第2部 これからのホモ・サピエンス像
人類は生き残れるのか
はじめに
「私の人生は生きるに値するのか。」古今東西を問わず、すべての人間は少なくとも一生に一度はこの問いかけをする。紛れもなくこの問いかけは己の存在を確かめようとする個人的動機に起因する。
傍観者的に答えるならば、所詮それはその人の「生き方次第だ」ということなのだが、それを問う当事者にしてみれば、それなりに深刻なケースから問われている場合が多い。とは言うものの、大抵の場合、「生きるに値するように生きるには私はどうすればよいのか」に行き当たるというのも、相場というものであろう。
ところが、不思議なことに、これほどまでに人は己個人の存在にはこだわり続けるにもかかわらず、これまで「人類そのものは存続するに値するのか」なる問いかけはあまりしてこなかった。これは何故なのだろうか。今回は、私なりにその理由をまず明らかにして、その視点に立って、平和についての一つの話を進めてみたいと思う。
そもそも、「私の人生は生きるに値するのか」なる問いかけ自体、個人的レベルの問題であり、それも、己が有限的で相対的な存在であり、いずれ死んでいく身であることのリアルな認識に囚われているところから来ているのである。であればこそ、たとえ今の己が思うような生き方をしていないとの思いがあったとしても、今生きていることの意味付けを殊更にして、己が死んで行くべき存在でないことを訴えようとするのだと私は思う。これは神でも機械でもない生き物であるホモ・サピエンスの業というものではなかろうか。もし己が無限的で絶対的な存在であるか、意識なき存在であるならば、外から見て、どんなに不幸な人生を送っていたとしても、「私の人生は生きるに値するのか」なる問いかけは意識の俎上にものぼさないであろうし、またその必要もないと考えるのが普通なのである。
ところがである。他方では、人は自分が人類の一人であるくらいの認識はしている。又、形あるものが滅び去る定めも知っている。当然、人類の滅亡もあるだろうぐらいは認識して当然であるにもかかわらず、人類そのものの存続の価値についてまで問う人は、皆無であるとは言えないにしても、あまりいなかったというわけである。
この理由について、少し考えてみよう。一つには、その認識はあったのだが、それほどリアルなものとして受けとめられなかったからである。これは意識的存在であるにもかかわらず、とかく他と区別したがる知的な存在である人間における盲目性とその帰結である独善性の現れとして、己個人のこと以外の問題については、たとえそれが己を含む上位概念のものであったとしても、わがことのように考えることがなかなかに難しいからなのであろう。これについては前章の『平和への動物学的アプローチ』において、ローレンツの言葉を借りてすでに述べているので、これ以上の説明は省こう。
ただし、その結果として、個人的レベルにおいて自分が世界の中心にあると思いたがる人間の傾向性から、自分も人類の一人に数えられるのなら、人類も又地球の中心的存在、即ち絶対者であるとする考えをアナロジカルに導入することだけはしているのである。そのくせ人は、己の死の現実性の確固たる認識に災いされて、己の存在の有限性を思い知らされるものの、上述の感情移入の乏しさから、幸か不幸か、人類までその思いが至らず、従って今度は、個人的レベルで託されていた不滅への思いを知らず知らず人類に投射させてしまっているのである。これが二つ目の理由である。
これら二つの理由から、人類そのものは絶対的で無限的な存在であり、不滅の存在であるとする思いこみが人間に植え付けられたと推測するのは容易であろう。(もっとも、世の中の終末を唱える人はいたが、不思議とその中にすむ人の全滅の思いにまでは至ろうとしなかった。)この思いこみは人類のこれまでのあらゆるカテゴリーの歴史の底流に巣くっていたとも言える。すべての人間はその前提の下に文化を形成しようとしてきたのであり、人類の存在の有限性の認識は、言わば括弧にくくられたままの状態にされてきたのである。それ故に「人類そのものは存続の価値があるのか」なる問いかけ自体がナンセンスなものとされ、人類そのものが価値評価の対象外となることで、人類の文化的創造の至当性を謳ってきたのである。たまたま反省的な人間がその問いかけをする場合もあるにはあったが、それを肯定し再確認する以外の結論は出せなかったのである。
ところで、人類は現在に至って、自分達が地球的環境を破壊できる力を持ったと思うに至った結果、己の存在の足場に対する危惧を抱きはじめるようになった。つまり、括弧にくくられたままの人類の存在の有限性の意識のその括弧が取り外されていることに気づき、改めて「人類そのものは存続の価値があるのか」なる問いかけが現実性を帯びてきたのである。しかしながら、意識的存在としての人間の悲しいさがとして、己個人の現下の存在否定は難しく、個人的レベルにおいても、己のこれからの存在性に価値を与えようとした如く、その問いかけの形は、今の人類の存在を価値あるものとするためにも、これからの人類にも生き残る価値が当然あるとして、とどのつまりは、人類が生き延びる算段を講じるというのが、今後においてもわれわれの一つの思考パターンとなっていくだろうと考えられる。
