第二部 打ち砕かれたホモ・サピエンスに関する論評


        隷従とその効用性 ─結語にかえて─


 T

 精神異常者でもなく、犯罪者でもなく、奇人でもなく、常に組織の一員としてまじめに職務にはげむ現代人の一人が、ある日突如として蒸発する。それ以前にはいかなる烙印も押されない、いわば無臭のエーテルのような存在の彼であったから、当然のことながら、他の人たちにはその蒸発の原因がわからない。それでも、一応は組織の中の人間であった彼は、その組織のしがらみとさまざまな人間関係の中で生きている以上、蒸発によってなんらかの形の迷惑をかける事態となる。彼の所属する組織は、彼の不在によって生じる業務の一時的停滞のために、「困ったことをしてくれた」と善後策を講じ、彼の償いを求めるべく探す。彼の家族は収入源をたたれた悲しみから、「これからどうして生きていったらよいのか」と右往左往するといった具合だ。
 しばらくして、彼は発見される。人の気配もない山奥で一人自給自足の生活をしていたというのだ。「なぜ、こんな馬鹿なことをするんだ」と問いつめて、必死に元の世界へ引き戻そうとする関係者の努力を尻目に、彼の答は明確ではなく、「ただ一人になりたかっただけだ」という程度で一つの蒸発劇の幕がおろされる。
 よくある話である。
 よくある話ではあるが、彼がその後どうなったのかについては、さすがのマスコミも好奇の目をもっていないのか、不明とされ、そして忘れ去られる。代わりにわれわれが推測するならば、彼はその後はケロリとして従来の世界に戻ったのかもしれないし、再び蒸発して、それこそ致命的なまでの烙印を押されて世間からスポイルされたのかもしれない。いずれにしても、その後の彼については、もはや無臭の存在ではなく、従来の世界に戻った場合でも、人様に迷惑をかけたやつだということで、監視つきの処遇と対応をうけねばらならいし、なお一層の「しがらみ」に遭遇していかなければならないだろう。
 われわれはこういった事例についての社会病理学的な分析については無数といってよいほど知っている。そして現代社会においては、彼への評価は、たいていの場合、一致している。すなわち、彼は社会の要請についていけないところの、なにかを欠いた弱者であるというのである。せいぜい、彼に同情的な評論家が彼を社会の犠牲者として位置づけ、彼の犯した行為のとがを軽減するぐらいのものである。
 驚くべきことに、われわれは彼が己れの人生をそれによって強く生きたのだという主張をまじめにしているのを聞いたためしはない。ごくたまに、アイロニカルな評論家が、それこそ本音か逆説かはわからない形で、彼の生き様に賛辞を表する程度である。しかしその評論家とて彼への賛辞が一種の職業上の論評であることを承知しているのである。ましてや蒸発した人間が、免許をもつ「ヒューマニスティックな」医者によって狂気なる病気の持主として診断されたり、「観念的に構成された社会的特性」に抵触した犯罪者として裁定されたり、あるいは「常態でない生の営み」をする奇人として世間の人間によって公認される段になるに及んでは、その評論家とて「まじめに」彼を賛美する態度をさしひかえるだけの「良識」をわきまえるようになるのである。
 それ故に、現代社会ではいつでも蒸発する人間は、組織の中にあってそのメカニズムに適応することのできない弱き欠陥人間であり、彼を探し求めるその他の人たちは、組織の中で見事に自分を生かした強き正常人であるという対照表が用意されているといってよいのである。
 この非情な事態の背景には、一つの断固とした価値観が存在している。すなわち、人間の値うちや優秀さや正しさは、彼の所属する組織や社会の要請にどれだけ応えられるかによって決められるという価値観である。一見、この考え方は人間の能動的側面を啓発するかのようにみえるが、そうではない。その実態は人間の受動的側面を美化している以外のなにものでもないのである。なぜならば、この考え方には、適応し、耐え忍び、隷従する能力が確かなものとして、人間の中に認められ、かつ美徳とされているからである。そうだからこそ、われわれは蒸発した人間を、その美徳である適応し、耐え忍び、隷従する能力もない弱い存在と断罪するにはばからないのである。
