四之巻 世の中を上手に渡る人





                              四つとせー
                           世の中上手に渡るには
                           渡るには
                           時の流れに逆らわず
                           逆らわず




 口上

ほしいものはなかなか持てず
自分の気持ちはよく誤解される。
やりたい仕事はままならず
厭な仕事はよくさせられる。
そのうえ人には裏切られ
社会からも無視される。
となれば愚痴る気持ちは山ほど出よう。
満足に生きても20世紀なら
不満足に生きても同じ20世紀だ。
その20世紀を生きたのが
「不幸」だったとわめいたところで
どうなるものでもないだろう。
ならば世渡り上手を考えて
自分だけの21世紀を勝手に思い描こうではないか。



 起こるも歴史、起こらぬも歴史

歴史の巡り合わせで起こった大東亜戦争。
気まぐれな巡り合わせで起こった自社さ連合。
念入りに計画進めて失敗した臨界事故。
独りよがりに計画進めてうち建てた満州国。
初めは注目されて、後に軽視されていった日本国憲法。
初めは軽視されて、後に注目されていったリサイクル運動。
実際あったのに消されてしまった日本の731部隊の活動。
実際なかったのに存在するとされてしまった日本の民主政治。
みんなの総意が起こした日本の国体の護持。
ひとりの狂気が起こしたオウム真理教のサリン事件。
事件の受け止め方は人によっては違うだろう。
どんな事件も歴史の歯車の一つ。
どんな歴史と遭遇しても
ちゃっかり生き抜いてきた人はごまんといる。



 ハングリー精神がなくなると

20世紀までは
生まれながらの王であり
何もできないままに裸の王であり続ける
そんな世迷い言も真実であった。
20世紀を迎え
ハングリーであることが
何もできないことの弁明ではなく
何かのできる必須の条件となり
親たちはわが子に博士か大臣かの夢を託し
子たちもその夢に応じた。
20世紀が終わって
豊かな国の若者には
努力することの馬鹿らしさを悟って
何もしないでも生きられるうま味を覚えるようになった。



 病気も避けて

古くはペスト。
一世紀前には天然痘。
半世紀前には結核。
しばらく前には癌。
そして今ではエイズ。
かつては死病と恐れられた病気も
今では怖くはなくなった。
本当は人類の英知のおかげなのだろう。
本当は自分の運がよかっただけなのだろう。
それでも世渡り上手に生きてる人は
そんなこと自分にだけは関わりないと
思うからこそさらりと生きて
未知のウイルス暴れたとても
するりとかわしていけるのだろう。



 贅沢な悩みの陰で

貧しいなればこその思いに立って
一生懸命働いてきた。
やられればやり返し
ここぞと思えば
人を踏みつけても
後ろめたさを覚えず
今を享受できるようにしてきた。
でも未だ貧しいと思う気持ちの捨て切れぬ
今の焦りの気持ちは厄介だ。
その一方で
踏みつけられた人を横目に
贅沢の限りを尽くし
今を良しとしてしまう
この強迫の思いも厄介だ。



 昔と今を比べても

子供の頃はご飯食べるのも贅沢だった。
今の子供はご飯さえも平気で残す。
子供の頃はろくろく親からかまってもらえなかった。
今の子供は何をするにも親任せだ。
子供の頃は家の手伝いするのは当たり前だった。
今の子供は自分の部屋すら掃除をしない。
子供の頃はするもはばかる事柄も
今の子供はさらりとできる。
今さら僻んでみても仕方がない。
今さら嘆いてみてもどうにもならぬ。
愚痴ってみても今は今。
さればこれから生きるには
茶髪、顔グロ、白唇に
未来を託す気持ちも必要だろう。



 生きにくくなっても

人知のなせる業として
人は獣にもなって地を駆けるようになった。
人は鳥にもなって空を飛べるようになった。
人は魚にもなって海を潜れるようになった。
獣に勝ったを喜び
鳥に勝ったを喜び
魚に勝ったを喜び
すべての生き物に勝ったを喜んだ人は
獣や鳥や魚の住む世界を支配したが
獣は地を駆けにくくなり
鳥は空を飛びにくくなり
魚は海を泳ぎにくくなり
すべての生き物は生きにくくなった。
それでも人は生き物けちらし生き抜くのだろう。