私は、前のエッセイ『平和への動物学的アプローチ』において、平和とは人類が生き延びている状態を示す概念としてとらえ直すことの必要性を訴え、平和の反対概念としてあるのは、単に戦争だけなのではなく、「貧困」や「自然破壊」や、果ては「人間の欲望」そのものまでも含まなければならないと主張した。別に、奇をてらったつもりはなく、種としてのホモ・サピエンスがドミナント・ママルとなり、地球の生き物の支配者となって自画自賛する幸せ感よりも、たかが三百万年の種としての歴史しか持っていないのに、もはや種の黄昏期を予感しなければならない通痒感を考えてみるに、常に「よりよきもの」を求めて生きようとした結果として生じたこれらの事態こそ、平和の対極にあるものと位置づけて何が悪いのかの気持ちから述べたまでである。
このエッセイのタイトルは「人類は生き残れるのか」と仰々しいが、生き残るための理由付けをあえて与えようとする後ろめたさを覚えつつも、それを肯定しつつ、悲劇的な事態の到来も甘受しようとする態度の必要性も訴えつつ、生きて生きて生き残ろうとする算段についての話を進めていきたいと思う。例によって、これから私の展開しようとしているものは、人と人とが現実に争っている現実があるにもかかわらず、それに頬かぶりしているといった観は否めないが、それでも私なりに一種の「平和論」を述べているつもりである。
T 「平和」の反対概念について
まず初めに、私は、「貧困」、「自然破壊」、「人間の欲望」が、何故に平和の反対概念として挙げられなければならないのかについてから説明したいと思う。通常、平和の反対概念は戦争である。それはそれで正しいのであるが、しかし戦争とは直接的暴力あるいは物理的暴力のイメージしかわれわれに与えないため、それらがなくなっているからと言って、平和と言えるのだろうかと言ったきわめて素朴な疑問の残るのも事実である。J・ガルトゥングはそれに答える形で「構造的暴力」の考えを提唱し、それによる構造的支配も又平和の反対概念だとし、いわゆる「積極的平和」の実現を主張した。私もそれをそのまま受け入れているわけであるが、違うところはもっと「人間性」の問題と絡めているという点である。
それ故、目下の私は、平和とは「人類が生き延びること」であるとする考え方を導入したのである。そこで、人類の生存を妨げる要因とは何かを考えていく段階で必然的に下された結論がこれら三つの言葉であったのである。私が描こうとしている人類とは、まさにホモ・サピエンスとして生物的に存在している、その意味では他の動物といささかも異ならない地球の同居人の謂である。そう言った生き物の存在基盤を奪っているものこそ、私にとっての平和の反対概念だったのである。
さらに、敷衍すれば、「貧困」とは、一昔前に喧伝されていたような「貧困の意識」から規定されるような相対的概念ではない。まさに生きるとは喰うこと以外の何物でもないと認識される、生き物として切羽づまった飢餓状態に追い込まれる人間の生み出されていることを言っているのである。そのような事実は過去において飢饉などによってあった。確かにそれもいけないことには違いないのであるが、誤解を恐れず言えば、私にとっては、自然がもたらした貧困は考慮の外におかれている。私のここで言う貧困とは、それまでの生活がそれなりに成り立っていたのに、己の価値観を常に正しいものと見なす他の存在領域にある人間によって押しつけられ強要されることで、結果として生存の物質的基盤まで破壊されてしまう事態を引き起こすような、いわば人為的に作られた貧困のことを言っているのである。
「自然破壊」とは単に開発という名を借りた自然的環境の破壊を意味するだけではない。人類が生き物としてある以上、その人類の存在を可能にするあらゆる環境を修復不可能にまでしてしまうような、自然に対する人間の接し方を指しているのである。もっとも、人間が自然を利用の対象として見ること自体がいけないのだと言うわけではない。プランクトンを小魚が食し、小魚を大魚が食し、その大魚を人間が食したところで、それぞれの生き物の種としての生存に影響がないのなら、問題はないのである。だが、自然が何億年もかかって造ってきたものを再生産しようと思えば、又何億年もかかるのを承知の確信犯的利用を目論めば、人類の肉体的存在基盤の破壊につながっていくのは、火を見るよりも明かである。そのような自然破壊が、いわばタコが己の足を喰ってまで当面生きていこうとするのに等しいと言える如く、人類の存在の足場を泥船化しているのである。
「人間の欲望」までも平和の反対概念であるとするのはおかしいと考える者は多いかと思う。生きるとは欲望を満たすことであるとする近代の大義名分からすれば、欲望の否定は人間は死ねと言っているに等しいだろう。私がここで言っているのは、生き物が生きるために必要な欲望のことではなくて、人間に固有の欲望のことである。腹が満たされているのに、「もっと」とか「よりよく生きたい」とかの強迫観念に踊らされて、さらに喰ってみようかと言う気にさせる欲望のことである。過ぎたるは及ばざるが如しの例えのある如く、人間の肉体の許容範囲を越えるような影響を伴う欲望充足は、不可避的に人間を狂気の世界へと追いやっていると言わねばならないだろう。
