第二部 打ち砕かれたホモ・サピエンスに関する論評


         奇行とそのダイナミズム


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 常識的で日常的な生活を送る者は、えてして、それをうち破るような変わった行為やそれを行なう人を、よきにつけ悪しきにつけ、波風をおこすやっかいな存在とみるようだ。いわゆる常識人の奇人に対するこのような反応は、常識人の持つ価値観によって異なっており、たとえば揶揄的であったり、危険視したり、あるいは逆に期待感で満ちていたりするが、概ね、それらは単に評価する側の都合によるばかりではなく、奇行あるいは奇人のもつ特性が定まらないことにもよっているようである。
 これは一体なにを意味するのだろうか。奇行あるいは奇人は、それ自体を考えれば、ただ普通とは変わっているという情緒的で主観的な評価しかうけられないということである。言いかえれば、それらが客観的な評価をうけるようになるには、量的にも質的にもなにかが足らないということである。それ故に奇行あるいは奇人は、猶予を与えられた存在形態をもっているといわれてもよい。そこに奇行あるいは奇人に対して、われわれが寛容であったり、またその最終的評価を留保したりするゆえんのものがあるのである。
 たとえば、「奇行」の概念に従えば、広い意味では狂気の行動や犯罪行為も奇行の一種なのであるが、たいていの場合、われわれは奇行とはそこまで断定するにいたらない風変わりな行為という風にうけとっている。奇行とはそれが狂気の行動や犯罪行為として客観的に認定されるにはなにかが足らないものとしてあるのである。そしてわれわれはその足らないものによって、奇行については狂気や犯罪ほどに排斥しないし、またすでになされた奇行については精神異常者や犯罪者ほどにその行為者の人格にまで立ち入って詮索しようとはしないのである。
 同様に社会になんらかのメリットを与える創造的あるいは変革的行為も奇行の一種なのであるが、そうと認定されるには、普通われわれが考える奇行は、あまりにも全体性や方向性を欠いている。そのためにそれは部分的にあらわれた現象面にのみ語られているきらいがある。もっともこれは後で述べるように、奇行そのものの特性のせいというよりは、その現象にあらわれた奇行の背後にある全体性あるいは方向性を把握しえないわれわれのイマジネーションの欠如のせいであるといった方が適切かもしれない。従って、そういったイマジネーションをもっていない人は、その種の奇行を狂気や犯罪の行為に等しい愚行や蛮行であるとしてはばからないであろうし、逆に多少のイマジネーションをもっている人ならば、その奇行の中に積極的な、だが断定的にいうには力不足の「なにか」を感じて保証なき期待感をもつであろう。
 ところで私は今、奇行の種類によって常識人が揶揄したり、危険視したり、あるいは期待したりするかの如くに語ってきたが、実際は、奇行といわれうるあらゆる奇行は正反対の価値評価を混在させているというのが、正しい見方であろう。奇行とは純粋に狂気や犯罪行為なのでも、あるいは逆に社会的に価値ある純粋の創造的ないしは変革的行為なのでもなく、そのすべてを未成熟な形で包含しているものなのである。このことは、たとえば狂気の行動と創造的行為との関連性、あるいは犯罪行為と変革的行為との関連性などが考えられている点からも、容易に推察されるところである。要するに、奇行とはその全体性や方向性がなかなかわかりにくいが故に、われわれの保守的精神によってはうとんじられるが、しかし「なにか」を感じさせるために革新的精神によっては注目せられる玉虫色の生の現象なのである。
 それ故に、われわれがそれを揶揄するか、期待するかは、われわれ自身の人間観、社会観、世界観、いいかえればわれわれ自身の哲学によってきまるのである。厳密にいえば、奇行とはそう定義できるものであるが、そこまでイデオロギッシュにいうと人の琴線にふれるので、日々平安を望むわれわれは、そこまでつきつめて考えず、たいていの場合、「あれは変わった行為だ」といわれた際に「ああ、そうか」と相づちをうつ程度でとどめているものである。
 こうした庶民感情に基づく定義を、その奇行の持主、すなわち奇人についても引用によって行なってみよう。奈良本辰也氏が伴蒿蹊の『近代畸人伝』から紹介しているのをそのまま借りれば次のようになっている。
