第1部 これまでのホモ・サピエンス像

    歴史から消えたホモ・サピエンス


 はじめに

 職業柄、かつて私は「日本史」の「入試問題」作成に関わったことがある。本来生徒が正しい歴史的認識を持っているかどうかを問うための問題作成なのだが、教科書に準拠したものでなければ、問題としては適切ではないとの歴史の専門家からのお達しを受けたことがある。この場合、歴史的事実とは単に教科書という権威を与えられた文書に示されたもの以外のなにものでもないとされているのだが、不思議とわれわれはその点には疑問を差し挟まない。これは何故なのだろうか。教科書であるからには、確実に存在していたと実証されているもの以外は書き記されてはいないだろうと信じて疑わないからなのだろう。
 ところがである。その教科書については、一つの感慨が私にはある。かつての日本の教科書では、日本には旧石器時代の人間は存在していないとされたものだが、今ではその逆に存在しているとされている。だから私が小学生の頃、社会科の時間で「日本には縄文人より前の人間はいない」と書いてマルをもらい、得意になっていた記憶があるので、少々複雑な気持ちになっている。あの時の私はあれでよかったのだろうかと。
 このように、どんな形のものであれ、一度「歴史的事実」としてお墨付が与えられると、何故かわれわれの精神は怠慢になり、それを基にして、われわれは見たり考えたりするものらしい。この教科書の例は、われわれが権威をもった「事実の記録」とやらをいかに盲目的に信頼しているかを示す恰好の例なのだが、ここから一般的に言って、われわれが過去の歴史と言われるものについて一様に理解したつもりでいても、それは与えられた史料とか教師の話とかを間違いのないものとする思い込みに災いされているかもしれないのである。
又、「事実の記録」にしても、そこに携わる人間が常に記述的態度でいたと信じたいのはやまやまなのだけれども、知らず知らずの誇張や誤りも考えられるだろうし、うがった見方をすれば、その人間による意図的な改ざんもしくは捏造がなされているとも考えられなくはない。それでは「事実の記録」どころではなくなってくる。少なくとも文書の場合は、それを書き残した人の個人的な思惑を一方的に無視して考えるわけにはいかないし、ましてや先程の教科書が権力による検定を要するのなら、ますます「記録」というものから遠ざかる危険性が生じてくるだろう。要するに歴史が「事実の記録」であったとしても、それは建て前の話しにすぎず、実際は「作為と思い込みのアンサンブル」であるかもしれないのである。
 もっとも、私は「歴史学」そのものを否定するつもりはない。ただ歴史とは歴史学者だけのものではないと思うだけである。ロマンチックな歴史愛好家にしてみれば、事実の記録が朝顔の観察記録のようなものであっては面白くもないとつい考えてしまう。「歴史は歴史家が作る」と言われる考え方の方に、何となく人間のドラマ性を覚えて、その作られた歴史あるいは少なくとも己の実践的関心を掻き立てる歴史の方に惹かれてしまうのである。
 それ故に、確実に存在の証拠が挙がっていないからと言って、あるいは証拠の数が少なく唐突であるからと言って「歴史的事実」がなかったと言えるのだろかということ、あるいは、実際あったとされているのに「歴史的事実」とされなくなっているというケースもあるのではないかと思うことも、歴史学者ではないからこそ許される者の特権だと思ってしまうのである。
 私がこれから話したいと思っているテーマも、実はそれらに対する拘りから生まれてきている。タイトルを「歴史から消えたホモ・サピエンス」と名付けた私の心の中には、われわれがあまりにも実証主義的になったために、その存在が疑われて、われわれにとって疎遠な対象とされてしまったホモ・サピエンスと、あまりにも無批判的になってしまったために、その存在が嫌われて、排除の対象となってしまったホモ・サピエンスに対する肩入れの気持ちがあるのである。(但し、今回の話においては後者の部分については語らない。)
 われわれはどうして彼らの存在について語ってはいけないのか。もっと言わせてもらえば、どうしてそれらが実在するものとして取り扱っていくことができないのか。むしろ彼らのような存在を重視していくことが、歴史を考え、従って人間を考える上に重要な知的態度であるとは言えないだろうか。何も歴史の表に表れたもの、もっとはっきり言えば、表されたものだけが歴史ではない。語呂合せのようだが、歴史から消えた歴史こそ真の歴史であり、表の歴史を成りたたしめているのだ、と私は気負ってみたかったのである。
 そして、これこそ私の本音とも言える考え方なのだが、私が「歴史から消えたホモ・サピエンス」に興味を覚えるのも、私自身が個体として滅びる前に、現代のホモ・サピエンスが滅びるとしたら、一体どのようなパターンで滅びるのかを予測してみたかったからである。歴史は繰り返すのかどうかは、私は知らない。しかしホモ・サピエンスという生物種も又恐竜と同じように確実に滅亡していくだろうことを実感できるようになった今の私にとっては、「歴史から消えたホモ・サピエンス」がそのサンプルの提供者ではなかったのかという気がするが故に、哀惜という名の興味となったものと考えている次第である。仮に私が別の心でホモ・サピエンスが不滅の存在であると願っていたとしてもである。


