第2部 これからのホモ・サピエンス像

        「人間」とは何か


   はじめに

 今はやりの「自分史」を綴るとするならば、1995年は瞠目すべき出来事の多かった年であったと私は記すであろう。相変わらずの政、財、官の世界の汚濁ぶりについては、その多さによって批判力が麻痺したので除くとすれば、次の三つがとりわけ印象に残った。一つ目は「阪神大震災」である。不謹慎な言い方をすれば、この自然災害において、それは人災であるや否やの論議も含めて、様々な人間ドラマをかいま見せてくれた。二つ目は「オウム真理教事件」である。ここでは自称最終解脱者の言動に振り回された人達による悲しむべき喜劇が展開された。これら二つは苛虐的な映像メディアを通じて観客たるわれわれにあまねく知られるところだ。そして最後の三つ目は、私が哲学にかかわっているが故に挙げる出来事、即ち哲学書とも言うべきフィクション『ソフィーの世界』のベストセラーである。
 これら三つについては各人各様の切り口があって、未だに、論評され続けている。私なりの切り口で言わせてもらえば、今も印象的な形となって残っているのは次の点である。即ち、「阪神大震災」では、被災者によってヘリコプターの報道人に訴えるべく地面に大きく書かれた「水をください」という文字、「オウム真理教事件」では、これまでの常識人ならば「あってはならないこと」、「してはならないこと」と自戒している事柄が信者によってはこともなげになされうるという事態、「ソフィーの世界」では、今更何で「自分って何?」、「自分ってどこから来、どこへ行くの?」との問いかけが殊更に世間の耳目を集めたのかという思いである。
 落語の三題噺ではないが、これからの私の話の展開においては、これら三つの点が常に至るところで潜んでいる。本章におけるテーマは、一言で言えば、「人間とは何か」という最も陳腐なそれである。そして、したり顔の傲慢な印象を持たれぬように、もう少し敷衍させてもらえば、とりわけ私は行為する存在としての人間に焦点を絞って、これまでみんなに語られている用語を私なりに解釈して、平和を願おうとするいわゆる「人間」の諸相について明らかにしてみたいと思うのである。
 このエッセイ集の『近代進化思想についての素描』の中で、私は「人間という言葉は自己に関わる視野をどこまで持つかによって決められる」と言ったことがある。そこでは、人間の自己中心性について述べていたのであるが、ここではそれを引き継ぐ形で話を始めよう。その端的な例として、「人間とは何か」の答えを導出する経緯である。
 まず最初に出てくる素朴なものとしては、己自身の持つ形態的特徴を同じくする存在を人間と見なそうとすることである。つまり私と同じ形、同じ色をしているものが人間なのであった。次いで私と同じ仲間、同じグループと言われているもの、そして私と同じ振る舞い、私と同じ考えをするものが人間なのであった。当然、その場合、その人間は自己意識を持つ価値ある私と同じ状態にあると私によって認定されるが故に、人間としての存在価値を持つとされているのである。おそらくこれは、後で述べるように、意識的存在ならではの人間のなすところの「自己主張」のごく自然な現れなのだろう。
 周知の如く、人間を示す学名は「ホモ・サピエンス(Homo Sapiens)」である。「賢い人」という意味である。別に命名者である生物分類学者リンネを咎めるつもりはないが、「賢い」とはそれこそ人間の傲慢さを示す言葉以外のなにものでもない。何をもって「賢い」と言うのか。どんなに言いつくろってみても、所詮それは、人間だけが行うことができ、動物には行うことのできない行動形態を形容するために使われる言葉なのである。その上に、人間の都合によって、それはよいことなのだと勝手に値踏みされた結果の婉曲的な表現なのである。実は「賢い」と「愚かな」とは、同じ事象に対しても形容されうると言った意味でも対等であると言ってよい。ところが人間は自己自身の行っている行動を指して、まじめに「愚かな」と形容をすることが出来なかったのである。
 何故に人間はその行状から「ホモ・サピエンス」と命名できても、愚かな人を意味する「ホモ・ストゥピドゥス (Homo Stupidus)」と命名できなかったのか。なるほど、過去には人間を愚かな人と心底思わなくても、人間の愚かさについて述べている書物はあった。エラスムスの『痴愚神礼讃』はその古典だろう。それでもこの書物は諧謔もしくはシニズムでもってはぐらかしているのだ。人間の愚かさについては語れても、人間を愚かな存在と決めつけられないのは、まさに人間の自己中心性の証左である。その結果、人間は一人芝居によって自縄自縛に陥ってしまっているようでもある。それらについて学問的に詮索することも、「人間とは何か」の問いかけに答える一つの視点ではあろう。
 どちらかと言えば、私自身の「人間とは何か」の問いかけも、その視点に拘ってはいる。だが、私は人間を「ホモ・ストゥピドゥス」とまで言い切るだけの勇気はない。せいぜい私は、すでに生物学の世界でホモ・サピエンスとアメーバーとが同じ生のメカニズムを持っていることが証明されているという話に便乗して、あらゆる生物種の中で人間だけが特別な存在であると断定しようとするのではなくて、むしろ逆に、人間とは、生きるという点においては、他の生物種と少しも変わらぬ存在であることを確認しようとするだけのことしかできないのである。


