第2部 これからのホモ・サピエンス像

        ホモ・サピエンスの行方


   はじめに

 1970年、ということだから、今からおよそ30年も前のことなのだが、「いかなるイデオロギーにも偏せず、特定の国家の見解を代表するものではない」という趣旨のもとに設立された民間組織である「ローマクラブ」は、「人類の危機」レポートとして 『成長の限界』と題する書物を刊行し、次の三つの見解を世に訴えた。
 @ 世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来たるべき100年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は人口と工業力のかなり突然の、制御不可能な減少であろう。
 A こうした成長の趨勢を変更し、将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態は、地球上のすべての人の基本的な物質的必要が満たされ、すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。
 B もしも世界中の人々が第一の結末ではなくて第二の結末にいたるために努力することを決意するならば、その達成をするために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう。
 この民間組織が下した結論が、彼らの自負するごとく「きわめて大きな影響を伴い、かついっそう立ち入った研究を要するおびただしい問題を提起している」のは確かに一つの事実ではあろう。これらの見解が示された当時は、世界情勢としてまだまだイデオロギーによる価値観が幅をきかせていたので、この組織がブルジョワジーおよびそのもとで恩恵を受けていた人々によって構成されていたところから、一つの陣営からは手厳しく批判されたのであるが、他の陣営からは、19世紀のバイブルがマルクスの『資本論』というのならば、これは20世紀のバイブルに等しい指針だとして殊更に持ち上げられたというような記憶が私にはある。
 もっとも、あれから時間もたち、ソ連邦も解体されるなどして、よりクールに見れるようになったわれわれの立場からすれば、この「ローマクラブ」の見解は、後に様々の批判を内部からもまきおこしたとしても、一様に耳目を集めさせ、21世紀への起爆剤になったという点だけは素直に認めてやるべきではあろう。
 言うまでもなく、現在のわれわれは大宇宙の中の地球という惑星に存在する一生物種である。そしてたかだか3百万年の生をながらえる中で、「ドミナント・ママル」として生物界の王者を僭称するようになったのであるから、この「ローマ・クラブ」の見解もまた、ホモ・サピエンスに備わる英知でもってするならば、いくらでも別の見解に取って替えられるかもしれない。
 が、この見解は少なくとも人間と呼ばれるホモ・サピエンスの存在する場が一定の枠内でしかないとわれわれに気づかせた功績は大きいだろう。
 今私は、これからの人類がどうなるのかを気にし始めている。それは私自身が人生のたそがれ期に入って言いしれぬ存在のおののきを感じ始めていることと無縁ではないだろう。私は私の残された人生をどう歩むかを考えるついでに、オーバーラップさせる形で、種としての人類の今後について考えようとしているのかも知れない。その際、人類であるホモ・サピエンスのすべてが残された生を全うするべく努力しようとするかどうかは不明ではあるが、明日のことを心配げに語るのは、確実に人生の半分を通りすぎてしまった私のごとき世代の未熟者だけに与えられた使命であると私は思っている。それでもまだ燃えつきずにくすぶり続ける生の残滓が己の限界に挑戦する無限の夢を見させてくれるというのなら、これもホモ・サピエンスならではの宿命であろうか。
 ともあれ、現在のわれわれは、さほどの意味はないとは言え、21世紀を迎えたホモ・サピエンスである。己が生を営む上に便利がよいというので、一つの節目を設けた数値に翻弄されるというのも、おかしな話しであるが、これも知性の所有を誇る生物種の正直な生き方を反映しているのかもしれない。実はこのなんでもない線引きが人間種族の偶像となっている「科学」的思考の成果によって、今のわれわれを人類の楽観論者と悲観論者という両陣営に引き裂いているのである。もっとも、この亀裂はなにもきまぐれな数値のなせる業だけからではなく、現在のあらゆる分野での従来通りの対応によって生じる戸惑いが、新しい価値観を求め始めたことにもよると言えるのかもしれない。
 端的に言って、いつの時代においてもものごとを楽観的に見る人と悲観的に見る人はいるものだ。だが人類の発展と滅亡が対等の重みでもって語られる機会は、よっぽどの時代の転換期でなければ得られない筈のものだし、その意味で現在のわれわれは苦しみ多きラッキーな者と考えなければ、これまで種としての任務を果してきたすべてのホモ・サビエンスに対して申しひらきがたたないであろう。残念ながら、当事者というものは起こりくる状況には疎いと言われるごとく、大転換期を迎えているとの思いは存外希薄であるかもしれない。しかしながら、彼らの心の深層部分においては紛うことなく、その思いは存在していると信じ、それを代弁するというのも、思想を糧として生きる者の役目でもあるから、私はこれから両陣営の代表的な考え方を紹介してみたいと思う。


  T 現代の悲観論者達