 「外観をかざらないけれども内に深く蔵するものがあり、心のおもむくままに生を送っているようであるが、それが少しも周囲の平安を乱さない。格別それで自分をしばっているでもない。才芸にすぐれているのだが、そしてそれで豊かになろうとすればいくらでも出来るのに、その気持を起こさない。いかにも朴訥に見えるが決して愚かではない。主君に仕えて何事も上手にこなせる才があるが、その才が行動となって現われる場合は、それが煩わしい規制をうけても、それを少しも感じさせるところがない。……それを孤高といおうか、とも言えない。それを素晴らしい所業だと言おうか、それでは的を射ていない言葉だ。四科、即ち徳行、言語、政事、文学を修める儒学者に限った人物でもなければ、その行いの一つを取って論じられる性質の者でもない。……やはり、畸人だ、畸人と呼ぶ以外に言い表わす言葉が見つからないような人物である。『あれは畸人だ』、と言えば、誰にでも『そうか』と了解できるような人物のことだ。」
 時代的制約による用語のなじみにくさを除けば、現代のわれわれにもわかる見事な奇人についての定義だと言える。ただし、この定義は奇人をあまりにも善人視している。私流の分析からすれば、どちらかというと、逃避的で賞賛あるいは崇拝されるタイプの奇人である。実際のところ、奇人はあまりにも善人であってはならないのかもしれない。なぜならば、近代人の貪欲な心からすれば、われわれは奇人を善人視することによってもちあげておいて、陰で無能よばわりして留飲を下げるのを常としているからである。もっとも、それも庶民的資質のなせるわざといってしまえばそれまでであるが、いずれにしても、一般の人にそういった裏切りの評価のあることにも留意しつつ、奇行あるいは奇人を考える場合、上の定義は無難といえようか。
 ここでみなさんもお気づきの如く、私が奇行あるいは奇人を扱う視点は、常にそれらに積極的意味をみいだそうとするところからきているということである。その視点が私をして、奇行とは風変わりであるが、なにかを感じさせる人間の生の営みであるかの如くの主張をさせているのである。すでに私は奇人の諸相を分析し、そのいくつかの典型として天才や英雄、あるいは聖人やユートピアンを紹介した。彼らを紹介するという姿勢の中に、奇行がわれわれにマイナスの価値を与えるものではなく、ホモ・サピエンスとしての人間にとってむしろ歓迎すべき行為の一形態であるとする主張が隠されていたのである。
 もちろん、奇行にもいろいろあり、『奇人の諸相』であきらかにしたように、存在の事実としては、「樹上の生活」の如きナンセンスな行為や、あるいは狂気や犯罪の行為といった反社会的なそれを等閑視するわけにはいかないのは十分承知するところである。みなさんの中にはそれによって、奇行を前向きにとらえる視点の誤りを指摘されるかもしれない。
 だが存在の事実のみに注目する分析的な立場からは、奇行にも社会的に価値あるものと価値のないものがあるという風に言えたとしても、それだけでもってしては、奇行のダイナミズムについては少しも理解したことにはならないと言えるであろう。ここにわれわれは奇行を単に分析的な立場からではなく、一つの主観をもって、すなわちなにかを感じさせる人間の生の営みとしてとらえる立場から、奇行の諸相をみなおす作業が必要になってくるのである。
 さて、私はこの風変わりであるがなにかを感じさせる人間の生の営みたる奇行を、人間の生の営みとしては常態ではないが理念的なものをもっており、それによって動かされているダイナミックな行為として理解したいのである。そうなってくると、奇行がプラスの価値をもっているとうけとれるのは明白であり、同時に奇人として天才や英雄、あるいは聖人やユートピアンをとりあげてもなんの不思議でもなくなってくるのである。いな、それ以上に大切なのは、反社会的な奇行や、ナンセンスな奇行といわれるものも、われわれにとってマイナスの価値をもっているものとしてではなく、プラスの価値をもった奇行と同等に見られるようになるということである。
 このことはなにを意味するのであろうか。あらゆる奇行は、それが萌芽の形で現象するものであれ、観察された結果客観的名称でよばれたものであれ、現象の違いこそあれ、根はすべて同じ生のダイナミズムから生まれてきているということである。極端にいえば、犯罪行為であれ、変革的建設的行為であれ、いずれも生のダイナミズムのあらわれであるという意味で、それらは同一の価値をもっているということである。このことは、これまでにおいても、あるいは前の『奇人の諸相』においても再三、再四くりかえしていることでもあり、賢明なみなさんにはすでに察知されているところであろう。


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 さて、私は奇行を「常態ではない生の営み」であると言った。そしてそれは単なる生の営みではなく、理念的なものをもったもの、古代ギリシャ哲学風にいえば、魂をもった生の営みであった。ここまで奇行をもちあげれば、なにをかいわんの感情に反発されそうであるが、そうなると、私の論理からしても、奇行とは、人間がホモ・サピエンスとして存在する限り、すべての人間のなせるわざということになり、奇行という言葉は特別な意味をもたなくなってきそうである。あえて奇行といいうるのは、常態ではない、すなわち日常的にみられない行為であるという理由によってでしかない。しかし、ここでわれわれはなぜに奇行という人間における行為の形態を前向きに考えていかねばならないのかをもう一度、考えてみる必要があるだろう。