 20世紀の初めに生まれて

昔は家でニワトリを飼っていた。
広ければ牛もいた。
家は木であり
土の上を歩いた。
菜種油の灯りの下で
暖をとる時は煙たかった。
今はスーパーで卵を買い
農家の小屋には耕耘機がある。
コンクリートの家に住み
アスファルトの道を歩いている。
夜でも昼間の光があり
冬でも夏の暖かさで住んでいる。
20世紀初めに生まれた人のみが
こんな二つの生き方できる幸せを味わった。



 煙草吸う身にもなって

煙草を吸うのは文化であると吠えてはみても
歴史豊かな嗜好品だと弁じてみても
政治の小道具だったとうんちく傾けても
煙草を吸う身の人間は今叩かれている。
19世紀まではそんなことはなかった。
20世紀のつい最前までもそんなことはなかった。
煙草が本人の体に悪いと言われるからなのか。
煙草は他人の体にも悪いと言うからなのか。
身を案じての話なら
それはそれで筋は通っているとしても
煙草を吸っている時に
これ見よがしに拒否反応を示す人を見ていると
何故これほどまでに拒否反応を起こす人が増えたのかと
逆に言いたくなってくる。



 豊饒の世界に住むと

芋の蔓食らっても生きた頃が済み
食べられもしないのに料理が並び
食べ残しをこともなげに捨てる時代が来た。
豊饒に慣れるという不幸は
何もなく何もできない貧しい者のうめきを忘れさせる。
自分の力によって
豊饒の世界に住んだのでもないくせに
自分を神へと仕立てていく。
社会のことについては
自分はしなくても誰かがしてくれる。
自分のことについては
他人が反対してもする権利がある。
伴侶はいつしかそう思うようになり
子供は初めからそう思ってしまっている。



 たそがれ期に突入して

いつの頃からであろう?
怠惰や遊びがすばらしく思えてきたのは。
いつの頃からであろう?
ひたすら歩み続けることが馬鹿らしく思えてきたのは。
そしていつの頃からであろう?
何かをすることが無意味に思えてきたのは。
年とって枯れてしまったと言うのなら
それなりの言い訳も立つが
若者までがその気になってきた。
20世紀は旧人類のたそがれ期だったのか。
それとも新人類の揺籃期だったのか。
21世紀のすべてを見切れない人たちは
己が守ってきた伝統を焼き捨ててまで
余命を楽しく味わおうとしなければならない。



 20世紀に生まれたおかげで

19世紀に生まれたならば
これほど生きてはいなかっただろう。
予防接種とやらで大した伝染病にもかからなかったし
抗生物質とやらで膿んだ体も治ったし
外科治療とやらで出来た腫瘍も取り除かれた。
19世紀に生まれたならば
これほど世界を知らなかっただろう。
起こった出来事ははるか後からでしか知らなかっただろうし
伝えたい出来事でも時間がかかっただろうし
参加したい出来事にも手間暇が要っただろう。
20世紀に生まれたお陰で
長生きできたし
多くのことを瞬時に知ることが出来た。
そのお陰で不幸になった人も多くなった。



 悲観主義者の警告聞いて

百年前の悲観主義者は言ったらしい。
今に道路は馬糞の山に埋もれるだろうと。
でも20世紀はそうならなかった。
道路はアスファルトになり
砂埃と馬糞は排気ガスに変わった。
今の悲観主義者は言うらしい。
車社会がこのまま続けば
都心に車で行けなくなるだろう、
街は排気ガスで住めなくなるだろう、
オゾン層が破壊されるだろう、
海面が上がって無くなる国も出てくるだろうと。
それでも21世紀の世渡り上手は
悲観主義者の嘆きを超えて
何事も21世紀風にリメイクしていくだろう。

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