お気づきかと思うが、私が補足説明を加えたこれらの言葉は幾分私独自の特殊な使われ方をしている。それらは意識的で知性的でもあるホモ・サピエンスの存在性から見れば、ごく自然に考えられうるもの、言い換えるならば、「人間性」に根ざした生き方から必然的に招来すると考えられる性格のものである。即ち「貧困」については他の人間に対する自己の存在の知的及び関係的優位性へのこだわりが、「自然破壊」については自然としての存在性からの離脱傾向とその道具化志向が、「人間の欲望」については己自身におこる存在的不安からの脱却願望とあるべき己への絶えざる憧憬が、それぞれに内在しているために、端的な形で具現化されたものであると、私は考えているのである。
(もっとも、これらのことが原因あるいは結果として、人間同士の争いとなるのであるから、やはり平和の反対概念を戦争とするのは正しいと言えるのかも知れない。しかしそれでは平和とは己あるいは考えを同じにする一派の正義がたまさか通用している状態を意味するだけのことでしかない。人類の滅亡を防ぐために争うのだという話しは実は全く建て前だけで、本音の世界では、すべて己もしくはその一派だけの平和のために争われているのは自明であろう。)
U ネオテニーについて
こう言った「人間性」は、一体どこから来ているのだろうか。最近、ネオテニー(Neoteny)
と呼ばれる生物学的現象について取りざたされるようになり、「人間性」もまたそれに起因するのではないかと考えられるようになった。このネオテニーとは日本語では幼態成熟とか幼形成熟とか言われ、例えばエラを持ったままで性的に成熟し子供を生むことができるある種のサンショウウオに代表されるように、生物学的には個体が幼生期の体の特徴を持ったまま成体になることを指し示す言葉であった。
ここから、一般的にこの言葉は「発育の速度の低下や、さらには生まれ老いる過程での発育の諸段階が延長されることにたいしても、もちいられる」のであるが、最近では、この言葉は生物学的用語の域を越えて、単に動物の身体的特徴について説明されるだけではなく、動物の行動や、ついには人間の精神的働きについてまで説明されるようになった観がある。例えば、最近の青少年の傾向を示す社会現象とされるモラトリアム人間やピーターパン・シンドロームなどの言葉まで含めるほどの広がりを持つに至った。
もちろん、ネオテニーという言葉が拡大解釈され、一人歩きしていくことに問題がある。しかし、そうなったのも、ネオテニー現象の特に著しいのがホモ・サピエンスなのだとする多くの生物学者の指摘によるところも大きいのである。その端的な事例は、人類が知能を発達させ、いわゆる文化的発達をも可能にしたのは、このネオテニーによるのだとする考え方であろう。即ち発育の遅れが後になって脳の機能をより発達させたし、幼児期の延長が親の教育を必要とさせ子供の学習能力を拡大化させた結果、他の動物とは異なった生活形態を生んだというわけである。
このことから、ネオテニーが人類の進化に大いに影響を与えているばかりか、今の人類に固有の存在形態をもたらす張本人なのだとする考え方が、とりわけ生物学の世界の中では、定着していったのである。実は、私もこの考え方に心惹かれており、この観点から、人間における「攻撃性」について検討し直す必要があるのではないかと思っている。
当初の私のネオテニー観、とりわけ人間に関するそれについては、「子供のままで大人になること」とか「動物種としては早く生まれすぎていること」とかの謂で受けとめ、且つそれらはいけないことなのだとする漠然たる認識があった。それ故に前章の『平和への動物学的アプローチ』においては、どちらかと言えば、私は、人間における攻撃行動の特殊性はその悪いネオテニー状態に起因していると見ていた。即ちそのネオテニー状態は必然的に人間に存在的不安と社会的相互関係能力の欠如を伴っていて、例えば、その結果としてE・O・ウィルソンが言うように、人間には「他者を敵と味方に分割してしまう傾向」とか「見知らぬ他者の振る舞いを極度に恐れる傾向があり、さらに、もめ事を攻撃によって解決しようとする傾向」とかがあると見るところから、その状態から解放される処方箋さえあるならば、人間の悪しき攻撃形態が払拭されてしまうのだとするかのごとき印象を与えていた。
それはそれで、今の私においても、その考え方が完全に誤っているとは思っていない。というのは、ネオテニー状態が学習能力を人間にもたらし、意志的努力による問題解決の方向付けを与えているのも又事実なのであり、前章において私が述べた七つの提言は環境との関係によるケースバイケースによって妥当性を持つものだからである。
しかしながら、ネオテニーに関しては、もっと別の存在意味を持っているのではないかという視点から改めて考えてみると、人間における悪しき攻撃形態がなくなるということと今の私が言うところの「環境平和」への可能性が、言い換えれば人類の存続の可能性が、生まれるということとの間にはそれほど厳密な因果関係を見いださなくてもよいのではないかと思うようになった。というよりは、人類がネオテニー状態であり続ける方が、むしろ種としての存続を可能にしているのではないかと思うようになったのである。
