第1部 これまでのホモ・サピエンス像

ホモ・サピエンスの「本性」を巡る歴史的変遷


   はじめに

 すでに私は、このエッセイ集の初めの『ホモ・サピエンスの誕生についての素描』で、狩猟採集時代あるいは人類が誕生した頃から、現在におけるホモ・サピエンスの思考パターンが形成されているということを話した。このエッセイでは、まず、その狩猟採集時代の社会と人間について、違った視点でもう一度取り上げ、それを基軸にして、次の農業時代、さらには産業時代へとどのように移行していったのかについて話してみようと思う。それぞれの時代において、人間のどのような営みが「本性」とされているかについて考察しようと言うのである。
 ここでも私は、皆様にベーコン言うところの「劇場の偏見」を広めるわけではないが、一つの枠の中で同意を求めることを許していただきたい。それは、「前ホモ・サピエンス」の時代からすでに始まっているのであるが、種としてのホモ・サピエンスとしての歴史が個体としてのホモ・サピエンスの成長過程と対応しているという考え方である。
 私は考えはこうである。まず「前ホモ・サピエンス時代」、この時代が地球における生命の誕生からホモ・サピエンスの誕生までを指すのはすでに述べたとおりであるが、これはゼロ歳から二歳くらいまでの胎児・乳児期に相当している。次の狩猟採集時代は幼児期で、学校に行くまでの六歳頃までである。次の農業時代は二十歳くらいまでの少年・青年期である。次の産業時代は今なら六十歳くらいまでの成年・熟年期である。そして、これから新たな技術が主導する時代が到来するとするならば、その名前が何であれ、それは高年・老年期といわれる時期に相当するだろう。
 何のことはない。私が準拠しているのは「個体発生は形態発生を繰り返す」というヘッケルの有名な理論である。これは、生物学的に言えば、20世紀になってガースタンの「個体発生は系統発生を繰り返すのではなく、それを作り出すのである」とする幼形進化説の登場によって否定されてしまっているが、私が人間の本性について歴史的にどうだったかと考えてきた結論が、ヘッケルの理論を大まかに取り入れるところとなったのである。ヘッケルの理論は、明らかに形態についてのみ語られており、人間の本性を考える場合には、すなわち観念構成上の問題についてまで拡大解釈するのは、きわめて短絡的なのであるが、その類似性に鑑みるに、一つの説明のための生きた「比喩」としての価値を持たせてしまったと言うことなのである。でも私はこれが間違っているとは思わない。ホモ・サピエンスの歴史だって、生き物全般の歴史のアナロジーだと思っているくらいだからである。