 まずそれは、奇行といえども、ホモ・サピエンスの行為であるという大前提からきているように思われる。そうなると、そこには必然的に「なにか」あると想定させるものがあると、われわれは考えるのである。この「なにか」が、さきほどいったようにホモ・サピエンスでなければ考えられない理念的なものであり、いわば理性的作用の産物なのである。ただし今私がいった理性的作用という言葉を通常とらえられているような狭い意味でとらえてもらいたくない。狂気の作用をも含みうる人間的生の精神的な働きのことを意味しているととらえてもらいたいのである。(どんなものが具体的イメージとしてあげられるかと求められれば返答には困るのであるが)そのような意味でとらえられる「なにか」とは、狭い理性によっては理解されないが、しかしその存在について、そしてその意味と価値についてたえず問われつづけられる人間的なものとして、われわれにとらえられるものなのである。
 少なくともこの「なにか」なる観念は、ホモ・サピエンスとしての人間においては、その存在性を抹消しえない一種の怨霊のようなものとしてうけとられるであろう。この考え方はカントにのみならず理性的思考を信奉する者には避けられないタガである。平たくいえば、「それがあり、それによってなされていると考えることは、理にかなっている」と考えざるをえないものなのである。同時にこの考え方は東洋にもあると思われる。理性概念を西洋ほどには明確にしなかった東洋においては、自然的なもの、天の道にかなっているものという形で、根拠を固めようとする方法がとられる。非合理な根拠づけだといってしまえば、それまでであるが、合理的だと決めつけ、傲りたかぶるよりはより謙虚な人間の考え方として私には歓迎したい方である。(もっとも、西洋においても、経験論の哲学に若干この方法がとりいれられてはいる。)
 私はこの「なにか」を天の道にかなった「なにか」としてその存在性を保証する考え方もよしとしたいのである。たとえば、『荘子』に「人は畸にして、天にrし」という言葉がある。つまり奇人であったとしても、それは日常のわれわれから見たら、そうみえるだけで、実際は自然のままの姿であり天の道にかなった人間であるという意味の言葉である。まさにそれは奇人の行為、すなわち奇行には「なにか」が、しかもホモ・サピエンスにとってはあたり前の「なにか」がなければならないことを伝える言葉でもあると言えよう。
 ここでわれわれが考察しなければならないのは、次の点である。私はさきほど奇行を常態ではない人間の生の営みであると言った。さらに奇行の中に感じさせる「なにか」とは人間に付随する精神的な生の働きの産物であるとも言った。さすれば、理屈上、奇行は常態であると言える特性をもつのではあるまいか。少なくとも現象的には数が少ないだろうから、常態ではないかもしれないが、構造的には、奇行は人間の生の営みとしては常態的であると言えるのではあるまいか。
 しかるに、われわれはなぜに奇行を常態ではないといってしまうのであろうか。そもそも常態ではないといわしめる心的構造とは何であるのか。まさにわれわれがあきらかにしなければならないのはこの点なのである。あきらかにみなさんはここでも、私が「奇行とはなにか」あるいは「何が奇行とよばせているのか」をもう一度詮索しようとしている点にお気づきであろう。しかもありていにいえば、この詮索には、奇行はホモ・サピエンスとしての人間にとっては常態的なものであるのに、常態的でないとする同じホモ・サピエンスの狡猾さをとがめる思いが隠されていることも見抜かれるであろう。そこでこれから私なりにある行為を奇行といわしめるホモ・サピエンスの心的構造を解剖してみようと思うのである。
 まず第一は、生物としてのホモ・サピエンスに固有の攻撃的感情があって、それによって自己保存の本能が刺激された結果生まれたように思える。これは本来ホモ・サピエンスとしては同類であるにもかかわらず、同じ行動形態をとりえないということで、差別意識や憎悪の感情がことさらにおこったことによる。その結果、ホモ・サピエンスは、他種に対する場合以上に、攻撃的になり、そのホモ・サピエンス的攻撃の手段として「奇行」なる観念を生みだしたのである。
 しかしこれは低次の仲間意識のあらわれであり、いわゆる「弱いものいじめ」というくだらない同じ仲間に対する攻撃的行為以外のなにものでもない。実際のところ、この場合の奇行であるか、そうでないかの違いは、質的な違いによってというよりは量的な違いによって決められているにすぎない。つまり、あの行為は奇行であると断定しているホモ・サピエンスは、なんらかの質的優位性によってではなく、奇行をなしえない同類の数の多さにたのんで、差別的判断をしているのである。こういったことがまさに生物としてのホモ・サピエンスに固有の現象であるといわれるのは、たとえば、なにかの理由で奇形をもった魚は、生存の能力の不足によって、自ら脱落しない限り、他の仲間にまじってなにごともなかったかのように群生するが、ホモ・サピエンスの場合はそうはいかないところからみてもあきらかである。