   T 「人間」という観念の誕生について

 さて、「人間とは何か」のテーマは、冒頭で最も陳腐なそれとして位置づけたが、実はそれは、人が人である限り、永遠に問われているテーマであることは誰もが知っている。何故に人はそう問い続けるのか。人をしてそのように問いかけさせる性質のものがあるのか。あるとすれば、それは、一体、何であり、又それはどのような形で具現化されているのか。このエッセイ集のはじめでも、私は「人間とは何か」について話したが、このエッセイにおいても、別の観点から考えてみようと思う。
 おそらく、人は意識的存在である限り、何かをしようとする際には、己の行動を受け入れてくれる場を想定し、自らの意思をその中に組み入れようとするに違いないだろう。その場とは、人が自己主張するための枠組みとして行為するに当たって不可避的に関わってきているものだと、私は思う。言い換えれば、人はその場という枠組みを作らなければ、「人間」としての行為をなしえないと言うことになる。その場こそわれわれをして「人間とは何か」と問いかけさせる性質のものなのである。丁度それは、人が認識する上において、カントが感性的直観形式として名づけたところの時間や空間に当たるものと見なしてもよいだろうか。が、これについては読者はすでに気づいている筈である。その場について、私は「人間的存在領域」なる言葉を使って、再三再四、語ってきたからである。
 人が意識的存在であるということは、生物としてのヒトの営みを特異なものにしているとよく言われる。実の所、認識作用にせよ、行為にせよ、その特異性は意識の特性によって規定されているのである。周知のように、意識が実体的なものとしてあるのか、機能的なものとしてあるのかについての論議はよくなされるところであるが、最近の動向としては、意識は常に何かに向けられていると言われるようになってきている。つまり意識は志向性を本来的に持っているものとして考えられてきているのである。
 そこで、その向けられた先が外のものにあった場合は、実在的なものであれ、観念的なものであれ、「対象」として措定され、われわれの認識に供されるのである。だが意識とは常に外に向けられているとは限らず、内のものにも向けられてこそ、意識なのである。意識の志向性が外のものへとのみ、もしくは内のものへとのみ、一方的にあるとする場合、厳密には、それは意識とは言われぬ他の何かである。少なくとも人の意識(そして許していただければ生き物の意識)ではないだろう。それ故に人における意識の志向先が、それこそ時計の振り子のように、可逆的な形で変更されていくところが、意識的存在としての人の生の営みの特徴であると言えよう。
ところで、意識が内に向けられるとは、一般的には「自己意識を持つ」ことだと言われている。それはいかなる場合なのか。私は意識が内に向けられる、言い換えれば自己意識を持つということと人間が行為の態勢に入るということ、もしくは自己主張しようとすることとは同じ事柄であると思う。少なくとも、人は人間として行為するために自己意識を持つのである。あるいは自己意識を持ってこそ、人間として行為ができるのである。(もちろん、ここで言われる「行為」とは単なる行動ではなく、行動という言葉をあえて使うとすれば、意志的行動の謂であるが。)
 M・シェーラーの言葉を借りるまでもなく、「自己意識を持つ」とは人間としての存在条件の一つによく挙げられる。それはある意味では正しいだろう。しかしながら、自己意識は人間だけが持つのだと言うことによって、他の同じ生き物との質的差異性を強調するのは、人間は神であると言っているに等しく、独りよがりも甚だしいだろう。何故ならば、意識とは常に識閾上にあるものだけを指しているのではないからである。俗に言われる潜在意識も又意識なのであり、無意識の内に行うという、その場合の無意識も厳然たる意識だと思うからである。これが可能なのは、意識とは常に生命の流れとして連続しているものと見、「意識している」とは生命持つものすべての一種の身体的反応であり、ウィリアム・ジェイムズ風に言うならば、「呼吸している」に照応するものでしかないからである。
 ともあれ、今ここでわれわれは、「人間とは何か」の問いかけは行為との関連性を抜きにしては生まれ得ないことを知った。人間は行為する限り、その問いかけは不断になされていたのである。もっとも、「人間とは何か」という形での問いかけは、日常生活の中で行為しようとするに当たって、初めから浮き彫りにされ、いきなりなされるわけではなかった。この問いかけは、最初は行為をなそうとするところの「己とは何か」、「私とは何か」という形でなされていた。つまりは、その問いかけによって人間は行為に入る前段階としての自己存在の確認とそれによる行為への可能性の確信を持つようになるのである。
 「人間とは何か」の問いかけは、言わば自己存在の確認がなされたあとの確認補強のための営みとしてなされているように私には思える。自己という存在が人間という存在へと投射されることによって、又見方を変えるならば、自己が「人間」という形に限定されることによって、行為しようとする自己の足場をより固めようとするのである。