   T

 さて、われわれが歴史から消えたホモ・サピエンスを考える際の最初の実例となるのは、かの進化論の提唱者として有名なダーウィンが予想した「ミッシング・リンク」の存在である。これは日本では「失われた環」と訳されたりもしているが、「自然は飛躍せず」を確信したダーウィンによってサルとヒトとを結ぶ中間的な生物を指す言葉として最初に使われたのだった。そしてこの考え方に同調したヘッケルがそのミッシング・リンクをピテカントロプス・アラルス(言葉のない猿人)と具体的に命名し、アジアかアフリカで見いだされるであろうと推測したのであるが、それに触発されたデュボアがついにピテカントロプス・エレクトス(直立猿人、後にジャワ原人と言われる)を発見するに至ったいきさつについては、考古学者ならずともよく知るところである。
 この象徴的とも言えるエピソードを代表として、人類考古学の発達も化石人類の発見に伴う科学技術の進歩と相まって19世紀の終わり頃から今日に至るまでの間、飛躍的になされていった。所謂ミッシング・リンクを求めるという形での発掘作業が続けられていく中で、発見されたミッシング・リンクは次々とホモ・サピエンス(但し私の使用法としての)として数え挙げられるようになり、そのミッシング・リンクはどんどんと遠い過去に遡っていったのであるが、それでもまだその途上にあるということを承知の上で言うならば、現時点でわれわれが了解しているホモ・サピエンスとして次の4種類が語られるようになった。
 @猿人−今から300万(500万年が正確だが)〜100万年前の時代に現れたオーストラロピテクス(アフリカヌス、ロブストス等、学者によってはホモ・ハビリス)
 A原人−今から100万〜20万年前の時代に現れたホモ・エレクトス(先程のジャワ原人《ピテカントロプス・エレクトス》や北京原人等、又そのルーツとしてホモ・ハビリスを入れる者もある)
 B旧人−今から20万〜3万年前の時代に現れたホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人、ハイデルベルク人等)
C新人−今から3万年前の時代に現れ、現在にまで及んでいるホモ・サピエンス・サピエンス(クロマニョン人、グリマルディ人、三ヶ日人等)
 ここで断っておかねばならないのは、彼らの存在年限を示す数値はおおよそのものであり、それぞれに辺縁の数値をもつと考えられるので、彼らは実際のところ重複して存在していただろうし、又他の考え方をとる学者もいるので、厳密さには欠けているという点である。それ故これからの話も私自身が認めている考え方にすぎないということで聞いていただきたいと思う。
 さて、普通われわれはこの四つの種類のホモ・サピエンスがそれぞれに猿人の段階、原人の段階、旧人の段階、新人の段階というように、あたかも一つ一つの段階を経て進化してきたものだと位置付けているが、これには私は少しばかりの抵抗感があるのだ。サイエンティスト達の専門書に基づけば、なるほど、猿人においては形態的にも新人と類似した特徴をもち、且つ何らかの文化的な活動をしている証拠が見いだされている。それが故に彼は最初のヒトと見なされうるのだろう。又原人においてはその形態的な特徴を捉えた学名が示す如くに、より一層に新人に近くなり、ヒトでなければできないと言われる火の使用の事実が明らかにされている。そして旧人に至っては原人以上に新人との形態的類似性が見られるばかりか、死者を葬いそこに花を飾ると言ったごとく、明らかにものごとを観念として理解し象徴的な営みすらもできることの証拠を残している。そこには、偶然かどうかは知らないけれども、形態的に新人に近くなればなるほど、高度なと言われる文化活動をしていたことを示す証拠が遺物や遺跡として発見されたものだから、これら3種類は次第に高度なヒトへと進化し、現在の新人にまで及んできているという風にされてしまっているのである。
 しかしながら私は、形態学的アプローチはともかくとして、それぞれのホモ・サピエンスに特徴づけられた文化的営みが他の3種類のホモ・サピエンスにはなかったのだと断定することはできず、従ってまだ証拠が見つかっていないだけの話ではないのかと思っている。
 又仮にそれぞれのホモ・サピエンスに他の文化的営みがなかったとしても、ホモ・サピエンスであるかどうかを判断する最も重要な基準は、彼らがどのようなレベルのものであれ、「観念構成能力」をもっているかどうかであるとしているので、私自身の思いは、原人以降に対してというよりは、(ホモ・サピエンスであると私が見なしている)猿人に対して、彼らがそのような能力(例えば使用する道具を作るために別の道具を使用していると言ったことで証拠づけられるような、あるいはユ・ゲ・レシェトフが言うように「あらかじめ目的と、それを達成する方法をきめ、必要な動作を心の中に描く」ということが何らかの方法で証拠づけられるような能力)をもっていることを明らかにするような努力がもっとなされるべきだということである。
 その意味では、J・モノーが猿人と言われるオーストラロピテクス(南の猿)をあえて「オーストラロトロプス」(南の人)と言い直した態度には共鳴を覚えるのである。それは基本的にはこれら4種類のホモ・サピエンスはわれわれが通常「人間である」というための条件を持ち合わせていただろうと思っているからであり、新人に見られるような高度な「文化生活」をしていなかったからと言って、その能力が皆無であったとは思いたくはないからである。
