第2部 これからのホモ・サピエンス像

        平和への動物学的アプローチ


   はじめに

 いつも西洋を見倣って近代化を図ってきた日本人のことであるから、20世紀末を迎えたとき、二回目の「世紀末的憂鬱」とやらを感じた者が出たとしても不思議ではない。19世紀における「世紀末的憂鬱」は近代文明が引き起こす精神的危機に対する反省となって現れていたが、日本では逆にその文明を輸入することが近代化の証しと見られたりもしたので、一部の識者の中でのみ取り沙汰され、それほど痛感されなかったようだが、20世紀末の場合は、何事も世界的規模で動く状況もあって、識者にのみならず、一般庶民にも何とはなく予感できるような世界共通の「世紀末的憂鬱」となったようだ。
 というのも、今回の「世紀末的憂鬱」が醸し出すものとは、単なる文明批判にとどまらず、科学技術の発達が副作用のようにもたらした肉体的危機、言い換えれば人類すべての肉体的滅亡を暗示する「終末論」の横行だからである。もともと終末論的発想は、世の中が乱れておりさえすれば、古今東西を問わず頭をもたげてくる御馴染のものである。その原因も概して権力と権力とのぶつかり合いによって生まれる戦乱か、天災等による混乱であって、そこでは必ず敗者とか弱者とかが出たので、謂わば彼らの呪詛を代弁する形のものが多かった。ところが今回の場合は、勝者と敗者、強者と弱者の区別もなく、ホモ・サピエンスの種としての滅亡を標榜する無差別性を帯びているところが特徴となっている。
 この契機を与えたのは二つの歴史的事件であった。一つは核兵器が使用されたということであり、他の一つは地球汚染が始まったということである。何事も正義と幸福の名のもとに行動する習性のついてしまった人間のことであるから、これらの事件についても、当初は、戦争を早く終わらせ平和の到来を願うためであったとか、物質的に恵まれた生活を享受したいと願うあまりの痛みにすぎないのだとか言い繕ってきたものだった。ましてや権力者や識者からそのように吹き込まれ、挙げ句に他に方法があったのかと開き直られれば、一般庶民とは弱いもので、それを受け入れざるをえなかった。
 しかしながら、そんな弁解はともかく、結果としてはこの二つの歴史的事件はこれまで及びもつかなかった認識へとわれわれを導くことになったのである。即ち「地球とは人間の住める環境ではなくなってきている」である。それは、あまりにも大きなことを仕出かすことのできる人間の、又今まで地球の無限性に甘えてきた人間のわれにかえった時の驚愕の叫びなのだと私は見たいのである。
 このような認識に従えば、「平和とは何か」についての問題も発想の転換が余儀無くされてこよう。まずわれわれは、「平和」の反対概念を「戦争」(あるいはもっと厳密に言えば戦闘)だけだとするこれまでの思考習慣を改めることから始めなければならない。
 もっとも、戦争がないということは核兵器も使われず、従って人類が滅びる危険性もないのであるから、別にこの思考習慣が誤っているというのではない。ここで強調されているのは、もし戦争が起これば人類が滅亡することを必至と見て、戦争を起こさないための配慮や戦争を起こす原因を除去しようとする姿勢に平和の実現の中身があるということ、言い換えれば平和とは人類が生き延びている状態であり、生き延びようとする行為そのものの中にあると考え直されているということなのである。
 それ故平和とは、イデオロギーに媒介されたある特定の社会正義の実現であるというよりも、自らの生物的基盤を確立する地球正義の実現であるという風に考え直されるべきだということになろう。
 この観点から言えば、平和の反対概念が「貧困」であったり、「自然破壊」であったり、果ては「人間の欲望」であったりしても、何の不思議ではない。平和とは、単に軍事的カテゴリーにあるばかりではなく、政治的あるいは経済的なカテゴリー、更にはそれを含む人間的存在に関るすべてのカテゴリーにもあるのである。勿論「人類が生き延びること」が焦眉の課題であると言われる背景には、これまで人間が知性を持つ存在、従って観念構成能力を持つ存在として文化を創造してきたことを誇ってきたことに対する反省の機運が生じてきていることも忘れてはならないだろう。そこから生まれたのが「生態学的人間学」と言われるべき新傾向である。そこでは人間は生物的存在、即ちホモ・サピエンス・サピエンスであるという視点を忘れてはいない。私自身もそれを認める立場にあるので、その視点を忘れることなく、これから「平和」についての私なりの考えを語っていきたいと思う。


   T 積極的平和のために