   T 狩猟採集時代

 まず、「狩猟採集時代」から取り上げよう。この時代に対して、われわれが「狩猟採集時代」と命名してしている事実は、すでにそこに一つの判断を下している証左を示している。例外はあるかもしれないが、「食うて産んで死ぬ」(丘浅次郎)という生物の大原則に従うホモ・サピエンスも又、生存するためには食わねばならない。それ故に、人間の営みは経済活動を下部構造として文化の体系を築き上げているとするマルクスの考え方は、けだし卓見である。
 その見地に立って考えてみれば、当時の人間にとっては、食わんがために「狩る」、「採る」、「集める」のは、必須の営みであっただろうし、そうすることの「できる」人間は、個人的にも社会的にも、生存していくことができたのである。実際のところ、この時代の人間の一日の大半が、これらの営みのために使われていただろうことは、容易に想像できるし、それ故にこれらの営みによって成立した経済社会が人間社会の根幹をなしていたと判断されるのは当然である。
 しかしながら、われわれはこの判断から、人間の本性と言われるものが「狩る」、「採る」、「集める」という営みの中にあるのだと、一概には言えないのである。というのは、それらは他の動物にも数多く見られる、否、それ以上に、生物であるすべてに見られる営みだから、人間固有のそれではないとされるからである。勿論その意見に対する再反論も、次のようには用意されている。すなわち共に生存本能の現れであるという意味で、確かに現象形態からは、それらは同じかもしれないが、人間の場合は、他の動物以上の特徴を有していると言うのである。例えば、人間はそれらの営みの事実を観念として(従って意味として)捉えなおすことができるとか、あるいはその行為を通じて、必ずしも食わんがためばかりではない他の目的のためにもなしうるのだとか言った具合にである。
 われわれは、そういう了解のもとでは、それらの営みを人間の本性に基づくものであると言ってよいかもしれない。何故ならば、そこからは、それらの営みについては他の動物は生存本能からなされているのに対し、人間は、その代償とも言うべき機能、言い換えれば私の言う観念構成能力によってなされているという推論の余地を残すからである。そして、この能力に従って、当時の人間は自分達が「狩る」、「採る」、「集める」などの意味と目的とについて十分に知るようになっていただろうし、従って、それらの営みを遂行する技術にしても、目的を達成した場合のメリットや、あるいは目的を達成できなかった場合のデメリットを知りつつ、目的を達成するための様々な手段が講じられたものに違いないだろうと、考えられるからである。
 それらの営みの事実認識から、われわれはそれらの営みを遂行することに対して、何らかの「価値」を賦与していたのだと断定してもよいだろう。言わば、彼らは事実判断から価値判断を導きだしていたのである。あるいは逆に、そう言った己の営みの事実認識に、すでにそれを善しとする判断を含ませえたが故に、後になって、われわれはホモ・サピエンスを人間として他の動物から区別したのである。この考え方について、理論上の問題としては(すなわち事実判断と価値判断とを区別しえるまでの観念構成能力に従うようになれば)、ありえないことだと決めつけえても、一人の人間の実践上の問題からは、「狩りをしている」私と「狩りをすべきだ」と判断する私とは、同一の存在であるとするに何の不都合もなかったのである。
 私自身、この考え方に対しては留保つきで認めるつもりである。その留保とは、「事実」に関して言うならば、われわれが観念構成能力を働かせているからと言って、他の動物よりも特別の働きをしているわけではないと言うことを認めることである。さもなければ、私には、動物の本能にも判断する力があるが、ただわれわれがそれを知らないだけだと言ってまで、あらゆる点にわたっての動物と人間との間の現象形態での同一性を主張した方が事が簡単にすむように思われる。
 なるほど、先程私は、人間が他の動物以上の特徴を有していると言った。だが、それは働きの事実を増やしているのではなく、事実に関して別の「解釈」をし、それを「了解」しているにすぎなかったのである。即ち、動物の本能による活動と人間の観念構成能力による活動との間には、事実に即した見方をすれば、違いなどはなく、あるのは、人間の観念構成能力が、その何事も対象化できる働きに従って、他の動物ならばしないところの、「事実」をある見方でもって見る「余計なこと」を仕出かしているという点だけである。
 実際、「価値」を賦与すると言うのも、われわれのその「余計な事」の一つである。それ故にこそ、われわれは狩猟採集時代の「狩る」、「採る」、「集める」と言った人間の営みの事実に対して、わざわざ「価値」を賦与したのである。そして、それらが食わんがための営みであるという了解から、その他のためにも適用できる一般性をもっていることをまで了解するに至って、当時の人間は、あらためてそれらの営みに己の生の証しを見ようとしたと考えられる。それ故に、「狩ることのできる」、「採ることのできる」、「集めることのできる」人は、人間として生を営めるふさわしい人として、了解され、その結果として一目おかれたのに違いなかったのである。
