第1部 これまでのホモ・サピエンス像
近代進化思想についての素描
はじめに
森羅万象が科学的に解明されるようになり、そこで解明されたものを真理として認めるようになってからこの方、人間はその真理なるものに基づいたさまざまな生きるための原理を打ち立ててきた。これまでその科学的真理とされたものの中で、とりわけわれわれが影響を受けたのは、次の三つであった、と私は考える。
最初は、太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているという事実の発見によって生まれた。これはコペルニクスの「地動説」として16世紀になって認められた。その次は、人間は神から創造されたのではなく、動物から進化したのだという事実の指摘によって生まれた。これはダーウィン等の「進化論」として19世紀になって認められた。最後は、J・ワトソンとF・クリックによるDNAの構造と仕組みの解明が決め手となって、すべてではないにしても、人間も又遺伝子のプログラミングに従っているのだという事実が明らかにされることによって生まれた。これはR・ドーキンスの「利己的遺伝子説」として20世紀末の今日にはほぼ認められるようになった。
これら三つのケースはいずれも近代になって明らかにされた事実である。私がこれらのケースを選んだ理由は、それが生活原理なるものに大いに影響を与えたということの他に、もう一つある。それは、通常われわれが近代的生き方や考え方そのものの底流にあると認めているところの「ヒューマニズム」とどう関わっているのかについて大いに詮索してみたい衝動に駆られたことである。というのは、これら三つは、場合によっては、その「ヒューマニズム」にも逆らいかねない要素を同時に内包していると思ったからである。
それはいかなる意味か。どうも人間は、いわゆる「人類の誕生」以来、自分達だけは何か特別な存在であるかのように思ってしまう性向を持って生まれてきているらしい。即ち人間はあらゆるものの中心に位置していて、人間以外の存在はその人間によって見られるか、認められるか、もしくは取り扱われるかして、初めてその存在の意味を持つのだと思いたがる性向である。これは人間存在それ自身が自意識を持ち、森羅万象についてはすべて対象化してとらえようとする、言わば人間の構造性と機能性とから来ているのである。その結果、人間は、ことさらに身構えない生活状況の中では、常に自己中心的な世界観を出発点とし、森羅万象を超越していると思いこんできたのだった。
まず、「地動説」が科学的真理として容認されるまでに、人々が「天動説」を生活原理の中に取り入れてきたのは、その自己中心性が知らず知らずに投影されていたからだと考えてよいだろう。森羅万象は自分達の周りにあり、自分達のためにあった。この心地よい感情はいわゆる科学的無知によって守られていたとは言え、初めて「地動説」を容認せざるをえない事態を迎えるようになった時、当時の人々は「楽園追放」で被った痛手にも似た己の有限性について思い知らされたのではなかっただろうか。曰く、森羅万象は自分達のためには何もしてくれないのであり、生きていくためには、自分達自身が森羅万象に対して働きかけていかなければ何もできないと言った如くにである。
次に「進化論」はその「地動説」のショックから立ち直り新たに得た生活原理を、即ち森羅万象を人知によって解明しようと積極的に動けば、その結果自分達だけでも思い通りに生きていけるのだとする思いを打ち砕いた。それまでは森羅万象は自分達によって取り扱われる対象であり、従って森羅万象は自分達とは本質的に違ったものであった。とりわけ宗教的思考の人達が、人間は神によって特別に創造された存在だと言っているのも、その思いの現れの一つであった。そんな人間の開き直りにもかかわらず、「進化論」は人間存在の在り様そのものまでもが森羅万象の中での一つの現象形態でしかないとして断罪を下してしまったのである。
最後に「利己的遺伝子説」はその「進化論」のショックから再度立ち直り得た生活原理、即ち人間は森羅万象の頂点に立ち絶対的に君臨する究極の王者であるとする自負を打ち砕いた。曰く、人間と言えども、遺伝子の単なる乗り物でしかなく、われわれが誇りに思っている「自由意志」もどうやら怪しいものだという如くにである。もっとも、この考えは現在進行中であるから、「打ち砕いた」と過去形で言ってしまうのは早計かも知れないので、ここでは「打ち砕こうとしている」と言っておいた方がよいかも知れない。
総じてこれら三つは、人間はすべての中心であり毀損され得ない尊厳性と力を持っているとする「人間至上主義」の思い上がりを、科学的に明らかにされた事実を開示することによって、冷まさせようとしている点で共通しているのである。