 しかしながら、いずれにしても猿人、原人、旧人の3種類のホモ・サピエンスは、一応のところ、現在では存在していない歴史から消えてしまった過去のホモ・サピエンスとされている。(あるいは、かつてヒマラヤの雪男として喧伝された形で、又現代文明の死角になって気づかれずに存在しているのかもしれないが。)そうなると、彼らはどうしてこの地球上から消えてしまい、単なる歴史的存在にされてしまったのかという点が問題となってくるのである。
 この点に関する一つの解答は、いわゆる「人類の進化」として考えることによって「科学的に」なされてはいる。例えば先程の形態的な変化の例の一つとして脳の容積を考えれば、猿人では435〜540cc、原人では850〜1200cc、旧人では1300〜1600cc、そして新人では1300〜2000cc(池辺展生資料より)だと言われているが、そこから脳の容積の増大といった形で、まるでコンピューターの容量の増大を歓迎するかのように、猿人は原人へ、原人は旧人へ、旧人は新人へと進化していったと言うわけである。
 何故そのように進化していったのかについては、ダーウィンの適者生存説、ラマルクの用不用説等、いろいろな生物学的説明がなされているのであるが、共通して言えることは、そこには連続性が謳われており、言わば系統発生上の使命を果たしていると言った意味あいで、われわれは彼らが存在しなくなったということに生の摂理をこそ認め、別段陰険さを感じようとはしない点である。
 われわれが人類の進化を考える際に、このような肉体上の変化を進化として捉える段においては今のところはさほどには問題としないのであるが(尤も、その肉体上の変化に重要な意味を見つけることは極めて大切なことであるのではあるが)、この脳の存在を考慮することは大事であろう。というのは、脳が観念構成器官としてあり、従って脳の容積の増大は、観念構成能力の増大と何らかの関係があるとされるからである。
 現代の科学は次の点まで明らかにしている。すなわち、ヒトの脳のどこにこんなに賢くさせる要因があるのかということを追求した結果、はじめは脳の容積が問題になった。が、それならば、ヒトより鯨の方が大きい。そこで脳の皺の数(表面積)が問題になったが、それならば、イルカの方が多い。そこで神経繊維の数が多く複雑だからだということになったのである。
 この脳の神経繊維の活動の結果、われわれは「観念構成上の進化」、厳密には「観念構成上の進化の観念」も又可能になったのである。ではこの観念構成上の進化とは何か。そもそもこの言葉はJ・モノーの造語であり、それを私が自分に都合のよいように借用したものである。要するに観念(事物の象徴化されたもの)の量が増大し複雑になっていくことを示しているにすぎない。
 ホモ・サピエンスの観念構成は、最初、事物を象徴化し、それを頭の中で代替物としてとらえることから始まった。いわゆる、ノーベル賞作家グルージングの言葉を借りれば、ホモ・サピエンスは自分の頭の中で「絵」を持ったのである。やがてその絵は分解され、更には「動く絵」にもなった。この動く絵が契機となって、事物の特性なり働きなりをも描けるところとなって、それを象徴化するという二番目の観念構成がなされた。三番目の観念構成は、事物が内にも向けられ、自己自身をも含むようになってきた。そして最後の観念構成とはその自己に特性なり働きなりを描くようにもなったということである。これらの観念構成は、私の持論としていわせてもらえば、順に生じたというよりも、その密接な関連性から言ってほとんど同時的に起こったのではないだろうかということである。
 これらを別の視点から言い直してみよう。第一の観念構成によって、われわれは「見る」立場を基点にして、事物を感性の世界から知的世界へと移し替え、所謂ホモ・サピエンスとして「ものを知る」というパターンを持ったのである。ここでホモ・サピエンスは初めて「人間的存在領域」、言い換えれば人間のエリアを確保するのである。第二の観念構成によって、空間でその事物を目的的なものから手段的なものとして知ることを覚え、ホモ・サピエンスが「ことをなす」という形での実践的パターンを生んだのである。第三の観念構成によって、自己意識が生まれた。これは第二の観念構成を伴っている以上、必然的に第四の観念構成をもたらしている。すなわち、その存在を持続させようと「願う」気持ちがホモサピエンス固有の文明なり文化なりの洗練された、しかし自己中心的な生き方を余儀なくするようになったのである。
 これらは何らかの脳の働きによって生じた「知性化作用」そのものの結果を示していることに他ならず、繰り返して言うが、オーストラロトロプスの時代から、その四つの営みは始まっており、今日に至るまでそのパターンは相も変わらず、採り続けられていたのである。にもかかわらず、われわれはそれでもって文明なり文化なりが進んだという解釈を施しているのであるが、先程も言ったように、それはただ四つのパターンのそれぞれの活動量が増え、重点的に取りざたされているにすぎない思われてしかたがないのである。だが、あえてわれわれが「観念構成上の進化」云々の問題としてとらえようとするならば、それは観念構成するもとになった対象が最初は現象的なものへ、次いでその現象に隠された本質的なものへ、そして観念構成する己自身の存在そのものへと振り向けられていくプロセスの中に見ることが出来るかも知れない。