 もちろん、そこに至るまでには、幾つかのプロセスが介在している。もともと行為するためとは言え、その足場固めである「己とは何か」の問いかけも又常に顕在的であるとは限らないのである。だが、潜在的であっても、人間の場合、行為と言われる限りは、その問いかけはなされているのである。それが顕在的になるのは意識の志向性によるのである。
 そもそも「〜とは何か」なる問いかけ自体、すでに「〜なるもの」を意識の焦点的対象としているわけである。それは認識の対象としようとしていることと同じなのである。その場合は「〜なるもの」は通常外にあるものとされているが、それらがすべて唯物論的に言うところの「実在的なもの」でなければならないとする根拠は少しもない。それどころか、私の考えでは、いわゆる「観念的なもの」も含めるところにこそ意識の志向性の特質があるのである。更に言えば、意識は志向性を持つと同時に、観念構成能力でもあると言える。志向しつつ観念を構成していく、それが意識の特徴である。意識は外に向けられる場合は、事物を対象化し認識に向かうが、それは事物の観念を作ると言うことと同じ意味である。そして内に向けられる場合は自己の観念を作るのである。それ故に、自己とは常に自己の観念以外のなにものでもないのである。
 この考え方は以下の素朴な疑問にも答えていることになろう。即ち、行為をするためには自己の存在確認をしなければならないことは分かったとしても、そのために「己とは何か」と問うのは自己を認識の対象とする以外のなにものでもない。そうなると、意識の側からすれば、意識は内なるものに向かっていながら、外に向かっていることになり、言わば矛盾に逢着する。自然的事実として考えれば、それはありえないのではないのかなる疑問にである。
 もう少し付言すれば、この素朴な疑問は意識をあまりにも実体的なものと決めつけるところに起因している。どちらかと言うと意識は在るのではなく、働いているのである。あえて実体論的な考え方を採る人のために言えば、意識は外に向けられている場合は内なるものの役割を果たし、内に向けられている場合は外なるものの役割を果たしているにすぎないのである。この時「己とは何か」が問われているとき、(再三再四言うように、それは行為の態勢にはいるためではあるが)意識が内に向けられるのは、自分というものを客観的に認識するためではなく、行為がなされようとする世界における自分というものの位置を確定するためである。言い換えれば、自分というものをかくかくしかじかなるものと了解するためなのである。
 その意味では、心理学的な手法であるもう一人の自分を見立てたり、ドイツ哲学の常套手段である絶対に対象化されない主観を想定したりするのは、あまりにも客観的に、もしくは普遍的なものとしての自分を知ろうとしているからであり、実体論の亡霊に脅かされているとしか言えないように、私には思われる。
 ここでわれわれが自己への問いかけを焦点的対象とすることが、一般的には「哲学する」こと、少なくとも「哲学する」ことの一つであると言われているのは、よく知るところである。その意味では私の立場は、哲学することが、普通言われているように、在るものを正しく認識するだけであるとはしないのである。認識は即ち事物の観念づくりなのであり、しかもそれは、常に行為のためにあるとするプラグマティズムの立場を採っているのである。
 この際、私は認識という言葉の意味をいわゆる科学的認識としているだけでなく、了解あるいは認定の内容を含めたものとして受け取っていることを伝えたい。しかも、在るものについての了解もしくは認定ではなく、行為へと導く場合は、自らが作り出したものについての了解もしくは認定を指す言葉使いとしても認識と言っているのである。
 これが先に言うところの補強の営みの一つとなっているのである。何故ならば、意識が内に向けられた対象、即ち「自己」とは観念的なものとして認識された自己以外のなにものでもなく、この自己が行為への道を切り開くからである。言い換えれば、「観念的なもの」として自己が位置づけられることによって、視点を変えるならば、観念的な自己が作られることによって行為の足場が固められるのである。
 さて、続いて生じる問いかけ、即ち「人間とは何か」の問いかけも、詮じつめれば、行為の足場を更に固めるための道具的な働きをしている。ここにおいて問われる「人間」も、当然のことながら、観念的道具のようなものである。それまではどちらかというと、曖昧模糊の状態にある自己のイメージを具現化し、限定したものが「人間」となるのである。
 その「人間」とは、手の延長と言われる「道具」、しかも何かをしようとする際に、それを最も適えてくれる道具のようなものである。手としての自己の延長線上に道具としての人間があるのである。敷衍すれば、行為しようとする自己は、それを適えてくれるべく固有の足場を作るのであるが、その中で最も適えてくれる足場と思って各種の「人間」を設定しているのである。従って、役に立たなくなった道具は捨て去られてしまうように、「人間」という観念的なものも又捨て去られる運命にあるのである。
 もっとも、これまでの私の進め方では、「己とは何か」の問いかけがまずなされ、次いで「人間とは何か」の問いかけがなされると言うように、時間的経緯を追う形で述べられている観があるが、実際は、これら二つの問いかけは同時進行的である。