本エッセイでは、ここで言うところの第二のショック、言い換えれば「進化論」について焦点をあて、そこに見られる様々な思想を俯瞰することによって、人間の持つ構造性と機能性がいかに独りよがりに対応していったのか、又それによってどのような考えを持つに至ったのかについて話していきたいと思う。
T 進化論の誕生
1920年代のアメリカの幾つかの州では、いわゆる「猿法」なる法律を作って進化論を教えることを禁じていたと言う。さすがに今日では、そのような法律は馬鹿げたこととして廃止されてしまったが、それでもわれわれの生活原理の中には進化論に異議申し立てをせざるをえない何かが隠されているようで、相変わらず、進化論にはむき出しの感情をあらわにする人も少なからずはいる。現に、アメリカのアーカンソー州では「教育機会均等法」と称して、学校教育で進化論を教えるのなら、同等に聖書の教えも教えるべしとする法律が1982年まで存在していたのである。
これに対しては、それは、冒頭述べたように、聖書に見られる神の創造説に影響されているからだと言うのは簡単であろう。が、そうさせると思われるところの人間の本性についてまで立ち入るとなると、話は難しくなりそうではある。いずれにしても、そのような法律がつい最近まであったということは、われわれの生活原理が科学的真理とは関係のないところにでも存在しうるのだと言っているようで面白い。というのも、ある種の人間的存在領域においては、どんなに馬鹿げた法律であっても、それを作り、そのもとで生きていこうとする人間の行動こそ人間らしさの証明なのだと主張しているように思えるからである。
さて、エピソディックな導入はそれくらいにして、これから私はこの進化論から派生した「進化思想」についての話を進めよう。それでも、その前にはやはり、この物議を醸すルーツたる「進化論」そのものについては触れておかなければならないだろう。
はたして、「進化論」とは何か。それに答えるには、そもそも「進化」とは何か、少なくとも生物学的に使われる「進化」とは何を意味する言葉としてとらえられているのかについてから話を始める必要がある。S・J・グールドによれば、もともと「進化
(Evolution)」とはラテン語の evolvere なる動詞から来ており、「巻かれていたものが広がる、展開する」ことを意味していた。私の思うに、おそらく天地創造説が自明とされていた頃の言葉であるから、これは、神によって作られた始源的な巻かれたものがこの世において姿をどんどんと見せるようになる様を意味していたのであろう。ただしこの時点では、巻かれたものとは物質的なものであった。神によって作られた物質的なものが神の意に従って展開していったにすぎなかったのである。
18世紀になってドイツの一生物学者A・V・ハラーが生物の発生と展開について説明する際に、この言葉を専門用語として使った。具体的にイメージするには、ロシアの民芸品である「いれこ」になった人形を思いだせばよい。つまり、生物が発生するのはその生物そのものの形をした小型のものが、その生物の中に入っていて、次にはそれが大きくなるということなのである。そしてその小型のものの中にはさらに小型のものが入っていて、それが次に大きくなり、同様にしてそれを繰り返すのだというそのような展開を示す言葉として使われたのである。これにより、この物質的なものに限定されていた「進化」なる言葉は生物的対象にも適用されるようになった。つまり、初めて生物学的用語として使われたと言ってよいだろう。
しかし、この時われわれが留意せねばならないのは、この考えはまだ聖書の天地創造説と抵触しないように配慮されているという点であり、又、生物の中に人間が含まれているとは積極的には言われていない点であろう。しかしながら、天地創造説が相手にされなくなるのと並行して、この「いれこ」説(生物学的には前成説もしくは展開説とも言う)も又相手にされなくなり、生物の発生と展開についてはいわゆる科学的なアプローチで探求しようとする機運が19世紀になって起こってから、この「進化」なる言葉は幾つもの試練を受けるようになった。
まず、その19世紀において、われわれが代表的な進化論者として、フランスのラマルク、ドイツのヘッケル、そしてイギリスのダーウィンの名を挙げるように生物学史的に決めつけてしまったのは、歴史と言われるもののアイロニーと言わねばならない。何故ならば彼ら自身は進化という言葉をほとんど使ってはいなかったからである。われわれが今日進化という言葉で了解している事象については、彼らは「変遷(Transition)」とか「変異(Mutation)」とか「変様(Modification)」とかの言葉を使っていたのである。その意味では、少なくとも彼らは事実に対しては自然科学者の目で見ていたと言えようか。