周知の如く、ダーウィニズムにおける「適者生存説」は生物種が生き残る事実の説明として今でもわれわれに影響力を持っていて、大筋としては私も正しいと思っている。だが、これは生物種が単なる物体の如くあるために、自らは適応できず、たまたま適応していたという好運によってしか生き残れないということだけを言っているのではないと私は思いたいのである。擬人的に言うならば、生き物も適応しようとして努力しているのである。そして現下の環境に適応するための持ち駒をうまく使えた生き物が生き残ったのである。べつだん、私はここで「用不用説」を唱えるラマルキズムを殊更に持ち上げるつもりはない。適応しようとする努力とは何もキリンが首を伸ばそうとするに似た努力を指すのではなく、生き物ならば、たまたま最善に適応できなくても、次善の適応でもよしとするすべを持ち駒から探すくらいの営みをするだろうといった程度である。
やっかいなのは、最善に適応した場合であろう。おそらくその場合、その生き物は繁栄するだろう。これは、私なりに言えば、生物学的に言うところの「特殊化」状態に陥ったことと同じであって、実はこれは環境が変われば、もはやその生き物は適応できなくなり、従って滅んでしまうかも知れないと言った危機的状態にあることを示しているのである。私が着目するネオテニーとは、まさにその特殊化への道を猶予させている、あるいは何らかの理由で猶予させられている状態の謂であり、それが故に、環境の変化が起こっても、それに見合う新たな適応への道を残している性質のものなのである。言い換えれば、最善に適応することを先延ばしし、従って次善の適応ででも甘んじる仕組みにあるのがネオテニー状態なのである。
特殊化への道が猶予されれば、どのようなことが起こるのか。それを人間の場合に当てはめて考えてみよう。われわれは先に人間における身体の発育の遅延が結果として知能を発達させ、それが又複雑な形で教育と学習による適応能力の強化へと結びついたことを知った。これは、人類を個体として考えてみた場合、その個体が環境に適応する際に柔軟性と融通性を持ち合わせていたために、違った環境においても生き残っていくすべを見いだしたということになるのである。すでに述べたように、私が言うところの環境とは、単に自然的環境のみではない。内的(身体的)環境や人為的(社会的)環境も含められている。従って、それらの環境内に形成された人間的存在領域において人間が実践知や理論知に基づく行動をとっていくあらゆる場合に、それぞれに特殊化への道の猶予されている状態、即ち融通性と柔軟性が働きうる状態、それがネオテニーなのだと考えてもよいのである。
これについては、われわれは日常生活において、己自身では最善のすべだと思っていた行為の際の技や信条がその対象とされるものの変化によって通用しなくなった時に、それらに固執すればするほど、己の存在性の失われていく意識を持つケースを考えれば、よく理解されるであろう。余談だが、その意味で子供のままでいるということはネオテニー状態が最も保たれていると考えてよいだろう。即ちどのような環境においても、子供がそれを受け入れ且つ対応できるのは、まさに特殊化への道が猶予されているからなのである。
われわれは子供から大人になることを成長したなどと言っているが、これほど大人の側のおごりを示す言い方はない。これはまさに特殊化への道を歩んでいると言うことを示す以外の何物でもなく、大人が育ってきた環境を固定化しようとするもって回った言い方でしかないのである。もしもその大人の言が正しいとするならば、それは環境がちっとも変わらない場合だけで、そんなことはありえないのは大人自身も十分承知しているはずである。そこからわれわれは「子供は大人の親である」という諺について、改めて注目する必要があるのである。
又さらに広げて言うならば、人類の進化についても、進化とは進歩のことだと思っている人間がいるが、それは間違いである。進化とは以前の環境での対応と違ったそれをとるように、自らが変化したことを意味しているだけの言葉だったのである。
V 人類が生き残るために その1
さて、話を元に戻して、人類が種として生き残るための環境平和の実現の可能性について考えてみよう。先のネオテニーとの関連で言えば、人類が生き残れるかどうかは、人類がまさにネオテニー状態を続けられるかどうかにかかっていると言えようか。われわれの拡大されたネオテニー観から言えば、平和を妨げる「貧困」や「自然破壊」や「人間の欲望」が、もはやそれらを受け入れられないような環境の変化に出会った時、自らを調節しうる機能を保持しうるかどうかと言うことになろう。
かつての人類が極寒の自然環境に出会った時、そのときの肉体的状況では存続不可能な事態を見事切り抜けられたのは、私の言う「観念構成能力」が働いたからだった。この能力そのものは一種の補償行為として働き(先の言葉遣いで言えば、次善の営みを受け入れたということなのだが)、それによって肉体の存続しうる疑似環境が作られることとなった。結果としては、それは新たな環境に対する適応を可能にした。以後、このパターンに従った人類は、農耕・牧畜時代に入って生態系に影響を与えるようにまでなり、今日に至るのであるが、問題がないわけではなかった。