 将来を悲観視する者の一般的傾向は、事実に対してあまりにもこだわりすぎるというところにある。21世紀を新たな暗黒の時代として心配するばかりか、人類の終焉すらも予測しおののく悲観論者達は、20世紀末、単に世紀末独特の情緒的反映からだとは言えない現存する重苦しい種々の事実にふりまわされていた。否、ふりまわされているというよりも、弄ばれていると言った方がよいと思われるくらいに、次々に言われ放たれる彼らの呪詛のこもった言葉は、なにもローマクラブの指摘する生態学的および経済学的分野に限ってはいないだろう。かの有名な予言者ノストラダムスが、400年ほど前に刊行した『諸世紀』と題する詩集の一節「1999の年、7の月、空から恐怖の大王が降ってくるだろう。アンゴルモワの大王を復活させるために、その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう。」は、まさにその日の到来を実感するだけに、悲観的な現代人をして「人類の滅亡を予言する」ものとして解釈させている。
 幸いにも、ノストラダムスの予言は外れたが、存外われわれはこういった類のものには弱い。しかしそれをわれわれは笑うことはできない。なぜならば、人間とは観念を作り、それを操作して生きるホモ・サピエンスであるからである。ローマクラブの提示する科学的データよりも、『諸世紀』に書かれたものの方に生きていく上でのリアリティーを持つ者がいても何の不思議もないのである。ましてや、今が何らかの社会的混乱期にあるという認識を持つ者には、ノストラダムスの予言は予言以上のものとなるのである。
 ここで注意すべきなのは、現在の悲観論者達は事態をそんなに情緒的には見ていない点である。彼らが憂えているのは単なる社会的混乱に対してだけではなく、人間的存在領域、言い換えれば人間存在そのものの在り様に対してなのである。その具体的な例として彼らをして言わせれば、それは肉と心の両方からの漸進的変質であったのである。
 肉の変質については「生物学革命」といわれる科学技術の発展の一成果の中に芽ばえていた。これまで人間の命は神や自然の摂理としてきわめて慎重かつ尊厳をもって考えられてきたものだ。ところが、つい最近話題になった試験管ベビーについては、われわれはもはや驚くに値しない小さな出来事となっている。今や人間は己自身の生命体を自在に取り扱うことに痛みを感じなくなってきたばかりか、未来の命までも操作しようと企みだしてきているというわけだ。クローン人間はフィクションの世界に登場するだけではなく、今や現実のものなのである。
 現在の悲観論者達はそれらを決して肯定しはしない。むしろそれらを、G・R・テイラーの言う「生物学的時限爆弾」として、人類の滅亡を呼びこむ憂慮すべき因子と見るのだ。考えようによっては、「人間」という名のホモ・サピエンスがこれまでのホモ・ファーベル(技術をもつヒト)からホモ・ビオロジカス(己の生物学的性質を自由にできるヒト)に変質しただけだとも言えようが、もしその新種の人間が、「アブラムシのように男性なしで自己生殖する性質、オウムガイ類軟体動物のように遠くから女性を受精させる性質、ツルギメダカのように性を転換する性質、ミミズのように切れはしから成長する性質、イモリのように失った部分を再生させる性質、カンガルーのように母体の外で成長する性質、ハリネズミのように冬眠する性質、これらの性質の組み合わさった奇妙な二足動物」であるとするならば、自然における保守主義者ならずとも、この説には抵抗感を覚えるだろう。それともわれわれは生物のもつすばらしい適応能力に期待して、来たるべきこの新種の人間に潔くバトンを手渡すことが出来るだろうか。
 次に心の変質については、われわれはまだシビアーな問題としていない方かもしれない。いわゆる「狂気」という形で浸透してくる心の破壊は、凶暴なものであれ、意思欠如の状態のものであれ、別のエッセイ集『打ち砕かれたホモ・サピエンス』で指摘したように、「病気」という名の異分子にされている。残念ながら、それについては現在では、丁度、外から体内に侵入してくる病源菌を駆逐するようにして病気を治すのが一番だと考える医師の考え方のような対応をするのが、この問題に対する主流派を形成しているのが実情だ。そのために、隠れた狂気の持ち主を入れたなら、おそらくは現存の人間の半分はいるかもしれないという恐るべき状態は、知性という人間の誇るべき特性によってものの見事に閉ざされてしまっている。それ故に、この狂気はヒューマニズムという名の思い上りによってその存在性だけが認められているにすぎないのである。
 だが現代の悲観論者達は、こう言った心の変質を、いずれ人間の英知の結果として原状に戻しうる一時的不幸として見なしはしないのである。心の変質とはこれまた新種の人間の誕生の予兆なのであり、現存するホモ・サピエンスの肉体を借りて乗っとるための彼らの最初の営みなのである。そしてこの新種の人間はわれわれにとっては「非合理」なもの、実在しえないものをなんの抵抗もなく考え存在させることによって、これ又われわれが安住していた世界を根底から破壊してしまうであろうと深刻に考えているのである。