彼らはただ生物が変化するという現象を事実として認める立場の人間だった。その結果、天地創造説がその論理的帰結として認めていたところの「種の不滅性」について疑義を持たざるをえなくなった。彼らの使った言葉は、勿論、自然界の現象的事実を説明しただけであったが、明らかに種の不滅説に対抗する思想的な武器にもなっていた。そのためには、生物が種としていかに変化するのかについて、言い換えれば生物の進化要因とは何かについて、確固たる事実をもとにして明らかにしなければならなかった。そしてそれぞれに打ち立てたのが、巷間言われる「用不用説」であり、「反復説」であり、「自然選択説」であったのである。
いわゆる生物の歴史的な変化を進化という言葉で示されるようになった功績はスペンサーにあった。彼は主著『第一原理』の中で、従来生物学的用語として使われていた進化という言葉を換骨奪胎して、その言葉を、どちらかというと、日常的な意味で使われていた進化という言葉の意味の方にこと寄せた形で、専門用語として使ったのだった。当時この進化という言葉は、OEDにも記載されている如く、「萌芽的な状態から成熟ないし完成した状態への発展過程を意味する」それとして使われていた。スペンサーにとれば、生物が変化をするならば、その変化は単なる変化ではないとする当時の人間の価値観に従っただけだろう。
それをスペンサーの言い方ですれば、進化とは「同質性より異質性への変化であると同時に、不定限性より定限性への変化である。簡単性から複合性への進歩と相並んで、混乱より秩序への進歩ー未決定配置より決定配置への進歩ー」だったのである。従って先の進化論者達が専らに使った言葉、即ち「変遷」、「変異」、「変様」は「進化」という言葉に置き換えた方がより適切であると思えたのであろう。以後、この言葉は盲目的に使われる便利な言葉となった。
ここでわれわれは進化の概念が「進歩(Progress)」のそれと結びつけられているのに気づかされる。確かにそれはスペンサーによるところが大きかったとは言え、そのスペンサーとて、単に日常的な意味で使われている言葉を専門用語にしたのにすぎなかったと見れば、むしろ進化即ち展開を高度な段階に向かう発展としてとらえ、その発展は人間にとっての進歩なんだととらえようとした当時の人間の共通の思考習慣によっていたと考えるべきであったのである。
それでは、何をもって進歩ととらえるのか。これは色々考えられるところであるが、おそらく、そして極論すれば、それは複雑性を増すとか、質的に高度になっているとかの考え方によっているのだろうが、形態的には人間に近くなっているとか、人間の諸器官が持つ働きに近くなってきているとか言う以上のなにものも示していないように、私には思われる。しかし、この点についてはあとでもう一度取り上げよう。
いずれにしても、進化は生物的対象にも使われたのである。厳密に言えば、この時点では森羅万象における物質的なものの発展が進歩であり、生物的なものの発展が進化であり、それらは同じ現象としてとらえられるようになったと言えるだろう。これは明らかに、物質と生命が全く異質のものではなく、同じ発展過程を持つものだとする唯物論的観点がこの時期に浸透してきていたことを物語っている。
さて、その進化が進歩の概念を含んでいようといまいと、「生物が進化する」ということを認めるということは、必然的に一つの結論を導入せざるをえない羽目に人間は追いやられるのである。即ち「人間と動物は共通の祖先を持つ」ということである。もともと人間はルーツとか始まりとかについての思索をしたがる。それは人間にとって快い領域の一つなのかも知れないし、ホモ・サピエンスとしての人間の特性であるのかも知れない。しかし、そうだからと言って、人間の祖先が、物質的なものと同じであると言われる不快さは当然として、その上に日頃自分たちが下等動物だと貶しているものまでとも根が同じであるのだなどとは、思うだに不快であったし、あってはならないこととして了解されていたのである。
そう言った気持ちを代弁していたのが聖書の天地創造説であるのはすでに述べた通りである。聖書の天地創造説が被造物としての森羅万象の中に人間を含んでいたとしても、人間だけを質的に異質なものとして特別視していたところに、ともかく「人間至上主義」のメンツは保たれていた。人間と動物は神によって作られたとは言え、兄弟ではないと言うことが保証されていたからである。進化論はそのメンツさえも打ち砕いたわけであるが、注意すべきは、進化論とはその主張するところの「人間と動物は共通の祖先を持つ」という点においてのみ、もっとも衝撃を与えたということである。たったそれだけの事実を認めることが人間にとってはその構造性と機能性から、なかなかに難しかったのである。それだけに人間と動物の同質性を認めざるをえない状況を迎えたときに、人間は新たなメンツを求める作業が必要となったのも又事実であった。その新たなメンツとは何か。次節に移ろう。
