明治禅界偉傑 勝峰大徹禅師立志伝
 

 (はじめに)大徹禅師は江戸時代に御座地区で生まれ、後に臨済宗大本山の南禅寺管長にもなられました。この作品は禅師が亡くなられた直後の明治44年4月に「成功出版」より出されましたが、作者は不詳です。「志摩町史」をはじめ、禅師紹介の元にもなっています。原文はいかにも明治時代の文体で今ではあまり使われていない難しい漢語が並べられています。現代語に訳す際には、時制を変えましたが、漢語などは注釈をつけて残しました。又、末尾に国会図書館にある大徹禅師の肖像写真と著書『禅と長寿法』をUPしました。

(現代語訳)



 明治維新後、西洋の文化や制度が輸入されて以来、物質的文明が滔々として世間に横溢し、今の人が尺寸絲毫(非常に小さなものやこと)の利に走ることは、あたかも群がる蝿が腥羶(生臭いもの)に附くかのようであり、又、集まっている蟻が@火(かがり火)に投ずるのに似ているようなものである。剛骨鉄膓(がっしりして堅固な心)の士や憂国慨世(国を憂え世を嘆くこと)の男子は少なく、世はすべて懦弱無腹漢(弱々しく度量のない男)の惰眠場所となろうとしている。心あるものの何人がこれに失望して嘆こうとしないでおれようか。


 師は俗姓を森田と称し、治左衛門(注:但し、志摩町史には「利左衛門」とある。)の長男として文政十一年(1828)志摩の一漁村である御座に呱々の声を揚げた。父は漁業を業としていたが、平素から大酒を好み、家道は甚だ困頓を極めていた。(注:但しこれは作者の印象か?生家は大祷であった。)
 師は幼くして頴脱聡明慧(抜きんでた才能と聡明な智慧)、一種の仙風道骨(仙人のような風采と非凡な骨相をしていること))を持ち、それで時の人は皆、このことを奇(普通でないこと)とした。
 ある時、師は一匹の正覚坊(大亀のこと)が捕獲されていたのを見て、無心の動物の眼にも悲嘆の涙が流れていることを知り、突如として深く愍憐を感じるとともに、ひどく人世の無情を悟り、出家の念がしきりに動くようになったので、遂に父母に請うて、剃髪し、金剛証寺聨渓和尚の徒弟となった。これが師の齢がわずかに八歳の時であった。
 ドイツ詩人のシラーが言うように、「心の赴くところ、即ち天命の声なり」であった。師はまことに衷心の奔るところに従い,身を桑門に投じて緇衣(黒い衣)を纏うに至ったということである。


 金剛証寺は伊勢の国の朝熊岳にあり、大神宮の奥院と称されるところであって、東は白扇倒懸(白い扇が逆さまになっている様)の富嶽を望み、北は伊勢湾を距てて遙か彼方にある峯、B(すらりと高くそそり立つさま)になっている加越(加賀国と越前国の略)の諸峰と相対し、南方は際涯のない太平洋に面し、真に「朝風暮雨、雨煙裾をめぐる」概(おもむき)があり、風光がすこぶる絶佳である。
 師は、日夜、このような明媚な仙境にあって、霞を吸い,霧を食らって、鋭意、佛道を修行すること前後十年に及んだ。
 師がたまたま思うのは
 「空しく偏僻な一山村にのみ歳月を得るのはよくないことである。当然、諸国を行脚し、あまねく名僧高士に就いてひろく修行するにこしたことはない」ということだった。 
 大いに決するところがあって、ある日、潜かに脱け出で飄然として(ふらりと)朝熊岳を去った。 
 聨渓和尚は大いに驚き、使いを四方に出して、その行先を捜索させたが、師の故郷が御座村にあることをを知って、強引に寺に連れ添って来させた。師が故郷に赴いたのは諸国行脚に必要な袈裟と書物を購入する元手を得ようとしたためであった。