 それはいかなる点においてであるのか。ここで注意せねばならないのは、いずれの問いかけの場合にも、なされる行為は同一の主体によってなされているということである。してみれば、これら二つの問いかけは同様に行為主体の存在確認をしている点では、見方の違いだけの話しで、同じ問いかけであったとも言えるのである。
 その趣旨で展開するとするならば、「己とは何か」の問いかけは自己の存在の形式面での確認をめざしているのに対し、「人間とは何か」の問いかけは自己の存在の内容面での確認をめざしているのではないだろうか。前者では、意識が内に向かいつつ「考えている状態」、「欲している状態」、「望んでいる状態」となり、その結果、デカルト流に言うならば、「われ考える、故にわれあり」、「われ欲する、故にわれあり」、「われ望む、故にわれあり」の形で落ち着くのである。もちろんここで、ただ考えている自己、ただ欲している自己、ただ望んでいる自己は考えられない。人間存在の場合は、常に何かを考え、何かを欲し、何かを望んでいるのは言われるまでもない。それは意識の志向性が単に志向しているのではなく、何かに向けて志向していることに基づくものであるからである。
 このことが「己とは何か」の問いかけが後者の「人間とは何か」のそれと不二の関係にあるゆえんである。「人間とは何か」の問いかけは、実は、自己の存在に内容を吹き込むための営みであると、私には思える。つまり、自己がどのようなものとしてあるのかについて具現化するためになされるのである。この「〜としてある」は決して単に事実を事実として受けとめるの謂ではない。行為する主体としての自己を考える場合は、「〜としてある」は理念として打ち立てられているのである。言い換えれば、意識が内容を持つようになり、それが表象化され、知覚化され、観念化されたのである。それが己の存在に内容が吹き込まれることを意味しており、言わば自己は内容が吹き込まれることによって初めて自己として確認されるというのが、二つの問いかけが不二の関係にあることを示しているのである。
 ここからわれわれは、この「〜としてある」の「〜」がまさに自己を人間として位置づけた証であることを容易に察知できよう。そしてこの「〜」が自己をして「何か」を考えさせたり、欲しさせたり、望ませたりするとも言えよう。「何か」は「〜」によって自ずと規定され、目指されたものであったのである。分かりやすくするために、先程の比喩を使うならば、手が金槌を握っているのなら、くぎを打とうとしていることが分かるように、手なる自己は金槌なる人間となることで、釘を打つという行為への道を具体的に切り開いていっているのである。
 ここで注意すべきなのは、人は己の行為の都度に「人間」となっているのであって、人間存在それ自体なんてものはないし、又普遍的な形でその存在条件を持っているのではないということである。その意味では、人間存在とは一過性の存在である。(私の論理からすれば、己自身も一過性の存在になることになるが。)人間が、従って私自身が同じ考えをし、同じ意志を持ち、同じ希望を抱いたとしても、繰り返されていると言うだけの話しであり、その期間が長いからと言って、又他の人も同じことをしているからと言って、普遍的に妥当する「人間存在」はあり得ないのである。これからの話しの関連性で言うと、「人間の本性」について言えば、観念的普遍的なものとして考えられ、求められ、信じられたとしても、それは「人間の本性とされたもの」として、行為する世界の中で、私が一時的に作り出したものなのである。  
 以上が「人間とは何か」についてこれから私なりの考察をする上での基本的な観点である。もちろん、この観点が人間存在についての事実に基づいた説明なのだというつもりは毛頭ないし、これも又私によって了解された「観念的なもの」でしかないことをあらかじめ伝えておきたいと思う。


   U なぜ「人間とは何か」なのか

 曲がりなりにも「哲学」の授業をして糧を得ている私は、かつてその授業の中で、「生きるとは何か」をテーマに学生に考えさせ答えさせたことがある。もちろんそこでの私の意図は、生きるに値する人生の指針を若い学生に模索させることにあったが、同時に高邁な精神による学生の答えを期待するものでもあった。大抵の学生は未熟ながらも、それぞれに自分の夢を膨らませて、そのテーマに答えてくれたが、その時に東南アジアから留学してきた一人の学生の答えは、私には終生忘れることのできないほどの衝撃を与えた。彼は次のように言ったのである。「喰うことです。それ以外にはありません。」
 私には、この時、日本の学生のモラトリアム気味の、それでも多少は私の問いの趣旨を理解した答えには批判できても、この留学生の答えには、それは哲学の授業での答えではないと、どうしても言えなかった。しかし内心では、生きるための努力という点では、それなりの夢を語った日本の学生によりも、現実を伝えた留学生の方に軍配を挙げるべきなのかと忸怩たる思いがあった。何故にそんな思いをしていたのか、そのときの私には分からなかった。
 今にして思えば、少なくともこの留学生にとっては、「人間として生きる」ために喰うのではなく、生きることの証が喰うことなのであり、そしてその喰うために働く、それがこの世に生を受けた人としての当然の振る舞いであり、それを認めるのが哲学であると、文字通りまじめに認識されていたのであろう。とかくわれわれは「生きること」にも殊更に意味を与えたがる。人はただ「生きる」だけの存在ではないとの思いがそうさせているのである。その思いが人間の本性から必然的に導かれる業であるのか、それとも、「生きること」に余裕を持った人のみに与えられた遊びのようなものであるのかの詮索はともかくとして、そのときの私には、はっきりと、生きることに意味を与えたがるその傾向性があったと断言してよい。