 私もこの点に関しては同意するところもあるので、もう少し敷衍すれば、最初は現象的なものを観念構成することはそれ自体が目的であったのが、次第に本質的なものの観念構成をすることが目的となったために手段化されるようになり、やがてそれも自己の観念構成をすることが目的となったために手段化されていくというプロセスが、進化のそれと見られるようになったのではないかということである。
 私の想像するところでは、猿人は専らに第一のパターンの観念構成に目的性を見ていた。(私への批判者は、それしかできないくらいに猿人は未熟だったのだと言って下さっても結構であるが。)そして原人は専らに第二のパターンに、旧人は専らに第三のパターンにそれぞれ目的性を見ていた。厄介なのはこの第三のパターンである。このパターンが目的化される度合に応じて他の二つのパターンは手段化されていき、それと同時に自己中心的になったホモ・サピエンスの存在力が強化されていったと思うのである。
 この考え方に従えば、猿人、原人、旧人が次々と歴史から消えていった事態が、いかにももっともらしく説明できよう。即ち猿人は第三のパターンの観念構成(言い換えれば自己意識をもつこと)をすることはできたが、ほとんどそれに拘らなかったために、少しそれに拘った原人によって滅ぼされてしまったのである。その際猿人とても本能による自己防衛をしただろうとは考えられるけれども、第二のパターンの観念構成の数の少なさによって、道具(武器)使用度の差となって、抵抗できなかったと思われる。
 次に原人は第三の観念構成をすることにほとんど拘った旧人によって同様に道具の使用度の差によって滅ぼされてしまったのである。旧人と新人とでは、第三のパターンの観念構成能力の差は、後者が強かったとはいえ、それほどなかったと私には思われる。しかしながら旧人の方が第一、第二のパターンの観念構成に拘りそれを目的にまでする度合が高かったため、第四の観念構成までも持ち、他人はもとより己自身までも手段とすることのできた新人の生き方には抵抗できなかったが故に、滅ぼされてしまったのである。
 恐らく、猿人、原人、旧人は、それぞれ己にとっての生の目的としていた観念構成によって形成された文化形態をもっていただろう。私の考えるに、猿人文化は「頭に絵をもつ」ことを謳歌し、それを交換してはコミュニケーションを楽しむ世界をもっていただろう。原人文化はその絵をもとに事物の取り扱いを楽しむ芸術的な世界をもっていただろう。旧人文化は「自分自身の絵をもつ」ことを願い、自己を中心とする世界をもっていただろう。そしてその旧人の大半は、それでもまだコミュニケーションを楽しんだり、事物の取り扱いを楽しんだりする世界を共有していたが、その中のあるものが自己中心的な世界を確実なものにするために、前三つの世界を支配するための手段として利用することを始め、新人文化が誕生したのである。
 かくてホモ・サピエンスは「人間性」の発露の証拠とも言われるこれら四つの観念構成のいずれかをを選択してきたと思われる。そして己がもっぱらに行っている観念構成を基軸にして、それ以前の観念構成を生の目的とするような生き方に人間としての未熟さ(単純性)を見るようになり、それを超克しようとする動機をもった同化吸収という名の文化破壊をしていくようになったと思われるのである。言い換えれば、形態的に猿人類は原人類へと、原人類は旧人類へと、旧人類は新人類へと変身していったかも知れないが、それによって猿人文化、原人文化、旧人文化は次々と滅ぼされていったということである。
 このパターンは新人の文化が誕生してからも相変わらず繰り返されることとなる。丁度マヤ文化やアステカ文化がそのよい例である。これらの文化が滅びたのは、第四のパターンのほとんど完璧に近い観念構成によってより一層に道具化使用が可能になり、それに伴って一層に自己中心的になった新人類がいたからである。
 以上が歴史から消えたホモ・サピエンスについての最初の私の仮説である。しかしここで皆様の注意を喚起してもらいたいのは、確かに今のわれわれは現存する新人類のホモ・サピエンスとしての生を謳歌しているが、人類300万年の中の種属として考えてみれば、それはたかだか3万年の歴史しかもっていないということである。その視点から見れば、猿人は少なくとも200万年、原人は少なくとも80万年、旧人は少なくとも17万年の間、その種属を維持してきたのである。
 われわれはこれをどう見るのか。一つの見方として、真のホモ・サピエンスは現存するわれわれなのだから、彼らがわれわれのルーツであった功績は認めるものの、所詮はわれわれとは異なった存在なので、種族として生存させたその年限等どうだってよいことなのだとして、簡単に片付けることもできるだろう。まさに第四のパターンの観念構成のなせる業としてのこの見方は説得力をもっている。だが私のように彼らも又ホモ・サピエンスであると見る以上、いかに滅んだとは言え、彼らの存在年限がわれわれ新人類以上であるという事実は、正直に認めなければならないだろう。