 ホモ・サピエンスにとっては、並であり数多くあるということは、他の生物に対してではなく、同じ仲間の人間に対して、きわめて有利に生存しうるということなのである。奇行の観念が生まれるのも、そういった有利な生存をしたいと欲するホモ・サピエンスの心的構造に起因していると言えよう。
 第二の心的構造は生物としてのホモ・サピエンスよりもやや高度の機能をもつために、第一の場合とは違った奇行の観念を生みだしている。しかしその機能は多少の悟性能力をもっているが、すべてを理解するということができないために、一種の恐れの感情に影響されやすい不安定さをもっているのである。このシリーズのエッセイにおいて、私は奇行があまりにも部分的にあらわれた現象のみについて語られるきらいがあり、従って全体性、統一性を欠いているかのように語った。だが、それは奇行そのものの特性ではないのである。正しくは奇行とはその行為者の生の営みの事実を伝える以外のなにものでもなく、むしろ、それを評価するわれわれの方が、その行為者の全体像なり、アイデンティティーを理解できないために、彼の行為を奇行と名づけて、自分自身のそれと区別しているにすぎないのである。この場合、奇行そのものが問題であるのではなく、奇行とみなさざるをえないわれわれの心的構造の未熟さの方に問題があるのである。
 この時、注意すべきなのは、もしわれわれの心的構造の中にいささかの悟性能力もなかったならば、上のような態度にはならないということである。奇行なり奇人なりについてぼんやりと理解する力があることが、われわれをして、生の営みを奇行と、あるいはそれをしている人を奇人とよばしめているのである。もし奇行なり奇人なりが、容易にそれを観察する人に理解されてしまうならば、それらは奇行でも奇人でもないであろう。それ故にまさにそれらが誤解されて存在するというところに、奇行や奇人の本来性があると言えるのである。
 案外、この点については、奇人といわれている人の方が状況理解をしていると言えるかもしれない。彼らは自身では文字通り己れの欲するままの生の営みをしているつもりなのであるが、それでも奇行をしていると差別的にいわれたとき、それは自分が誰のものでもない固有の生を営んでいることになるのだと逆に開きなおれることを知っているからである。
 第三の最後の心的構造は第二のそれよりも高度な自律的機能をもっているが故に、見方によっては実に陰湿な奇行の観念を生みだしている。そしてそれはホモ・サピエンスとして行きついた知的動物のまさに特性そのものがもたらす不可避の奇行の形態を招来しているといってよいだろう。だが実はそれは現実においては最もありふれた、われわれをして奇行といわせる心的構造なのである。そのことは、われわれがいま使っている「奇行」という言葉の「奇」の語源をたぐればあきらかである。
 この「奇」なる言葉は、奈良本辰也氏によれば、「畸」にも通じているのであり、もともと、「井田に区割するとき、はみ出して割り残りの田のことを言った」のである。そして、この最初の意味である「あまり」、「はした」、「はみだしもの」から「珍しいもの」、「変わったもの」が生まれ、かつては「かたわ」、「ななめ」等の差別用語にもなっていたことは辞書にも記されているところである。
 さて、ここで大事な解釈は、はみ出して生まれた田が、まさにホモ・サピエンスの人為性によって、あるいは、よくいえば、主体的に文化的生活を営もうとすることによって生まれてきているということである。その意味では、この人間の思惑通りにはならない田は、はみ出したものというよりははみ出されたものとしてあくまでも受動的性格をもっていたのである。しかしこの人間の思惑は自律的機能のあらわれであるが故に常に正しくなければならなかったのであり、いかなる場合においても絶対的価値をもたなければならなかったのである。このことはなにを意味するのであろうか。
 奇行とは人間があらかじめかくあるべしと決めてあった取り決めおよびそれによって生まれた制度や組織といった種々の枠組からはずれた行為である。しかしこの取り決めや枠組が正しいということになると、自律的であれ他律的であれ、そこからはみ出しているものは理屈として劣るものとされるようになってくる。それ故に奇行は純然とした差別用語として使われてくるのである。なぜならば、高度な心的構造をもち、主体的に文化的生活を営もうとする限り、われわれは取り決めや枠組の発生は不可避と考え、その際に生じる不都合な部分は事実としては存在するにもかかわらず、あってはならないものとして不当に対処せざるをえなくなるからである。