 知性を持っているからと言って、人間が他の動物とは全く違う生き物なのだと言えないことぐらいは、進化論が認められて以来、誰も否定しはしない。他方、人間とは脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・サピエンス種以外の何ものでもないと決めつけられると、何となく見下げられたような気がしてくるものだ。これも、ひとえにわれわれが「知的」存在者であることに拘ってしまうからであろう。とりわけ理性主義者ともなると、人類が生き延びるかどうかの状況に立たされた最中でも、理性が目覚め正常に作用することで、いつでもその状況が回避されるのだと夢見るあんばいである。だがそれをわれわれは笑えないのである。冒頭に述べた二つの歴史的事件にしても、そこからB・ラッセルをして反核・平和運動に走らせ、K・ボールディングをして宇宙船地球号の考えを思い起こさせたが、すでにわれわれはそれらを一世代前の歴史的主張として風化させてしまっている観すらあるのである。
 確かに、現実に広島や長崎に原爆が落とされ、河や海が汚れているのを体験してからのしばらくの間のわれわれのショックは相当なものであっただろう。だが時間が経ち、今に至って、別段大した悲劇も起こってこなかった幸運によって、それらの事実が一部の悪者達によって企まれたのだとされてしまい、ラッセルやボールディングの考え方が知性の産物としての文明への批判と一体となっているのだと言う認識にまでなかなかに思い至らなくなってきている。いや、思い至ろうとすると、結果、自分で自分の首を絞めるように感じてしまうので、われわれは殊更に思い至ろうとしないのかもしれない。それでも、忘れかけた頃になって、時折報告される地球上の小さな危機によって、反省の機会を与えられたとしても、しばらくすると、元の木阿弥になって、それが繰り返されているというのが、今の姿である。それほどまでにわれわれは知性による楽観主義に災いされているのだろうか。
 その反省の上に立って一時ブームのように取り沙汰されたのは、K・ローレンツを代表とする動物行動学者達の見解であろう。彼らはエソロジーに基づく文明批判に市民権を与えた点で功績をもたらした。彼らはこれまでわれわれが殊更に言及しなかった「人間観」にこそ人類の悲劇が隠されていることを指摘したのである。その人間観とは、一つは人間は宇宙の中心であるということ、もう一つは人間は自然の一員ではなく自然に対立する高い存在であるということであった。自然の事実からすれば、その考えは誤りであるだろう。だが人間の知性の判断からは、その考えは正しいとされねばならなかったのである。
 どうもわれわれは、「知的に知る」という能力を持つようになると、己だけは別であるとする「我」が出てくるものらしい。ローレンツによれば、その「我」こそが人間に独善的な反発と振る舞いを起こさせたのである。その内の一つ目は「自己認識への反発」と言われるもので、これにより人間が進化論的に考察されることへの反発となった。二つ目は、それの上に立って、人間の行為の根底には自然の因果法則があるという認識に対する反発となった。その結果、三つ目として、人間は世界を沒価値的な外界と人間の内的法則性の支配する可知的世界とに分けてしまったのである。
 賢明な皆様の中には、これら三つは人間性を否定する材料なのではなく、むしろ逆に人間であることの「条件」をきめるものではないのかと反論する者もいよう。実はこれら三つは、ホモ・サピエンスが誕生して以来、自らの人間的存在領域を確保する上で不可欠の営みとして了解されてきたのではなかったのかと、私もつい認めてしまう方である。だからこれらの与えるメリットの方が優先されたお陰で、今の現代が享受されているのだともつい認めてしまうのである。
 だがそこには、不可避的に伴うデメリットもあったのである。それを示すものとして指摘されたのが、ローレンツの挙げる次の有名な「文明化した人間の八つの大罪」と言われるものであった。
  @地上の人口過剰
  A自然の生活空間の荒廃
  B人間どうしの競争
  C虚弱化による豊かな感性や情熱の萎縮
  D遺伝的な衰弱
  E伝統の崩壊
  F人類の教化されやすさの増加
  G核兵器をもった人類の軍拡
 これらについてもう少し彼の考えを敷衍すれば、彼は8番目の大罪がそれまでの7つと比べて「避けられやすい」と言っている。してみると、それは、それまでの7つがいかに人類にとっての危機であるかを見ているよい証拠であろう。彼は続けて次のように言っている。「えせ民主主義的な教義は7番目までの人間性喪失の過程を促進している。この教義は人間の社会的な行動や道徳的な行為が系統発生で進化した神経系や感覚器の体制によってきまるのではなくて、もっぱら人間の個体発生の途中でそのときそのときの文化的環境をつうじてえられた『条件づけ』によって左右されるというものである。」
 この微妙な表現の中にはニーチェばりのニヒリズムが見え隠れしないでもないが、人間を人間たらしめているものの中にこそ人間性を喪失させる要因を見ようとしているのだと言えなくもない。と同時に、系統発生的に生物の体にインプットされない生の反応が、たとえ知性という名の機能によって巧みに操作されたとしても、自滅への傾向性を内在させているのだと言っているようでもある。いずれにしても「知性を持つ存在」への断罪がここでなされていると見るべきなのである。