 他方、蒸発した人間を探す側の人間が、彼とは違って、適応し、耐え忍び、隷従することのできる存在であり、それが故に強き人間であると世間では認められているのはなぜだろうか。実際、彼らは適応させられ、耐え忍ばされ、隷従させられているというのが真実なのかもしれない。そして彼らは文字通り「隷従者」といわれうる存在なのかもしれない。しかし、奇妙にも、彼らには自分が隷従させられているという意識がない。そもそも彼らには隷従そのものの意識がないのだからやっかいである。私があえて「隷従する能力」といっているのも、彼らにとれば、それは自らの所属する組織や社会に「貢献する能力」のことであり、またそれらをより「発展させる能力」のこととして意識されている。それ故に彼らは隷従状態にあればあるほど、ある価値を生み、それを大きくしているのだと、逆に思いこんでしまっているのである。
 彼らにとれば「隷従すること」は他律的なものではなく、自律的なものであり、「隷従する能力」を認めることは、己れの行為の自律性を確信させるものであった。これらが、彼らが強き人間であるといわしめる理由である。だが、私にいわせれば、彼らの自発性は「いつわりの自発性」でしかない。彼らは隷従しているという意識をもっていないだけに、己れの行為が自発的なものであるかのようにうけとっているにすぎないのである。そして、この自発的であるかのようにうけとっていることが、いつのまにか彼らによって自発的であると断定されてしまっているのである。
 それはいかなる理由に基づいているのだろうか。おそらく、それはわれわれの所属する組織や社会が、「合理的な社会機構」の様態をもっているというところに基づいているのではあるまいか。そしてこの「合理的な社会機構」というのは、われわれの精神の直接の産物であると思いこまれているためではあるまいか。いってみれば、合理的な社会機構はわれわれのもつ欲望に報いてくれるべく、われわれ自身が要請し、うちたてたものであるから、それに隷従するという言葉づかいそのものがおかしく、むしろ、われわれの方がそれを主体的に運用しているというのが正しい、というわけである。
 この考え方は別に目新しいものではない。いわば現代人すべての了解事項となっているのは、十分知られるところである。ヘーゲルが近代市民社会を人間の欲望の体系と定義することで、この考え方に権威が与えられているのも、周知の事実である。そうであるからこそ、組織や社会に隷従する人たちが、ひねくれた私の挑発によって、「隷従者」とののしられたときに、彼らは思いもよらない侮辱をうけたとばかりに反発し、社会的貢献だの、社会を発展させるだのと言って、己れの価値を認めさせようとするのである。
 実は、彼らをしてそういわしめるのは、彼らのプライドと大いに関係しているからである。仮に私が今ここで、彼らの隷従ぶりが封建時代の家臣のそれと同じで、彼らは己れの欲望さえも上からの命令によっておさえなければならない主体性なき人間だというとしよう。すると彼らは次のようにいうのである。自分たちは決して封建時代の人間ではない。彼らは盲目的にお上の命令に従うが、自分たちは封建時代のもつ桎梏をとりのぞき、それをのりこえて誕生した自立した人間なのであるから、同一視されるのは見当違いもはなはだしい、と。
 彼らにすれば、自分たちは組織や社会に単に隷従しているのではなく、己れの欲望を満たすために、それらをつくり、それらに便乗し利用しているにすぎない、との思いでいっぱいなのだろう。ともかく、彼らは自分たちが自立した存在である、自由な存在であると自らを規定することで、安心しきっているのであり、己れ自身が己れの欲望による自縄自縛の桎梏をつくりだしているとは夢にも思っていないのである。
 歴史は一時、その自由や自立の観念が形式的なものであり、従って幻想的であることを示唆したこともあるが、人間の本性が欲望を充足するところにあるという考え方にこだわったために、自由や自立の具体的中身を変えたにすぎなかった。すなわち、はじめは個々の自利を追求する自由や自立であったものが、全体の利益、組織や社会の利益を追求する自由や自立に変わったのにすぎなかったのである。だが、この説明は体裁をととのえた言い方であり、たとえば自由についていえば、実際においては、前者は搾取する自由、奪取する自由なのであり、後者は迎合する自由、隷従する自由以外のなにものでもなかったのである。
 不思議なことには、このとき、「全体性」や「社会性」なる概念は、個々の存在の面倒までみることができると楽観視したのであるが、それが別の形式性、幻想性をわれわれに与えていることについては、ごく最近までは誰も気づかなかった。それ故に、組織や社会に隷従する人たちは、「隷従する自由」が、まわりまわって個々人に内在する本性にきっと応えてくれると信じて疑わなかった。そのために、彼らは「隷従する自由」が単に物質的恩恵を与えてくれるばかりではなく、「生きがい」までも保証してくれるものだと確信していたのである。