 従って、奇行が奇行でないと見なされるためには、ホモ・サピエンスが自律的で高度な心的構造をもつという考え方を全面的に捨てるか、それとも、これまでの歴史がそうであったように、奇行が規制の取り決めや枠組を完全に破壊できるだけの力をもって新たなオーソリティを獲得するかのどちらかの方法でなければならないのである。そしてわれわれが奇行の中に、一種の尊敬の念を払うのは、後者の場合が現実的におこりうることを知っているからなのである。


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 さて、われわれは奇行の観念を生む三つの心的構造について知った。奇行の観念が生まれるのは、いずれの場合においても、人間の頭の中になんらかの思いこみがあって、それにはずれた行為があった際のようである。ではその思いこみとはなんであろうか。それはどうも人間を類的存在として、あるいは社会的存在としてとらえようとする精神の傾向性、いいかえれば一種の強迫観念から来ているようにも受け取られる。
 たとえば第一の場合は、同じ人間である限りは、同じ行動形態をとりえないはずはないという思いこみである。ここでは変わった行動形態をとること自体が、排他や攻撃の対象とされるのである。
 第二の場合は、同じ人間である限りは、同じ考えをするのであり、従って、相手の考えは理解できるはずだとする思いこみである。ここでは、事実がそうでなかった場合、宗教的感情に支えられた反応を相手に対して行なう。つまり、自分より人間的に上位にあると考える相手には崇拝の念をもって仰ぎ見、下位にあると考える相手には、仲間の恥とばかりに忌みきらうのである。
 第三の場合は、自分が自立した存在であると思うのと同様に、他人もそうであるはずだとする思いこみである。そのことは、自分が理性的にかくあるべしと決めたことについては他人も当然同意し、従うはずであるとする思いこみになる。ここではすべての人間は自己完結した完全者であり、誤り(奇行もその一つである)をおかすはずはないと思いこまれているのである。それ故に、事実として生じた誤りに対しては、当の本人は責をうけて当然と考えねばならないし、また他人が罰を科しても許されてしかるべきだという具合にまで、厳しい態度がここから生まれてくるのである。
 前にも言ったように、第一、第二、第三の場合とすすむにつれて、心的構造は高度になっていく。高度になっていくというのは、観念的、思惟的になっていくの意であり、次いで複雑さを増していくの意であって、これをもってして、すすんだ状態になったという風には考えてはならない。ただ思いこみといった作用が客体的なものによってから主体的なものによって生じるように変化していることからみれば、心的構造が高度になればなるほど、自縄自縛的傾向があらわれてきているとも言えるだろう。
 ということは、心的構造が高度になればなるほど、自律的要素が強くなることでもあるので、奇行に対する倫理的な咎めの念はそれだけ強くなってくるということである。従って、その場合、われわれはまさにその高度な心的構造のおかげで、無意識のうちに奇行をおかさないように自主規制を行なうようになり、できるだけ高度な心的構造のおめがねにかなうような窒息した場に自らをおしこめるようになってくるのである。ちょうど、それは自分がかくあれかしと思ってつくった規制が、後になって、自分の新たな行動をも拘束するようになって、手も足も出なくなってしまったオルガナイザーの状況に似ている。
 このように考えれば、奇行とは、自縄自縛におちいった己れの窒息した状況からの解放を願う生の営みであるとも言えよう。奇妙な話である。人はホモ・サピエンスとしてのあるべき生活を確立するために、その逆像としての奇行の観念を生みだした。そして最初は意識的な操作においてあるべき生活を維持していくうちに、そのあるべき生活が己れの存在を窒息させていることに気づき、その逆像としての奇行の観念に生の復権の可能性をみようとしているのである。
 あわれにも、自立したホモ・サピエンスと自負するわれわれは、しかしながら、それをおおっぴらにはできない。面従腹背という言葉があるが、こと奇行に関しては、その逆であり、外面では奇行の存在には反対しながら、腹の中では、自分も奇行の一つなりともやって、己れをとりもどしたいと願うように、現代のわれわれはなってきているのである。われわれが奇行の中に「なにか」があると見なしているのも、このあわれなホモ・サピエンスの自己防衛の一つのあらわれとみてもよいのではないだろうか。