 もとよりわれわれは彼らのこの憂鬱な考えが彼ら固有の豊饒なイマジネーションにのみよるものではなく、われわれ自身の見聞きすることのできる社会的歴史的状況の反映であることくらいは容易に察知できる。われわれのこれまでの分析を見るまでもなく、現存の社会は一つの高度な科学的技術水準に達している複雑な社会機構を内包しているところの巨大な塊である。そこに蠢めく人間は無数のしがらみによって己の欲望を充足せんものとしてあくせくと生きている。悲観論者達から見ると、このような姿もまた人類のたそがれを示唆しているものとなっている。彼らに言わせれば、現代の社会は過去の人達が等しく願ったユートピヤの具現化ではなく、「逆ユートピヤ」として人間が非人間化への道を突き進むまさにその途上にあるもの以外のなにものでもなかったのである。
 およそ100年前に示された逆ユートピヤは、なるほど、機械文明に潜む非人間的状況の漠然たる批判的精神に基づいていた。W・モリスの『ユートピヤだより』やS・バトラーの『エレホン』などはその代表的な作品であったが、はじめからきわめて牧歌的な詩情性を帯びていたり、唐突なばかりの反機械感情で被われていたりして、どちらかと言えば、社会制度の矛盾を突く鋭さと切迫性には欠けるところがあった。
 しかしそれから50年経過して、いわゆる科学技術が政治的支配のための道具として機能できるようになると、現存の社会機構そのものまでも人間を一種の奴隷状態にしてしまう要因と見なされ始め、逆ユートピヤの描くイメージもまたわれわれに切実性を与えるようになってきた。その意味で、A・ハクスリーの『すばらしい新世界』やJ・オゥエルの『1984年』は逆ユートピヤ文学の歴史における画期的なものであり、悲観論者達はこれらの作品を単なるフィクション以上のものと評価して人類の将来の悲観的部分を提示する見本として利用してきたのである。
 1984年をはるかに通り過ぎた今日において、これ又幸いと言うべきか、オゥエルやハクスリーの描く世界は到来しなかった。それはモデルとなっていた国の人々の人間性の勝利というべきなのか、はたまた、そこまで社会機構が統制化されていない技術進歩の遅滞のせいなのかは不明であるが、いずれにしても彼ら二人の全体主義的な統制社会を憂うる社会観は、悲観論者達の一つのよりどころとなっていることは確かな事実であろう。
 かくて、悲観論者達の語る将来における暗い諸相はあらゆる分野において展開されてきている。彼らのイデオロギーは共に頑迷なまでの保守的精神によって支えられている。即ち、現在ホモ・サピエンスが享受しているあらゆる形態での生は至高のものとして変わることがあってはならないと思っている。はたして、われわれは彼らが漸進的変化にも対応することのできないほど頑なな心の持ち主であると断言できるのであろうか。いずれにしても、現在のわれわれは絶えることなく喧伝される彼らの声を無視することはできない。とりわけ、根っからの悲観論者達の言ならばともかくとして、現状認識をもつ悲観論者達の自戒混じりの言には耳を傾けねばならないのかもしれない。というのは、彼らのもつ危機意識には共通するものがあったからである。その点については、先程のローマクラブの第2レポート『転機に立つ人間社会』では次のように的確に語られている。
 「現在の一連の危機が過去の危機と最も異なっている点は、その原因のもっている性格である。過去においては大きな危機は否定的な原因から生じてきた。過去の危機は好戦的な支配者や政府のよこしまな意図が原因であったり、人間の価値観からすると悪とみなされるような天災から引き起こされた。それに対して、現在の危機の多くのものは肯定的原因によっている。現在の危機は、もともとは人間がよかれと思って行なった結果生まれたものである。たとえば自然界の人間以外のエネルギーを開発して、人間の労力を節減しようとすることは、だれも異論をさしはさまない目標であった。しかし、そのことが結局は現在のエネルギー危機を招いたのである。…病気を征服して人間の苦痛を軽減し寿命を延ばすことは確かに崇高な目標であった。しかし、それがかなりの人口増加をもたらした。道路やダムや運河をつくったりする大規模な建設事業あるいは農業や植林、狩猟や動物の飼育、鉱工業等は自然を『かいならす』方法であった。しかしそれは結局環境問題となってはね返ってきたのである。今日では、イデオロギーや宗教的信念としてすべての人類に深くしみ込んでいる基本的価値観が、最終的にはわれわれの抱えている多くの問題の根源であるように思われる。」
 この警告は、哲学的世界では徹底した自己反省の一つの形態であると受けとられるのであるが、世知によって日常生活を営む者にとっては、思いもよらぬ言い掛かりであると受けとられるであろう。というのはこの警告には自分達の生存基盤そのものを否定するニュアンスが込められているからである。あるいはそこまで己の存在のプライドを守る気持ちをもっていなかったとしても、彼らの大部分は己がこれまで守り通してきた生活の正しさを信じる素朴な気持ちまでも否定できないからである。こう言った人達のエキセントリックな考え方が、むしろわれわれにとって望まれている次に語られる楽観論者達のそれとなるのである。


   U 現代の楽観論者達

 さて、21世紀を楽観視する者について言えば、われわれは殊更に彼らを特別視するわけにはいかないだろう。なぜならば彼らはわれわれ近代人に共通の、事物に対する思考形態やそこから生まれる行動形態に則っているからである。彼らは、悲観論者達とは異なって事物にこだわるよりも、事物を乗り越えようとする心的構造に支えられており、進歩とか発展とかにあるべき人間の生き方を見ようとするタイプの人間である。そして常に彼らにとっては、パンドラの箱の最後の邪悪に満ちた品物は、人類にとっての永遠の回春薬なのであり、それを精神の支柱にして彼らはヒューマニズムの精神でもって前進することのみを考えているのである。大なり小なり、われわれの大部分は彼らに味方をしており、彼らの考え方が現実的利益を与えうると判断しようものなら、貪欲にそれをとりいれようとさえしてきたのである。
