御座を語る人たちシリーズ(田山花袋)


明治の小説家、代表作『蒲団』、『田舎教師』等
但し、このページの下の作品は現代語訳にし、
又、文中の()内に訳者註をつけました。    


@御座金比羅山

『新撰名勝地誌』より抜粋


 和具より越賀を過ぎれば、路は金比羅山へと上って行く。山は標高百十一米に過ぎないけれど、この附近の名山である。この金比羅山への登路は甚だ風景に富んでいる。はじめは大海を見渡して赤禿に禿た山に添い、撫子などが咲いていたところを登る。眼の前がようやく広くなり、やがて御座岬が海中に突出しているのを臨み、南伊勢の連山が鋸の歯のように、遠く紀州の山に接しているのを見る。この絶嶺に一つの小さな祠があ。この祠前の眺望のすばらしさは、蓋し東海道沿岸に見ることができないもので、旅客は必ず手を拍いて快哉を叫ぼう。編者もこの山上にあるや否や、恍惚として我を忘れ、天下にもまたこんな奇景があるのかと思ったのであった。この時、自ら、松島と比して、その輸贏(負と勝)はどうであるのかと較量したが、この湾の島嶼(小さい島)が松島と比べ、乏しい点では、一籌(数を数える竹の棒)輸す(負ける)のであろう。けれども、湾の屈曲、山影の参差(長短ふぞろいの様)、ことに浜島町の晩煙(夕がすみ)、これにはさすがの松島も一歩を譲らざるを得ないと思った。山を下れば、御座村あり、白砂の浜あり、艤(船装い)して浜島に渡らなければならない。(旧志摩町史に掲載)


A御座金比羅山

『志摩めぐり』より抜粋

 あぁ、一歩々々と、この金比羅山に登り行く時の感興を、私はいかにここに言いあらわすことができようか。私は唯一刻も早く、その四海が皆、海である大景に接しようと思いながら、坂路が険しいのも、双脚が疲れていたのも、何もかも一切ことごとく忘れ果てて、山から山へと連っていた風情ある路を、急ぎに急いでのぼって行けば、次第々々に現れてきた右と左と後との三面の眺望の美しき。あぁ、私はほとんど、手を打ち、膝を叩いて、大声快を叫ぼうとした。 見よ、私の右にひろがっていた大海は、今も美しい夕照の光を帯びて、一波ごとに、皆、金色の色彩を帯びていたではないか。いや、その夕照の金色の波の中を帰ってきたり白帆の影は、皆、閃々
(ひらめく様)とかがやき渡って見えるではないか。更に首を廻らして見よ、近くは麦崎の一角より、遠きは大王の岬頭に至るまで、半日私が過ぎて来た海岸は、あたかも弓弦を張ったよう、渺々(広く果てしない様)と名残りなく私の脚下に現れて見えるではないか。左の入江には、恵田島・横島・天童山などの嶋嶼が、星散羅列し、その向うには、神明・鵜方の諸山は畝をなして、遠く伊勢の朝熊に連っていた。それでは前面の風景はどうであろうか。私は堪えかねて、疾駆して、その絶巓へ登って行ったきが、その松林の盡頭より、その御座の湾を一目見るや否や、われを忘れて手を拍って、快哉を叫びつつ、あぁ、私は決してこの一眺を忘れることはできないであろう。
 往年、かつて富山
(とみやま)の上に登って松島の八百八島を望み、その風景の佳絶なのに驚き、ひそかに天下絶無の景と思ったが、誰が、その松島にも劣らない風景が、この辺陬の地に埋れていようとは、どうして知ることができようか
 前には兀々
(優れている様)の御座の岬が長く細く突出ていたが、その岬の鼻と相対していたのは、形琴を横えたような一孤島であり、夕日はその半面よりかけて、一道の火光を、深碧な海中に漂わせつつ、島より島へ、波より波へと、美しく照りわたっていた。けれども前岸にあるなる浜島あたりは、すでにに暗い暮色の中に包まれて、はっきりとその晩烟を論じることができない。(旧志摩町史に掲載)

 TOPへ  「御座」あれこれ・目次へ