 その傾向性は今の私の心の中にも巣くっていて離れない。だから、その留学生は言うに及ばず、他人が、自分の生きる目的が喰うことであると平然と言っている場合には、寸時にしてその人を差別し軽蔑してしまう衝動に駆られてしまう。もはや、その傾向は私の体そのものを支配していたのである。
 一般的に、生きることが喰うことだけにあるのではなく、人間にとって特別な意味を持っているとの言いぐさは、そのことによって人間とは特別な存在、従って私もまた特別な存在であると誇示したいからなのであろうか。もしも、それが私の矜持としてあるとするならば、生きることと喰うことが同じになるような時代の到来があった場合にでも、特別な存在であり続けようとするだろうか。そしてその傾向性なり思考習慣なりに、多少なりとも後ろめたい気持ちを残しているのなら、生きるとは喰うことであると言ってはばからない人にも、それは立派な一つの生き方であると高言するだけの柔軟性を持っているのだろうか。はたまた、すべてそのように決めつけてしまう態度にも、無意識のうちに己を特別な存在であるとすることの現れではないのかとの思いもあるのである。
 では、このような私は謙虚で反省的な人間であるのだろうか。この物言いの中にも傲慢さが隠されていると私は思う。謙虚で反省的な態度は、己が特殊な存在であるにもかかわらず、それを普遍的なものへとするための所作、あるいは己が特別な存在であることに真なり、善なり、美なりの意味付けをするための所作にすぎないのかも知れないのである。要するに、今ここで私がしていることにお墨付きを与えたいのである。そして、そのように振る舞っている私こそ、又、他の人もそのように振る舞っているに違いないと信じている、あるいは振る舞わねばならないと思っている私こそ、まさに「人間の本性」を典型的に現しているのだとしたいのかもしれないのである。
 さて、本節における実に長い前口上は、「人間とは何か」の考察をするに当たって、自己の存在確認を内容面で行う具体例を私のケースでもって示したものであった。ここで思うに、留学生にしても、私にしても、自己の見解を披瀝するに当たっては、それなりの歴史的背景及び自己が当面する特殊的状況があったのは確かである。それらによってわれわれは行為へと導く固有の「世界観」言い換えれば「人間観」を持つようにしむけられていたのである。
 このことは何を意味するのかと言うと、人間がかくあるものと見なされるのは、自己の位置確認と状況確認がなされるためであり、しかもそれは無原則的ではなく、常に己の「世界」においてであるということである。「世界」とは前節で述べた「人間的存在領域」のことであり、それは感性的創造形式と言ってもよいものである。それについて更に敷衍すれば、それは認識における時間や空間としての直観形式に対応しつつも、それらを行為の視点から包摂した形式である。ただし誤解を避けるために言えば、世界とは実体的なものと見られているのではなく、あくまでも「場」として見られているということである。
 言い換えれば、自己を含み込む全体としての、従って自己はそれの部分として位置づけられると言う意味での世界ではないということである。その意味ではこの場としての世界は自己の主張に合わされるようにして配置され、しかも可変的である。従って行為の視点から見れば、時間は時間の感じであり、空間は空間の感じであり、伸縮自在の様態を持っているのである。
 ここでわれわれはやっと本テーマの最後にして中心の部分に入っていく。即ち人の行為を方向付けるところの人間の本性とされるものとは一体何であるのかの考察である。その際にわれわれが留意しなければならない点が二つある。一つ目は、人が意識的存在としてのみあるわけではないと言うことである。人は同時に身体的存在であり、又物質的存在でもあるのである。言い換えれば人は何らかの形でそこからの規制を受けつつ意識的になっているという意味では、歴史的存在なのである。二つ目は、人の意識性はまごうまでもなく生命現象である以上、意識の射程領域とそのレベルは人の身体性と物質性に依存すると言うことである。と同時に、そのような留意点を設けているという事実も又、すでに現代的視点に基づいている現れなのである。
 それでは、これまでの論議の展開を受けたならば、人は行為する際に、いかにして自己を人間として位置づけていくのかについて、具体的に考察してみよう。私はおおざっぱに言って三つのパターンに分類できるのではないかと思う。主としてそれは人に現前し認識の対象となるものの在り様によって決まってくるのである。まず私はそれを「環境」と呼ぼう。三つのパターンとは三つの環境があるからである。即ち、自然的環境、人為的環境、そして身体的環境である。次いで概括的に言えば、それらの環境内の存在として、環境内において認識対象となったもの、あるいは環境を特徴づけるものに「投射」することで自らの行為の基点を設けるのである。