 和尚は師の志望がまだ時期にないことを諄々と説いた。しかし師は固く動じなかったので、和尚はその志を奪ってはいけないことを知って、ついにこれを許した。
 師は大いに喜び勇んで、黒衣染の法衣を身に纏い、笠を戴き、脚絆に足を固め、住み慣れた故郷の山を後にして、遠く美濃国福田大勝寺に赴いた。
 大勝寺には、当時有名な耕隠和尚がいた。和尚は白隠禅師三代の法嗣(法統を受け継ぐ跡取り)であり、資性高邁(資質が気高く優れていること)、機鋒峻峭(刀剣の切っ先と山の険しさ・気性が鋭く厳しいことのたとえ)の大人物であった。師は和尚について苦修すること数年、大いに得るところがあった。その後、自房に帰って、聨渓和尚と一つずつのことをあれこれ考えたが、金剛経の三句(仏・法・僧のこと)に至って大いに窮してしまった。師はここにおいて、まだ自己の修行が足らないことを知って、奮然と志を決して甲斐の国の東光寺に到り、清隠和尚のところで修行し、研鑽すること数年、個々のことについてすべて了畢する(悟り終わる)ことができるようになった。
 しかしながら、師は尚一層の修行を積もうとして、京都にある東福寺の海州和尚のもとに参り,そこにいること数年にして、ついに和尚印可を得た。
 師は法務のためにすみやかに伊勢に帰ろうとした。途中、鈴鹿峠に差し掛かった時、にわかに黒雲が空を蔽い、紫電が物凄く閃き、大雨が沛然(雨の盛んに降るさま)として降ってきて、四面が暗澹(薄暗くものすごいさま)となり、ほとんど咫尺(八寸か一尺の距離)を弁ずることができないようになった。
 師は茫然自失となり、忽然として首山綱宗の偈(仏の徳を称える韻文詩)を徹底した。直ちに踵を回らして京都に帰り、再び海州和尚に面し、その悟るところを示した。
 ああ、その志すところが、忠実にして刻苦精霊(心身を苦しめ勤め励むこと)の師のような人でなければ、どうしてそのようなことができようか。


 その後、師は沢木長松寺の寛州和尚に会ったとか。幾許もなく(まもなく)伊勢の自房に帰り、金剛證寺の末寺である普明院の住職となった。
 当時は、維新後のことで、神佛混淆・廃佛毀釈の議論がD々(がやがや騒がしいさま)として起った。特に伊勢の国は大廟の所在地であったので、神道によって日本の宗教を統一しようとして、種々の口実を設けて、各所の寺院を破壊しようと企て、朝熊嶽の虚空蔵堂の地下にも又金鑛あるなどと唱え、多数の人夫を遣わして、その堂を毀とうとするに至った。
 師はその不法を鳴して、断固これに反抗し、もしこの堂を破壊したいのなら、まず、わが首を取れと叫び、人夫等が地を掘っているところに到って、高らかに理趣(物の道理)分の経を誦読した。
 ところで、地は掘るに従って崩れ、どうすることもできなかった。このために神宮側では寺院を毀つことを止めた。今日、南勢に寺院が完全にあるのは、實に師の力に負うところが大きかったのである。


 師の名声はこれより次第に高まり、明治十九年には、いくつもの末寺の押すところとなって、大本山南禅寺派の管長となった。
 当時、同寺は財政が窮迫し、歴代寺院の由緒ある宝物は、ことごとく質屋に入っており、宝庫内には一つもない有様であったので、師はひどくこれに憤り、鞠躬(気をつかい労力を尽くすこと)、財政整理をしようと誓い,九州肥前方面の派内に巡錫を企てた。
 師は今やまさに知命(50歳のこと)を越えたものの、気力はすこぶる旺盛であったので、到るところで提唱を行い、又授戒會(仏門に入るに当たり戒律を授けること)を開いた。如意を揮って(思いのままに)碧巌(仏書)を提唱する時、見台を敲き割って、鬼大徹の眞面目を発揮したのは実にそのころなのであった。
 師はこのようにして浄財を得、宝物を本山の手に入れ、大いに財政整理の實を挙げた。