 もちろん、このような幻想を与えたのは、われわれがそれこそ生の守護神と崇める「理性的思考」であることはいうまでもない。理性はその高度な判断によって、個の集合が全体ではないが、全体の中には個が含みこまれると大胆にも思いこんでいた。しかしそのとき理性、とりわけ人間的理性は、それをよい意味にしかうけとらず、従ってそれを個に対して都合よく面倒をみるものだと楽観視していたのである。
 私はさきほど「隷従する能力」が彼らに直接には意識されないで、社会的貢献をし、社会的発展に尽す能力としてとり違えられて意識されていることを語った。まさにそれこそ理性がそう操作することによって、隷従することに「生きがい」をみいださせようとした証左があらわれていると言えまいか。あわれな隷従者たちは組織や社会に隷従すればするほど、行動原理が明確になり、またそのもとで行動のエネルギーのボルテージがあがるのを覚えたのである。実に蒸発した人間を探し求め、自分たちの世界へ引き戻そうと必死になっている人たちとは、このような隷従者たちのことを指し示していたのである。


 U

 この隷従者たちが、組織の中のエリートであれ、エリートの追随者であれ、「打ち砕かれたホモ・サピエンス」と命名される資格を十分にもっているという考え方は、すでに『隷従者の諸相』で述べておいた。その理由は、彼らが時として非人間的な行為をするということによりも、組織に隷従しなければ生きていけないということそのものにあった、ということも同時に述べておいた。この言い方は、なされるたびにいつも物議をかもすのは、みんなの知るところである。
 ここでも、ただちにおこってくる反論は、「それでは蒸発した人間が良く、蒸発した人間を探す側の人間は悪いということになるのか」である。その反論の持主にしてみれば、問われるべきは蒸発した人間なのであり、その彼こそ、私の再三いう「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の仲間に組すべき一つの見本とも思えたのである。
 実際のところ、その反論は正しいといってよい。この場合、蒸発した人間は、精神異常者か犯罪者か奇人かへのいずれかのタイプに属するといわれた方が適切であっただろう。なぜならば、少なくとも彼は合理的な考え方をしていなかったのであり、人間間に存する暗黙の了解事項を踏みにじっていたのであり、従ってまた、常態的に人間の生の営みをなしえなかったと考えられるからであり、いずれ、専門家や権力や世間の常識によって確定的に「打ち砕かれたホモ・サピエンス」として処断されるにちがいないからである。私も、まさに、そう確信するが故に、この反論に一応の同調をせざるをえなかったのである。
 しかしこの反論の持主は、私の考え方のように抽象的でおっかなびっくりであるのではなく、もっとラディカルに蒸発したあわれな人間をとがめているようである。なぜならば、冒頭でも述べたように、彼はその蒸発によって組織や関係者に迷惑をかけているからである。この反論の持主にとって、最も非難されるべきと考えているのは、人間関係にひびをいらせたことであり、もっと極端にいえば、そのことによって社会的損害をもたらしたということである。そのような価値観をもつ彼らにとれば、蒸発の動機がたとえ理解されたとしても、それは情状酌量の対象にされこそすれ、彼を「不心得者」として断罪するに何の理由にもならないのである。まさに彼らの論理によれば、この蒸発した人間は組織の利益のために貢献しなかったのであり、貢献しえないほどに弱々しい、敗者なのである。そして蒸発した人間が断じてまちがっているのは、彼らにすれば、組織の利益に貢献することが自分のしあわせにもなるという理屈を確信しえない悲観主義者であったからなのである。
 それのみか、この反論の持主すなわち隷従者が、蒸発した人間を単なる不心得者と見るばかりでなく、「打ち砕かれたホモ・サピエンス」、すなわち彼ら流に言いかえれば「本当におかしなやつ」と見なすまでにいたるのは、蒸発した人間のしでかした行為の結果のよし悪しをみるばかりではなく、彼の心的構造そのものまでも非難しているからである。
 彼らにとれば、人間が組織を離れて生きるなんてことは考えられないのである。人間は組織の中にいるのが正常であり、従って善なのであり、組織からはなれることは異常であり、従って悪であるということになっていたのである。それ故に彼らは蒸発した人間に対しては、普通の正常な人間であるならば絶対になしえない行為をしでかしたということで、「逸脱者」の烙印を押そうとするのである。われわれはこのように決めつける彼ら隷従者を一方的に批判することはできない。なぜならば、それらは彼らの直接の責任ではなく、彼ら自身が歴史の奴隷として、そう決めつけるべく生まれてきているからである。