 この点を敷衍するに、数値が示している如く、猿人、原人、旧人とその存在年限が少なくなっているのは、ホモ・サピエンスを他の動物から区別した唯一の基準である観念構成の有り様と関係があることは容易に推測されよう。即ち観念構成が複雑になればなるほど、あるいは抽象的になればなるほど、あるいは自己の存在理由を求めれば求めるほど、その傾向が強くなっているということである。今の私の能力としては、その因果関係を明らかにするだけのものを持ち合わせていない。しかし一考するだけの価値はあるだろう。その点を頭に留めておいて、私は次のケースを取り上げたいと思う。


  U

 さて、歴史愛好家にとって耳にたこができるほどに繰り返し取り上げられるエピソードがある。それは、「トロイの木馬」で有名な「トロイ戦争」がシュリーマンの情熱をかけた努力によって、歴史的事実であったことが証明されたという話である。彼が大金を投じたお陰でなされたトロイ遺跡の発見と発掘によってミケネ文明の存在が明らかとなり、次いで彼の影響を受けたエバンスの努力によってミケネ文明以前に存在したとされるクレタ文明の存在が明らかとなり、それらが後のギリシャ文明のルーツとされるようになったのは、あらゆる教科書にも記されるところである。
 ここで問題なのは、シュリーマンの名が歴史に残るとっかかりとなったのは、ホメロスによって描かれた『イリヤス』と『オデッセイヤ』という叙事詩であったということである。謂わばフィクションとされていたものが、シュリーマンにとっては立派に史料としての役割を果たしていたのである。確かに彼は所謂正当な手続を経てなった学者ではなく、単なるロマンティストであったかもしれない。(更にその上に、山師であったという人もある。)しかしながら彼はフィクションの中に隠された意味を見てとり、フィクションを史料のように取り扱って学者以上のことを成し遂げたのである。ここにわれわれはサイエンティスト達とロマンティスト達の間に培われる現代的生き方の一つのアイロニーを垣間見ることもできよう。
 つまりトロイの遺跡は単なるサイエンテイスト達によっては実在しえず、ロマンティスト達によって初めて実在しえたのである。してみれば、サイエンティスト達がシュリーマンの現れるまでトロイ戦争を事もなげにフィクションのままにしておいたということや、挙げ句にはシュリーマンの功績を偶然や幸運の所為にしてしまおうとする態度にも何か問題のありそうな気もしてくるのである。
 もっとも、フィクションの特性からして、そのような態度は当然かもしれない。しかしサイエンティスト達が証拠がないものとして一笑に付している「伝説」、「伝承」や「神話」の類いに対しても同様の態度でいるというのも如何なものであろうか。ホメロスが実際あったものとして何百年も語り継がれてきたものの実在性を信じてフィクションとして著したのに比してである。
 こんな考え方に関してサイエンティスト達とロマンティスト達との間に相変わらずの平行線が引かれているとするならば、もはやそれは「価値観」の違いであるとして「歴史論議」の場を永久に閉ざしてしまうべきなのだろうか。せめてサイエンティスト達も、「伝説」や「伝承」や「神話」が観念を構成することのできる生き物の単なる捏造ではなく、何らかの事実を記述したものではないのかと一度は思い、それを検証してみる気持ちにならないものだろうかと願うばかりである。
 こんなエピソード談義をしたのは他でもない。これから私がお話ししようとする歴史から消えたホモ・サピエンスの例は、実例とも言えない類いのものとされるので、そこに信憑性を与えるためでもある。もっともトロイ遺跡についても、それはせいぜい3500年前につくられた文化である。はるかそれ以前にもすでに歴史的事実として明らかにされている幾多の文化国家の存在が認められている所謂「歴史時代」の産物である。従ってその新しさから言って、信憑性を与える例としてふさわしくないかもしれない。ともあれ、私がこれから話そうとするのは、俗世間では「超古代文化」として語られる、場合によっては「先史時代」にあったかもしれない頃のホモ・サピエンスとその文化についてなのである。
 われわれが一般に歴史時代の幕開けとしているのは、新人と言われるホモ・サピエンスが誕生してから2万年経った、今からおよそ1万年前の、丁度彼らが定住生活を始め農業を営むようになった頃である。厳密には(教科書では)文字が使用されてからということになっているので、遅くとも今から6000年前からということで、歴史学者は一応の了承をしているようだが、そうなると人類の起源と同様、歴史時代も新たな文字の発見(解読)と共に、長くなっていくことも考えられよう。
 さて、「超古代文化」について語られるものの中で、その最も長い歴史をもつのは、あのプラトンの『ティマイオス』と『クリティアス』に記されている大西洋上にあると言われる「アトランティス大陸」の存在についての話である。それは今から1万2千年前の出来事として、そこには次のように書かれている。
 「あなたたちがヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)と呼んでいるその海の入口の前面に一つの島があった。この島はリビアとアジアを合わせたものよりも大きかった。…このアトランティス島にこそ、王一族の治める偉大な強国ができた。その権力は全島とその他の多くの島、さらに大陸(アメリカ)の一部にも及んでいた。…だがその後、恐ろしい地震と洪水が起こって…一日と悲惨な一夜のうちに… アトランティス島もまた海中に陥没して消滅したのだ。だから、彼の地の海もいまは船も通うことができず、調査もできないままになっている。」