 21世紀を迎えるにあたって、彼らは「未来学」者として、夢を語るというよりも、来たるべき確実な予想として様々なビジョンを提示した。否、今や彼らの予想というよりも、内実は、科学技術庁あたりの資料にも示されるごとく、われわれがいずれ遭遇する事実として指摘されていると言ったほうがよいかもしれない。物語り風にその未来の一コマを言えば、例えば次のようになるだろう。
 「病院で人工臓器の点検とあらゆる癌予防の処置をしてもらった、今年五十歳になった男性は、自分の仕事場である我が家へと車を走らせた。途中、不運にも自分のよりも大きめの車に追突される事故をおこしたが、頑丈なボディのおかげで、ほとんど被害もなかったので、事後の処理は後回しにしてもらった。今日締め切りの書類を作成しなければならないことを思い出したからであり、またそのために、上司と画面を通して打ちあわせをする必要があったからである。この頃は家事用ロボットのお世話になることが多かった。妻は豪華な原子力客船で世界一周旅行のバカンスを楽しんでいる最中だし、自分は宇宙太陽発電所の建設計画で頭がいっぱいだった。彼は車を運転しながら、仕事の一区切りがすんだところで、地球の反対側にいる囲碁仲間と一丁やってみようか、それとも長らく御無沙汰だったアンドロイドの美女と戯れてみようかなどと独りごちていた。季節は12月で日も短く、おまけに曇り空ということであったが、光ファイバーを使用しているおかげで、ポカポカとして暖かくて気持ちのよい郊外だった。」
 この話はなにもSF小説から抜きだしたものではない。今からほんの2、30年経てば、ほとんどの人が体験するであろうところのものを、私が試みに描写した一コマである。実際それはわれわれのすべてがそれに対して異論をさしはさむことのできないリアリティーを持っている。ここでは、悲観論者達が必死になって模索する「人類が生き延びる」ための方策は、当然なんの苦もなくひねりだされているのであり、むしろ成長の限界を指摘し委縮している悲観論者達の発想そのものが「悲観病」の現れとして暗に批判されている。成長に限界があるのではなく、H・カーンをはじめとする未来学者達が断言するように、成長には展望が見込まれるのであり、ローマクラブの挙げる様々な地球的規模の問題点も「基本的に解決可能な問題」として簡単に片付けられているのである。
 勿論、楽観論者達もまた現代が未曽有の大転換期を迎えているという認識は持っているようである。彼らは、先に示したような生活の描写が単に科学技術の発達の恩恵を受けている証左として殊更に強調するつもりはさらさらない。そのような外見上の生活の変化云々よりも、その生活を成りたたしめているところのわれわれの思考形態や社会構造そのものに及ぶ広汎な変化をも考慮にいれて、自分達の所説を展開しているにすぎない。
 A・トフラーがいわゆる「未来の衝撃」としてそれらの事実を指摘したように、楽観論者達はこの大転換期に対しても悲観論者達同様の心配をし、「もはや遠くに存在する潜在的な危険ではなく…、すでに多くの人がこれに苦しんでいる現実の病気」、即ち「変化の病気」として十分に理解してはいるのであるが、彼らにとってこの「未来の衝撃」はストレスを喚び起こすどころか、まさに生みの苦しみとして了解することによって、その後に到来する様々の人間的存在様態を受けいれる心を持っているのである。
 実際のところ、A・トフラー自身もまた、『未来の衝撃』刊行後まもなくして、「人類の歴史が終焉を迎えようとしているどころか、まだはじまったばかりだと考える人びとのための書」としての『第三の波』を刊行し、「変化の病気」を体験した現代人がすばらしい変貌を遂げることによって、来たるべき新しい波に乗ろうとしている様をリアルに描いている。言い換えれば、彼は「新しい人間」の誕生を現代人の進歩の証として見ることによって期待していたのである。われわれにとって、この点の留意は必要である。何故ならば、トフラーを含めて未来学者を初めとする楽観論者達の人間観においては、未来は現在よりもすばらしいものであり、人間はそのための努力をするべきであるし、またする筈であるとする思いが込められているからである。その意味では楽観論者達は必ずしも盲目的な現実肯定論者ではなかったのである。むしろ、彼らは悲観論者達とは違った意味で現実批判論者であったのである。
 それはいかなる意味なのか。われわれはその問題について考える前に、楽観論者達が捉えている歴史観の奇妙な共通点に着目して見る必要があるだろう。それは彼らが人類の歴史を一様に「技術史」として読みなおして捉えている点であり、通常われわれが素朴に捉えているような政治的経済的なカテゴリーによる時代区分をしていないことであろう。言い換えれば、人類の歴史は人間がどれだけ技術革新を成し遂げているかの観点に立って考えられており、とりわけその主たる技術革新を農業と産業の二分野において見ている。この考え方に従うと、(そして、私好みの数値を入れて補足させてもらうと、)人類の歴史は、最初は農業が始まるまでの3百万年に及ぶ「狩猟時代」とも言うべき長い時代、次は産業革命が起こるまでの3万年ばかりの「農業化の時代」、最後は産業革命以後現在に至るまでのたかだか3百年の「産業化の時代」と言った三つの時代によって区分されているのである。