U ラマルキズムとダーウィニズム
すべての生物の大原則とは、丘浅次郎の言葉を借りるまでもなく、「喰うて産んで死ぬ」という営み以外のなにものでもない。それでも、進化論が生まれるまでは、個体は死ぬが「種は不滅である」という考えが支配的であり、それに基づく生活原理も形成されてきたのだった。だが、進化論そのものの成立根拠は、前節に述べた如く、種は変化するということの容認と不可分の関係にあった。そして進化論による「人間と動物は共通の祖先を持つ」という認識による衝撃は、もう一つの副次的な衝撃を与えていた。つまり種は変化するということは「種は滅亡する」ということにつながるという認識であった。人間が新たなメンツを求める際、この二つの認識にどう対処するかが大いなる試練として人間に課せられたのである。
もともと進化論とは、種はいかにして生き残るのか、もしくは滅びるのかについての実証的な研究である。これはすでに種の変化の事実を前提にしている。つまりは種の滅亡の不可避性を認めている。そしてこの変化ないしは滅亡は「環境」との関係性においてこそ説明されうるという考え方が客観的なそれとして認められた上で進化論は成り立っていたのである。
もっとも、当初は「環境」という言葉は使われてはいなかった。この言葉が使われだしたのは、1909年にドイツの生理学者ヤコブ・フォン・ユクスキュルが「個体の主観的又は現象的世界」を意味する言葉として「環境世界(Umwelt)」を使ったことが契機となった。それ以前、とりわけ19世紀の進化論者と言われる人達は、これに当たるものとしては「生活条件」という言葉を使っていた。
ここで明らかなのは、進化論そのものとはそれぞれの生物の進化についての学問なのであるが、その実、すべての進化論者といわれる人達は、それでは人間がいかにして由来して来、現在に至ったのかについては常に念頭において自説を展開していたということである。
従って、種が変化していくにしても、その流れは、最初はアメーバーのようなものから下等動物、次いで高等動物へと変化し、その頂点として人間へと変化していくというプロセスが抵抗なく受け入れられた。人間は生物の一種ではあるけれども、言わばその最終的到達点として位置づけられた。その後の流れにおいても、進化論が進化思想として様々な形で展開していく際に、動物から植物に、そして物質的なものにまで共通の祖先を探し求めることとなった。たとえば現代において、ジュリアン・ハクスレイは進化を拡大的な意味でとらえ、進化には三段階があり、第一は無機物の段階もしくは宇宙論の段階、第二は有機物の段階もしくは生物学が対象とするような段階、第三が人類の段階もしくは心理・社会的な段階があると言っているのもその例なのである。
過去には「土」を始源的なものとし、そこから様々に発展し、ついには人間の誕生にまで至るプロセスを考え出したアナンシマクロスような人の考え方までも進化論的だとされてしまう事態が生じた。そこには一貫として、自然から生物が誕生したのであり、生物の中から人間が誕生したのであるという見方が底流としてあったのであるが、人間をその頂点に位置させるヒェラルキーを持ってくることで、メンツを守ろうとしたのは容易に察知されるところである。事実、18世紀に専らドイツあたりで喧伝された「自然哲学」の中身にもその傾向があるとも言われているのである。(もっとも、この哲学を進化学史の系譜に入れていいかどうかは今も問題視されてはいるが。)
このヒェラルキーの導入は、それ以上の変化の場を打ち切ることで、あるいは「今」を固定させることで、人間種も又変化し滅亡するという事実から何とかして逃れようとする人間の願いの現れでもあった。それでもって人間種だけは種の変化を受けないと言い切るには難があるが、少なくとも、人間が自然を統御、支配できる地位に君臨することで、何か特別な権能を持っているかのようにして、種の変化から免れようとしているようにも思われる。まるで人間は生物界に所属しているが、意識界、精神世界にも属する特別な存在なのだからと言わんばかりにである。その発想には創造説をもたらす考え方、即ち人間存在の特別視と似たものがあるのではないだろうか。
とは言え、進化論がそう簡単に割り切れた形では必ずしも説明されえなかったのも事実であった。最終的には、われわれは進化論とはダーウィニズムが代表した形で一般的理解を得ることになったのであるが、今日そのダーウィニズムも又様々な視点から批判されてきているのを見れば、いかに「人間至上主義」の亡霊が払拭されてはいなかったのかと思わざるをえない。その点について、同じ進化論の立場に立っているとはいえ、ダーウィニズムの最大のライバルであったラマルキズムがなかなかに抹殺されえない事実からも推察されよう。