 次に、このアトランティス大陸と同様の年代の頃に存在していたとされ、大きさも太平洋の面積の半分以上はあったと言われるムー大陸についてJ・チャーチワードは次のように紹介している。
 「人口は約六千四百万、住民は十種類の民族から成り立っていた。…人種による差別というものはまったくなく、一人の帝王一つの政府を中心にまとまっていた。… 国民は優秀な学問、文化を持ち、特に建築と航海の術にすぐれ…西はアジア大陸、ヨーロッパ、エジプト、東は北米、中米、南米の北部にまで植民地をひろげた。…ある日 (二度目の)激しい連続地震が大地を波の上の木の葉のように揺り動かし…津波が押し寄せ、湖や沼や川もはんらんして、これと合流した。…阿鼻叫喚は噴火の爆発音にかき消された。…大地はこなごなに砕け、下へ下へと果てしもなく沈み、その巨大な陥没の穴に向かって四方八方から海水が大波を巻き起こしながら殺到した。…かくして、人間がこの地球上に築き上げた最初にして最大の文明は一夜にして崩壊し去った。」
 最後の例はかつてインド洋上にあって、現在のインド半島、セイシェル諸島、マダガスカル島を含んでいると考えられるレムリア大陸のケースである。大陸そのものの実在性については前二者と違ってかなり信じられてはいるものの、なにせ遅くとも2500万年前には水没していたと考えられる程遠い昔の話しであり、それ故に進化論的偏見に侵されたわれわれとしては所謂ホモ・サピエンスがそこに存在していたとは信じられないのであるが、フィクションであることを承知の上で言えば、二足歩行をしたり道具を使用したりするばかりか、「ツタのロープでつながれた怪獣を飼い馴らしていたという」レムリア人がそこにはいたとされているのである。
 超古代文化の存在していたと喧伝され語られる事例については、他にもいろいろとあるのであるが、取りあえず私はこの三つに絞って敷衍させて貰おうと思う。まずサイエンティスト達にとって最もナンセンスに見えるレムリア人がかつて存在しそれなりの文化生活をしていたという話はどうであろうか。これについてレムリア人が形態的にホモ・サピエンスの形をしていたという点については私も信じてはいないが、当時文化的生活を営む動物が存在しなかったと断定する何らの証拠が見いだされない以上、私は必ずしもナンセンスな作り話であるとは思いたくはないのである。
 これはわれわれがいかに「人類の起源」について興味を抱いているかを示す一つの証左であり、仮にもホモ・サピエンスが他の動物にはないとされる「文化」をもつことを誇る以上、われわれがレムリア人の如き知的生き物にルーツを託すのは単なる笑い事とは言えない営みなのである。というのは、それが語られる心情は、最初の人類について、SF好きの人が宇宙から移り住んできたのだとか、敬虔な人が神様の子として造られたのだと考えるその心情とほとんど変わらないからである。
 だがレムリア大陸については、古人類学者も注目している事実は忘れられてはならないだろう。レムリア大陸の一部とされているマダガスカル島にレムール(きつね猿)という霊長類のルーツともいうべき動物が幾種類も棲息しており、従って「ことによると、人類の発祥地であり、もっとも古い文明のゆりかご」(A・コンドラトフ)として、それは人類の起源を語る際に、アフリカ以上に重要視されているからである。このことはレムリア人を跡づけるよりも大切な学問的態度であるかもしれないが、わき道へ逸れてはいけないので、アトランティスとムーの両大陸の問題に入ろうと思う。
 再三再四繰り返すが、所謂歴史時代が始まったのは、最大限に遡らせたとしても、1万年前であり、それを越えることはない。にも拘らず、両大陸が海に沈み、そこで栄えた文化が消えてしまったという話は、それよりも千年を上回る前の出来事であり、謂わば「正史」を逆なでにするような形でなされているのである。しかも地質学的にも、当時にはそのような大陸が消えてなくなったというような事実はないとされているのにである。
 もっとも、大陸のように大きくなくとも島程度の大きさなら、火山の爆発等で瞬時になくなったり、あるいは何百年もかけて徐々に水没していったことは考えられる。(実際われわれはポンペイの町が火山の爆発によってなくなってしまったことを歴史の事実として知っているのである。)そうなるとそこにいたホモ・サピエンスは他地域に移動するという形で彼らの文化を残しえたであろう。両大陸の話はそれが拡大されて捉えられているにすぎないとするならば、それはサイエンティスト達も納得する合理的な説明ではある。しかし私が語ろうとしているのは、それではなく、あくまでも伝説となってしまった両大陸の話なのである。