 未だにイデオロギー的世界観にこだわる人でも、現代が「産業化の時代」であるというこの言い方にそれほど拘泥してはいないであろう。してみると、現代人は、東西、南北を問わず、大なり小なり、この「産業化の時代」のまっただ中にあって、それについていこうとしたり、あるいはなんとかそこから解放されようとしたりして、様々なアプローチを試みていると言えるのである。
 楽観論者達、とりわけ脱イデオロギーの時代的特徴を強調する人達は、イデオロギー的対立を生む要因そのものもこの「産業化の時代」のもたらす一つの結果であると認識しつつも、今や時代はそう言った対立を小さな不幸として、それを乗り超えた将来の展望を、新たな技術革新の到来を確信することであきらかにしようとしているように見うけられるのである。
 トフラーの言う「第三の波」とは、まさにそのようなものとして、第二の波即ち産業化のもたらす様々の抑圧的形態を否定する新しい兆候を示す比喩的な言葉であった。今しばし、私はこのトフラーの考え方を敷衍してみようと思う。
 彼の認識においては、次に示す六つの原則は産業化の進められている社会にあっては、不可欠の要素であった。即ち「規格化」、「分業化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」がそれらである。これらの六つの原則は「工業化の進んだ社会であれば、資本主義国にも社会主義国にもあてはまる原則であった。なぜなら、これらの六原則は、生産者と消費者が決定的に分離し、市場の役割がますます拡大することによって、必然的に発生したものだったからである。一方、これらの六原則は相互に強化作用を続け、その結果生まれたのが、非人間的な官僚機構であった。人類がいまだかつて体験したことのない、巨大で硬直した、強力な官僚組織が出現したのである。ひとりひとりの市民は、巨大組織の立ちはだかるカフカ的世界のなかにとり残され、途方にくれてさまよい続ける存在になってしまった。もし今日、われわれがこれら六原則のもとにひっ息し、耐え切れなくなっているという実感を持つならば、この問題は、第二の波の文明のプログラムを決めている『暗号』に端を発しているということになるだろう。」
 ここでも、われわれはこれら六つの原則が初めから抑圧的形態として機能していたのではなかったという点に気づかされるであろう。先のローマクラブの言葉に従えば、これらもまた「よかれと思って行なった」人間の営みの集大成であったのである。いずれにしても、トフラーが「第三の波」の到来を指摘する根拠には、勿論変貌しうる柔軟な人間性に対する絶大な信頼感があったことは想像するに難くない。現代人が第二の波の六原則に辟易し、どんなにそれらからの論理的、道徳的拘束を受けようとも、自らの存在の証しを求めて脱皮していけるだけの人間的存在領域を確保しようとしていることを、彼は様々の実例を次のように挙げて説明している。
 「規格化」に逆らって、「独自の枠組みをつくりあげ、新しいメディアが放射する、ばらばらな瞬間情報を、みずから繋ぎ合わせるすべを身につけ」ようとする。
 「分業化」に逆らって、スペシャリストであるよりもゼネラリストであろうとし、自らを「生産=消費者」と位置づけようとする。
 「同時化」に逆らって、これまでみんなに課せられた共有する「時間」や「空間」を自分の好みにあうように自由に組みかえようとする。
 「集中化」に逆らって、便宜のために群れをなしたり、能率アップのためにと言って意志を集中せず、個人においても組織においても、目的や行動の形態を「多元的」なものにしていこうとする。
 「極大化」に逆らって、「小さいことは素晴らしい」と考え、限界を越えてまでも拡大し発展していこうとはしなくなる。
 「中央集権化」に逆らって、経営や政治における権力の集中を嫌い、己がなしうることをなすためだけの場を求め、造っていこうとする。
 以上の六つの態度が、第二の波の6原則のいわばアンチテーゼとして位置づけられるべき「第三の波」に対応する新しいタイプの生き方である。
 正直に言って、楽観論者達のすべてがトフラーの考えるように己のこれまでの生き方を変えなければならないと思っているわけではないだろう。むしろ彼らは、自分達の素晴らしい未来がトフラーの言う第二の波の6原則を忠実に励行したことによって保証されているのだと信じ、これらの6原則こそが技術革新の精神的要諦となって明るい未来を約束させているのだと思い込んでいるのではあるまいか。彼らにとっては、悲観論者達が憂うる諸々の点は取るに足らないデメリットであり、それを大げさに考えるところが悲観論者たる所以だとして歯牙にもかけないだろう。何故ならばこのようなデメリットはより大きなメリットを生むための一里塚でしかなく、現在の人間の能力を信じている限り、どんどんとなされていく技術革新の恩恵を労せずして受けいれていくことができると考えるからである。
 一方、われわれはそういう考え方を採るからこそ、彼らが楽観的である所以を確信するのであるが、しかしながら現在においては、そういう考え方は過去に力点をおく時代遅れのそれとなり、楽観論の中での主流派を形成しなくなってきたというのが実情である。それ故、トフラーの考えるように、技術革新に伴って人間の生き方や考え方を変えていこうとする楽観論が21世紀を迎える人達に相応しいそれとなっていると見るのが正しいだろう。


   V ホモ・サピエンスよ、何処へ?