 それはいかなる意味なのだろうか。歴史は常に、人間とはなにか、人間の本性とはなにかをめぐっての形而上学的な論争を繰り返してきた。いわゆる人間の定義は先人たちによって無数になされてきたが、現在において普遍的な定義として考えられるのが、このエッセイ集のタイトルにも使われている「ホモ・サピエンス」である。これはもともと人類学上の用語であったものが、社会学的用語となり、いわゆる「賢い人間」、「知恵ある人間」と規定されることで、他の動物と区別されてきたのであった。
 この点については、とりわけ定義の問題については、私も借用している故、当面同意するわけであるが(もっとも、究極的に同意しているわけではない。ましてや人間が理性的存在者であると思いあがることに関しては疑義をもっている)、問題なのは、人間の定義として普遍的に認められているもう一つの考え方である。それは、アリストテレスも定義しているように、人間は社会的動物であるとする考え方である。この人間存在の社会性の観念は、単に集団の中にいて盲目的に集団生活を営むという以上の高度な内容を含んでいて、後の近代になってマルクスの「類的存在」の考え方にまで発展するものである。言ってみれば、この観念は、主体的な意志をもって己れの欲望を充足しようとする人間存在を認めつつ、彼らがそれでもスムーズな人間関係を構築する理性的能力を本来的にもった存在であるとする内容を含んでいる。そのためには個々の人間存在は常に他者との関係において考えられていたのである。
 私は今ここで、人間が社会的な存在であるということが、事実としていわれている傾向性が強いのか、それともそれ以上に理念としていわれている傾向性が強いのかの詮索はさしひかえたいと思う。いずれの場合でも、結局、人間は理性をもった「社会的な存在」という観念にとらわれて、それぞれにイデオロギー的な生き様を求めるようになるからである。このことは、事実として人間の社会的存在性が語られた場合でも、その中味はアリやハチとは違った「社会生活」を、すなわち意志あるものによる文化創造を前提にしていることからも察知されるだろう。
 さて、この人間の定義において、結果として人間の日常生活を誤らせたのは、人間は一人では生きていけないという強迫観念を生んだ点であった。文学の世界でみられる『ロビンソン・クルーソー』は、たった一人で生きぬいていった様を感動的に描いているが、それは主人公を賛美するためではなく、ホモ・サピエンスが他の動物と違う点を誇示するためのフィクションによる実験でしかなかった。それ故に、実際には、人間が一人で生きていくことはなんの益にもならないことを伝えることにより、人間が一人で生きていけない存在であることを間接的に示そうとする一つの具体例でしかなかったのである。
 さらにもう一つの実例をあげれば、狼によって育てられたという「カマラ」と「アマラ」なる『野生児』の場合が最適であろう。この実例は、奇妙にも、さきほどのロビンソン・クルーソーの場合と同様に、他の人間との関わりがなくとも自然人として人間が生きて成長した証拠ともなるのであるが、そのかわり、彼らが発見されるまで狼と同一の生活内容をしていたとするシング牧師の報告によって、彼らが人間の形をしているが人間ではない、少なくとも人間的生活をまっとうしえない存在であるという点が生々しく強調されている。この実例もまた、人間が一人では生きていけないということを伝えているのである。
 ここから、われわれは「人間」という場合において、おのずと彷彿させるイメージの強さに驚かずにいられないだろう。少なくとも、われわれは「人間」について語る場合には、他の人間とともにおり、しかもアリやハチとは違った高度な文化生活を営んでいることを大前提として語っているのである。狼に育てられた野生児は形はホモ・サピエンスであったとしても、発見されるまで他人と全くかかわっていなかったということで、また、ロビンソン・クルーソーは、ホモ・サピエンスとしての生命力をもってはいたけれども、高度な文化生活を営みえなかったということで、ともに「人間」として不適格者であったというわけである。
 彼らが文字通り「人間」として認められるためには、彼らが人間の社会にとけこむ素質をもち、本人もその気でおり、かつ他の人間とスムーズな人間関係を結んだという実績をもたねばならないのである。それまでは彼らは人間社会の「人間」によって、さらにカッコをつけられた『人間』存在として留保つきで見られねばならないのである。