 師は後進に途を開こうと、明治二十三年、南禅寺管長の職を退き、伊勢の津市において在俗居士のために禅書を提唱すること一年餘、二十四年に至り、東上して武州八王子にある廣園寺の住職となった。
 当時、同寺も又、貧困で、すこぶるその維持に窮していたので、師は自己の袈裟衣を賣却して、後方の山林に一万本の杉苗を植え、それで同寺の維持する方法を講じ、相変わらす、僧俗の済度(仏の道によって衆生を救うこと)に努めて怠ることがなかった。
 師は日本の中心である東都(東京)に禅風が起こってこないことをずっと憂えていたが、翌年、在京居士の請を入れて東都に来遊した。

 八
 師はこれより興禅護国会を組織し、会場を下谷廣徳寺に置いて、多くの僧俗を導いて、大いに東都の禅風を発揚しようと努めた。
 その頃まで帝都に禅がないというのではなかったが、維新以来、禅風は皆無のような有様になっていたが、師が一度この会を起してから、その高風(すぐれた人柄)を聞いて、会いに来る人が非常に多く、最も隆盛を極めた、特にそれの居士(在家で仏道修行する男子)中には、大石正己、河野廣中、細川潤次郎等の諸名士がいた。
 明治二十五年より四十四年に至る迄、その門に集まる者が千数百名前後に達した。これは誠に明治年間の東都における禅風が挙揚する嚆矢(物事の最初)となったのである。
 師は本年二月十六日、不幸にして老衰病に罹り、動坂の庵室において遷化(高僧の死去)された。行年八十有四 惜むべきことである。

 九
 師は前年より常に、明年頃には死ぬでだろう、と言っていたが、果して、その言葉のようになった。尚、逝去する半月ばかり以前には、自己の死を豫知して、ことごとく書物その他の物品をA理して、後事を門弟に托したのであった。
 師は、容貌は魁偉(顔や体が人並みはずれて大きく立派なさま)、一見ビスマルクの如くであった,性質は磊落(気が大きく小事にこだわらないさま)、淡泊であり、平素の言行は極めて天眞爛慢、あたかも小児の如く無邪気であっても、その禅室においての師は實に不動明王の剣を案じて巖頭に座っているが如くに、又は猛虎の嵎(山地の奥まった隅)に寄っているがの如く、機鋒峻烈であり、近寄りがたいものがあった。
 師は常では極めて質素の人であり、一物といえどもないがしろにすることはなく、その火鉢は醤油の空樽に古い金ものを入れたものであった。
 師は又、権勢・富貴を見ること土芥(価値のないもののたとえ)の如くであり、眞に丈夫児(一人前の男児)として恥ないものがあった。
 昨年十一月、芝浦における南極探検の出発告別式の時、師は老躯を提げて、この快挙の勇ましい門出を祝そうとして来た。たまたま、席に大隈伯がいた。師の来たのを見て、立ち上がって自分の座っている美しい椅子を師に譲った。普通の人ならば、この雙脚の貴人の厚意に対して深く感謝の意を表すはずであるが、師は平然としてわずかに軽く伯に一揖(ちょっとお辞儀すること)しただけで、その椅子に座った。これは些細なことといえども、富貴でない師の人物の一端を推し量るに充分であった。

