五之巻 いつも争いをする人
五つとせー
いつも争いする人は
する人は
正義のためだといつも言う
いつも言う
口上
どこから見てもどう考えようと
人の歴史は争いの歴史であった。
その争いには
いつも大儀の言葉がつきまとい
日々リメイクされていた。
その大儀には
世のため人のためにがつきまとい
争い好きの人に利用されていた。
20世紀をひもどいてみても
イデオロギーと民族と国家に拘って
幾多の傷跡が歴史に刻まれた。
その仕掛け人はいつであろうと
秩序と正義を口走り
平和と平安を説いていた。
もめ事起これば
誰も平和に暮らしたいと思う。
だから戦いたくはないと言う。
誰も幸福でありたいと思う。
だから不幸は避けたいと言う。
誰も自分の思いを遂げたいと思う。
だから邪魔されたくはないと言う。
そんな思いと気持ちでいても
もめ事だけはなくならない。
もめ事起こればどう解きほどく。
その手だていろいろ探ってみたけれど
何と言っても「力」の論理が一番多い。
この論理、20世紀にだけのものではないからに
これまで何度も採られたし
これから何度も採られるだろう。
敵を殺そうとすれば
人間生きていく上で
力が正義の考え強く
争いは世の中から消えなかった。
20世紀の今になっても
戦争という名の争いは消えなかった。
軍隊という名の組織は消えなかった。
兵士という名の身分は消えなかった。
その兵士
昔は屈強な大人の男だったのは
敵を殺すに力がいったからだった。
今は力はいらなくなった。
ヘラクレスも引き金一つで片づいた。
だから女性兵士が誕生した。
そして子供兵士まで誕生した。
相手の気持ち思えば
熱ければ火傷をし
寒ければ霜焼けをする。
皮膚を刺せば血が流れ
体を殴れば痣が出る。
赤子の手を捻るのは簡単だし
年寄りを押せばすぐ転ける。
首を絞めれば苦しがるし
飢えさせればひもじがる。
だからこそ相手の痛みが分かり
人を傷つけたり
ましてや殺しをしたりするのに人はためらう。
19世紀まではそうだった。
しかし20世紀の殺しの方法には
相手を思いやるまだるっこさはなくなっていた。
ボタンを押せば
世の中の秩序を保つことが大事だと
人は何度も何度も戦争をしてきた。
世の中の正義を貫くことが大事だと
人は何度も何度も戦争をしてきた。
人々の心の安寧が大事だと
人は何度も何度も戦争をしてきた。
平和とは秩序や正義や安寧が単に存在することなのか。
そんな平和を得るために
20世紀も又戦争に明け暮れた。
その上最新科学が応用されて
テレビ番組見るだけで兵士としての役割果たし
一つの国籍持つだけで兵士としての役割果たし
ボタンを押すだけで兵士としての役割果たす
そんな戦争に人は明け暮れた。
人間思い込めば
人間という生き物は
食うために生きるにあらずと思ったために
他の人間に残酷になっていた。
よく生きるには勝つことなのだと思ったために
他の人間に一層残酷になっていた。
20世紀になって人間という生き物は
これまでになく文明開けた社会を作り
これまでになく合理的なシステムを作ったために
他の人間にこれまでになく残酷になっていた。
普段は善良で誠実そうな人間も
戦争時には心の痛みもなく残酷になっていた。
それほど人間が残酷になっても
人間は地球上にこれまでになく増え続け
戦争に勝つことにうつつを抜かしてきた。
平和を求めれば
秩序求める声があるほど混乱しているのは事実。
正義求める声があるほど悪が横行しているのは事実。
安寧求める声があるほど騒がしいのは事実。
平和を求める声があればあるほど
世の中は乱れに乱れているものだ。
今から百年前の一八九九年
国の代表が集まって開かれた第一回ハーグ平和会議は
平和づくりのための初めての国際会議だったが
第二回を開いてすぐに幕を閉じた。
あれから百年経つまでの間
国際社会は国際連盟と国際連合に夢を託したが
軍事による安全保障だけが突出し
ユートピアに終わった。
かくて20世紀は力の平和論に終始した。
戦争起これば
兵士とはどんな格好をするものなのか。