 そこまで言い切ったとするならば、われわれはそれらの営みを実践することが、「人間の本性」であると言えるのだろうか。広い意味でならば、私はそれを否定しない。と言うのは、当時の社会的関係から言って、「狩る」、「採る」、「集める」は最重要課題の経済活動であり、それに応えることが、「あるべき人間」の姿とされていたのは間違いないからである。先程にも言ったように、実践的な場においては、事実判断は価値判断でもあるのである。最重要課題の経済活動は、人間の本性にかなった営みであるとされねばならなかったのである。
 しかしながら、私には、事実から導きだされるこのような考え方は、人間の本性を考える場合には、辺縁部分に位置していると思われてならない。実は「狩る」、「採る」、「集める」は、人間の本性とされるものの働きの現れであり結果であったのであり、その前に、人間は可能的状態としての「狩ることのできる」、「採ることのできる、「集めることのできる」活動性にあることをより重視していたのではなかっただろうか。
 更に私は、この狩猟時代にあっても、人間は己のそのような可能的状態を見いだす場合にも、何故そのことが可能であるのかまで思いを巡らすことができていたのではなかったかと判断している。その答を導きだすことこそ、厳密な意味での人間の本性を明らかにすることであったのである。
 さて、遺伝子の中にその因子がくみ込まれているかどうかの詮索は別にして、2歳児にとって、最初の主体的行動と見られるのが、「模倣する」ことであると言うのは、ピァジェの言を待つまでもない。この「模倣」については、「人間の特殊化した能力」(ボークン)とする生物学的解釈もできるわけではあるが、H・プレスナーの言うように、「あとから行なうこと【模倣】は、いっしょに行なうこと【参加】と違って、オリジナルと摸写との相互関係が見られる場合にのみ起こりうるものであり」、「この相互関係は、人間と人間とのあいだにある」ものとして観念構成が可能となったホモ・サピエンスに特有な形でなされるものと言えるのである。尚、この「模倣する」と同系列にある営みとして「学ぶ」が考えられるが、それについては次節で再び述べようと思う。
 狩猟採集時代の人間にとっては、「模倣する」営みは、単なる行動形態としての「狩る」、「採る」、「集める」それ以上に重要視されていたと私は考える。何故ならば、それによって、「狩る」、「採る」、「集める」を可能ならしめる条件が作られているからである。しかも、その営みは単なる形態的模倣ではなく、「技術」の模倣を前提としていたからである。(とりわけ「狩る」場合においてはそうである。)そう言った意味から考えて、当時の生活の大部分を占めていた「狩る」、「採る」、「集める」の営み、そしてそれらがもっている様式を理解し、それを模倣することによって、人間としての生を継続させ、「伝える」ことが、社会自体からの要請でもあったし、その要請に応えていくことのできた人は、当時の「あるべき人間」の具現者として、望まれていたのではなかったかと最終的に判断されるのである。
 ここから、われわれが狩猟採集時代における人間の本性(人間の本性とされていたもの)を、「狩る」、「採る」、「集める」と言った人間の営みに見るよりも、「模倣する」と言った営みに見る方がよいとする見方もできる。また「模倣する」ことのできた人間の営みの必然の結果として、その「模倣する」ことの意義をより明確にすると言った意味で、「伝える」と言った営みに見る方もある。見方によってそれはいずれであってもよいのであるが、最終的に言って、この狩猟採集時代においては、人間は「ホモ・トランジティヴス(Homo Transitivus)」であったとするのが、私の文脈上の結論である。言い換えれば、人間とは「伝える人」であり、それは単に営みそのものを伝達するばかりではなく、営みの様式や理念を観念構成して、それらを他の人間に伝達してこそ、人間としての条件を最高に満たしているとされたのである。
 われわれは種としてのホモ・サピエンスが3百万年の長きにわたって、「伝える人」として、現在の文化の担い手であった事実を忘れてはならない。勿論、現在でもわれわれが「伝える人」である事実には変わりはない。それは、その間にも観念構成の進化を続けてきた人間によって、伝達技術が付加された形で現在にも及んでいることからも、言えるのである。すなわち、この時代の専らの伝達手段は、言語と言う観念構成物であったわけだが、やがてそれに文字が加わり、次いで印刷技術の利用を初めとした様々なマスメディアの利用によって、ホモ・サピエンスはその伝達機能を果してきたのである。何故、人は「伝える人」であり、実際、伝え続けてきたのか。この解明については、別の生物学者と人類学者にお委せしたい。私としては、人間が(とりわけ狩猟採集時代の人間が)模倣することによって初めて己の存在の意味を見てとって、それを永遠に留めたいとする観念構成能力が働いたからだと、勝手な想像をするだけだが、今はそれをさておき、次の時代へと話を進めたいと思う。