 しかしながらわれわれはこの「知性を持つ存在」であることからは抜けられない。しかもわれわれは知性を肉体の中にしか持てないホモ・サピエンスなのである。いかなる生物種も生物体として絶滅している以上、ホモ・サピエンスもそれは避けられないのである。そうなると、人類が生き延びることこそが「平和」なのだと見るならば、この避けられない事態を容認しつつも、その時期の到来をできるだけ先に延ばす努力をすることが、平和のための営みということになりはしないだろうか。ここに知性を持つが故のその可能性を模索することがわれわれの使命だとは言えないだろうか。
 幸いにもわれわれはその知的能力のお陰で、人類が滅亡するパターンを予測することができる。ホモ・サピエンスがこれまでの環境に適応する際に、その生存のための肉体上の武器となったのは前頭葉の働きであった。それは専らに事物の観念を構成し、ものごとを「知的に理解する」ことで、人間的存在領域を確保するにあずかっていた。氷河期において、肉体だけの防禦では生存の危機があったにも拘らず、ホモ・サピエンスが生き延びてこられたのは、「火」を観念的に知ることができ、それを利用することができたからである。
 ところが、自然界にはマンモスの牙の例がある。それは「過適応」と言われるもので、自然的環境が変わったために、以前はうまく適応していたのに、それ以後は生存の妨げにさえなり、滅亡原因を作ってしまった例である。恐らくホモ・サピエンスの場合も、前頭葉にその「過適応」現象が生じて滅亡していくだろうと、私は予測している。
 ホモ・サピエンスの前頭葉が発達したのは、その働きが個体あるいは種として生きていく上で不可欠であったからだった。同時に前頭葉を働かせたからこそ、それはますます発達していったとも考えられる。そしてその結果、「過適応」現象が生じたのである。すなわち、人間が住み且つ行動する環境とその環境内で住まわせ且つ行動させてもらっている人間との間の蜜月関係が崩れてしまった、あるいは少なくともそのような印象を与えることとなったのである。
 もっとも、この過適応現象について、マンモスの場合は、環境に適合しなくなったのはマンモスの所為ではなかったが、人間の場合は、たいてい人間の所為でそうなるのである。そのことは、自然ならば姿を変えるのに何万年もかけるものを、人間はほんの短期間でも変えてしまうことができることからも言いえよう。
 ここで私は「環境」については単に自然的な環境だけではなく、身体的環境及び人為的環境をも含めたいと思う。身体的環境とは人間の「肉体」の謂であり、人為的環境とは人間が帰属する「社会的機構」の謂である。勿論これら三つの環境は、人間との関係にある場合は、それぞれ別個に関っているものではなく、それぞれに影響し影響されあう相互依存的なものである。(これについては別のエッセイ『人間とは何か』でもう一度取り上げるつもりである。)いずれにしても、人間の場合における前頭葉の過適応現象とは、専らに人間の所為で環境とのバランスが崩れ、結果として、人間が機械のようになるか、狂気に陥ってしまうかして「人間性」が解体、喪失してしまうことを意味しているのである。
 私が過適応現象を主張する所以は、前頭葉が地盤的部分である環境、とりわけ肉体的なそれへの気遣いを無視して独り立ちしてしまったところにある。確かに前頭葉の働きである観念構成は環境的事実に先取って、それを上回るところにその存在理由があるとも言える。だがそれは環境が許容する限りでの話である。上回ることはできても、上回りすぎてはいけないのである。J・モノー流に言えば、観念構成上の進化に肉体上の進化がついていかなけれならないのである。又ローレンツ風に言えば、文化的発達が系統的発達を上回りすぎてはいけないのである。種としてのホモ・サピエンスが滅亡するとするならば、この観念構成上の進化に、あるいはこの文化的発達に飛躍があるからだというのが私の考えである。だがこれは遠い先の話であるから、仮にこれが正しい予測であったとしても、狭義の「平和」を考えるには説得力を持たないだろう。が、広義の「平和」のためには大切な考え方だと信じている。
 ついでに言えば、この予測から、人類の滅亡をできるだけ先に延ばすための方向性だけは打ち出せるかと思われる。それは人間とその身体的環境を、お互いに応えあえるような適度な間隔をおいてバランスを保つように、われわれが持っていけばよいのである。そのための方策として次の四つが挙げられようか。
