御座を語る人たちシリーズ(黙雷禅師)
下記碑文には大正6年(1917)、篆額題字による建仁管長黙雷禅師の書とある
御座不動尊内(不動堂本堂南側)に建碑されている。
現代語訳してあるが、参考までに原文をUPしておいた。
()内は訳注。
現代語訳
[訳者記:御座不動尊内にあるこの碑文は苔むしたりなどしており、判読不明の文字もあった。一応取りあえずの判断で現代語訳してみたが、原漢文の不明字には?をつけておいたので、識者のご教示を待ちたい。]
勝峰大徹禅師の碑 (篆額題字 建仁管長黙雷禅師書)
前南禅管長 大徹和尚大禅師
禅師は、諱は道林、号は大徹、滴水軒と称し、俗姓森田利左ヱ門氏の長男として、文政十一年(1828)十一月十八日、志州御座村において生まれる。
幼くして頴悟(さとく賢いこと)、早くから非凡で達識をもつ。年齢がわずか八才にして聯渓和尚の徒子となる。十八才の時、奮然として笈を背負い、耕隠、清隠、寛丗(町史では、寛州)と称す三師のQ難(くさびを打たれるように難詰されること)、更には海洲和尚の錐鎚(錐で突かれたり槌でたたかれたりする厳しい試練・禅修行に見られる歟)を受け、ついには和尚の印可を得る。 そうして明治四年、衆人の望みを収め、金剛証寺住職に就き、一九年一月には南禅寺派管長に選任される。
二十三年には津市の浄明院において、雲聚(ふあっとして集まってきた人たち)を導き、二十六年には武州の廣園寺に住み、三十三年、東京に上り、興禅護国会を組織し、四方から来た僧俗の大会に接し、東都の禅風を揚げる。
師は資性高邁(資質が気高く優れていること)で、機鋒峻峭(刀剣の切っ先と山の険しさ・気性が鋭く厳しいことのたとえ)であり、身体は肥えていて、壮健さに勝っている。
かつては薬を飲むことを知らなかったが、不幸にして病に罹り、四+四年二月十六日、駒込の草庵にてにわかに遷化する。行年八十有四年。
建碑に当たり、ただ家の祖順を遺し、謹んで略傅を記すのみとする。
大正六年二月
発起 勝峰端鳳(勝峰家の人間)
同俊道
施主 森田藤四郎(森田家の子孫)
山(石碑にはこの字しかない)
原漢文
勝峰大徹禅師の碑 篆額題字 建仁管長黙雷禅師書
前南禅管長 大徹和尚大禅師
禅師諱道林号大徹称滴水軒俗姓森田利左ヱ門氏長男以文政十一年十一月十八日生於志P御座村幼而頴悟有夙非凡達識齢僅八才而為聯渓和尚徒方十八才時奮然負笈入於(称?)耕隠清隠寛丗(州?)三師之Q難更受海洲和尚錐鎚遂得和尚印可矣然而明治四年収衆望就金剛証寺住職一九年一月南禅寺派被選任管長廿三年津市於浄明院導雲聚(済?)廿六年武P住廣園寺丗三年上於東京組織興禅護国会接四来之僧俗大会揚東都禅風焉師資性高邁機鋒峻峭而躰幹肥壮健勝嘗不知薬餌不幸羅病四+四年二月十六日溘焉遷化駒込之草庵世壽八十有四當建碑遺第祖順謹記略傅而已
大正六年二月
発起 勝峰端鳳
仝俊道
施主 森田藤四郎
山
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