   U 農業時代

 300万年にも及ぶ長い狩猟採集時代は、人間の誕生の解明に向けて現在の人類考古学者がロマンを求めた「先史時代」というべきであったとするならば、それが終わり、次に迎えた農業時代の1万年間は、古今東西の歴史学者が人間の文化性とやらの解釈に苦しんだ「歴史時代」であった。1万年と言っても、歴史学者(あるいは、広い意味での  Antholopologist)にとれば、それは文字通りの「人間の歴史」の期間であったし、現在の人間社会の実質的な基底部分であった。この「農業時代」の命名について言えば、それは今日で言う「第一次産業」として言い表される人間の営みをその主たる経済活動とする時代を総称するものと考えてもよいが、私としては「農業」、「牧畜業」のみを思い描いている。(「生業」という意味では、「漁業」を入れてもよいが、後に示すように、その営みの形態では狩猟採集時代のものを踏襲しているのでここでは省こうと思う。)
 さて、その期間は、これまでのわれわれが使っている名称で言うならばどうなるのだろうか。リーキーとレウィンによれば、農業革命は、今からおよそ1万年前に西アジアの肥沃三日月地帯で始まった(あるいは、世界の何か所で同時多発的に起こった)。彼らのこの説を採り入れるならば、それを初めとして、紀元前6千年頃に発生したと言われるメソポタミヤ、エジプト、ガンジス・インダス、中国黄河地帯における四大古代文明社会が史実的にも確実な農業時代であった。
 やがて、各地で国家を形成するに至った古代社会が起こり、それが中世の封建社会へと変化した時、農業は社会的基盤を支える経済的支柱と名目共にされた。が、やがてその中から市民階級が輩出されて勢力を持つようになって、近代の市民社会を迎えた。そこでは商業による生計が営まれる人々の数が増え、それに伴って新たな人間観についての観念が構成されたものの(それ故にこれまでの常識に従って、時代区分をすればよいものの)、実質的には、未だ未だ農業の精神が払拭しきれない人々の生活形態が、産業革命が始まるまでの期間、続いたのである。
 この幾つもの時代を十把一絡げにして、多くの人々が「農業時代」と言うようになったのである。そこには様々な形の「観念構成」がなされた。それ故に、人種的にも、民族的にも異なる様々なホモ・サピエンスが、独自の文化的営みをし、自分達にとってふさわしい「価値観」を構築していたのは事実である。その多様性を統一して、われわれがそれらの期間を「農業時代」と言えるのは何故なのだろうか。
 一般に、狩猟採集時代の日常の営みが「狩る」、「採る」、「集める」であったように、この農業時代では「耕す」、「飼う」がそれにあたるだろう。勿論、断るまでもないが、この時代においても狩猟採集時代の日常の営みは継続されていたし、一部は次の時代の営みも鋭意と始められていたが、食わんがための必須の営みとして、これら「耕す」と「飼う」はとりわけ重要視されていたのである。
 それらの営みが重要視されたこと、即ち農業革命が始まったことは、人間が定住生活をするようになったことと関連があった。歴史的定説としては、「農業」を営まれるだけの知能がホモ・サピエンスに備わるまでに観念構成能力が進化し、その結果人間が定住生活を送るようになったとするケースが多いが、逆に、何らかの都合によって人間が定住生活を余儀無くされたために、食わんがために「農業」を始めたという考え方もあり、狩猟採集時代の場合と同様に、これも鶏と卵の関係であり、私としては、これ以上言及するつもりはない。