この能力は環境すらも対象的にとらえうるところから、常に環境の操作を目論むことで、自己保存と自己拡張を旨としていたのであるが、己自身までも完全に操作しうる能力までは持ち合わせていなかったのである。従って人類は自らを存続させる上で困難な状況に遭遇した時は、その状況を打破し克服する目的で、絶えず前進し、発展させていくという手法を常に採っていた。(つまりは現在の己の力を増大させることで環境に対処しようとする思考形態を採ってきたということである。)その形態は、ほとんど人類の特殊化状態に陥ったといってよいほどに、ワンパターン化していたと言って過言ではなかったのである。
もっとも、人為性の介在した疑似環境が元々の環境にさしたる影響を与えないうちは、それでよかった。その環境の変化に対して人類は「人間の本性」と言われるものを次々と変えることによって、それなりに対応することができたのである。言い換えれば、人間の場合は環境が疑似環境である限りは、即ち人為的環境である限りはネオテニー的な対応がなされ、「人間の本性」と言われるものについての特殊化状態は避けることができたのである。それについてはわれわれは、時代が大きく変わった際に、その中で何が人間の大事な生き方なのかを問い、それに答える形で、その都度、価値観を変えていった歴史からも判断できよう。
種として考えれば、さして長いとは思われない人類の歴史において、唯一の生存武器といってもよい「観念構成能力」は文化生活という名の生活形態をもたらしたおかげで、まずは生き延びることができた。しかしそれは、その必然の傾向性として、K・ローレンツの言葉を借りれば、文化的発達が系統的な発達を絶えず上回ることとなり、人類は次第に複雑になる疑似環境の下での生活を余儀なくされるようになった。それでも人類がここまで生き延びてこられたのは、それら二つの発達がともかくも調和的関係にあったからに他ならなかった。というよりも、ともすれば系統的発達を無視することがより人類の発達なのだと無原則的に考える文化的発達の側にも、その発達を遅延させ、系統的発達に歩調を合わせようとするネオテニー的特徴を内在させていたからなのだと、私は思っている。
これまでの歴史において、モーゼの十戒に見られる人間観、キリストの「パンのみによって生きるにあらず」に示される人間観、マルクスの社会的存在として人を搾取しない生き方を謳う人間観が、その具体的実例として、いわゆる「人間の本性」を定める上で一石を投じたのではないかと、私は見ている。もちろん、彼らの人間観はその文化的発達の具合によって提唱されているために、厳密には異なっているが、共通しているのは、文化的発達の歯止めもなく進行していく事態をその禁欲的価値観の導入によって牽制しようとする、いわば宗教的観点であった。
実際、彼らの考えは、その峻厳な戒律的特徴を有しているにもかかわらず、歴史のエポックメーキングとなったのは紛れもない事実である。だが、その人間化、世俗化とともに、社会的影響力を持つに至ったものの、それによって彼らの意図は閉ざされ、その宗教的観点すらも、政争の具とされたのは、歴史の示すところである。とは言え、彼らの人間観は、文化的発達と系統的発達を歯止めもなく乖離させていこうとする観念構成能力の特殊化傾向にこれ又歯止めをかけるに役立ったという意味では価値が大きかったのである。われわれはここで彼らの意図がその歴史的歩みの中で変容していかざるを得ない宿命を認めつつも、そのような人間観が生まれたという事実から、これからも、同様の意図を持った違った人間観が到来しうるのだと言う点に、人類の存続の可能性を見るべきなのである。
人間の本性とは、その名前に反して、実は普遍的なものではなかった。まさにわれわれはそう思うからこそ、これまでの歴史においても人間の本性を次々と変え、又その下での生活形態を律
してきたのである。(もっとも、これまでは、現実の生活形態に合わせて人間の本性とされるものが生み出されてきたという風にも言われてきたのは私も認める。だがこれは、鶏が先か、卵が先かの問題と同じであると思う。)
今回の人類が生き残るべしのテーマに沿うとするならば、これからわれわれが考えていかなければならない人間の本性とは、おそらく、近代的価値観とは対照的な、いわゆる前近代的なものでなければならないだろう。もちろんそれは前近代性がかつてもたらした抑圧的システムの再現を意図するものではなく、観念構成能力がその特殊化に向かうことを遅延させるに与った自然観や人間観に新たな価値を見いだすという意味においてである。今や、そう言った自然観や人間観に基づく人間の本性のみが、少なくとも、人為的に作られた疑似環境の下での人類の生存くらいは保証しようとするのではあるまいか。
W 人類が生き残るために その2