 一つ目は人間の感性的存在性を強化する方向へと導くことであり、言わば肉体上の進化のレベルアップを図ることである。二つ目は対象化への知的作用をペンディングすることであり、言わば観念構成上の進化のレベルダウンを図ることである。三つ目は肉体的環境はもとよりのこと、自然(的環境)を支配の対象としない考え方を推し進めることであり、言わば人間=自然の図式を打ちたてることである。四つ目はこれ以上に人為的環境における文明度を進めないことであり、言わば文化的保守主義を守ることである。
 これら四つはいずれも「答えが分かっているのに実際その通りになされえない」答えの類いとなろう。何故ならば、あえて繰り返すが、それらは遠い先の話とされるが故の抽象性、ユートピア性を免れえないばかりか、よく考えてみれば、これまで現存してきた人間の条件を否定することにつながっているからである。
 さて、これまでの話は、実は人類の「自然的滅亡」説を巡っての論議であったと言えなくもない。丁度それは個体としての人間が老いてきて自然死を迎えるのを承知で、死期をできるだけ延ばすにはどうしたらよいかについて考えているようなものである。ここでわれわれが注意せねばならないのは、丁度個体としても死ぬ時期でもないのに、自暴自棄になって自殺を思い決行するような人間がいたりして、人類全体がそれに引きずられて「人為的滅亡」へと導かれる危険性の方だろう。分かりやすい例としては、何らかの理由で厭世感を持った個人が核兵器のボタンを押したために、言わば道連れにされた形で、人類が死滅する場合である。一個人の自殺がそれだけに止まらないところに、現代科学の恐ろしさがあるが、これなどはまだ解決の可能性のある方ではあるだろう。
 分かりにくく且つ深刻なのは、人間特有の思惑で生きるのが厭になったから滅亡を図ると言ったものではなく、生きようとして、結果として滅亡への道を歩んでいく場合であろう。先程指摘したローレンツの「文明化した人間の八つの大罪」が、その背景にあり、善かれと思ってすることが、資源の枯渇、大量殺傷兵器の使用、地球汚染、化学薬品使用による繁殖器官等の障害、人口過密による飢餓や精神の異常、医学的人間改造等々を招来し、滅亡していくのである。これらは欲望充足を人間的生の証左であると解した近代的人間の思い込みが必然的に人間の生体の破壊へと導いていくことになるのだと伝えている恰好の事例となってはいないだろうか。
 私が言うところの「人為的滅亡」とはこのことを指して入る。もっとも、ホモ・サピエンスとして人間を見るならば、この人為的滅亡は人為的滅亡と区別がつけ難いとも考えられる。私は先程、知性の働きとは前頭葉の働きであると言った。その観点からは、人為的滅亡は自然的特性と社会的特性との混淆物であるか、せいぜい自然的滅亡の早まったものでしかないのだとも言えるからである。仮に知性固有の働きを見たとしても、この人為的滅亡は人間の自然的特性を無視しては語れないものなのである。従って、この人為的滅亡を避けようとする努力は自然的滅亡を先へと延ばす努力と変わらないというのが、私の基本的な考えである。(もっとも、論理としては、人為的滅亡説である以上は、人為的統御によって滅亡が避けられうると言えなくはない。この毒をもって毒を制すの類いの打開策は、滅亡を早める危険性と裏腹になっていることだけは留意しておく必要はあるだろう。)


   U 消極的平和のために

 自然的であれ、人為的であれ、人類滅亡の形態については、われわれは予測することができた。だが、先程も述べたように、その打開策にしても、知性を持つものならではのサロン話の観を与え、さしあたっての「平和」の実現を願う具体的人間の問いには答えていないかもしれない。そこで次に、そのような人間にとっての焦眉の問題についての生物学的考察に移りたいと思う。それはホモ・サピエンスである人間が己自身の生を全うするためには有用ではあるが、逆に相手の対象とされれば有害であると普通思われているところの「攻撃性」についてである。今までのが、人類が種として生き延びることを願うマクロな意味での平和を想定していたのに対し、これは個としてお互い争うことのないことを願うミクロな意味での平和を想定している。
 まずわれわれは「攻撃(Aggression)」についての辞書的な理解から始めよう。OEDによれば、「相手から触発されないのに行なう戦い。喧嘩の際、先に手を出すこと」と記されている。この定義は己の生存のための積極的姿勢を示しているかに見られるのだが、同時に悪いイメージでもって迎えられている観もないではない。これは行動主義者が「有害な刺激を有機体に及ぼす反応」とか、生物学者が「目的反応が生物体にとって損害となるような行動」とかいう風に通常定義しているところからきているのであろう。ところが厳密に見ていけば、他の存在に対して害を与えたとしても許されることだってあるのである。