 ところで、ここでわれわれはホモ・サピエンスに内在している狡猾さにも注意しなければならないのである。というのは、ホモ・サピエンスが奇行の中に「なにか」あると感じるのは、身勝手な思惑からきている場合があるからである。さきほど私は、奇行が奇行でなくなるのはその奇行が新たなオーソリティをもつ場合であるといった。従ってこの「なにか」あると感じることの内実は、奇行が将来においてオーソリティをもちそうであるから、いわば「青田買い」のつもりでその奇行を容認しようとすることにほかならない。 これがホモ・サピエンスに固有の身勝手な思惑でなくてなんであろうか。いわば、それは弱者としてのホモ・サピエンスの次の心境、つまり、自分が社会的に弱者である状況からのがれるための一番いい方法は、自分が強者になることであるとする心境に似ている。ここではホモ・サピエンスが高度な心的構造をもっていることに対するわずかの反省の念さえもない。むしろ高度な心的構造に対する新たな期待の念の方が強いといった方がよいだろう。その期待が、ホモ・サピエンスをして、自分が将来のオーソリティになろうとする野心をもたせるのであり、あるいは他人のオーソリティに便乗することで保身を図ろうとさせているのである。
 さて、このように話してくると、みなさんの頭に一つの混乱が生じてきたのではないだろうか。すなわち奇行の中にある「なにか」をめぐっての評価において、私のアジテーションのきままなタッチに眩惑されていると思っているのではないだろうか。少なくともこれまでのコンテキストからすれば、私の努力は「奇行」を汚名から救い、それのみか、むしろホモ・サピエンスにとっては常態の生の営みであるとみなすことによって、奇行のもつ存在意識を浮きぼりにすることであったはずだからである。それ故に『奇人の諸相』においても、あるいはこのエッセイにおいても、奇行の中の崇拝あるいは賞賛される部分が浮きぼりにされ、天才的行為や英雄的行為あるいは理想主義に支えられた行為が、たえず彷彿される形で論じられてきたはずであった。その媒介となっているのが「なにか」であることは熟知されるところであろう。しかるにここで、私はこの「なにか」がホモ・サピエンスの身勝手な思惑からきているというのである。これは一体どういうことなのであろうか。
 前に私は「なにか」が人間に付随する精神的な生の働きの産物だと、ばくぜんとした形で述べた。なぜに、私はこのようにばくぜんとした形で、あるいはもってまわった言い方で、「なにか」について語ったのか。すでにこの表現からも、この「なにか」が理性的なものによって最終的に保証された高尚なものであると思いこまれる危険性がある如く、私の心の中では、断じてこの「なにか」が理性的存在者の思考の範疇に入れてもらいたくないという気持があったからなのである。
 もとよりその気持のかなえられないという悲劇性を私はよく知っている。それ故に私は奇行を弁護したとしても、その根拠である「なにか」が、いかに私流に説明しても、所詮はホモ・サピエンスが営む文化生活の理想形態を予告するもの以外にはうけとられないだろうと覚悟せねばならないのである。そうなると、せっかく私が天才的行為や英雄的行為あるいは理想主義に支えられた行為をもちあげたところで、それらの結実する場が、現状よりはすすんでいるかもしれないが、現状の延長線上にあるだけの同じ文化領域でしかないことになろう。またそれらの行為の遂行者、すなわち奇人たちは、主観的には己れの生を燃焼させたつもりであろうが、いつしかすべてを飲み尽くすホモ・サピエンスの文化領域に懐柔され、利用されていくうちに、自分もホモ・サピエンスとしての人類の社会に貢献したんだとする月並みな感傷にふけるようになるだろう。そして、奇人たちが死んで土に戻ったとき、彼らの記念碑や銅像がうち建てられるならば、それらが彼らの文化的野心の証明であったのだと思われても、文句はいえなくなるであろう。
 文字通り、彼らの奇行は彼らをとりまくキミィラの如き複雑な文化の全体によって誤解され、価値づけられたのである。そして私はこれらの指摘が事実であるとされることに言いようのないジレンマを覚えているのである。 


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 そもそも、自然に存在するものすべては、生の形態として観察される場合には、奇行なる観念でもって語られるべき筋あいのものではないのである。それ故にホモ・サピエンスの生の形態にも、奇行などという言葉は使われるべきではないのである。あえて使うとするならば、ホモ・サピエンスの行為は、すべて奇行にあたるといわれるべきであっただろう。なぜならば、生きるとは不断の前進、新しいものへの取りくみ以外のなにものでもなく、従って既存の行為とのたえざる訣別であるからである。