 (付言すれば、最近、自然科学者サイドからHDP(Human Dimensions Program)と称する切り口で環境問題への取り組みの必要性が叫ばれているが、ある意味では、私はそれをここで実践しているようでもある。ただしHDPとは、日本の自然科学者が言うように、環境についての「人間的・社会的側面」の研究ではなく、環境における「人間的存在領域」の研究であると見るのが正しいだろう。)


   V 三つの人間観について

 では、最初の自然的環境についての場合はどうか。ここでは動物分類学上で言われている「脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・ホモ科・ホモ属・サピエンス種」を指して人間というのだとする科学的定義については一応省く。何故ならば、今私が話しているのは、意識的存在として人はどうあるかを、従って行為へと導く動機形成を何に求めるかについてを問題としているからである。
 この視座のもとでは、自然における個々の存在はまさに感覚器官を通して自己に現前してくるだろう。太陽や星、山や海、雨や風、花や動物、そして人や人の作ったものなどである。おそらく最初はその現前してくるものそのものが自己であっただろう。やがて自己はそれらがどのようなものとして機能しているかが分かってくる。そこで自己は行為しようとする場合にそれらに投射するのである。例えば自己は太陽や山や花になり、それらを行為の基点にするのである。おそらくこの場合の自己意識としては、自己はそれらの化身であるかのように、あるいはそれらの申し子であるかのように、それらの持つ機能を引き継いだものとして位置づけているだろう。自己にとって人間とはまさに自己の考えたり志したり願ったりする方向にその都度応じ働いてくれる自然における個物として位置づけられていたのである。
 人類史的に見れば、それは人類の初期の段階でよく考えられた人間観であるとは、一般的によく言われているところであるが、むしろ私はこの考え方は人間の考えのルーツであると思っており、その意味では今日においても繰り返し変様した形で取り入れられているのである。ここで大事なのは「感覚器官を通して自己に現前してくる」という言葉の方で、その条件のもとに、人に備わっているところの観念構成能力(想像力)を働かせることによって、自己は自然的環境にあるなにものにもなりえたのである。それ故に、「人間」とは、言い換えれば人間の本性とは、昔からある古里の山であっても、百年経ったおじいさんの古時計であっても、最終解脱者と自ら言っている現代人であっても、あるいは高性能のコンピューターであってもよいわけである。
 二つ目の人為的環境についての場合、それはわれわれが一般に社会とか組織とか言っているものを指していると考えてよい。そこでは人間と人間との関係が何らかの観念の共有によって形成されており、従って人間観は社会的関係の中から生まれてきている。厳密に言えば、これも第一のパターンに入れられるべきもの、即ち人や人の作ったものの一形態にすぎないのであるが、純粋に「感覚器官を通して自己に現前してくる」のではないという点で異なっている。ここで人間観を披瀝するに根本的に影響を与えるのは「社会形成原理」である。言い換えれば、その社会なり組織なりがいかなる目的を持っているか、又いかなるビジョンを提示しているかによって、人間観も又様々に変わってくるのである。
 この時、人間はその社会なり組織なりにあって、それらに備わる「美徳」の担い手として、それぞれの役を演じる存在として位置づけられるのである。人はその役を演じることで人間になるのである。このマクロな意味での例としてわれわれは、例えば「ホモ・サピエンス」、「ホモ・レリギオスス」、「ホモ・エコノミクス」と言った如くの「〜的人間」の言い方、又「忠義の人」、「正義の人」と言った如くの「〜の人」の言い方を思い出せばよい。それらは人間的と言われる特徴の一部分を取り出しただけにすぎないのであるが、社会なり組織なりにおいて、己はその人間の役を演じることで己を人間と見なしているのである。もちろん、会社などにおける社長とか出納係とかのような地位や身分を示すようなものも又ミクロな意味での例として、人間を示す具体例となりうるのは言われるまでもないであろう。
 これらについてカリカチュア化するのを許していただければ、そのさまは、さながら、劇場に集まる人の群を彷彿させる。彼らは芝居に何らかの形で関わろうとした人達である。その芝居がなされているという世界にあって、あるいは同じことだが、芝居をなそうとする世界にあって、劇場という人為的環境の中で、観客も含めて、それぞれの人が芝居を成立させるための美徳なる特性を担って、それぞれの役割を果たしているのである。
 三つ目の身体的環境での人間観について述べる際には、われわれが了解しておかなければならない点があるかと思う。それはわれわれの身体が、自然的環境や人為的環境と同様に、環境の一つとして数え上げられるのかどうかについてである。もちろん私は数え上げる方に与する立場である。というのはそれは、身体についての解明が心理学や生理学や分子生物学を通じてもなされるようになったのに呼応して、環境という言葉が、単に生き物が棲息する外界を意味するだけではなくなるようになってきたこと、またその機能性と環境内存在との相互依存的関係性から見て、身体が自然的環境や人為的環境と同様の働きを有していると見られるようになってきたことからである。あたかも、個体と自然的環境が、又個人と人為的環境が、相対しているように、行為する主体にとっては身体的環境が相対しているのである。この場合の行為する主体とは「個我」といってもよいだろう。あるいは心理学的に使われる意味での「自我」として了解してくれてもよいだろう。