 十
 師が南禅寺にあった時、当時の大坂東雲新報主筆である中江兆民が、ある一日、師を寺院に訪れ、遠慮もしないで無断にも本堂に上り、手足を伸ばして仰臥して去らなかった。雛僧(若い僧)が驚き走って、このことを師に告げた。師は静かに本堂に到って「これくらいのことをするなら、見所を露呈してみよ」と大喝した。兆民は周章狼狽して、なすところを知らなかった。へりくだった言葉で教えを乞うてからずっと、親交を結ぶこととなり、時々、一瓢(酒を入れる瓢一つ)を腰にして蹣跚として(足下をよろめかして)南禅寺に来て、師と玄談(仏教の心理を談じること)をほしいままにするのを常としていた。
 師が八王子にある廣園寺にいた時、何人よりかは知らないが、五升入れの酒樽一個が到着した。酒は名高き灘の美酒にして味はすこぶるよい。まもなく、兆民が訪ね来た際、師は「あの酒はお前の送ったのではないか」と問うた。兆民は「はい左様で御座います」と頭を掻きつつ答えた。
 その後、兆民が重病に罹り、医師より餘命はわずか一年半であるとの悲しい宣告を受け、あの有名な「一年有半」の稿を起こしつつあった頃、ある一日、師は招かれて、その病床に赴いた。兆民は悄然として救いを乞うた。ここにおいて師は兆民のために兜率三関(弥勒菩薩のいるところへ行くための三つの関所)を提唱する。兆民は涙を流して「最早これで葬式も要らない。他からは導師を迎える必要もない」と深く師に感謝したと言う。

十一
 鹿野某と言う者がいた。諸方に参禅して自ら宗匠を以て任じていたが、「大轍の力量がどれほどのものなのか、本当に量ってやろう」と言うので、廣徳寺の一室に訪れた。
 師は某が未徹底なのを知って、通さなかった。それなのに某は大いに怒って師に何の断りもなく、玄関の鉗鐘をはずし、これを新聞紙に包んで持ち帰ろうとした。その折りに居あわせた居士たちは大いに驚き、その旨を師に告げた。師は「門を出るまではそのままにして置け。もしそれを持って門を出たならば、一大痛棒を喰らわしてやろう」と言った。さすがの某もこれを聞いて、初めて自己の非を悔い、現今の禅界にあって師に及ぶ者はいないと、厚く師に帰依することになった。
 その後、鹿野某は病に罹り、その臨終の際に師を招待して一言を請うた。師は傍にあった筆と紙とを取り、次の発句を書き与えた。
 「この無 学んで地獄の鬼も打ち殺せ」
 某はすでに無学であることを見過ごしていたこともあって、これを見て、感涙を禁じえず、うやうやしく礼を述べて大往生を遂げたと傅えられる。

十二
 その昔、キリスト教の牧師某、師を訪れ、ともに宗教上の運動をしようと勧めた。師はこれに応じなかった。某はしばしば来て説いてやまなかった。師はある時、某に向い「拙衲(わし)は漁夫の子だから知っているが、鰯網は嫌いじゃ。拙衲はちっぽけな鰯などを取るのじゃない。大きな鯨を取るつもりじゃ」と言った。某は赤面して去り、それ以後、再びは来なかった。師は又、先年、動物園に行った時、虎と息競べをして、「虎の一息は拙衲の三倍じゃ。普通の者の三十倍じゃ」と言った。その他、師の逸事は甚だ多いので、挙げて数えることができないのである。
 ああ、師は逝って今やいない。われわれは現代の宗教界より師のような剛骨の偉人を失うのを惜しむのである。

 道義上の力を涵養するは容易の業ではない。刻苦黽勉(心身を苦しめて努力すること)してその成就を期さなければならない。路傍の草花を摘むように、労力を拂わないでどうしてなすことができようか。道徳上の力は、往々にして、暗黒の深い穴より石炭を採掘するような労苦によって得られるのである。
                             ワグネル
(注:ワグネルは明治の時代来日して日本の産業界・学会に貢献したドイツ人)


大徹禅師の肖像写真及び著書「禅と長寿法」
(国会図書館近代デジタルライブラリーより)


 TOPへ 「御座」あれこれ・目次へ

.