そこで次には、進化論者として代表的な二人の人物、即ちラマルクとダーウィンの考え方が世間に浸透していった経緯について考えてみたいと思う。一般的に、生物の進化を最初に言ったのはラマルクであり、ダーウィンはその説明を明快に行ったと言ってよいだろう。先にも述べた如く、われわれが進化の要因を考えるようになったのは、生物が変化しているという事実が容認されたからである。(実際は進化の要因について実証的に明らかにされてきたから、生物の進化が信じられるようになったとも言えるが。)ところが、進化の要因についての説が様々に打ち立てられたものの、確たる説があらわれなかったところに後に色々と取りざたされることとなった。われわれが進化論と言えばダーウィニズムだとしているのは、比較的多くの人に受け入れられただけの理由からでしかなかったのである。
さて、19世紀において、ラマルクとダーウィンの考え方が特に有効的な進化論となったのは、それらが当時の人々の抱いていた人間観や社会観と相応していたからだとも考えられる。そこでは個人と社会とは不可分の関係にあることを前提にしながら、人間の生き方が問われていた場合が多かった。社会思想史的観点からは、個人の働きを重視するいわゆる「個人主義」と社会の働きを重視するいわゆる「社会主義」とが錯綜して云々されていた時代であったからである。進化論の世界でも、生物と環境との関係性が、個人と社会との関係性で取りざたされるパターンに従って、考えられていたのである。即ちその関係性は生物の環境に対する適応のあり方としてとらえられていたのである。
私はラマルキズムとダーウィニズムとの違いは環境に対する生物の適応に際し、その生物の主体性をより認める方か、それともより認めない方かの違いでしかないと思っている。その場合でも、両者とも、生物が生きているのは環境に適応しているからなのだとの考え方は既定のそれとして前提にされているのである。その前提を認めた上で、一般にわれわれはそれらの考え方については次のように理解している。
ラマルキズムの場合は、俗にキリンの首が長いのは長くなるようにキリンが働いたからだと言われるように、「用不用説」、言い換えれば生物内部における固有の力を認める考え方に立つと同時に、それで変化したものは遺伝するという進化説である。ダーウィニズムの場合は、生物に何らかの変異が内的要因であれ外的要因であれ、起こり、それが自然の淘汰を受けて、たまたま環境内で生きていく上で有利に働いたために、生き残っていくという進化説である。これらをさらに敷衍すれば、ラマルキズムは漸進主義(Gradation)
的で、進歩主義(Progression) 的で、目的論的な傾向を持つものとして受け入れられ、人間的思考形態と馴染みやすいのに対し、ダーウィニズムは自然は飛躍せずの考えに基づく斉一説に支えられながらも、機械論的で、偶発論的な傾向を持つものとして受け入れられ、その意味では科学的思考形態と馴染みやすかったのである。
歴史的評価という点では、これら二つは幾多の浮き沈みがあり、現在においても決着がついたわけではない。それどころか、これら以外にも非科学的で神秘主義的なものも含めて、様々な進化説が提唱され、とりわけ今日では分子生物学の側からも進化についてのアプローチがあって、まさに諸説紛々の観があるが、私の今のテーマから外れるので、別の機会に述べよう。
V 利用される進化論
さて、結局のところ、進化論とは、人間も動物も生物としては一緒なのだとか、人間も動物の仲間でしかないとかいうことを人々に認めさせた以外の何の働きもしなかったと、私は思っている。むしろ問題なのは、人間がそこから様々な進化思想といわれるものを自分に都合のいい形で作り出していることの方にあったのである。それが進化の要因を科学的に探求している段階であるのなら、それでよいのかも知れないが、それでもその結果は、たいていの場合、人間が頂点にたって最終的段階に至っているとの方向性を辿ろうとしているのである。それのみならず、だからこそ人間はその地位にいることの正当性と、それを維持することの大切さを訴えることも忘れないでいるのである。
確かに、進化論者のチャンピオンたるダーウィン自身は生物の変異を指摘しただけで、それでもって、あるいは後に言われるように、進化したことによって下等動物から高等動物になったとの言明はしなかったのは事実であったとしても、後にすぐさま、スペンサーによる「適者生存」説によって補われる余地を残したし、更には、生物の進化を語れば、人間の誕生とその進化についても言及せざるをえなくなった結果、人間だけが生き残る何か特別な「強さ」をほのめかせる場を与えたのも又事実であった。