 これまでの人間の歴史において身体の存在が重要視されてこなかったのは紛れもない事実だった。精々のところ「人間の英知」を入れる入れ物であり、その操り人形のようなものだった。近代になって、デカルトの言に見られる如く、人間を位置づける二つの構成要素の一つとして位置づけられ、その働きも注目されるに至ったが、それとても突き詰めれば、機械の働きに相当するものとしてしか認められなかった。丁度人間にとって自然が支配の対象と見られた如く、身体は精神の操作の対象でしかないと思われていたのである。もちろんそれは近代の自然科学的姿勢がそうさせたのであるが、皮肉にも、先に挙げた諸科学が身体のメカニズムを探っていく内に、そのアイデンティティーをもって私のいうところの「個我」との関係性を迫っていることに着目することとなったのである。身体も又身体的環境と言われうるに至ったのである。
 その考えの延長線上に立って言えば、人は己自身をいかにしてその身体的環境において人間と見ななすに至るのであろうか。端的に言って、人は己の身体の運動を通じて初めて己が「生きてある存在」であると見なしうるのだと私は考えている。人為的環境での流れで言うならば、文字どおり己自身は「ホモ・ビオロジカス」として了解するのである。但しこの場合の「ホモ・ビオロジカス」とは、R・G・テイラーの言うような「己の生物学的特質を自由に出来るヒト」の謂ではない。確かに、一見したところ、手が私の手として、又足が私の足として、私の意のままになるさまから、「生きてある存在」であることをかみしめさせるかのようにも見える。そのように見るのも一つの解釈であり、私はそれを否定しない。テイラーの定義も含めて、そのような見方は自然科学的な見方であり、行為しようとする個我の思い上がりを導出する以外の何物でもないのである。
 だが、身体は常に私の意のままに動いているのではない。身体は独自のアイデンティティーを持っているのである。身体は私の意に対して受容範囲であると認定して応えてくれているだけだったのである。「生きてある存在」とは、まさに個我と身体が共生関係にあることをかみしめるところから生まれるものであるというのが、ここで私の考える人間観であったのである。これは身体を一つの環境としてみようとする姿勢からは当然の帰結と言わねばならないのである。ここでは、己は「生きてある存在」として人間になるのであるが、その実態は「共に生きてある存在」であり、究極には「生かされてある存在」へと向かう自己意識的存在であるのである。


   W 結語

 さて、三つのタイプの「人間観」を見るに、人はその三つの環境のいずれかにおいて自らを人間と見なすかの如くに見えるが、実際はその三つの環境のいずれにおいても人間と見なしているという点である。その意味では、行為の際に確保される人間的存在領域においては、三つの環境は、二次元的に言えば、重ね合わされており、意識の焦点的対象がどこにあるかによってその一つがウインドウズ画面のように前面に押し出されてきているだけにすぎないと私は思っている。
 再三再四述べるように、私はこれまでに人間とはいかなる存在かについて事象として説明しようとしてきたのではない。存在が意識的である場合に、その存在が自らの働きをしようとして、いかなる基点を設けるのか、その始まりであり進み先でもある拠り所とは何であるのかを模索してきて、「人間」という名の諸相をかいま見てきただけなのである。
 私の思うところ、「人間」とは結局は意識がもたらすところの虚構でしかない。意識がなすのはすべて虚構である。しかしその虚構はリアリティーを持つ虚構である。あるいはリアリティーを作る虚構である。そのリアリティーは、それを感じる仕組みから言えば、今はやりのバーチャルリアリティーと少しも変わらないのである。そしてホモ・サピエンスであるヒトは人間という名の虚構を設けなければ、自らの行為をなし得ないと言うところに、種々のディレンマに逢着させられているのである。
 その意味では、人間は意識的存在として了解する限り、ベーコンの言うところの「イドラ」の業から逃れられない存在であるのかも知れない。ベーコン自身は人知による自然支配を目論んだために、「イドラ」に対してマイナスの価値を与えたが、この人知によって環境としての自然をいわゆる無機化してそれを支配するというイドラにとらわれなかったならば、彼の挙げた四つのイドラは、よいか悪いかの判断を時代精神に任せるとすれば、まさに具体的に生きようとする人間の行為へと導かれるパターンを鋭く記述したもの以外の何物でもなかったと私は思う。