 しかしながら、そのことでもって、当時の人間が営む「耕す」、「飼う」のもつ価値を貶める何んの理由もない。従って、当時の経済的基盤を維持するために、彼らが「人間は耕すべきだ」とか「人間は飼うべきだ」と思って、それらの営みの事実に対して価値を賦与していたことは間違いはないのである。狩猟採集時代と同様に、彼らが平生営んでいる耕したり、飼ったりしていることが、人間の本性にかなった営みであると自らに銘記しても何ら不思議はなかったであろう。
 それでは、それらの営みに対して価値を見いだそうとする彼らには、一体どのような人間像が描かれていたのだろうか。この時代になって、観念構成能力はかなり抽象化され且つ多様性をもつようになってきたと考えられる。個体発生的に見れば、表象能力がついて、模倣を始め、それと共に、目覚めた人格の観念によって、自己保存と自己拡張の強烈な衝動につき動かされる成長期である。言わば、少年期、青年期である。従って、この時代においても、人間は、自らを誇示しようとして「知恵ある人(Homo Sapiens)」、「神の子」等と特別視し、(権力ある者は特に)自己中心性を謳いあげる一方では、内実は中身の成熟していないのを知る人間は、その証しを作るための営みに人間の理念を投影させようとしたのである。その消極的態度としては「祈る」、「仕える」、「従う」が挙げられ、その積極的態度としては模倣をより主体化させたところの「学ぶ」、「修める」、「鍛える」等が挙げられよう。
 おそらく、自己保存の意識が芽生え、自己拡張を期そうとする成長途上にある彼らの根底にあったものは、己の持つもの(あるいは与えられたもの)を「育て」、「大きくし」、「発展させ」ることでなかっただろうか。消極的態度は自己拡張のための「試練」として秘かに認識されていただろうし、経済的基盤を支えた「耕す」、「飼う」は、そう言った己の絵姿を植物や動物に投影させて、価値を賦与した営みであったのである。即ち、農業時代においては、人間は自らを大きくするための「学ぶ人」であり「鍛える人」、言い換えれば「ホモ・ディシプリナビリス( Homo Disciplinabilis) 」なのであった。
 これは狩猟採集時代の「ホモ・イミタティヴス」あるいは「ホモ・トランジティヴス」と比べて、観念構成能力がかなり進んでいる証左を示すものである。何故ならば、狩猟採集時代にあっては、人々は「あるもの」を観念化し、そのまま「伝える」ことしかできなかったのに対し、農業時代にあっては、人々はその「あるもの」を観念化するばかりではなく、その観念化された「あるもの」を「変える」技術まで考えることができ、それを「大きくしていく」(場合によっては「小さくし」たり、「壊し」たりしていく)過程の中で生を営み且つその新たな「あるもの」を伝えていったからである。
 ここで注意してもらいたいのは、この農業時代では、どちらかと言えば、人々は対象を己自身の方に向けており、外的対象そのものに対する関心はそれに付随していただけではなかっただろうかと、思われる点である。農業時代における人間の本性とされたものとして「耕す」、「飼う」あるいは「育てる」、「大きくする」営みを私が重視しなかったのは、その所為である。人々の関心が己自身によりも、他に向けられるようになるのは次の時代になってからだと、私は思っている。