そこで人間によって都合よく作られた進化思想の中で、社会思想史的世界においても物議を醸した二つを選んで、その問題点を指摘してみよう。一つは「社会進化論」もしくは「社会ダーウィニズム」と言われるある種の社会学説である。このきっかけを作ったのは、生物の変異を進化と言い直したスペンサーであった。彼はダーウィンの考えであった生存競争・自然淘汰を解釈する中で、先程の「適者生存」を加えて、ダーウィンの進化論の擁護者となった。が、彼の念頭にあったのは、生物の進化のアナロジーとして「社会の進化」も考えられるという思いであった。これはダーウィンと違って、諸現象に対するスペンサーの視野の広さに起因するだろう。そして、当時において社会現象を科学的に解明しようとする機運やフランスを中心とした社会進歩思想の影響や資本主義体制の矛盾の打開が叫ばれ始めた状況にあって、彼もそれに応えようとしたのだろう。
しかしながら、生物進化論が結局は今君臨する人間が頂点に昇る理由付けをするための進化論であった如く、社会進化論も、科学性は唱ってはいるものの、ダーウィニズムのキーワードである生存競争・自然淘汰・適者生存の言葉をその本来の意味から乖離させ、己の位置するかあるいは望む社会体制の説明のために、単に利用した言葉使いであったにすぎなかったのである。例えば、社会の強者に位置する人にとって社会進化論とは強者であることの正当性の守護神でしかなく、昔の王権神授説の現代版と言ってもよかった。弱者にとれば、強者になるための精神的拠り所であり、スローガンであった。言い換えれば、三つのキーワードは優勝劣敗の価値観の導入、差別意識の合理化、強者生存の普遍化を目論もうとするための飾りビナにされただけの話だった。
実際のところ、これらのキーワードは社会現象について実証的見地からは何も明らかにしていないのであり、個を大事にする社会状況であろうと、全体を大事にする社会状況であろうと、関わりなく、人々の思惑のみによってヌエの如くに利用されたと見てもよいだろう。
今日、社会進化論という言葉はあまり使われなくなった。それは単に19世紀におけるほんの一時期の社会状況を説明するに適合していたためだが、しかしその精神は、今日においても、頂点に昇りつめようとする思考形態と生物学的進化論に見られるような漸進的進歩の考えを社会において見いだそうとする状況とがある限りは、いつまでも残っていて消えることはないだろう。その場合、生物学的進化論を社会の進化にも適応できると考える誤りを指摘することで問題が解決されるわけではない。むしろ社会進化論における精神の方が先にあって、そのパターンに従って生物学的進化論が語られていると見た方がよいとも、私には思えるのである。その視点から見れば、生物学的進化論で語られる生存競争・自然淘汰・適者生存説自体、はたして科学的真理と言えるかどうか疑わしいと思われ出している今日的状況のあるのも頷けるのである。
次に取り上げるべき問題点は「人間の由来」に関わって生じてくる危険な進化思想である。前節でも明らかにしたように、生物学的進化論は人間も動物から派生する事実を認めさせたが、そこには下等動物から高等動物へと進化するという暗黙の了解がなされていた。人間は猿の進化した存在だと一般に信じられていた事実はそのあたりの了解がもたらす人間の思い上がりを知らず知らずに伝えているものではあるだろう。この思い上がりは、恐ろしいまでの次の了解を導入している。即ち、人間の誕生の前には下等なる「前人間」なる動物がいて、その下等なる「前人間」から下等なる「人間」が出て、その下等なる「人間」から高等なる「人間」が出たのは、進化の正しい過程をたどった証であるとしてしまうような了解をである。
あらゆる進化論者はここにおいて同じ試練に立たされただろう。そもそも進化論者にとって、一つの種に変異が起こり、変種となり、その結果新種となる過程はどうなのかについて説明するのは至上命令である。そして、個人的に明らかにするしないはともかくとして、人間種がどのようにして誕生するのかについても進化論者として説明する義務は避けられないのである。そんな背景があって、いわゆる「ミッシング・リング」を巡っての科学的努力がなされてきたのは事実であった。その結果、現在ではどこまで明らかにされているのか。
ここで、私は『歴史から消えたホモ・サピエンス』で取り上げた4種類の人類を再び登場させて、私の考え方を述べよう。すなわち猿人、原人、旧人、新人である。これまでの私の文脈から判断しようとする人ならば、ここで直ちに、最初の猿人は人類としては最も下等なものであり、最後の新人は人類として最も高等なものだとされている例について話そうとしているのだと察知できよう。その際、4種類の人類が順次進化したものとしてランクづけされてしまうのはなぜなのだろうか。