 現在のわれわれが当面する未来に対する悲観論と楽観論との間の軋轢は単なる理論を巡る葛藤の一つであるという訳にはいかないのは当然である。なるほどこれら二つの考え方は人間の気質に還元されるべき性質のものであるから、いつの時代にもあり、しかも同じパターンの論理を駆使している。冒頭にも述べたように、悲観論者達は事実に対してどうしてもこだわってしまう傾向にある。そこから、なんらかの事態が発生すれば、そのことによって規制され、自分達の思惑通りには事が運ばないものだとつい考えてしまう。
 それに対して楽観論者達は自分達の思惑はなんの障害もなく実行され実現できるものだと思い込む傾向にある。それ故に、それらの傾向そのものがそれぞれ悲観的あるいは楽観的なものの見方をさせているのであり、その上に悲観論者達あるいは楽観論者達は、そういった己の傾向性を正しいものの見方であると信じきっているのであるから、始末におえない。従ってこれまで述べられてきた二つの考え方の具体例も、彼らの現実的視野から見られる理屈にあった結論としてお互いにその主張を譲らないであろうし、われわれも又それらが現実的であるが故に、否応もなく何らかの実践的対応を迫られるというのも事実であろう。それ故に、これら二つの考え方を採る人達からはそれぞれの反対の考え方に対する死活を賭けた反論が生まれてくるのもまた当然の話しである。
 それでは、そこではどういう具体的な反論がなされているのだろうか。悲観論者達は楽観論者たちのビジョンまでも否定する気持ちはないにしても、そのビジョンが単なる試算上の話から生まれてきているものであり、ありうべき不測の事態に対する配慮の無さおよびそのビジョンがもたらすデメリットを殊更に過小評価する態度から、その空論的性格を強調する。例えば、そのビジョンが実現される前に、戦争や天災あるいは核をめぐる事故の発生などが間違いもなくわれわれをして現実的対応をとらせるであろうし、むしろその方が将来においては大切であろうと考えたりするのである。
 それに対して楽観論者達は悲観論者達の指摘する心配について考えないでもない。だが彼らにとってそれは箸にも棒にも掛からぬたわごとであり、悲観論者達のミクロな次元でしかものを見れない視野の狭さと人間の能力に対する不信感の現れと見て、意には介そうとしない。例えばA・ベリーは『一万年後』のなかで「もし一九〇〇年にローマ・クラブの報告書が出ていたとしたら、文明の破滅は、一九七四年よりずっと前にくると予想していたにちがいない」と茶化し、「一八七二年に、ロンドンの輸送問題に関する百年後の予測が出たとしたら、一九七二年にはロンドンが馬糞の山で埋まってしまうという結論を出したであろう」と書いている「エコノミスト」誌の記事を紹介している。
 勿論、われわれはこれら2グループのお互いへの反発が単に気質上の理由から生じているとして簡単に片付けてしまうわけにはいかないだろう。私自身は、実際のところ、所詮は気質の問題に帰着するだろうとは思っているのであるが、それでもお互いへの反論ということになると、両者の間には奇妙な共通性があることに気付くのである。例えば、宗教的感性から打ちだされる悲観論的な見解等の一部を除いて、両者のいずれからでもあれ、その大部分が「科学的根拠」に基づいて提言され、それ故に確実性に裏打ちされているとの自負を持っているということである。これなどはわれわれ現代人がまさに「歴史の奴隷」である以外のなにものでもないという事実を物語る格好の例であり、われわれの中で展開される論議も所詮は「種族の偶像」の前でのそれでしかなかったのかと思わざるをえなくなる。
 確かに両者の反論は、それぞれが根拠とするデータをめぐって展開されていると言って過言ではない。まず根拠とされたデータが論敵の主張にとってふさわしいものであるかどうかが、反論のための俎上に乗せられ、それが通過すると、そのデータが実情を正確にとらえたものであるかどうかが極めて悪意をもって吟味される。大抵の場合、それでもって相手を論破したとして片付けてしまうのであるが、それでも信憑性を持たざるをえないということになると、今度はそのデータを使った論述に論理的整合性があるかどうかにまで首を突っ込み、ほんの少しばかりの矛盾があろうものなら、論敵のビジョンそのものまでも否定してしまおうとするのである。しかしながら、ここでわれわれがそれを笑えないのは、この論争の如何によって結果的に今後の具体的生活形態が規制されるかもしれないという正念場にも立たされているからである。
 われわれは現代の社会が極めて情報化されている事実を十二分に認識している。従ってそれほどに極端ではないにしても、これら両者のいずれかに加担するべく実際の行動形態をとらされている。私自身の考え方を言わせて貰えるならば、どちらかと言えば、悲観論者達に与していると言える。しかしながら、トフラーの指摘するような事態が起こりうるならば、ホモ・サピエンスとしての種の滅亡を実感するということは、もう少し先に延ばされるのではないかとも思っている。何故ならば、多くの分野の識者が認識しているように、歴史はマクロの面から見ても変動期に入っていると、私自身も感じているからである。即ち、私が興味を抱く分野から言っても「人間の本性」と了解され、これまで無謬の信仰に近い妥当性を得ていた人間観にもどうやら陰りを見せはじめている事実を重視せざるをえないからである。
