はじめに


 このエッセイ集のタイトルの一部に「ホモ・サピエンス」という言葉が使われているが、これまでのエッセイ集と同様、生物学的テーマを扱っていない。一応、それなりに、人間や社会のことについて語っている「社会思想」書である。だから、副題を「若干の人間像についての素描とその展開」とした。
 ここで、私がメーンタイトルに人間という言葉を使わず、あえてホモ・サピエンスという言葉を使ったのには、二つの理由がある。一つは、「人間」という言葉を使うのに拘りがあったからである。この言葉は、厳密に見ていけば、人それぞれによって固有の概念を持たされる、文字通り括弧付きの「人間」としてしか使われていないのである。他の一つは、私の場合、その生物的存在性を重視する形で人間を語りたかったからである。
 よく一世代は30年とも言われるが、この間に世の中の見方ががらりと変わるケースに遭遇するケースがよくある。マクロな歴史から見れば大したケースではないのかもしれないが、遭遇した当事者にとれば、己のアイデンティティを問い直すほどのショックを受けるものだ。
 私の場合は、「ソ連邦の解体」である。それにより「イデオロギー時代の終焉」とやらが現実的なものになったということである。それまで私は俗なるインテリそのままに「社会主義社会」に何らかの夢を抱いた一人だった。他方ではその具現たるソ連に対しても批判する立場をとっていたかと思うが、まさかそれがなくなるとまでは思いもしなかった。それで私は、これまで冷戦時代を縛ってきた「イデオロギー」にとらわれてきたが、それ以後その「イデオロギー」にこだわらなくても、平気でおれるようになってしまったのである。
 従って、別のエッセイ集では、まだまだイデオロギー的思考が支配していた頃に取りざたされたものがテーマとなっていたが、このエッセイ集では、その思考が払拭されている状況下でできあがっていることをあらかじめお断りしたい。
 又、このエッセイ集のタイトルの中に「平和」という言葉を入れているが、それは、平和を常に戦争という言葉の対極にあるものとする狭い視座から解放されたからである。つまりは「戦争のない状態」だけを「平和」と考えると、平和のための戦争も許されることになると気づいたからである。
 その意味では、「構造的あるいは間接的暴力」のない状態を平和と定義するJ・ガルトゥングの影響を受けている。今では、人間の存立を危うくするものはすべて平和の反対概念としてとらえるようになってきている。環境問題や人間性の問題を取り上げているのはそのためである。(これとて、エピゴーネンとしてであることは言うまでもないが。)
 もっとも、そうなると、以前に考えてきた「平和」とは何であったのかが問題となってくる。自分の変節を見るに、三十年は短いと言えども長いのであるから、それは年月が許してくれるだろうと、たかをくくってしまうと、再び、それでは私自身のアイデンティティとは一体何なのだとの思いもよぎってくる。
 ここで若干の弁明を許していただけるならば、このエッセイ集は他のそれと比べて、細部において齟齬を来している部分もあるかもしれないが、全体としては、一貫しているものと思ったりもしている。たとえ時代の奴隷であったとしても、私は私なりのアイデンティティを持っているとの矜持だけは残したいのである。
 最後に一言付け加えれば、私は今、ホモ・サピエンスとしてではなく、ホモ・デメンス(錯乱のヒト)としての毎日を送っているような気がしてならない。他のホモ・サピエンスから、冗談混じりに、その通りだと言われても、私はあえてそれを甘受するだろう。なぜならば、私は自分自身のことをホモ・サピエンス(賢いヒト)の一員だと臆面もなく言うことに、うんざりとした気分になっているからである。


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