 人間が社会的な存在であるという考え方には、実にこういった一種の「思いあがり」が隠されている。この思いあがりの裏がえしの作用として、人間が一人では生きていけないという強迫観念が生まれてきていると言えよう。そしてなによりも問題となるのは、人間が社会的な存在であるといわれるときに、現代においては、人間は組織をはなれては生きていけない存在であるとされてしまうことであったのである。たしかに、そう決めつけてしまうのは、論理を短絡させているという点で批判されるべきかもしれない。しかしながらたいていの隷従者にとっては、そう考えるのは自明の真理とされているのであり、その上に、倫理的に正しいともされているのである。
 そのため、彼らにとれば、たとえば蒸発した人間は自ら組織をはなれて生きていこうとしたが故に、組織に迷惑をかけたという理由ばかりではなく、人間としてはありえぬまちがいをしでかしたという理由で、倫理的観点からも非難されるべき存在なのである。われわれは人間を社会的な存在であると思いこむことで、いいかえれば、一人では生きていけない存在であるとすることで、いわゆるヒューマニズムの観念を生みだしている事実を忘れてはいない。しかしそのことによって同時に、われわれは自らを社会の隷従者、組織の隷従者にしたてあげているという事実をも忘れるべきではないのである。


 V

 ここでみなさんもお気づきの如く、ここで私がいっている「隷従者」は、ことさらに「彼ら」という三人称でいわれるゆえんはないかもしれない。隷従者とは「われわれ」自身のことを指しているのであり、もしみなさんがこの言葉に抵抗を覚えないならば、隷従者についての言明が自分たちについてのそれであると思われる方が、私の話に遅滞なくついていけるだろうと思う。同様に、われわれという言葉も、おのずと隷従者を意味していることはいうまでもないであろう。
 さて、いずれにしても隷従者たちが蒸発した人間を探し求め、社会の不適格者としての烙印を押し、人間失格者とまで決めつけるにいたるのは、隷従者たちの住む社会の通念に基づいているのは否定できない。隷従者が時流にのり、その時代の人間として生きていけるという幸運と、蒸発した人間が社会の時流に乗れなかったという不幸とは、社会観と人生観のずれがもたらした自然のいたずらというべきものであったのである。
 実に、隷従者たちが、組織の抑圧にたえきれず蒸発した人間のみならず、常態でない生の営みをする奇人や、社会的規範や法に反逆した犯罪者や、理性的思考を喪失した人間をも非難する根拠となっているのは、自分たちが理性的人間であり、社会的人間であり、正常な人間であると規定するところからきている。すなわち、人間の本性と考えられる最も重要な要件を、自分たちがもっており、彼らはもっていないとする思いからきているのである。
 ここで私は、前節に続いて、人間についての最も普遍的な定義と考えられる「理性的人間」、「社会的人間」について、再度とりあげてみたいと思う。人間の本性についてはさまざまに語られているが、この二つの規定ほど、われわれを圧倒するものはないからである。たしかに、われわれはその他にも多くの人間についての規定を知っている。たとえば、人間の本性を性的なものの中にみる者は「ホモ・セクシアリス」を語り、遊びの中にみる者は「ホモ・ルーデンス」を語り、祈りの中にみる者は「ホモ・レリギオスス」を語るなどするのはその数例である。
 しかしながら、他にいかに多くの規定がなされ、本性が語られたとしても、上の二つはそれらの基礎として存在しているものと考えられている。それらは人間について定義する際の「公理」のようなものとして考えられ、われわれはそれについて疑うことも、批判することもできないとされているのである。
 実はこの点について、大きな疑義があるとされないものだろうか。私の考えでは、「理性的人間」や「社会的人間」の観念は、絶対化されるべきではなく、たとえば「性的人間」、「遊戯的人間」、「宗教的人間」などと同程度の人間の存在形態の一部であるとしてもらいたいのである。いいかえれば、「理性的人間」、「社会的人間」あっての「性的人間」、「遊戯的人間」、「宗教的人間」等ではなく、前者も後者もともに部分的な人間の存在形態であるとしたいのである。