 ではそのような両大陸のホモ・サピエンス(?)の存在はレムリア人のそれの場合と同様に、全くの作り話といえるのであろうか。作り話としても、それならば、何故プラトンの時代から今日に至るまでわれわれの心を騒がせ続けているのだろうか。これは考えてみる価値がある。一つにはそれは、サイエンティスト達のみならずその影響下にあるわれわれの心性を惑わす形で、様々な証拠(と言えるもの)が現存しているからである。例えばイースター島の巨石等オーパーツと言われる「場違いな加工物(out-of-place-artifacts)」が各地で残存しているということもある。又それこそ無数と言ってよいほどの古史古伝が言い伝えあるいは文書の形で残っているということもある。サイエンティスト達は一様にそれらを説明不能の判断から歴史の本筋から離れているものとして無視するか、それとも偽書、偽造されたものとして一笑に付すのであるが、ロマンティスト達にとればかえってそれが興味を掻き立てているのである。
 二つにはそれは、仮にそれらがフィクションであったとしても、プラトンのアトランティス説が一般にそう思われているように、われわれの心に潜むルーツを探りたいという現実的要求と、かくあれかしと願うユートピアニズムとを満たしてくれるからである。実はこの二番目の理由の中に、歴史から消えたホモ・サピエンスの復元を望む現代人の隠された意図が露呈されていると私には思われるのである。
 皆様もすでにお気づきの如く、この節に比べれば、四つのタイプの人類を取り上げている前節の方が幾分「まじめ」である。そこで、この問題を前節に絡めて考えていくとするならば、両大陸のホモ・サピエンスとは、新人であるわれわれクロマニョン人によって滅ぼされた旧人であるネアンデルタール人であったと考えられよう。あるいはもっとそれ以前の猿人、旧人を含めたホモ・サピエンスであると言ってもよい。年代的に言えば、クロマニョン人と考えられるのであるが、それでは同族相はむの観があり、あまりにも露骨なので、今のところはそうでないとしておこうと思う。
 しかしネアンデルタール人であったとしても私にとっては同じホモ・サピエンスであるので、これも実は同族相はむの域は越えてはいないのであるが、その代わり彼らは、いかにも獰猛で残忍なイメージが与えられ、真にホモ・サピエンスであるわれわれによって滅ぼされても当然であると言った、謂わば人柱にされてしまったのだが、その考え方が現代人をして両大陸の存在と滅亡を心に焼き付けさせたのだと私は考えたいのである。
 プラトンのアトランティス説では、アトランティス人はギリシャ人と戦ったことになっているが、彼らが滅びた直接の原因は天変地異にあったとされている。ギリシャ人によって滅ぼされてはいないのである。この考え方にわれわれは新人であるホモ・サピエンスの知的謀略と言ったものを感じとれないだろうか。即ち、この天変地異説、一般には洪水説で代表される考え方は、そのありうる可能性の大きなことから、滅亡原因の合理性を提供してくれてはいるし、事実の部分もあっただろう。
 だがこの洪水説は滅亡の人為性を被い隠し、あたかも自然のなせるわざかのように見なしてしまうことによって、実際はすでに述べたような第四のパターンの観念構成によって培われた人間性という名の獰猛性、残忍性を見事に隠蔽してしまったのである。それでも同じ仲間を滅ぼしてしまったとする意識は、若干の反省となり、旧約聖書のノアの箱舟に象徴されるような、神の怒りを受けるのだとして擦り替えることによって自己弁明を試みたり、あるいはまさにプラトンの唱えるような「ユートピア」のイメージを与えることによって、日本人なら鎮魂のための営みと言われそうな、贖罪の意識となったのである。(もっともプラトンの場合は、第三のパターンの観念構成それ自身を生の目的とすることが、真のホモ・サピエンスの本性なのだとする極めて牧歌的な認識に裏打ちされてはいると思うのだが。)
 この傾向はアトランティスばかりではなく、ムーや他の消えてしまった先史時代の文化のケースにも当てはまっていると考えて差し支えはないだろう。そして同時にこの傾向は、われわれが歴史時代を迎えるようになってからは一層に強くなってきているのだとも思わなくてはならないだろう。オーパーツは、そう言った新人の「人間性」の老獪さの網の目をかいくぐって、何かをわれわれに伝えさせようとして自然が残した怨嗟のメッセージであったのである。


  V

 さて、私は歴史から消えたホモ・サピエンスということで、2タイプのホモ・サピエンスを取り上げ語ってきた。一方はその存在については証明されている3種の化石人類、他方はその存在については語られているだけのこれまた3種の伝説上の「人」である。彼ら2タイプのホモ・サピエンスが、あまねく言われているように、自然の漸進的あるいは突発的な活動によって存在できなくなった、あるいは適応できなくなって滅んでしまったと言うならば、それはそれで結構な話ではある。もし本当にそうならば、少しは私の心配するような滅びの原因が杞憂であったと思わせることになるからである。
 まあ、いずれにしても、ここに登場した主人公達、即ち「歴史から消えたホモ・サピエンス」は、いずれもわれわれが先史時代の人類として、その存在については思考の対象としてはいるものの、その実在性については真剣に(言い換えればわれわれへの警鐘者とすべく)取り上げずに軽視している人達であることには間違いはない。