 以前、私は例外的に、奇行とはホモ・サピエンスにとっては常態の生の営みであるといって、奇行の存在性を正当化しようとしたが、それは、実は、このような考えのもとに立っていたからである。しかし、ここでみなさんには、なぜに私がこのような言葉のレトリックを用いているかを考えてもらいたいのである。実は、生の事実をまさに事実として考えれば、それが奇行であるとか、ないとかいわれうる筋あいのものではないのであるが、われわれが奇行そのものではなく、「奇行の観念」をもっていることが、その生の事実を奇行とよばしめているからなのである。いいかえればわれわれは奇行そのものについて、語っているのではなく、常に奇行の観念について語っているのである。
 みなさんは、それが常態を願う個々人の恣意的な判断によって、いかようにも構成されていることに気づくであろう。そしてそれは、わずかに、言葉上の「変わった行為」ということで常態との区別のための一致をみるだけであり、次にそれの具体的なイメージが求められた場合には、常にわれわれの個々のエゴイスティックな現実擁護のための逆像として構成されてきているのである。
 しかしながら他方では、われわれは常に現実にとどまりえない生のダイナミズムをもっている。それ故に奇行の観念という倫理的逆像を彷彿させて、自己の現実存在の基盤を築こうとするのであるが、それでもわれわれは生のダイナミズムにつき動かされるので、いわば精神の矛盾をかかえたままで、奇行の観念の価値の転倒を余儀なくされるのである。そうなると悲しいかな、ホモ・サピエンスは奇行の観念を構成することなくしては、その生のダイナミズムに応えることができないのである。つまり、ホモ・サピエンスとしての生をまっとうすることができないのである。まさにホモ・サピエンスとは観念によって自己の存在を生成していく存在である。そして奇行の観念なくしては先にすすむことのできない存在なのである。
 かくてわれわれは先の生をまっとうするために、無節操にも、自分が否定していた観念に助けを求め、やっとの思いで自己の存在の場を保とうとする。そしてそれが保証されるや、またもや無節操にも、新たな奇行の観念をつくり、その逆像としての生のパターンを彷彿させ対峙させながら、自己保存していこうとするのである。私はこのエッセイのはじめの部分において、奇行とは保守的精神によってはうとんじられ、革新的精神によっては注目せられる生の現象であるといった。しかし奇行がそう簡単に定義されるほど客観的に存在しえるはずはないのである。また哲学といった高尚なものによってオブラートに包まれるものでもないのである。
 まさに、奇行とは、とりわけ奇行の観念とはすべてのホモ・サピエンスが己れのエゴイズムを貫徹するために、幾度でも利用しては捨てさる、ホモ・サピエンスにとっては必需品的な消耗品なのである。なるほど奇行の観念の中には一見普遍的に存在しているかの如くにみえるものもある。誰がみてもあきらかだというところの狂気の行動や犯罪行為がその観念のあらわれとしてあるではないか、と判断せられるからである。
 しかしここまで来られたみなさんは、そういった主張が根拠のない独善であることに気づくはずである。私自身、狂気かそうでないか、あるいは犯罪行為と言えるか言えないかを区別する最終的な基準のないことを再三、再四語ってきている。あるいは別の観点からいえば、自分が狂気になってでも救われたいと思う状況が絶対にないとはいえないであろうし、純然たる犯罪行為を承知の上でそれを賞賛したことはないとはいえないだろう。まさに、その意味においては、奇行の観念とはその結果するところの社会的ないしは個人的な価値の具合で、いかようにでも判断せられ価値づけられるのであり、それまでは、カッコの中にいれられたまま、見守られねばならない代物であるとされるのである。
 しかし、ここでわれわれが忘れてはならない最後の最も重要な点は、奇行の観念がその本性上、否定的要素をもったものであったとしても、その観念なくしては、ホモ・サピエンスとして生きていくことのできない人間の生き様である。おそらくそれは自己のアイデンティティを保ちつつも、その自己には満足しないで、たえず自己拡張をもくろむホモ・サピエンスの本性に起因しているのであろうが、しかしそれが「あるべき自己」を志向しているとの美名のもとに、自己を破壊していることには変りはない。
 その際、われわれは精神異常者にならなかったからといって、あるいは犯罪者にならなかったからといって、奇行の観念をもたないでおれたと、安心しているわけにはいかないだろう。表面上あるいは形式的に、精神異常者と認定されなくても、そして犯罪者と裁定されなくても、実質は、われわれは彼らと同等のあるいはそれに近い生のパターンをふんでいるのである。少なくとも、「現にある自己」のままでいることが生物的な意味での生の享受にすぎず、知的存在としてのホモ・サピエンスにとっては死に値する状態であるとの思いが喚起されるならば、それまで否定していた、奇行の観念を媒介にして、「あるべき自己」にむかって「現にあって、肯定している自己」を破壊していかなければならないのである。そして、それは、精神異常者や犯罪者を先頭として、ホモ・サピエンスとしてのわれわれすべての人間が日常的に実践しなければならないことでもあるといえるのである。