 私は、もしこの希望がかなえられるならば、理性的人間や社会的人間をこれほどまでに目のかたきにする必要はないと思っている。理性的人間とは、生物としての人間に備わる「考える器官」をたまたま機能させた人間の意であり、社会的人間とは、自然を享受するための「群生本能」をもった人の意であるならば、なんとすばらしいことではなかろうか。われわれは、この二つの人間の定義について、この程度でとどめるべきであり、また他の人間の定義についてもそれらと同等に認めうけ入れるべきである。
 しかしながら、現実においては、われわれは「理性的人間」でなければならないとか、「社会的人間」として存在しなければならないとか思っている。人間の存在の形態には実に多くのものがあるというのに、あくまでも「理性的人間」、「社会的人間」たろうとしている。そして理性的たること、社会的たることが、単なる存在の事実を物語っているにすぎないにもかかわらず「理念」として憧憬されているのである。
 残念ながらわれわれはそのことによって不幸な歴史を歩んだとは考えていないのである。むしろ逆にわれわれの中には、そのような人間たらんとすることによって、文化をつくったり、欲望を満足させたり、あるいはそのために必要な諸条件をととのえ、制度化したりしたことを誇りに思っている者さえいる。それ故にこそ、組織の隷従者たちには抑圧されたという意識よりも、数々の恩恵をうけたという意識の方が強く働いていたといえるのだろう。
 その意味では隷従者たちはまことに幸せというべき「打ち砕かれたホモ・サピエンス」であると言える。あくまでも自分は「理性的人間」、「社会的人間」であるとする思いに支えられながら(というよりは、とらわれながら)、その副作用であるところの「一人では生きていけない」という強迫観念をものともせず、見事に己れの生き様を機械人形のように貫徹させているのである。
 隷従者たちにとれば、とりわけ欲望を充足するだけが楽しみだと考える現代の隷従者たちにとれば、そのためには、自分がもっている自然的特性を無視することは、痛みでもなんでもない。その行為は、ちょうど、自然の治癒力によって治りかけた傷口のかさぶたをはがすと気持がよいというので、何度も何度もはがして悦に入るマゾヒスティックな人間のそれと全く一緒である。にもかかわらず、隷従者たちは、後者のマゾヒスティックな人間の行為は「おかしい」と批判しながら、それが自分たちの行為の比喩になっているとは夢にも思っていないのである。
 この隷従者たちの心的構造は蒸発した人間を「無能者」よばわりするばかりではなく、奇人を「変り者」とあざわらい、犯罪者を「不逞の輩」とののしり、精神異常者を「きちがい」とさげすむが、それは単に自分たちがそうではなかった幸運を祝福する安堵の叫びであると同時に、自分たちが「あるがままの生」の特性を失ってしまったことに対する彼らへの無意識なる逆うらみのようにも思える。
 隷従者たちとは、たしかに、組織をはなれては生きていけないと思いこむ点で大いなる錯誤をしているわけであるが、もっときびしくいうならば、彼らはかきたてられた己れの欲望を満たすためには理性的な志向しか働かすことができないばかりか、それが唯一絶対だと確信する偏執者であり、よかれと思ってつくった作品に盲目的な信頼を寄せ、そのもとでの追従生活をよしとする保守主義者であり、常態であることにこの上ない愛着の念を抱く機械人形である以外のなにものでもないと言えるだろう。
 そうなると、われわれは大胆な仮説を確信をもって提唱しえるようになるというものだ。すなわち「理性的である」ということもまた一つの打ち砕かれた精神の状態を示しているということであり、「社会的である」ということや、あるいは「常態的である」ということもまた、同種の状態であるという仮説をである。巷間よくいわれる「理性」という名の狂気、「社会」という名の抑圧、「正常」という名の異常とは、決して単なる言葉のもてあそびではないのである。
 それ故に、隷従者たちは、理性的思考をしているということでさげすまれ、抑圧的社会に忠順なメンバーであるということでののしられ、並のことしかできないということで凡愚の徒として扱われてもなんの不思議でもなくなるのである。
 だがこの考え方が一つの知的遊戯として通用しはしても、なんの有効性ももたないのは周知の事実である。いうまでもなく、それは理性的思考をする側の、抑圧的社会に与する側の、常態的なものを好む側の力が現実的に優位を占めているという理由に基づいている。