   V 産業時代

 人間が「ホモ・ディシプリナビリス」(鍛える人)であることが強烈に意識された農業時代の3万年間は、裏を返せば、次の「産業時代」へと引き継ぐための雌伏の年月であった。その間に築き上げた人間の「生きるための技術」は、自然の子あるいは神のことしてふさわしいものに集中されていた。鍬等の農耕具や潅漑に代表される農業技術、及びそれらの観念化された宗教的対象を基軸にした人間関係は、すべて自然や神の働きを助けるための営みとして、又そのことを通じて己が鍛えあげられるための道具として重要視された。そして、この時代の人々は「産業革命」を経て、個体発生的に言えば、壮年期、実年期を迎えるようになるのであった。
 J・ワットの蒸気機関の発明で象徴される動力技術の開発を契機として始まった産業革命が、社会そのものの構造的変化と人間的生活の変容を余儀無くさせたことは、周知の事実であるが、これ又裏を返して言えば、それは己の欲望を満たすことが「生きる」ことであると自己主張できるまでに至った人間の生み出した必然の産物であった。かくて、農業時代において「ホモ・ディシプリナビリス」であった人間は、自らの内に生の躍動を覚えることとなり、ようやくにして自らの活動を始めるべく動きだした。私の考え方に従って言うならば、観念構成能力をより発達させていった人間が、すべてのものを対象化させうるその機能において、農業時代においては自己の存在そのものに目を向けることに生の営みの意味を見ようとしていたのに対して、「産業時代」を迎えるに至って、己によって対象化された「外的対象」に目を向け、それをどう取り扱うかに生の営みの意味を見ようとするようになったのである。
 ここでわれわれが人間の本性とされたものが、この「産業時代」では何であったのかについて考える際に、注意されねばならない人間の生の営みがある。それは狩猟採集時代では「狩る」、「採る」、「集める」であり、農業時代では「耕す」、「飼う」であったような意味で、この産業時代で経済的基盤を支えた営みとして挙げられる「商う」、「勤める」等のそれである。それらはこの産業時代では「仕事をする」、「働く」等と同一視されており、一見したところ、これらも又人間の本性とされそうな感じを与えかねないが、私はこれらの営みについては二義的な意味しか持っていなかったのではなかっただろうかと考えている。と言うのは、「商う」、「勤める」も又食わんがための営みであり、多数あることをもって価値を認める場合なら、いざ知らず、観念構成能力の働きとしては、それら営みを精神的に支える観念が人々の意識の中に出来上がっていたと考えられるからである。
 その観念とは「作る」、「産む」の言葉でもって言い表される人間の創造性の観念である。すでに述べたように、ベルクソンは人間を「ホモ・ファーベル (Homo Faber)」(作る人)と規定したように、この営みが可能であることをもって、われわれはホモ・サピエンスを「人間」であることの条件としているのは、今に始まったことではない。拡大解釈をするならば、人間の代表的な営みとされる前述の「道具の製作」はもとよりであるが、「言語」にしても、「社会の組織」にしても、それらはまさに観念構成の成果として作り出されたものであるし、その対象に視点を置くならば、耕したり飼ったりするその対象物は「生産物」としてとらえ直すことができるのである。だが、私の考えるところでは、この産業時代ほど「ホモ・ファーベル」としての人間の存在性が強調された時代はないのである。
 産業時代に入って、人間は初めて己が創造主であることを自覚した。被造物であった己が創造主としての営みを始めたのである。「ホモ・トランジティヴス」であった頃は、「有」を存在させることはできなかった。すでにある「有」のその形を観念構成して、そのままに「伝える」ことが、人間たる証しであった。「ホモ・ディシプリナビリス」になって、すでにある「有」への依存性は変わらなかったが、その「有」を育成し大きくしていくだけの力をもつに至った。「ホモ・ファーベル」となって、それまでの営みを継承し続けた上に、新たな「有」を生み出すことに人間の人間たる所以を見るに至ったのである。あるいは現在もそうだから、現代人はそう言った営みをすることが人間の本性にかなった営みであると思っていることだろう。そして今は未だ「無機物」しか作れない状態を恥じて、今に「有機物」、果ては「生」まで作ることに人間としての生きがいを見るようになるだろう。
 ホモ・サピエンスのもつ「観念構成能力」を「創造能力」にまで、認識させていった人間の生の営み、即ち「生業」が、「産業」と同義になったのは、勿論社会の総体の要請によるものである。人間はそれまでにも「生産的な」営みをしてきたが、その営みが「価値」あるものと認識された背景には、個体としての人間の発達段階にも似た、種としての人間のそれが考えられるだろう。言わば食べて育った人間が「産める」ように、二つの発達段階を経て、この産業時代に人間は「作り出せる」ようになったのである。少なくともそう思うようになったのである。それが人間の本性を「ホモ・ファーベル」と殊更に言わしめる背景となったのである。
 しかしながら、この産業人は、「ホモ・ファーベル」が「無」から「有」を産みだせる人間であるイメージを持ちつつも、それを実在化することの至難さを短期間の内に知るようになった。「観念構成能力」言い換えれば「対象化の能力」は、「有」に依存し、それの取り扱い方に終始しているだけのものであると言うことがわかってきたのである。そうなるとこの産業人は、われわれも含めて、「有」を独自の形で伝えること、あるいは大きくさせるとの思い込みのもとに、それを変えることが新たな「有」を作り出すことであると読み替えていたのかもしれない。(観念構成能力それ自体がその読み替えを可能にしていたのである。)それならばわれわれ現代人は、丁度「漁業」がこの産業時代を迎えて二番目の「農業時代」のカテゴリーに遅れて入ったように、真の意味では、未だ未だ「農業時代」の域に留まっているのかもしれないし、且つ永遠にそうかも知れないとするのは考えすぎだろうか。この問題についてはこのあとで決着をつけてみよう。


