弐之巻 二つ心を持つ人





                                二つとせー
                            二つ心を持つ人は
                            持つ人は
                            美徳や正義の言葉好き
                            言葉好き




 口上

人ではあっても
生き物である限り
してはならないことがある。
生き物ではあっても
人である限り
守らねばならないことがある。
数百万年も覆い被さっていたこの呪縛も
無知のせいだと吹き込まれれば
20世紀の人とても
いとも簡単に
神か野獣かに変身出来るのだ。
おかげで神と野獣は
いとも簡単に
二つ心もつ人間に弄ばれる玩具となった。



 頂点を目指して

頂点極めてこその人生に
値打ちがあると錯覚し
鬼にも蛇にも成り果てた者のみが
人間の歴史を取り仕切ってきた。
そして
天地自然に満ちている
位階秩序を真似よとばかりに
才知を誇示する人たちが
見栄と欲とに踊らされ
頂点目指して群がった。
そして
頂点にたどり着けない二流の人も
二流なりに一流のまねをして
一流のおこぼれにあずかった。



 偉大になって

土中深くのかたまりが
石より強い力を持つと気づいた人間は
偉大だった。
土中深くの液体が
水より強い力を持つと気づいた人間は
偉大だった。
その石よりも水よりも強いものが
何億年もかけて生まれたものであることを
人間は気づいていた。
それをわずか百年ほどで消滅させてしまうのは
どう考えてもおかしいことなのだと
気づいていても
気づかぬ振りして使いまくる人間もまた
偉大だった。



 生き物を殺して

ペスト菌は人間を苦しめたので
人間に滅ぼされてしまった。
天然痘ウイルスも人間を苦しめたので
人間に滅ぼされてしまった。
マンモスは人間の食餌となったので
人間に滅ぼされてしまった。
ドウドウは人間の娯楽となったので
人間に滅ぼされてしまった。
人間の敵であっても
人間に役立っても
自然界に生き残れるかどうかは
人間のさじ加減一つで決まる。
21世紀になっても人間は
多くの生き物を滅ぼし続けていくだろう。



 鯨を食うて

捕食をするのは生き物の定め。
捕まえる才覚あれば
それだけ多くの生き物が喰える。
それを咎めた人は今までにいなかった。
人も捕食をする生き物。
だから何を捕っても
食うためと言えば
咎められはしなかった。
いつからか
喰うこと以外に捕まえ殺す人たちがいて
その限りない殺戮によって
鯨は絶滅するだろうと言われだした。
そして喰うために捕まえようとしたら
袋叩きにされるようになった。



 毒まで作って

自然界にあるものを
毒にも薬にもしてきたのが人。
善意の人が用いれば薬。
悪意の人が用いれば毒。
それを見てきた賢い人は
自然界にないものまでも作ってしまった。
それが薬になると言うのなら
許されもしよう。
許されないと思うのは
毒でしかないものまで作っておいて
人のため正義のためと
ごたくを並べ
己の強さを誇示するために
殺しの手段としたことだろう。



 便利さを求めて

食品守る添加物
体に悪いと思っていても
知らず知らずに使っている。
高層マンション建設で
日照権がどうのこうのと言ってた人も
ちゃっかりその住人になっている。
排気ガスでる公害で
住み難くなると言ってたゲストですらも
思わず帰りの車を催促する。
口では善いこと言ってはみても
便利さ求める己の性が
体に染みつき病みついて
正義や美徳の言葉とて
欲の枕詞とされていく。



 欲に突き動かされて

人を強くしようと願うのなら
物欲・性欲・名誉欲で釣るのが一番。
人を弱くしようと企むのなら
物欲・性欲・名誉欲に浸らすのが一番。
良くも悪くもこの世では
物欲・性欲・名誉欲だけが
しぶとく人を突き動かしてきた。
おかげで人は
喜怒哀楽の憂き目を見
真善美の幻影を追い求め
愛憎逆巻く離合集散を繰り返してきた。
だからこそ人は
20世紀まで歴史続けて来れたのだろう。
21世紀からも歴史続けていけるのだろう。



 欲こそ命となって

いついかなる時代でも
生きていくには欲がいる。
食欲・性欲などと言われるならば
生き物すべてに当てはまろうが
物欲・色欲などと言われれば
これはもう人だけのものだろう。
別段ほしくもないのに
与えられれば手を出すのは
人として今を生きたいからだし
別段その気もないのに
あてがわれれば頭をもたげるのは
人としてこれからも生きたいからだろう。
かくて20世紀まで導いてきた欲の数々も
21世紀にもそのまま映えわたるのだろう。



 理想を夢見て

社会で「よりよく生きる」には
二つの思いが託された。
個人が理想的社会を作るのか
社会が理想的個人を作るのか
その選択をできるようになったのは
18世紀からであった。
19世紀までは理想的個人が夢見られ
20世紀になって理想的社会が夢見られた。
ところが
その具現たる「ソ連邦」が
20世紀の終わりに解体し
理想的社会づくりの実験は
拙速の悲哀を味わい
結論は21世紀に託された。



 エピゴーネンとなって

自由を求めて飛び立った人間は
自由な社会を作ったつもりだった。
だが組織の中に組み込まれて
「近代」のシステムに翻弄される
悲しいエピゴーネンとなった。
組織の中で欲を持ち
組織の中で汗をかき
組織の中で頂点をきわめても
さもしいエピゴーネンとなった。
どんなに才能があっても
どんなに覇気があっても
どんなに反発しても
真に自由人たる資格を持ちえぬ
貧しいエピゴーネンとなった。



 ジキルとハイドとなって

事を見るには客観的で
事を成すには主体的であるという
人間の理想の姿が
変節好きの時代の波によって
どんどんと影を潜めていく。
まるでメタルの表と裏であるように
事を見るには傍観的で
事を成すには独善的であるという
人間の現実の姿が見えてくる。
二つ心で臨むジキルとハイドは
20世紀では
周りの人間を悩ませるだけですんだが
21世紀では
すべての人間にとりつき悩ますだろう。



 神は生き残って

果たして「神は死んだ」のか。
超人でなければ言えぬセリフにせかされた
20世紀は終わった。
「神がいなければすべてが許される」のか。
傍若無人に振る舞い続けた人間の
20世紀は終わった。
殺された人間の数も最大ならば
生まれ出た人間の数も最大になり
使われたエネルギーも最大ならば
作られたエネルギー量も最大になっていた。
初物づくしで終始した20世紀の幕が降りた時
欲望を満たすものが神の代理人となり
欲望を抑える神は宇宙から消え
狂人だけが「神は生き残っている」とわめいた。



 地球から問いかけられて

前半までは
地球は丸くて限りはなかった。
汗水垂らせば
いくらでも応えてくれたし
努力や真面目さは美徳とされた。
後半になって
海や川や空が汚れて
地球は限りある丸い塊になった。
成長の限界?
成長の限界!
人々は直線上での歩みに疑問を抱き
円周上での歩みを始めた。
その宿業背負った人々は
地球から問いただされる被告人となった。

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