 SF小説好きの人なら、H・G・ウエルズの『盲人の国』を読まれたかと思うが、そこには、たまたま盲人の国に迷いこんだ主人公が、目が見えるためにずいぶんとさげすまれ、ののしられあざ笑われて、そのためにとまどいというか、虐げられた生き様を強いられた様子が描かれている。そこでは主人公が、いかに目が見えるということが便利であり正しくもあることを主張してもなんの有効性ももたなかったのである。丁度それと同じで、われわれは隷従者たちの論理が通用し力をもっている世界に住んでいるのである。従って隷従者たちは決してさげすまされたり、ののしられたり、あざ笑われたりすることはないのである。むしろ、彼らの論理に逆らえば、ただちに同様のしっぺ返しをするというのが、彼らの常套手段となっている。まさに、われわれはそのような幻想的な世界に住んでいるのである。
 隷従者たちのこういった恵まれた環境は、己れの恣意的欲望を満たすに恰好の温床である。ただひたすらに組織を信じ、社会を信じて、自らに反省を加える必要もなく、右に行けといわれれば右に行き、左に行けといわれれば左に行くだけで、彼らにとっての「豊かな人生」は保証されてくるのである。これぞまさしく、隷従のもたらす効用性であり、彼らが生きていくための三種の神器、すなわち理性的人間として枠にはまった思考に従うこと、社会的人間として調和していくこと、正常な人間として常態的なものの側につくことの三つの生き様にとりつかれた返礼として与えられた現代の勲章である。隷従者たちは、それらを信じかつ実践していくことのほかには生きるべきすべはなにもないと、かたくなに信じこんでしまっているのである。 


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 さて、このあわれな隷従者たち(今度はそうよばせてもらう)は、私のあげる「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の最後のタイプである。そして精神異常者や犯罪者や奇人といった他のタイプとは違って、最も「打ち砕かれ」ぶりの少ない、従って問題をおこす度合の少ないタイプである。いな、問題をおこさないタイプといった方が適切かもしれない。というのは彼らの中で問題をおこす人は、すぐに精神異常者や犯罪者や奇人のタイプの人間として格上げされればよいからである。(しかも彼らはそうするだけの力をもっている。)それ故に彼らが「打ち砕かれている」とみなされる根拠は、せいぜい、たまには蒸発してみるが、しかしいつのまにか元へ戻って隷従生活をおくるような場合にしか考えられないだろう。
 してみると、ここでまたもや、隷従者たちを「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の中に入れている私を批判する声を、私は耳にせざるをえなくなるのである。もともと「打ち砕かれている」という言葉は、精神状態がおかしいことを示す比喩的な言葉である。従って、この言葉が最も妥当する対象は、われわれには了解不能の言動をなし、本人もその意識を欠くところの精神障害者すなわち人格荒廃の域にまで達した精神分裂病患者である。この点については、このエッセイ集のはじめにも語っている。
 以下、その「打ち砕かれぶり」の程度に応じて、順次、犯罪者や奇人についての「諸相」の紹介とその「論評」がなされてきたのも了解されるところである。この私のコンテキストは独断的なところもいいところで、すでに、奇人の中で、天才や英雄を「打ち砕かれている」というあたりから非難がでそうなのは、私も覚悟している。ましてや、なんら非難される理由がないばかりか、社会的貢献の大であるエリートを俎上にのせ、無臭のエーテルともいうべき過不足なき一般の人々までをもこきおろすとなると、私の思い上がりも極まれりとされるだろう。
 確かに、この第四のタイプの人間の「打ち砕かれぶり」を示す論拠が、彼らが組織をはなれては生きてはいけないところの、いわゆる「組織帰属型人間」であるとする断定にあるのであるが、これが人間についての普遍的な存在形態でないとする学者ばりの反論もある以上、いかに私が「理性的人間」だの「社会的人間」だのと言って、もってまわった言い方で、この組織帰属型人間たる隷従者の本性を普遍化させたところで、「まじめな批評家」の失笑を買うのが関の山である。
 それはさておき、私のこれまでの話の中で、この第四のタイプの「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の問題が一番重要に考えられていることは、賢明なみなさんならお気づきのことであろう。たしかに、人間の存在形態としてそのうち砕かれぶりを考えていくのならば、精神異常者としての存在形態が第一に問題となり、次いで犯罪者、次いで奇人となり、最後に隷従者という私だけの言葉でしかない人間の存在形態が考えられないこともない。しかし、それは私の勝手な決めつけを承知下さった上での話であるから、そもそも隷従者たる概念の使用がおかしいと考える人たちや、エリートとその下にある一般の人間までをも打ち砕かれているとする発想法はおかしいと考える人たちにとれば、私の一番重要だと考えているものは、それこそ私の錯誤や邪推の上になりたっているとしか思われないかもしれない。