 そもそも攻撃そのものが生物の行動として許されるというのは、生物の二大本能である「自己保存本能」と「種属保存本能」を自明のものとして認めるところからきている。「攻撃」という日本語のニュアンスが与える意味解釈は別として、少なくとも英語の"Aggression"の語源的な意味が「あるものに近づくこと」であるのを見ても、それは自らの命を守ることを課題とし、生きんがための捕食行動をとるために対象に向かって近づいていくという以外のなにものでもないと私には思える。そう言った捕食のための行動が生き物に向けられた時に「攻撃」という言葉が使われたのである。そして捕食のためだけでなく、個体と同時に種をも守る意味で、専守防衛的な意味合いで他の生き物に向かっていった時に、「攻撃」という言葉が特殊に「種外攻撃」を意味するようになったのである。しかしながら、この言葉にわれわれは倫理的非難の響きを与えていない。動物が動物に対しての場合はもとより、人間が動物に対しても(少なくともこれまでは)そうである。捕食攻撃や種外攻撃は実は攻撃と言われる類いのものではなかったのである。
 それではわれわれが通常「攻撃」と呼んでいるものとは何であるのか。それは動物が同じ種類の動物に対して行なう「種内攻撃」を指しているのである。そしてわれわれはこの種内攻撃に関しては、これまで、人間以外の動物の間では行なわれても、殺しにまでいくようなことはなく、人間の場合だけはそれができる唯一の動物であると受けとってきた。R・アードレイが人間を指して「狩りをするサル」と命名し、そこに人殺しまで行なう本性を見たのもうなづけるところである。そこから人間の攻撃性は他の動物にはない特殊な事情に基づいており、その「悪」的傾向を咎めるあまり、動物の行動の「善」的傾向を虚構する風潮も無視できなくなってきたとも言えよう。私はこれが別に悪いとは思わない。そのためには「種内攻撃」の持つ意味をもう少し吟味してみる必要はあると思う。
 ではこの「種内攻撃」も又、捕食攻撃や種外攻撃と同様に、個体維持とか種属保存とかを図る生き物の本能に基づくものなのだろうか。再三再四取り上げるローレンツの見解は、その通りである。特に彼は動物の種内攻撃が種を保つ働きをしていることを幾つかのデータから示している。例えば、同種の動物の適度な分布をもたらしていること、子孫の防衛になっていること、ライバル闘争によって淘汰がなされていること、順位性が取られるようになることが挙げられている。その際注目すべきなのは、動物でも同種の殺しをすることがあることを指摘した点であろう。してみると、この同種の殺しも又、種の保存のためになされているのであろうか。そしてそれが正しいとするならば、それは人間の場合でも当てはまっているのであろうか。ローレンツはそこまでは言わない。彼は種内攻撃は「昔の友にして今の敵である」と言うことでその点をごまかそうとしているようである。
 そこで気になるのは人間の場合の種内攻撃についてであるが、その検討に入る前に、もう少し動物の攻撃についての幾つかのパターンを知っておく必要がある。それというのもわれわれは、人間の場合と違って、動物の場合は「平和的」であるとの思いを意外と持たされており、その所以を明らかにすることで、「平和」論議の素材を供しうると思うからである。
まず気づくのは、捕食攻撃をする場合、動物は捕食の対象である動物を捕まえるのに絶対にミスを侵さないということである。これは動物が捕食のための完璧な武器を持っているということである。そしてそのような動物ほど殺傷の抑制作用が強いということである。因みに、殺傷の抑制作用の強い動物ほど、もしそれが社会性のある動物であるならば、完璧な形で共同生活をしていると言われている。
 次に種内攻撃において、攻撃を受けない動物の一般的特徴としては、相手を攻撃する意志を体で示さないのは当然として、相手の攻撃を解発するような刺激そのものを取り去っているふしがある。動物の場合はそれで攻撃を免れるに十分であり、それでも攻撃を受けそうな時には、自分が全くの無防備であることを相手に示すとか、一番の弱点をわざわざ晒そうとかする。要するに服従の動作をするのである。そうなると攻撃側は決して攻撃するようなことはしないのである。では、それでも攻撃衝動を抑え切れない動物はどうなるのだろうか。所謂転位動作をするとか、別の対象に向けるとかすることによって、それを発散してしまい、同じ相手を再び攻撃するということは断じて起こらないのである。総じて言うと、同種の動物の間には、有害な攻撃を無害な攻撃にするための「儀式」のようなものが形成されており、それに対して動物は本能的に容認しているのである。
 (ここで注意すべきなのは、上述のケースが人間以外の動物に普遍的に妥当していると言いうるかどうかである。意図的なサンプリングによるものではないとしても、十分に観察できなかったとか、ミスとかによって捨象されたケースもありうるかもしれない。この点を念頭においた上ではあるが)これら争いを殊更に避けようとしているかに受けとれる動物の行動を思い浮かべると、われわれはどうしてもそれらを人間のケースに当てはめようとして、次のような疑問がよく起こってくるものである。