 確かに彼らは少なく見積もっても1万年前に存在したとされている過去のホモ・サピエンスであり、しかももの言わぬ形で痕跡を残すか、フィクションとしての烙印を押されてもおかしくはない古史古伝の中に微かな面影を感じさせる程度である。その所為でもあるまいが、残念ながら、彼らは第四のパターンの観念構成に拘るわれわれには、感情移入など到底及ばないエイリアンのような存在となっている。だが彼らとて「頭に絵をもつ」ことのできるわれわれと同じホモ・サピエンスであることには変わりはない。即ち共に観念構成をし、そこから生きていることの 「同じ」感じを享受している点で、われわれと彼らとの間には少しの違いもなかったのである。
 然るに、われわれは(彼らも含めて)観念構成物を素材にして様々なことを考え、その考えの違いのあることによって、ホモ・サピエンスにも色々違った生き方があることを見いだした。違った考えをもつことは違った感じをもつことなのだと独り合点したのである。だが見ようによっては聞こえのよいこの発見は、その違った考えに感情移入するためではなく、それをよそよそしいものにするためのものだった。その結果、われわれは同じ感じで生きている筈のホモ・サピエンスを未熟な段階から成熟した段階、即ち己自身が属している段階へと序列化し、他の段階に対する侵害を、自分自身の純粋化という名の政治形態であれ、同化という名の教育形態であれ、正当化してきた。本エッセイを終える前に、私は、再びそして異なった見地からこの問題を取り上げ、もって歴史から消えたホモ・サピエンスに対するレクリエームとしたいと思う。
 繰り返すが、この元凶は第四のパターンの観念構成によるものであった。猿人、原人、旧人、そして恐らくは旧人に属していただろうアトランティス人やムー人が滅んだのは、この観念構成による自己意識の発現と、とりわけその理念化の所為である。この理念化の傾向が強ければ強いほど、ホモ・サピエンスの存在は己の生の意識に取って代わられ、己の環境を対象的にしか捉えられなくなった。即ち、事象に即した生き方ができなくなってしまったのである。
 もっとも、第一と第二と第三のパターンの観念構成は、第四のパターンの観念構成者から見て、いかに非生産的でまどろっこかしかったとしても、事象そのものの中に入って己の存在を享受する可能性を残していたように思われる。言い換えればこれらの観念構成によって、ホモ・サピエンスは他の動物には見られないコミュニケーションの世界、芸術の世界、哲学の世界の当事者になり切ることができたのだった。それ故に第四のパターンの観念構成を理念化するホモ・サピエンスのように、他の存在や同じ仲間のホモ・サピエンスに対してよそよそしい関係を保つとか、時には好戦的になるとかするなんてことは考えられなかったのである。
 皆様もお気づきかと思うが、実際としてホモ・サピエンスはオーストラロピテクス以来現代人に至るまで四つのパターンの観念構成を同時に行なっているのであり、従ってわれわれ新人だけがこの厄介な第四のパターンの観念構成を、しかもそれだけしかもっていないというわけではない。猿人、原人、旧人と言った所謂化石人類が滅んでいったそのプロセスが現生人類であるわれわれにも生じることは当然考えられるだろうし、又逆に、われわれにも、数万年はおろか、数百万年も生き残るチャンスも与えられるであろう。要するにホモ・サピエンスは歴史的環境の違いから何らかの習慣を生み、例えば四つのパターンの配分の違い、比重の違い、目的意識性の違い等によって、生きる感じを味わっていたのである。(そしてそれらの違いが長い期間をかけて形態的な違いをもたらしたとも言えようか。)
 以上、私は歴史から消えたホモ・サピエンスということで取り上げさせてもらったわけだが、その中で私はアカデミニズムの世界では到底承服しがたい仮説を試みに言って見たつもりである。それは教科書などにおいては決して語られない類いの話であろう。それ故、勿論われわれはこれまでの話が所詮はもの言わぬ化石人類についての、あるいは伝説上の人類についてのものであり、従ってそれは信じる者だけの話にすぎないと言って、これ以上の勝手な想像をやめることはできよう。しかしそれでも私が長々と語ってきたのは、観念を構成することのできるものの性として、人は検証不可能なものによっても、検証可能なものによって人が行動へと導かれる実際的結果をもつのと同様の影響をうけるのではないかと確信するからである。


 参考文献

E・H・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波新書、1962年)
川井直人&池辺展生&藤則雄&中井信之『人類の現われた日』(講談社ブルーバックス、1978年)
ユ・ゲ・レシェトフ『人類の起源』(金光不二夫訳、法政大学出版局、1969年)
W・ゴールディング『後継者たち』(小川和夫訳、中央公論社、1983年)
H・シュリーマン『古代への情熱』(村田数之亮訳、岩波文庫、1954)
プラトン『ティマイオス』ェ『クリティアス』(種山恭子ェ田之頭安彦訳、プラトン全集12、岩波書店、 1975年)
E・B・アンドレーエヴァ『失われた大陸−アトランティスの謎』(清水邦生訳、岩波新書、1963年)
J・チャーチワード『失われたムー大陸』(小泉源太郎訳、大陸書房、1986年)
A・コンドラトフ『レムリア大陸の謎』(中山一郎訳、講談社現代新書、1979年)
A・コンドラトフ『ノアの大洪水』(金光不二夫訳、社会思想社教養文庫、1985年)
佐治芳彦『超古代史入門』(徳間書店、1987年)


   TOPへ ホモ・サピエンスと平和・目次へ 次へ