確かにランク付けの根拠を彼らの持つ文化状況に求めたためだろうことは、容易に考えられよう。それとても現代の文化状況を基軸にしているので、独善的なものではあるが、それ以上に、ダーウィン流に生き残ったものが優れていたからだとの理由を拙速にも持ち込んだのならば、問題である。人類の中で現に生き残っているのは新人だけであり、他の人類は絶滅してしまっている以上、その詮索は仕方がないとしても、他の人類の絶滅には他の生物には見られない事情が介在していただろうことは、もっと考えられてしかるべきであろう。
いずれにしても現在において生存している人類とは新人であり、その中にはわれわれ現代人も入っている。そしてわれわれの心の中では、われわれ新人は人類の進化の結果ここにいるのだとの思いを内在させている。更には、同じ新人でも5万年前に誕生したと言われる新人と今の新人は進化の程度が違っているのだとも思いがちである。このように、単に古い場合は下等で新しい場合は高等であるとするクロニカルな区別づけは、馬鹿げてはいても、今の己を頂点にしたがる人間の本性からすれば、一つの整合性は付けられる。これとても、旧人の値打ちをつけられるのが新人以外にないのと同様、古い新人の値打ちをつけられるのが今の新人以外にないのだから致し方がない。
注意すべきは、そのような人間の本性から、下等か高等かの区別づけが取りざたされるあまり、現存する新人の中にも当てはめようとする傾向である。周知のように、新人にも色々あり、人種の違いという形でそれらが区別されている。これは一般的に民族の違いとしても捉えられている。それらがどのようにして分化して生まれたかの詮索はともかくとして、この場合はこれまでの例と違って、現在でも共存している。にもかかわらず、ここにも下等か高等かの区別が持ち込まれているのである。その動きが出たのは、ダーウィニズムの方からではなく、ヘッケルの進化論の方からである。彼の進化論は一元論的な特徴をとりわけ有しているのであるが、どうやらそれが社会進化論的に捉え直されていったことの結果としてのようである。
その動きは民族至上主義の運動となって展開されていき、人種差別の公然たる容認の背景ともなっていったのをわれわれは知っている。かつてアーリア人種の優越性を謳い、ゲルマン民族による地球支配を標榜したナチズムが20世紀前半においてもたらした悲劇はその象徴的事例である。(実際、ヘッケル自身も白色人種のみが歴史を創造してきたのだと堂々と言っている。)こう言った考え方は完全に否定されたわけではなく、新しい装いを持ってたえず機をうかがっているのはネオ・ナチズムの台頭が喧伝されているところからも明らかである。と同時に、この現象は他の人種のすべてに見られているのだとしても間違いではない。何のことはない。それぞれが己の属する人種の優越性を主張しているだけの話であり、その根拠を猿からもっとも離れた、つまりはもっとも進化した存在として自負するために進化論の考え方を使ったにすぎなかったのである。
更には、進化思想が人間種に対しても説明されるようになると、現存の人間種にもいろいろと格差があると主張したくなるのは当たり前である。しかしながら、最も進化した人間種なのだと言いたがるのは、すべての人間あるいは彼の所属する仲間であるとしても、それが証明できるのは、社会的に何らかの力を持ち発揮できるもの以外にはなかった。それ故に証明するためには何らかの力を持たねばならないとも思う気持ちも幅を利かせてくるのである。
こう言った動きは何も人種差別に限ってはいないだろう。性差別を初め階級差別や職業差別、他あらゆる種類の人間差別に連なっていくものである。そこでは差別する側の行為の正当性も進化論によってえようとする気配さえ見られているのである。例えば、支配する側の人間は高等で優秀であるから生き残る権利があり、そのためには、優生学的手法を用いるのは言うに及ばず、あらゆる暴力的な手法でも許されるのだ、そしてそれが人類の進化(進歩)につながるのだと言った類の理屈までねつ造されてきたりする例も枚挙にいとまがないのである。
おわりに
結局、進化論とは人間を生物の頂点に立たせるための理論、もしくは人間が生物の頂点に達したプロセスの説明となることで、その歴史的意味を持っていた。厳密に言えば、その場合の人間とは「ヒト」もしくは「人類」である。通常われわれが人間という場合は、己又は己を含む仲間だけを指す場合が多い。人間という言葉は自己に関わる視野をどこまで持つかによって決められるきわめて恣意的なものである。チンパンジーやゴリラは遺伝子学的にはほとんど人間と同じ構造を持つが、彼らは人間とは見なされない。新人にとれば、旧人までの化石人類は人間ではない。そして誤解を恐れず言えば、白人にとれば黄色人や黒人は人間ではなく、ヒットラーならばゲルマン民族以外は人間ではなく、ドイツ民族でなければ人間ではない。その上に、人間の場合やっかいなのは、形態学的な区別だけではなく、文化的な区別までも設けることである。形態が全く同じでも、国家が、階級が、そして組織が違えばそこに属する人間は人間ではない。あまつさえ、同じ組織に属していても、そこで違った考えを持とうものなら、もはやその人は人間ではない。そう言った人たちは一様に「ケモノ」扱いされるのである。言い換えれば「人間」よりも劣った存在だと見なされるのである。