 周知の如く、「人間とは何か」について専らに追求し、いわゆる「人間学」への橋頭堡を築いたのはカントである。しかしあれほど「存在根拠」に拘ったカントが、人間を理性的存在者にと位置づけるに際しては、聖書の「創造説」と変わらぬ論法を採用しているのは、「ヒト」としての存在性に無知であったからである。はたしてカントの言う理性が神から与えられたとか、事実備わっているのだから認めざるを得ないとか言うことですまされるものだろうか。カント以降、「人間学」がシェラーを経て、プレスナー、ゲーレンと継承されていくに連れ、環境との関係性のもとに見られる「ヒト」としての存在性が重視されてくるのはけだし当然である。もっとも、私とても意識的存在としての人間を前提にしている観があり、意識の由来について不問にしているので、偉そうには言えないが、意識が、神経細胞の活動そのものとは言えないまでも、身体の生理的メカニズム以上の何物でもない点には固執している。それ故、私の「人間観」もその制約を逃れられないと思っている。
 いずれにしても、私の「人間観」においては、前章の『人類は生き残れるのか』でも触れたように、人間とは「それ以上のこと」に拘り、「してはならないこと」にも挑みかかる存在である。それはまさに過剰補償メカニズムとしての「観念構成能力」が環境との相互作用によって働いたからに他ならないが、そのことで人間の行為への契機が与えられたとしても、行為そのものの価値を自ら補償することにはつながらないのである。それ故に、人は自らを補償しようとして、「それ以上のこと」をしたり、「してはならないこと」をしたりする。しかし、そのことが許されたとしても、それはお釈迦様の手のひらに乗っている限りでの話しでしかないのである。
 この理由について、先程の三つの環境での場合に照らし合わせて、私見の形で述べて本書をとじたいと思う。まず自然的環境で人が想定する人間とは、言わば自然的個物あるいはその複合物の鏡像のようなものであるからである。比喩として言えば、キャンバスに描かれた絵のようなものである。そのような人間は贋物とは言えないまでも、所詮は模倣されたものでしかない。それ故に模倣されたものがなす行為も又自然的環境のメカニズムの模倣でしかないのだとの思いを絶えず招来しているのである。
 次に人為的環境で人が想定する人間とは、その環境において形成されている原理や美徳の担い手なのであるが、実際にはその代行者としてあるからである。ここでは、環境の意識的維持が目論まれているために、代行者としての任を果たすことが自己目的化されており、ただ筋書き通りにその役を演じるだけではないのかとの思いを招来しているのである。
 最後に身体的環境で人が想定する人間とは、命の所有者としてではなく、命を一時的に預かり、借用するだけの存在としてあるからである。確かにそこでは身体を通じて自らを生きてある存在として確認するのであるが、言わば身体の許容する限りで命を受諾しただけのものでしかないのだとの思いを招来しているのである。
 ここで謳われている人間、即ち模倣するだけの存在としての人間、代行するだけの存在としての人間、そして受諾するだけの存在としての人間において共通しているのは、出自自体が依存的であり、いわゆる「本物」の存在であるとは言い得ない点である。別の見方をすれば、常に仮の姿あるいは一時的な姿をとって行為しており、しかもわざと「本物」であるかのように装っているということである。にもかかわらず、いつしか贋物が実物とされ、演技が実技とされ、借用が所有とされてくるのは、意識の志向性の反復によるのである。だからこそ、人間は「本物」の証を求めるために、絶えず「それ以上のこと」をし、「してはならないこと」をしようとしたりするのだとも言えるが、それは明らかに「錯誤」もしくは「思いこみ」によっているのである。
 私から言わせれば、それはホモ・サピエンスとしては自滅の道を方向付けることでもある。それは人類の平和への道を阻害することでもある。確かに、人間として何をやっても、それは仮の姿としての行為でしかないとの認識によって、その元にある己自身の拠って立っているところを絶えず喚起させようとするのは、観念を構成することによって生きようとするホモ・サピエンスにとっては致し方のない話ではある。意識的存在であればこそ、その認識を払拭しようとするのであろうが、そのことが逆に、人間は虚構の中でしか生きられないことを証明しているのである。その虚構の中でしか生きられないのに、それをもって「賢い」生き方なのだと自画自賛しているようなら、いっそのこと、われわれは「人間」の終焉をいさぎよく認めた方が、むしろ「賢い」ホモ・サピエンスの平和を築く第一歩となるのではないだろうか。


   参考文献

Y・ゴルデル『ソフィーの世界』(池田香代子訳、NHK出版、1995年)
H・ガイヤー『馬鹿について』(満田久敏・泰井俊三訳、創元社、1958年)
エラスムス『痴愚神礼讃』(渡辺一夫訳、岩波文庫、1954年)
M・シェーラー『宇宙における人間の地位』(亀井・山本・安西訳、白水社、1977年)
三橋浩『ジェイムズ経験論の諸問題』(法律文化社、1972年)
F・ベーコン『ノーヴァム・オルガヌム』(桂寿一訳、岩波文庫、1978年)
A・ゲーレン『人間』(平野具男訳、法政大学出版局、1985年)
F・クリック『DNAに魂はあるか』(原題『驚異の仮説』、中原英臣・佐川竣訳、講談社、1995年)
T・ギロビッチ『人間この信じやすきもの』(原題『人はなぜ間違った信念をもってしまうのか』、守一 雄・守秀子訳、新曜社、1993年)
大江健三郎『日本の「私」からの手紙』(岩波新書、1996年)


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