 この点については、最近のわれわれが人間について「ホモ・サピエンス」、「ホモ・ファーベル」、「ホモ・エコノミクス」として語るよりも、「ホモ・ルーデンス」、「ホモ・レリギオスス」として語り出してきているのを見ても、察知されるであろう。トフラーの指摘はその意味でも、その事実を匂わせ、それに対処しようとしているかに判断されよう。
 とは言え、事態はトフラーが考えている以上に深刻になってきているのではないだろうか。それと言うのも社会学者や経済学者、あるいは政治学者はどうしても事実判断に重きを置きがちになるからであり、それ故に彼らの理論は政策として発展していかなければ、無意味とされるので、現実主義的傾向が強くなり、「人間の本性」を考える場合でも、それほどの急激な変容を想定することができなくなるからである。彼らの内の楽観論的なものの見方をとる者で、果してどれたけが人間をホモ・サピエンスあるいはホモ・ソシウスではない別のものであると断定して言うことができるであろうか。
 確かに人間は学名それ自体で保証されているようにホモ・サピエンスであることには間違いない。従って私も又無造作にこの言葉を使うのであるが、それは事実としてそう言う特徴があるという意味で使われるべきであり、決して人間の本質を指す永遠の定義ではないということをわれわれは知るべきであろう。私はそう言った意味で、トフラーが「第三の波」の地平部分に人間の本性を巡っての大きなうねりのあることまで指摘していてくれたならば、諸手を挙げて彼の考えに賛同したかったのである。ほどなくして21世紀を迎えるわれわれの現代的状況のもとでは、私の言ったような問題は時期尚早の観があり、人は相変わらず、悲観的であれ、楽観的であれ、ほんの少し先で迎えようとする人類の社会の在り様に目を奪われてしまうかもしれない。しかし、それだけではわれわれは現在支配している「人間の本性」とやらに相も変わらず幻惑され続ける羽目に陥ることになるだろう。
 「人間の本性」に関する詳細な検討については、『ホモ・サピエンスの誕生についての素描』ですでに述べたとおりであるが、今われわれが受けいれているところの現代人にとっての「人間観」についての了解事項にのみ目を向けて考えるとするならば、何故われわれがこのような事態を迎えるに至ったかが明らかとなるのではないだろうか。
 ルネッサンス以後、ありのままの人間の存在様態に関心が持たれたとき、人間は己の欲望を充足する中で生活を営むことが真理であると容認するようになった。しかしその真理がホモ・サピエンスとしてのそれであることが強調されるに及んだとき、まさにそのホモ・サピエンスのなさしめる成果として、ホモ・サピエンスそれ自体を初めとして、そこから派生する具体的機能としてのホモ・ソシウス、ホモ・ファーベル、ホモ・エコノミクスと言った様々の人間的存在様態が理念化される結果となったのである。言わばわれわれは今日に至るまで、その理念化された人間観を当たり前のものとして受けいれ、その枠から離れることは己の存在基盤を否定する思いもよらぬ出来事としてきたのだった。
 今ここでわれわれが問題としている21世紀の社会や人間を考える場合でも、悲観論者であれ、楽観論者であれ、この人間観を前提にした上で考えている場合が多いと言えるのではないだろうか。あくまでも、あるいは無意識にそうであるが故に、例えば悲観論者達の発想においては、分子生物学者の渡辺格氏が紹介するように、「強者の支配する恥ずべき人類の存続か、《マイナス人間》と共に生き、そのためにもたらされるかもしれない人類の尊厳な滅亡か」と言った二者択一の岐路に立たされるようになり、文字通り、人間は「“人間は生きるに値するか”から“値しない生をいかに生きるか”をへて“人間はいかに死すべきか”ということまで考えなければならなくなる」のである。
 同様にK・ボールディングも又次のように述べている。「来たる二百年間は、人類が通過しなければならない移行の中でも最も深刻なものとなることは確かである。可能性としては、持続可能で高水準の社会を世界的規模で建設し、太陽エネルギーを用いて再利用可能な素材のスループットを動かして、適切な人工的環境を維持するという問題を解決しなければならないのである。これに成功しなければ、現在よりずっと悪い状態に転落してしまうのである。人間有機体の潜在力を完全に表現するためには、戦争も、押し潰すような貧困も、虚弱化させる富もない世界、この世に生まれ出ずるどの人間も、人間の潜在力に含まれる広大な内部宇宙を探査する十分の機会を与えられるような世界を夢見ることを続けなければならない。もしこれに失敗すればーその恐れはあるーずっと原始的な経済に逆戻りし、辛い暮らしを再び森と野原で一からやり直しつつ、現在の豊かな社会の豊富さを二度と戻らぬ黄金時代として想い起こすことにもなりかねないであろう。このような移行には、勇気、知性、愛を伴う途方もない努力を要するであろう。」