進化論がそのような人間の思考パターン形成に与っていたことは大いに考えられる。もっとも、思考パターンそのものは元々人間の条件であるとも私は思っているので、これも厳密に言えば、進化論はその思考パターンの強化をモダーンな形で行ったと言うのが正しいだろう。何故ならば、人間の思考パターンは人類の誕生から見られるのであり、人類の進化とか進歩とか言われる歴史を経る中にも、それぞれの時代にあった形で強化されていると見られるからである。創造説は動物の支配者たる人間を十把一絡げにしているだけで話はすんだが、昔から身分制のもとに人間でありながら人間以下に扱われるシステムはいくらでも作られていたのである。
もともと、人間中心的なものの考え方は人間からはるか離れた存在に関しては寛容であった。否、寛容であると言うより、杜撰であって、それこそ百把一絡げ、千把一絡げでしか見られなかった。それは人間が考慮するだに当たらぬ下等の存在故に、注目されなかったためなのだろうが、形態的に人間に近づいてくるに応じて、より細部にわたって注目され、その差異性が強調されてくる。そして再三再四述べるように、人間種がその頂点であると見なされた後は、人間種間にも、又自己と他人の間にも差異性があると見るに至ったと言うわけである。実際のところ、本来の進化論は生物の変異を実証するだけのもの以上のなにものでもなかったとも言える。又変異の要因を明らかにしようとするのも純粋に科学的な営為であっただろう。しかしながら、その要因を明らかにしようとする際に、進化要因の場合ほど現存する人間の思惑が反映された学説は他になかった。少なくとも19世紀においては科学的立場が貫徹されなかったとするのが私の立場である。
20世紀になって、進化論も遺伝学、とりわけ遺伝子学の発達により、様々な変様を受けてきている。その中でもっとも影響を与えたのは、進化の単位が一体何であるかの問題であろう。これまでのほとんどは進化の単位は個体であった。今西錦司のように、まれに種であると主張する学者もいたが、人間にとればそれは大した違いではなかったと私は思っている。ところが遺伝子の解明が進むに連れて、進化の単位が遺伝子ではなかろうかと思われるようになると、人間中心主義のイデオロギーが根底から崩れてしまうのである。言わば個体としての人間のメンツもなくなってしまい、動物と人間の違いは遺伝子の配合具合の違いとしてしか見られなくなってくるのである。人間のことであるから、それでも何とかつじつまを合わせるか、屁理屈をこねるかして、相も変わらず地球に君臨させようとすると考えられるが、しかし、これからの人間はドミナント・ママルとして自然の森羅万象にあい対そうとする姿勢の変更を余儀なくされてくるのは明らかである。いわゆる「共生」関係の中でしか人間は生きられないと思う羽目になると予想されるのであるが、はたして、人間はそれで満足するのであろうか。今後を注意深く見ていかなければならないだろう。
参考文献
M・B・ホーグランド『遺伝子のはなし』(原題『生命のルーツ』、市場泰男訳、現代教養文庫、1981年)
R・ドーキンス『生物=生存機械論』(原題『利己的遺伝子』、日高敏隆他訳、紀伊国屋書店、1980年)
S・J・グールド『ダーウィン以来』(浦本昌紀・寺田鴻訳、上下、早川書房、1984年)
『個体発生と系統発生』、仁木帝都・渡辺政隆訳、工作舎、1987年)
J・B・P・A・ラマルク『動物哲学』(木村陽二郎編・高橋達明訳、朝日出版社、1988年)
C・ダーウィン『種の起源』(八杉竜一訳、上、中、下、岩波文庫、1971年)
H・スペンサー『第一原理』(澤田謙訳、春秋社、1927年)
丘浅次郎『生物学的人生観』(講談社学術文庫、上、下、1981年)
K・ユクュスキュル『生物から見た世界』(日高敏隆・野田保之訳、新思索社、1973年)
J・ハクスリー『進化とは何か』(長野敬・鈴木善次訳、講談社ブルーバックス、1968年)
J・G・ヘルダー『言語起源論』(木村直司訳、大修館書店、1972年)
今西錦司『私の進化論』(思索社、1970年)
講座『進化』(柴谷篤弘・長野敬・養老孟司編、全7巻、東京大学出版会、1992年)
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