 何故捕食ための完璧な武器を持つ動物に強い抑制力が備わっているのに、「知性」という武器を持つ人間にそれほどの抑制力がないのか。人間も社会的動物であるのに、何故エゴが出、それを抑えることができないのか。動物と違って、何故人間だけが攻撃しようともしない者にも攻撃し、服従しているのに抹殺までしてしまおうとするのか。又、動物ならば転位動作でも満足するのに、何故人間にはそれができない事態が生じるのか。動物の「儀式」を批判するのはともかくとして、かつて煙草を差し出すだけで戦争を避けたアメリカインディアンの平和への儀式が何故文明を誇る人間には馬鹿にされるのだろうか。総じて、動物はすべて二大本能に基づいているから攻撃抑制ができたのだというならば、同じ動物である人間は何故にそれができなかったのか、等々である。


   V ホモ・サピエンスとしての攻撃性について

 ここに至ってわれわれはやっと人間における種内攻撃に目を向けることになる。人間も二大本能を持つ動物種としてのホモ・サピエンスである以上、この種内攻撃を行なったとしても何の不思議はないだろう。だが人間であるが故の特殊性がこの種内攻撃を殊更に変様させ、且つ危険なものへと追いやっているのだ。この傾向は現在置かれている文化と技術の史的状況のもとでは、最もティピカルに現れていると言って過言ではない。それは何故なのか。まさに人間のみが持つ攻撃性があるからである。それは他の動物には見られない以下の三つの特徴として指摘されている。     
 一つ目は、誕生時の特殊性から、幼態成熟状態(Neoteny) での攻撃となっていることである。即ち人間は動物としては早く生まれすぎた存在である。それ故に学習と教育によって存在が保証されたが、裏を返せば、そのことは人間は生まれながらにして本質的な欠陥を持っているということを意味しているのではないだろうか。例えば神経組織が完成されないまま生まれたために存在的な不安を内在していたのではなかっただろうか、あるいは社会的相互関係能力がもともと欠如していたのではなかっただろうか。それが人間の持つ二大本能によって触発され、異常なまでに高められた攻撃性を持つようになったのではないだろうか。然り。これはハンディキャップを負わされたまま生まれてきた人間にとって避けられない事態だったのである。しかもそれは人間に備わった「知性」で以てしても、その存在的な不安をなくし、その社会的相互関係能力に取って代わることができなかった所為でもあったのである。
 二つ目は、その知性の観念構成能力によって逆に攻撃の意味付けがなされてしまっていることである。それは知性が死の意味とその有効性について、同胞であるホモ・サピエンスの道具性について、そして自分にとってそのホモ・サピエンスが敵なのか味方なのかについて知ることができたからである。又言葉を媒介とすることによってホモ・サピエンスに生き物として潜在していた攻撃性が開発させられ強化させられていることも挙げられよう。
 三つ目は、これら二つの当然の結果として、残酷性と破壊性とを伴っていることである。勿論、何を指して残酷的と言い、何を指して破壊的と言うかは人間独特の美的なあるいは価値的な判断からきているのであるが、それとても「人間性」そのものに起因しているのではあるまいか。そのことは人間が何故そのような行動するのか、従って何故攻撃するのかの答えをも示してくれているのである。人間の場合は、他の動物のように生理的要求によって行動し攻撃するのではなく、個体として存在していることの自覚から、自らの存在領域を確保するために行動し攻撃しているのである。しかもそれを支えているのは人間の知性と言うよりは情念なのである。言い換えれば、憎悪、野心、貪欲、嫉妬、羨望と言った人間性そのものたる情念が残酷性と破壊性を招来させているのである。
 いみじくもE・フロムは人間のみに起こる攻撃を「悪性の攻撃」と呼び、生物学的には非適応なものであると言っている。彼の考えによれば、攻撃は必ずしも否定されるべきものとは考えられてはいないのだ。文字通り生物学的に適応した生に役立つ「良性の攻撃」と言われるものもあるのであり、それは動物にのみならず、人間にも共通してあるのである。この場合、「良性の攻撃」は「死活の利害に対する脅威への反応であり」、「系統発生的に計画されており」、「脅威を除去することを目的とする」ものであり、その意味では、完全に自己保存本能に基づいている。従って結果として危害を与えるかもしれないが、危害を与えることを意図しない性質のものなのである。