次に私は、最近特に取りざたされているR・ドーキンス主張するところの「利己的遺伝子」の考え方が、人類の滅亡を防ぐのかどうかについて考察してみよう。もともとこの考えは「子殺し」の歴然たる事実をどう解釈するかに遭遇した生物学者の葛藤から生まれた。そして動物は自分の血を残そうとするのだという血縁淘汰説の考え方が媒介となる一方で、遺伝子の解明が進むにつれて、そのコピーする機能があることが示されてからは、あたかも遺伝子が意志を持つ存在であるかのように、遺伝子は常に自分を残そうとするための営みをするものなのだという風に考えられたのである。子殺しは自分の遺伝子を持った弱い子よりも、同じく自分の遺伝子を持った強い子を持って育てた方が、より自分の遺伝子が生き残れるという親の戦略的判断が働いたためというわけである。結果、この考えは、動物の利他的行動が「種の維持」のためであったとするこれまでの通説を打ち砕いてしまったのであるが、生き残るための一つの説明として、われわれに合理的な感情を与えている。
われわれの平和論からすると、「種の維持」こそ平和への努力の証であるかのように見える。これまでの説からすると、われわれが平和を守ろうとするのはホモ・サピエンスとしての人間の本能なのだとするのが妥当なのだが、それが崩れたとなると、平和を守るための新たな理由付けをしなければならなくなるのかも知れない。何故ならば、この「利己的遺伝子」は人類の滅亡を防ごうとするに当たって、いささかの関わりも持たないように見えるからである。それどころか、ドーキンスの考えをそのまま認めれば、個体は、利己的遺伝子にとれば、単なる乗り物でしかないのであるから、個体自身がどんな形に変わろうと、又そのまま生き残ろうと、それが自らの遺伝子が生き残るにふさわしい環境であるならば、どうでもいいことなのである。いわんや、種においてをやである。
私からすれば、ドーキンスのこの考え方はわれわれに二つの問題点というか、刺激を与えてくれたと思っている。一つは、遺伝子の本性が己のコピーを作るところにあるとしても、生命体としては、それは何とか生き残ろうとする所作として思わせたことである。そこからその遺伝子の本性を人間の都合のよいように働かせていけば、もろもろの欲望が満たされるのはもちろん、人間として生き延びていくことも可能ではないかという気持ちを起こさせたのである。ただしこの場合、遺伝子は常に人間に役立つものと想定されており、ドーキンスの真意を捨象してしまっている。仮に、環境が変わり、そのもとで生きていくに耐えられない状態が起こった結果、新たな環境に耐えうる遺伝子が又出てくるだろうと思っても、これまで通りの人格を持ったままの人間を守ってくれるとは限らないのである。
もっとも、肉体が新たに主導権をとった遺伝子に支配されても、自我意識だけは変わらないという風に信じ込むか、それとも自我意識なり肉体なりが変わっても、それはどうでもよいことなのだと鷹揚になるかすれば、話は別である。しかしそれは、そのどちらの場合も、現実的には不可能な話なのである。そして不可能であったとしても、われわれのごく一部分でも生き残る可能性さえあれば、それでもよいのだとする危機的状況が押し寄せてくるならば、この利己的遺伝子の本性に託し、期待せざるを得ないケースもあるのだということは、逆に、あり得る話ではあるのである。
二つ目には、確かに、個体が遺伝子にとって単なる乗り物でしかないとするドーキンスのこの考え方は、一見個体の価値を低下させるかに見えるが、同時にその反発としても、それでは個体とはそんな程度のものでしかないのかという生命体としての個体の新たな見直しの機会を提供したことである。それは生物全体にとれば、生きてあることの殊更の意味付けをもたらすであろうし、人間にとれば、個人の尊厳性といわれるものとは一体何なのかについて改めて考えさせられることにもなろう。
と同時に、ここからわれわれは、本テーマにとっても、ゆゆしき問題に逢着させられることにもなるのである。すなわち、われわれはなぜに人類が生き延びねばならないと、わざわざ考えるのか、あるいは考えてしまうのかという問題である。それは、冒頭にも触れたごとく、人類は生き延びる価値があるとするからなのか。そうならば、それだけの値打ちを持つものだと自己評価できるイドラを持たねばならないだろう。それとも利己的遺伝子のなせるわざとして、人類が生き残ることによって、自分の遺伝子も生き残ることができると考えるからなのか。そうならば、人間だけは他の動物とは違うのだとする特権意識を放棄せねばならないだろう。いずれにしても、われわれは、この利己的遺伝子説を通じて、そもそも人間とは何であるのかという素朴な問いをすることになるだろう。あるいはこの利己的遺伝子をどのようなものとして扱うかによって、人間とはいかなる存在なのかについての回答を迫られることにもなるだろう。
では私自身はどのように考えているのであろうか。先程にも述べた如く、遺伝子が利己的であるなどとの言い方は、遺伝子を擬人的に見た結果にすぎない。遺伝子そのものは物質的な存在であり、それはただ物理的、化学的に反応しているにすぎない。言い換えれば「生きてあるもの」ではないのである。だが科学技術の脅威的な発達によって、遺伝子が「生きてあるもの」と深く関わっていることが明らかになった。その意味では、「生命とは何か」を解明しようとする上で、20世紀後半になって解明された遺伝子の仕組みとその機能はこれからのわれわれの倫理観においても大いに影響を与えるであろう。