 楽観論者達に関して言っても同様である。例えば未来学者として有名なH・カーンは人間生活の生理、心理両面における変化については科学技術の進歩によって十分起こりうることを予測しながらも、それが人間そのものに影響を与えるとは考えていない。「われわれが想像する脱工業化世界は、より大きな豊潤の世界であり、したがって競争の面ではー希むべくはーより限られた世界であると思われる。旅行と接触がさらに拡がる世界であるから、おそらくは人間と人間の違いは小さくなる世界である。しかしそれは同時に、人と自然を動かし操作する巨大になっている世界でもある。そのときの最大の問題は、今日われわれが直面する問題とまったく同じ、規模と影響が大きくなっているだけなのだーすなわち、誰が、そして何の目的で、方向を決め、運営していくのか、という問題である」と彼は結論を下してしまっているのである。
 いずれにしても、われわれは今日の社会が大いなる流動状態にあるという認識によって縛られている。楽観論者達でさえ何らかの不安感を抱いている現代なのだと考えるのは、私のごとき悲観論的傾向にある者特有の大袈裟さであると言ってしまえばそれまでであるが、現代を襲う危機意識を乗りきるには小手先の技術的対応だけをもってしては、ほんの少しの自己満足を伴うだけの堂々巡りをするだけのような気がしてならない。気負って言わせてもらえるならば、そこにはやはり人間の本牲についての思いもよらぬ別の見方が介在してきているようになっているのだと思われる。
 「ホモ・サピエンスよ、何処へ?」楽観論者も、悲観論者もこの問いかけに幻惑され、自分達の明日をその答に賭けている。かつては問いかけをする者は常に自分を審判者の地位に置いて、見え隠れする自分のアイデンティティーを確かめたものだった。問いかけられるものが自分の外にある間は、それだけで自己形成の肥やしとなり、それがために一層の自己過信に拍車が掛けられた。しかしながら、問いかけられるものが己自身であった場合に、ホモ・サピエンスはなんと不様であったことか。唯一、哲学に心惹かれていた者が「理性の自己実現」の合い言葉のもとに、ひたすら自己形成に腐心した。L・マンフォードをして言わせれば、彼らにとれば、「『汝自身になれ」というのが、人間に対する自然の最初の指令であるとすれば、『汝自身を転換せよ』というのは、第二の指令であった―そしてまさに『汝自身を超越せよ』というのが、少なくともいままでのところは、最終至上命令であると思われて」いるのである。
 私はマンフォードのこの言葉は、人間的存在領域でのホモ・サピエンスの視座を歴史的に示しているように思う。しかし時代はもっと進んでいたのである。楽観論者達には「汝自身を超越せよ」の指令はまだ生きているかもしれないが、悲観論者達には、マンフォードの言葉をもじれば、「汝自身に戻れ」が次第に重みのある指示に見えてきたのである。「汝自身に戻れ」とは具体的に何を意味するのか。デルフォイの神託であった「汝自身を知れ」が賢人ソクラテスによって「人間の精神の無限的探求」の謂にすりかえられたのを改め、再び本来の「人間の分限を知ること」の謂とせよということである。
 いずれにしてもホモ・サピエンスであるわれわれはその誇りとするところの英知でもって、21世紀を楽観視するのも、又悲観視するのも自由であるが、同時に人間それ自身の本性と言われるものも又、問われているということを忘れてはならないだろう。悲観論者達に与する方の私の結論は、まさにこの「汝自身に戻れ」である。そのことが、これまで自然を敵対視していたホモ・サピエンスが自然の何たるかを感知し、それによって初めて、自然を自分達の同胞として語らいあうことのできる証しをえることになるのだと思う。さもなくばわれわれは悲壮な覚悟でホモ・サピエンスの死を迎えるか、それとも急かされた自己満足の徒労を繰り返さなければならなくなるであろう。


   参考文献

D.H.メドウズ&D.L.メドウズ&J.ラーンダズ&W.W.ベアランズ三世『成長の限界』(大来 佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年)
五島 勉『ノストラダムスの大予言』(祥伝社、1973年)
G.R.テイラー『人間に未来はあるか』(原題『生物学的時限爆弾』、渡辺・大川訳、みすず書房、
 1969年)
A.ハクスリー『すばらしい新世界』(松村達雄訳、早川書房、1968年)
J.オゥエル『1984年』(新庄哲夫訳、早川書房、1968年)
M.メサロビッチ&E.ペステル『転機に立つ人間社会』(大来佐武郎・茅陽一監訳、ダイヤモンド社、 1975年)
A.トフラー『未来の衝撃』(徳山二郎訳、実業之日本社、1971年)
      『第三の波』(徳山二郎監訳、日本放送出版協会、1980年)
A.ベリー『一万年後』上、下(小林司訳、光文社、1975年)
渡辺格『人間の終焉』(朝日出版社、1976年)
K.ボールディング『地球社会はどこへ行く』上、下(原題『エコダイナミックス』、長尾史郎訳、講談 社学術文庫、1980年)
H.カーン『未来への確信』(原題『これからの200年』、小松・小沼訳、サイマル出版会、1976年)
L.マンフォード『人間−過去・現在・未来』上、下(原題『人間の変質』、久野収訳、岩波新書、1984年)


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