのだろうか。



 21世紀はどうなる?

21世紀はどうなるのかと心配するのは
その内死んでいく人間には余計なことかも知れない。
それでも20世紀を生きた人間は
その余計なことに拘る権利はあると思う。
第三次大戦が起こるのだろうかとか
巨大な隕石と衝突して人類が滅びるのではないかとか
それともその逆に
平均寿命が百歳を超えるのだろうかとか
居ながらにして仕事が出来るようになるのだろうかとか
あれこれ思いを馳せてもいいと思う。
別に予言者になるつもりはない。
ただただ自分の子供とか
自分の残したものとかが
心残りとなっているから心配するのである。



 次の時代は何時代?

21世紀の帳を開いた今が
何かにつけての大きな変わり目であるのは
すべての人の共通認識のような気もする。
確かに21世紀だのミレニアム期だのの数値に
振り回されていると言えばそれまでだが
いわゆる「産業時代」がたそがれて
「環業時代」と言うべきなのか
「情報時代」と言うべきなのか
IT革命とやらに踊らされる怪しげな時代が来そうである。
そうなると
作ることにも
作ったものにも
人間が拘りだすと
いつしか自然から笑いものにされる気もしてくるのである。



 紀元2101年は迎えられるのか?

所詮はキリスト教文化国家の
時代区分でしかないと分かっていても
これから21世紀を迎えるのだと吹きこまれると
ああそうなのかとつい思ってしまう。
ましてやミレニアムなどという
千年単位の思考まで提供されると
その言葉が映像文化までも席巻してしまう。
紀元3001年
ホモ・サピエンスは棲息していないだろう。
なぜならばホモ・サピエンスは「たそがれ」期を迎えているから。
紀元2101年
ホモ・サピエンスは棲息していないかも知れない。
なぜならば今ホモ・サピエンスは死をせかされているから。
紀元2001年を迎えてそんな予測をする人は多い。



 人類が滅びるのは?

21世紀
もしも人類が滅びたならば
それは人知の与り知れぬ天変地異のせいだろうか。
21世紀
もしも人類が滅びたならば
それは生き物に課せられた寿命のせいだろうか。
21世紀
もしも人類が滅びたならば
やはりそれは20世紀に生きた人のせいだろうか。
21世紀
もしも人類が滅びたならば
やはりそれは21世紀に生きる人のせいだろうか。
現代人の与り知らぬ21世紀とわかっていても
知ったことではないと言い切れない人がいる。



 21世紀にも人は思い込みで生きるのか?

聖書を読んでいる人に
人間は神様から作られたと
未だに思う人がいるように
科学時代の20世紀にも
科学的真理に逆って生きる人は多かった。
「人間とは何か」を巡る詮索してみても
万物の霊長であるとか
サルから進化したのだとか
人間の中にも優れた人種がいるとか
数え上げれば切りがない。
人間とは思い込みの生き物である。
超科学時代の21世紀においても
人間は自分の作った世界に閉じこめられながら
人間中心主義の生き方を捨てきれない気もしてくる。

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