   おわりに

 産業時代の技術は、前述の動力技術にも見られるように、人間の直接関与を省き、文字どおり機械をして人間の欲望の充足を代行せしめている。その操作の主体が人間である故をもって、欲望の対象物は、「人間的実在」として位置付けられはしたものの、それは観念構成能力を有効に活かし切れた者、即ち感情移入のできる人たちにのみ可能な営みであって、たいていの人間は、あたかも無から有を産む力を持つかのような幻想に囚われてしまった。この時代の人間は欲望を持つが自らを省みない「神」へと飛躍してしまったのである。しかしながら、この幻想が人間自らを「ホモ・ファーベル」と見なしうる根拠にもなったわけだから、われわれはそのこと自体をとやかく言えないのかもしれない。
 かくて、観念と実在との齟齬は産業時代に入って、始めて顕在化したのであるが、それは成熟を待って自然に「なすことのできる」状態に甘んじるよりも、観念構成能力に内在する飛躍性に己を託そうとする人間の自縄自縛的な拙速性に起因していたのである。ある意味では、肉体上の進化と比べて、観念構成上の進化が上回りすぎ、早く来すぎた産業時代ではあったが、その詮索はともかく、「ホモ・ファーベル」たるホモ・サピエンスは、観念と実在との齟齬に、今まであまりにも対象に焦点を向けすぎていたその事実性に気づき、「ホモ・ディシプリナビリス」の感情を取り戻すようになった。それは又、個体発生的には、壮年期、実年期を終え、老年期を迎えた人間の己の分を知りそれを守る気持ちと類似していたのである。
 その意味では、疲れも知らず働き続けるロボットと比べて、人間を「ホモ・ファティガトス(疲れるヒト)」と洒落て名付けた一人類学者の言葉は、けだし名言である。この言葉は人間がまさに生物的存在であることを思い起こさせると同時に、それでも己の生命の持続を目論む気持ちがよく現れているからである。私の考えでは、やがて人間は個人的あるいは集団的にも自らの作ったもの(厳密にはそうでないとしても)に拘るようになるだろう。どんどんと作れる内は使い捨てなければ先に進めないだろうが、作り疲れれば、それらを「維持する」あるいは「守る」ようになるだろう。即ち食わんがための営みとしては、これまで三つの時代になされた営みのどれかを踏襲するだろうが、その中にあって、複雑な観念の操作によって心の切羽詰まった人は己のアイデンティティーを必死になって守ろうとするだろうし、余裕のある人は「遊ぶ」、「楽しむ」営みにおいて己をいとおしむようになるだろう。
 言い換えれば、これからの時代において人間は、「ホモ・テネンス (Homo Tenens)」として己を引き止めようとすることが、又そのために「ホモ・マヌアリス (Homo Manualis)」として手の感触を味わうための営みをすることが、あるべき人間の本性だとされるのではないかと言うのが、私の思うところである。(ついでながら言えば、これらの言葉は「維持する(maintain)」なる言葉を分解したらどうなるのかと考えた結果、生まれたものにすぎない。)
 だが、これはアナロジーに基づく未来に関する言説である。それと同時にわれわれは産業時代の当事者である故をもって、そう簡単には「ホモ・ファーベル」を断罪し、自らのあるいはその価値ある所業に見切りをつけることはできない傾向性にある。はっきりしていることは、この産業時代が「工業技術」から「情報技術」へとその経済的基盤を変えつつあるという状況認識が勢力的になっているということである。この後の別のエッセイ『ホモ・サピエンスの行方』の中でのトフラーの考え方で触れるように、その認識だけでも、社会が、従って人間の本性とされるものが、根本的に変革される要因をはらんでいるのであるが、それでもわれわれが「ホモ・ファーベル」であるべきだとする思いからなかなか解放されないだろう。見ようによっては、この産業時代は始まったばかりだと言う人も数多くいるのである。