それは、すでに医学の分野で先行していた脳の仕組みとその機能の解明が影響を与えたものとほぼ匹敵するといってよい。いな、雰囲気的に見るならば、脳と遺伝子は同じ物質的存在であっても、後者の方が、科学者にすれば、操作がより可能であるかの観を与えている。これは脳がまだ生そのものとのつながりが深いと考えられているのに対し、遺伝子の方はより物質的なものであると考えられているからであろう。だが、その遺伝子さえ操作すれば、われわれの都合のよい幸せはもちろん、人類の永久的な存続までもかなえてくれるのではないかとの期待を安易に抱くのは避けるべきだろう。
これは従来と同じ考え方だからである。これまで、人類は自らが生きる上で種々の不都合に遭遇して来、その度に人知によってその打開の道を作ってきた。遺伝子の発見とその操作はその打開の道に供された、最近において最も期待される道具として見なされるものかもしれない。その操作によって今の地球をつぶし、他の生き物を絶滅させても、人類にとって幸せになるのなら、永久的ではないとしても、人類の存続につながるのだから、何が悪いのかと言った具合にである。果ては、そうさせるのも、利己的遺伝子なのだと高言する者や、己個人の身勝手さもちゃっかり利己的遺伝子のせいにする不見識な者さえ出てくる始末である。実はそのようについ考えてしまう思考習慣にこそ、われわれが今平和について論議を戦わす素地が隠されていたのだと見るのは間違っているだろうか。
生物学には素人の私には、遺伝子の仕組みについてとやかく言える資格はないのであるが、遺伝子の操作によって命まで作られるのだとは心情的にも認めたくないものがある。それが事実なのだとして科学的に証明されようものなら、如何ともしがたく、それを受容する情けなさを持つのであろうが、それでも、私自身の心の中には、かつてW・ジェイムズが霊魂の不滅説を認めようとした一つの考え方に、どちらかといえば惹かれている。つまり、われわれの脳が意識を作っているのだとする唯物論的な考え方は脳の機能に対する誤った見方であり、実は脳とは単なる伝達器官でしかないのではないかとする見方である。もしそうならば、霊魂はたまたまわれわれの脳に宿ったのにすぎず、それが今の己の意識として具現しているにすぎないのである。遺伝子も、脳と同様に、全く単なる伝達機能を果たすだけのものではないのだろうか。これが遺伝子についての私の言いたいところである。
繰り返すが、この考えは私の独りよがりな仮説、あるいは願いなのかも知れない。しかし私は、そう考えた方が実はドーキンスの利己的遺伝子の本性とやらを最も的確に指摘しているように思えてならない。ドーキンスが後になって、利己的遺伝子の同類として「ミーム」なる考え方を提唱してきたことを見れば、必ずしも間違っているとも思われないのである。ミームとはまさに思想の遺伝子だったのである。そして生物学上の遺伝子なら、スープを飲み尽くすことで自らは生き延びられるだろうが、この思想上の遺伝子なら、他と共存しつつ自らも生き延びる戦略を持っているに違いないと、私は信じたいのである。
おわりに
再びここで、私はこのエッセイのテーマである「人類は生き残れるのか」に立ち戻って話しをすすめてみたいと思う。まず私は、言葉の微妙な使い方で、このテーマが「人類そのものの存続は価値があるのか」のテーマとは異なっていることにこだわった。なぜ私がそう考えたのかについて言えば、その問いは常に生きる価値を見つけなければならず、そのために常に何かをし続けていかなければならないからである。言わば、無限の増殖活動をしなければならないのである。しかしそのことが人間の存在それ自身を規定しており、人間として生きることの条件とされ、そうすることに人間の価値、すなわち卓越性があるとされたのである。結果は生きる価値を見つけるために、生きることの危機を彷彿させる事態となったのである。
比喩的に言えば、人間という生き物は、歯止めもなく、無原則的に無限増殖していき、ついには生命体そのものまで死滅させて自らも滅びるという点では、自然界における正常な細胞に対するガン細胞のようなものではなかろうかと、私は思っている。その人間が、現在、己の生存の敵とされるガン細胞を撲滅して生き残りを図ろうとしているのは、何とも皮肉な話である。と同時に、内なるものを敵とし、それに打ち勝ち壊滅させることで王者を僭称したがる今の人間を見ているような気がしてならない。
これも比喩的に言うことを許していただければ、正常な細胞とは生命体を維持するために、己の分を知っているし、これ以上絶対してはならないことを知っているのである。従ってある程度の増殖はするけれど、それ以上はしないように仕組まれているのである。それが、自らが生き残れる最善の術だとわきまえているかのようにである。そしてここで私が言いたかったことは、「人類が生き残る」ことを想定するならば、「それ以上絶対してはならないこと」のあることを悟るのも、これからの一つの考え方だと言うことである。繰り返すが、人類の生きる価値のあることを初めから考えているのではないのである。少なくとも、これまでは、そう考えることは「人類が生き残る」手段の一つであっただろうし、言わばそれは自然の選択であったかも知れない。だが、これからは「それ以上絶対してはならない」と差し控えることも人類が生き残るためには価値ある選択であるとも考えられるのである。