 もし、そういった人間の生き様が「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の生き様というならば、われわれはそれを否定的にではなく肯定的な意味あいでうけ入れる必要があろう。いいかえれば、まさにわれわれは「あるべき自己」を志向するが故に、われわれの精神は打ち砕かれねばならないのである。それ故に奇行の観念はわれわれが「あるべき自己」に向う船頭の役割をはたしていると考えられねばならない。われわれはこれからもホモ・サピエンスとして生きていこうとするのか─さすれば奇行の観念を十分に働かせよ。われわれはホモ・サピエンスとして死のうとするのか─さすれば奇行の観念を怨念をこめてたたきつぶし排除せよ。とまあ、高踏的にいうならば、そのような問いかけが、これからのわれわれに常に投げかけられているのである。
 なお、このエッセイの終りとして補足的に述べさせてもらおう。それはこの私の結論から生じるみなさんの即座の反発を考えての上である。すなわちみなさんは次のように思われたのではないだろうか。私が奇行をいつのまにか奇行の観念として語り、そしてその観念はすべての人間が生きるために備わるものだから、あたかも、すべての人間が打ち砕かれたホモ・サピエンスであると高言してはばからない、そして精神異常者や犯罪者にはともかくとして、第三者としての人間にまで、打ち砕かれた人間であると決めつけんばかりなのは、ちとはしゃぎすぎではないか、と。もっともな反発であると私も考えている。それは私自身も感じるところであり、少なくともこのエッセイにおいては、みなさんをここまでまきこむ必要はなかったかもしれない。
 これについては弁明させてもらおう。私はもともと楽観主義的な観念論者なのだ。だから観念論者の弱い環として、私はなんのためらいもなく、観念がそのまま実在であるかの如くに考えたり、あるいは観念が存在をつくるかの如くに考えたりしてしまうのだ。それ故にみなさんは、私の結論に対して、それは単なる一つの考え方であるという程度におさえてくれれば、私としてはありがたいと思っている。実際のところ、現実の世界をみまわしたところで、犯罪を考え志向する者が必ずしも犯罪者でないのは事実である。奇行の問題についても同様であり、奇行の観念をもったからといって、必ずしも奇行が実践されるわけではなく、従って奇行の観念の持主は必ずしも奇人でないのは当然といえよう。
 さすれば私は以下のように言いかえて、「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の第三の例である「奇人」についてのコメントとしよう。
 奇行の観念は、なるほど見方によっては、新たな生を望むホモ・サピエンスに一つの打開策を講じてくれるものであると考えられる。しかしたいていのホモ・サピエンスは、別段そのようなショック療法によってではなくても、現実をきり開いていって、「あるべき自己」に到達しようとするすべを知っているものである。理性的思考はそのために機能するのであり、そこから文化的生活、科学的世界が生まれもするのである。従ってわれわれはその中で生じた諸問題も、現実的基盤に依拠しつつ、漸進的に解決し「あるべき自己」へと近づいていこうとするのである。それが多くのホモ・サピエンスの「あるべき」生き様であり、私の提言するような、その状態からはずれた奇行による「あるべき自己」の模索は、まさにその遂行者の精神が常態でない、すなわち打ち砕かれていなければできない所業であるといえよう。
 そうなると奇人の仲間にと、私があてにしていた天才や英雄やその他の理想主義者は、「奇人」の範疇から除去されるべきであったかもしれない。私が強引に天才を狂人に、英雄を大罪人に、あるいは理想主義者を一人よがりの自己陶酔者にしたてあげ、彼らを「奇人」の地位に留まらせたのは、それこそこじつけもいいところといわれるべきかもしれない。なぜならば、彼らといえども、現存する文化領域からの必然の要請として生じているのであり、彼らの行為が決して奇行といわれるべきではないとする社会学的学問的お墨付が与えられているからである。それ故に、私は奇行とはまさに奇人の行為、すなわち「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の行為以外のなにものでもないとせよ、といわれてもあえて甘受しようと思うのである。今のところは。


 参考文献

伴蒿蹊『近世畸人伝』(村上護訳、奈良本辰也解説、教育社)
荘子『荘子、大宗師篇』(金谷治訳注、岩波文庫)

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