軍服つけての戦いは意味を失い
軍服つけない兵士が戦うようになると
軍服つけない人も敵であると見なされ
軍籍もたない兵士も戦うようになると
軍籍もたない人も敵と見なされた。
そんな戦争が増えてきた20世紀では
国家と国民と軍隊は一つとなって
戦争に関わりないと思っていても
平和主義者と叫んでみても
敵からすれば同じ穴のムジナであった。
その上IT革命起こるとなれば
家庭で新聞を読みコンピュータを叩いていても
それだけで戦争の加担者になっていた。
市民が兵士となれば
市民も国民である以上
国が戦えば兵士となった。
戦闘服の時代は終わり
市民服でも兵士となった。
戦闘服は常に戦場にいた。
市民服は常に古里にいた。
戦闘服は肉体を賭して闘ったが
市民の差し出す金は戦闘服となり武器となった。
戦闘服は市民服を襲うにためらわなかった。
市民服は闘っているつもりはなかったが
増しに増した武器の威力によって
無辜の幼子ともども
ずたずたに引き裂かれ
骸となって国の柱となった。
人間独りほくそ笑めば
人間以外の生き物ならば
たとえ食餌であったとしても
食い尽くしてまでも食おうとはしなかった。
人間以外の生き物ならば
たとえ力が強くても
むやみやたらと増えはしなかった。
人間以外の生き物を知恵なく馬鹿な生き物と
見下げる人間だからこそ
「し尽くす」とか
「根絶やしにする」とか思えるのだろう。
だからこそ
「人間多くなりすぎたので戦争せよ」とか
「人間身勝手すぎるのでポアせよ」とかの
ご託宣がまかり通ってくるのだろう。
利益求めるならば
19世紀に
憲法ひっさげた国家が闊歩し出すと
国家という名で利益求める仕組みが跋扈した。
20世紀は
国家の看板がまかり通り
強い国家は平和という名で属国を吸い尽くし
属国もまた独立という名で国家を模索し
無辜の人々も文明という名で国家を求めた。
しかし20世紀は同時に
国家という名の虚構に嫌気がさして
国家を解体しようとして失敗した世紀でもあった。
それで21世紀に備えて
国家の末期症状にあきれ果てた野心家が
グローバリズムという名のリバイアサンに群がり始めた。
暴力を振るえば
人間が暴力を振るうのは
紛れもない事実。
でも人間が根っから暴力的であるとは
誰も言うことを差し控える。
これほどまでに争い続け
殺さなくてもよい人まで殺し続けても
人間は未来の平和を信じようとするその一方で
殺した事実が歴然としているのに
記憶にございませんだの
ガス室や大虐殺はなかっただのと
何のはばかりもなく言い出す人もでてくる。
忘却という名の自己保存機能と
虚構という名の自己顕示機能が相乗して
人間が暴力的になることを20世紀も又許してきた。
彼らのせいでないならば
少なくとも同じ血の人間同士なら
争いが起こらないだろうとは人間の一つの思い込み。
少なくとも同じ国の人間同士なら
争いが起こらないだろうとは人間のもう一つの思い込み。
ホモ・サピエンスとしてヒトが誕生して以来
20世紀の今日に至るまで
幾多の思い込みは「平和」という名の希望を打ち砕いてきた。
同じ血の人間同士が争うのは彼らのせいではないだろう。
同じ国の人間同士が争うのも彼らのせいではないだろう。
彼らのせいでないならば
(ほんとに彼らのせいでないとするならば)
その争いを起こさせるものとは一体何なのだ。
原因探しに長けた人間なのに
未だにそれを探し続けている。
それでも戦争すれば
人は人に対して狼なのか。
それとも所詮他人は敵なのか。
人を殺してはならぬのに
争いあればよく殺される。
ましてや戦争する時は
勲章もらえる理屈まで付けるのは
どう考えてもおかしな話と言えるだろう。
かくて20世紀も又「戦争の世紀」だった。
第一次世界大戦では一千万人が
第二次世界大戦では五千万人が
・・・・・殺された。
人類を滅ぼす武器さえ創られたのに
人類が21世紀を迎えられたのは
幸運と言うべきなのだろうか。
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