 それにも拘らず、早くも私が来るべき時代の人間の本性を「ホモ・マヌアリス」、「ホモ・テネンス」としてアジテートするのは何故なのか。それはホモ・サピエンスがいかに観念構成能力を持っているからと言っても、生物的存在であるというくびきから逃れられないからであり、従って、いずれは迎える生の最終的営みの事実を厳粛に認めざるをえなくなるからである。人間はこれまでにそのような情態性を能動的なものに読み替えて、生き抜いてきたのではなかったのか。悲観的傾向の私は、事実を事実として認める悪癖によって、あらかじめ、それを覚悟しておきたかったのである。
 再三再四述べるように、われわれは観念構成能力を持つホモ・サピエンスである。それが故に単に生物的存在ではない「何か」として、それを陵駕する生の営みを誇示してきた。だが、この観念構成能力によって、丁度E・モランが言うように、「ホモ・サピエンスの創造性、独創性、卓抜性」が謳われたとしても、もう一つの局面を共存させるのである。ホモ・サピエンスは「微笑み、笑い、泣く、激しく不安定な情緒を備えた存在であり、不安に満ちた苦悶する存在であり、享楽し、酔い、恍惚とし、暴力を振い、怒り、愛する存在であり、創造的なものに侵された存在であり、死を知りながらそれを信ずることのできない存在であり、神話と呪術を分泌する存在であり、精神と神々に憑かれた存在であり、幻影と空想で身を養う存在であり、客観的世界とのつながりが常に不確かな主観的存在であり、錯語と彷徨に繋がれた存在であり、無秩序を産み出す過剰的存在」でもありうるのだから、「ホモ・サピエンス<理性のヒト>を、ホモ・デメンス<錯乱のヒト>と見ざるをえない」かもしれないのである。その意味では、別のエッセイ集でも明らかにしたように、われわれはまさに「打ち砕かれたホモ・サピエンス」なのである。
 人間の「本性」を巡る歴史的展開においても、食わんがための営みを通じて、ホモ・サピエンスはそれぞれの時代において「価値ある」人間の生き方を摸索し、それらを観念として普遍化させてきた。ある時は外的対象に、又ある時は己自身にその実在性を求めながら、良いと言えば悪いと言う駄々っ子のように気まぐれで、その実、内面では「葛藤」の日々にあけくれた生を営んできた。私が提言したところの、それぞれの時代に考えられた人間の本性観も、観念構成を生の拠り所とせざるをえなかったホモ・サピエンス独特の在り方を示す一サンプルでしかなく、所詮は「食うて産んで死ぬ」生物の大原則を系統発生的にとらえ直し、それを、もって回った言い方で、読み替えたものかもしれない。言わば、私の観念構成能力の知的な営みとして一つの仮説を展開したまでである。
 この目論み自身によつて、すでに私は「維持するヒト」の心境に入った証左とも、笑われかねないが、それは、迫りくる私自身の「老い」のイメージをオーバーラップさせながらも、何とかしてビールスのように私の「脳」の中に入り込んできた「観念」が独り立ちして実在性を保ちたいと願う私の気持ちの現れであると、皆様には分かってもらいたいのである。


 付記−このエッセイをわかりやすくするために、別ファイルに図「人類の歴史」を作成したので、ご参照下さい。


   参考文献

丘浅次郎『生物学的人生観』(講談社学術文庫、上、下、1981年)
H・プレスナー『人間の条件を求めて』(谷口茂訳、思索社、1985年)
R・リーキーェR・レーウィン『オリジン』(岩本光雄訳、平凡社、1980年)
佐藤方彦『人はなぜヒトか』(講談社、1985年)

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