私が本章の前前節でモーゼやキリストやマルクスの人間観を紹介したが、それは彼らの人間観が人間に「それ以上絶対してはならない」と提言している格好の例だったからである。モーゼの場合は、知恵持つ人間であっても侵してはならない十戒の中に、キリストの場合は欲持つ人間であっても神の言葉に逆らってはならないという聖書の中に、マルクスの場合は、欲持ちそれを充足する社会的人間であっても他人のものは盗ってはならないという共産党宣言の中に、その考え方が込められていたからである。
究極のところでは、「それ以上のことをしない」ケースを認めるという認識と人間存在は自然的存在であるとする認識は一致していると、私は考えている。動物の場合は、それは巷間言われているところの「本能」によって裏付けられているのであろうが、人間の場合は自らの意志決定という形で結びつけられているの違いがあるだけである。しかしその意志決定も、実は生き物としての生存形態として例外的な部分としてもたらされているのではなく、生き物の一つの存在形態でしかなかったのである。
私が先ほど紹介したネオテニー現象とは、まさに人間の意志決定を機能させる生物学的基盤であった。その更なる学的解明は生物学者に任せるとしても、これまでも明らかにされたところからも、生き物が生き残っていくには、その生き物の環境に対する柔軟性がいかに大事であるかを示唆している点では大きな意味をもたらした。理念の実現に向けてそれ以上のことを目論もうとする姿勢は、観念構成能力を持つ生き物のほとんど特殊化された姿を彷彿させている。環境が人間という生き物の存在にとって不向きとなってきたとき、改められるべきなのは、環境の方ではなく、人間の方なのである。そうして、それを認めることが人間のメンツを損なうのではなく、逆に生き残りの機会を大きくするのである。それを可能にしているのこそ人間存在そのもののネオテニー現象なのである。
その意味では、先に紹介した最近マイナス価値を持つものとして取りざたされているピーターパン・シンドロームとかモラトリアム症候群とかを改めて見直してみるのも意義あることだと、私は思っている。若者が(と大人は特に言うが)、その傾向を特に持つと言われているが、それは、前へと突き進もうとする今の大人の価値観に危惧して生き残るための大いなる批判をしているのだとも考えられるのである。
又、私がドーキンスの利己的遺伝子説を取り上げたのは、人類の生き残りの物質的基盤となるかも知れないと、考えたからである。確かに人類を形成するヒトゲノムとしての遺伝子群は、遺伝子の本性に従って、何とかして生き残りを図ろうとしているようにも見える。だが、その点だけに焦点を当てれば、これまで言われてきた人間の本性観が、様々に利用されたような運命をたどるだけである。言わば私にとって反面教師的な利己的遺伝子説は、しかしながら、それによって、更なる遺伝子そのものの解明に生物学者をして向かわしめ、生き残る仕組みにおいても、実は遺伝子そのものが柔軟に対応をしていることが明らかになった。遺伝子は言わばやみくもに生き残ろうとしているのではなく、己以外の物質とのかねあいにおいて生き残ろうとしていたのである。ネオテニー現象の場合は言わばなけなしの切り札を出し惜しみする形で環境に対応しているのに対し、遺伝子の場合は持てる無用のカードをいつでも切り札にしてしまう形で環境に対応していたのである。
以上、私は「人類が生き残る」ためには、これまで人間の存在の条件とされているものに依拠するよりも、むしろそれへの拘りを捨て、生物的存在としての人間の仕組みに、その可能性を求める形で述べてきた。そこで、われわれは生き物の環境に対する柔軟性にこそ、その可能性を見たらどうかというのが、私の一応の結論となったが、人間という生き物だけは、その生き方からして、それがなかなかに難しいことなのだと、暗に感じている。自分が本当に生き残るためには自分自身が一度死なねばならないと言っているに等しい私の結論であるが、まだまだ大丈夫だとの思いが現存している限りは、こう言った考えも、やはり一つのサロン話でしかないのであろうか。
参考文献
E・O・ウイルソン『人間の本性について』(岸由二訳、思索社、1980年)
L・スティーヴンスン『人間本性にかんする七つの理論』(川澄英男訳、未来社、1982年)
A・モンターギュ『ネオテニー』(尾本恵市・越知典子訳、どうぶつ社、1986年)
R・ドーキンス『延長された表現型』(日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二訳、紀伊国屋書店、1987年)
W・ジェイムズ『人間の不滅性』(福鎌達夫訳、日本教文社刊『ウィリアム・ジェイムズ著作集7』、1961年)
杉山幸丸『子殺しの行動学』(講談社学術文庫、1993年)
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