 それにも拘らず、何らかの理由はあるにしろ、ホモ・サピエンスが危害を与えることを意図するような悪性の攻撃を持つに至ったのは、フロムによれば、悪性の攻撃が本能に依っていたからではなく、「さまざまな社会条件と人間の存在的要求との相互作用」に依っていたからである。本能主義者ではないフロムにしてみれば、それは当然の帰結かもしれないが、しかし私は人間の攻撃性を考える場合は、本能とまでは言えないにしても、ホモ・サピエンスとして生まれながらにして持っている生物学的構造的特殊性を無視してはいけないと思っている。それが、先程私が指摘したように、観念構成能力を司る前頭葉の発達が自我意識を形成したために、逆に存在的不安を内在させてしまった点、及び個性化されたまではよいが、それを通じてしか社会化できないプロセスがもたらす社会的相互関係能力の欠如の傾向性を有するようになった点に具現化されたのである。
 もっとも、厳密に考えれば、ホモ・サピエンスにおける存在的な不安が何らかの肉体的欠陥から生じてその補償行動として観念構成能力が働いたのか、それとも観念構成能力が働いたお陰で存在的な不安が生じたのかは、鶏が先か卵が先かの話のようで、私にも自信がない。いずれにしても観念構成能力たる知性は、ホモ・サピエンスが生きていく上で完璧な武器になっているのでなく、不完全さを残しているということであり、それ故にわれわれが理性という名で知性を理念化し、そこにその働きの十全性を期待する気持ちも分かるし、たとえ近似値的であっても、技術的対応をしていくことによって動物の本能が全うするに近い生の営み方をしようとする気持ちも分かるのである。
 これら人間の攻撃性を考えてみるに、それら自体が逆に人間とは何かを規定しているようでもある。とは言うものの、ホモ・サピエンスの構造的特殊性、即ち人間の存在的特殊性によって、人間が動物の種内攻撃のようなパターンを踏めないということで、われわれは人間の攻撃性の悪性的部分に手を拱いているわけではない。少なくともそれによって、われわれの平和がかき乱されている事実から、われわれの中で、個人的傾向の強い人は自分の身の安全のために、社会的傾向の強い人は子孫や人類の将来のために、人間から攻撃衝動を取り去るための提言を行なってきたのも確かである。それらについて、人間を物理的存在として見る立場から英知的存在として見る立場へと移行させる形で、それぞれの専門家の主張を借りてまとめると、次のようになるだろう。
 @医学者   :攻撃衝動そのものを司る脳の一部を切除する所謂ロボトミー手術
 A神経生理学者:攻撃衝動を伝え高めるホルモン(カテコールアミン等)の調節
 B児童心理学者:嬰児の環境を母体内の環境と同じにする育児
 C教育学者  :感情移入や同一感を養うための情操教育
 D精神分析学者:代替物でも満足する心の形成(肉体的満足としてはスポーツ、精神的満足としては道徳的等価物等による昇華)
 E政治学者  :性悪説的人間観に基づくリバイァサン国家の建設あるいは法支配体制の強化
 F哲学者 :性善説的人間観に基づくプラトン的ユートピアの建設あるいは英知的自己への啓発 
 われわれはこれらの提言がホモ・サピエンスを分析した結果生まれた好意ある判断に支えられているだろうことを疑ってはいない。だがどちらかと言うと、人間管理の発想から、人間が実験台にされるべき根拠が示されているようにも思える。それぞれの提言はそれなりに説得力を持ってはいる。それ故にある社会では有効であるかもしれないが、それが恒久的に「人間的存在領域」を守り続けているとは限らないだろう。攻撃衝動を取り去るための手術は成功した。しかしその結果人間が元の人間でなくなっていたという危険性もある。その上、それも「平和」のためには致し方がなかったのだと弁明する自由も与えられているのである。
 恐らくこれらの提言は「平和」の問題が取り沙汰される場合には、怨霊の如くに、形や言い方を変えて何度も頭をもたげてきてわれわれを悩ますことにはなるだろう。これらの提言はまさにそれを担った知性の苦心作でもあるが、未完成品でもあることをそれとなくわれわれは察知している。何故にそれらが未完成品であるのかの反省も又、知性的解決を余儀無くされるホモ・サピエンスの宿命でもあったのである。


   おわりに

 さてこれまでに私は人間が生物的存在であることに留意しつつ、平和への可能性を追求するための二つの考え方を紹介してきた。それを改めて整理して言うと次のようになるだろう。一つ目は、大局的観点から人類が生き延びることを平和の最重要課題とするならば、人間が住む環境への関りが過適応とならないように知性へのブレーキをかけることである。二つ目は、当面の問題として平和の破壊が人間の攻撃性にあるとするならば、動物の攻撃形態にもっと注目する一方、人間の攻撃衝動を抑制するためにこれまで提言されてきた種々の技術的解決の問題点を明らかにしていくことである。
 すでにお気づきかと思うが、この二つの考え方は矛盾しているようにも見える。一方は人間の知的活動を否定してホモ・サピエンスとしての自然性を強調しているのに対し、他方は動物の平和的攻撃を模倣するべく人間の知性を活用していこうとするからである。これはホモ・サピエンスの現在における知的レベルのなせる業である。われわれの知性は現在のところ己自身を完全に知りそれを統御するまでの力を持ち合わせてはいない。その可能性は残されているようなのだろうけれども、現実はいつも暴走気味である。にも拘らず知性が人間に備わっているというのも事実なのであるから、己の生の営みのためにそれに頼る気持ちも避けられないでいる。中途半端といってよいその情態性が矛盾する平和へのアプローチを生み出しているのである。しかしこの二つの考え方が矛盾するのではなく、局面が異なるが故に二つになって現れただけにすぎないと言わしめる「平和論」もあってよいのではないかと、私は思っている。
 一面、それは所詮独り善がりなユートピアであり、現実に即応しない「平和論」であるとの批判は避けられないだろうとは思われる。その批判の根底には、生物学的視点からの平和論そのものに問題点を見ようとする姿勢が窺われる。まず事実判断の信憑性が疑われるかもしれない。一つには、人間を動物学的に考察できるのかという反論がある。人間が動物と異なるところをよく見ていないというわけである。二つには、動物の行動を凝人化して見ていないかという反論がある。動物の動きが人間の思い込みの下に捉えられているというわけである。これなどは認識の違いだと言って逃げられなくもない。
 次に厄介なことには実践的な効果が少ないと言われている。もともとそれは脱イデオロギー的要素が強いので、例えば現存する貧困と抑圧やそこから起こる暴力性にすぐには対応できないのである。又切迫した局面に逢着した時には何の役にも立たないのである。言わば持てる者の贅沢な悩みのようなもので、良心を表しているかもしれないが、実践へと駆り立てる現実味に欠けているというわけである。
 それにも拘らず、私が平和への動物学的アプローチを試みるのは、人間の中にある動物的要素が人類として生き延びるためにも、又他人を傷つけないためにも、系統発生的に育まれた知恵のようなものを兼ね備えているように思うからである。再三再四言うように、その知恵のようなものは個体の成長の過程で起こる存在的要求によって眠らされたままになっているか、それとも禁断の木の実を食べたお陰で無力化されている。そのお陰でホモ・サピエンスが人間(Human Beings)になって、これまで地球の支配者として君臨し生きてこれたのだと言ってしまえばそれまでであるが、それは肉体的構造的には本来捕食動物の体をなしていないのに、捕食動物として生きなければならない苦痛を背負い込むことなのであり、その皺寄せが悪性の攻撃となって現れたように思われる。
 人間が英知的存在であることを誇ったギリシャ人が、又それ以後には哲学者が「己自身を知れ」を生の究極の目的としてきたのは、人間が英知的であることへの憧憬から来ているのも確かだろうが、実は謙虚にも人間が根っからの捕食動物でないことを自覚させるためであったのだと、私には思われてならない。知性が人間の生にとって完璧な武器となっていないのは、悪性の攻撃性を持っているのを見ても明らかだが、それを神の与えた試練なのだと反応するよりも、知性を生のための武器にしようとした心根の方に問題があったのだと反省するように、何とか持っていけないものだろうか。私の「平和論」はそこから始まる。差し迫る平和の危機が到来したとき、何をなすべきかを知性で考えてから行動するよりも、一切の社会的存在的要求をまずは括弧に入れて、それから私の体がどう蠢くのかをじっと待ってから行動することが肝要かと思う次第である。


   参考文献

K・E・ボールディング他『地球をわれらに 生き残るための提言』(清水幾太郎・松尾文夫訳)、ダイヤモンド社、1971年)
B・ラッセル『人類に未来はあるか』(日高一輝訳、理想社、1962年)
R・バックミンスター・フラー『宇宙船<地球>号』(東野芳明訳、ダイヤモンド社、1972年)
K・ローレンツ『攻撃−悪の自然誌』(日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房、1970年)
       『文明化した人間の八つの大罪』(日高敏隆・大羽更明訳、思索社、1975年)
J・モノー『偶然と必然』(渡辺格・村上光彦訳、みすず書房、1972年)
A・ストー『人間の破壊性』(塚本利明訳、法政大学出版局、1979年)
R・アードレイ『狩りをするサル(原題:『狩猟仮説』、徳田喜三郎訳、河出書房新社、1978年)
H・カラン『動物の行動と人間の社会』(寺嶋秀明訳、海鳴社、1980年)
E・フロム『破壊−人間性の解剖』上、下(作田啓一・佐野哲郎訳、紀伊国屋書店、1975年)


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