 われわれのうちの誰にだって、自分あるいはその仲間が悪く言われて、そのまま甘受する者はいない。たとえ、精神異常者や犯罪者や奇人ほど悪く言われなくとも、それと同じ範疇に入れられれば、頭に来る。だがそれを承知の上で、これから私はその「正常な」反応を逆なでするようなことまで言いたいのである。
 われわれは人間の存在形態について一つの大きな思い違いをしているのではないだろうか。つまり、われわれは人間の存在形態について最も打ち砕かれているのは精神異常者であり、(私の説をうけ入れてくれるならば)隷従者はその度合が最も軽微なものであるとしていることである。そしてその間は、順序づけられた形で、打ち砕かれたホモ・サピエンスの諸相が存在するということになる。
 しかし、私の隠された考えとしては、精神異常者も犯罪者も奇人も隷従者も生の形態こそ違え、同等の(というよりは固有性をもつ)「打ち砕かれぶり」であるとしてもらいたいのである。われわれがこれらの諸相にも程度の差があると考え、順序づけてそれらを位置づけているのは、二つの考え方のもとに一つの価値観を導入しているからであろう。つまり、一つはそこにはそれぞれの生の形態に対してどれだけ了解できるのか、そして他の一つはその存在性に対してどれだけ許容できるのかなる考え方のもとに、その「打ち砕かれぶり」を認定しようとする心的構造が働いているのである。この二つの考え方は同じことがらである。なぜならば、われわれが了解できるものは許容できるものであり、許容できるものは了解できるものであるからである。
 それ故に、われわれが了解でき許容できる程度によって、それぞれの打ち砕かれた生の形態に順序をつけるとするならば、それはあくまでも了解し許容する側の論理に基づいているとされねばならない。つまり、この順序づけは、われわれのもつ理性的本性や社会的本性によってなされているから、答がはじめから用意された形で、なされているのである。
 この了解し許容する側たるわれわれとは、現実においては隷従者以外のなにものも示していないことは、前にも述べた通りである。ただし、この際にも、了解し許容する側のわれわれは、隷従者が全く自分たちのことを意味していることになっているのだとはしないだろう。私のいう隷従者の観念を認めたとしても、その中味はあくまでも自分ではないところの無能力者や蒸発人間のイメージしか彷彿させえないだろう。もし私が了解し許容する側の人間こそ隷従者そのものだと言おうものなら、打ち砕かれたホモ・サピエンスを、あくまでも自分とは無関係な精神異常者か犯罪者か、それともせいぜい奇人あたりまでにしてしまうだろう。
 ところで私は打ち砕かれた生の形態に順序づけることにまで異論を唱えないといった。これは隷従者たる理性的人間、社会的人間の論理を逆手にとるためである。もし彼らが私の最初の主張、すなわち打ち砕かれた生の形態をもつという点において、隷従者は精神異常者や犯罪者や奇人と同等であるという主張に異論をもっているならば、私は順序づけを全く転倒して行ないたいのである。いいかえれば、生の形態として最も打ち砕かれた状態にあるのは、隷従者そのものであるとしたいのである。従って、生の形態として最も打ち砕かれていないのは、精神異常者ということになるのである。
 この主張については、ここまで私についてきて下さった方ならば、予想されていただろうと思う。その理由についても、このエッセイ集を通して、断片的な形で繰り返されてきたはずであるから、趣旨だけは了解していただけるものと思っている。しかしながら、この順序づけの転倒があまりにも暴論であると思われる人のために、ここで私の本音とやらを吐露しないわけにはいかないだろう。
 かつて私は、今日の社会が一人の人間を社会的に価値ある存在としてつくりだすにあたって二種類のタイプの人間を考えているということを述べたことがあった。すなわち、一つは「社会の動向にアクティブに参画していける能力と決断力をそなえた人間」であり、他の一つは「限定された対象の処理技術だけをもっている人間」である。この二種類のタイプの人間は、ともに「機械人形」化し、人間性を失った状態の人間を意味しているわけであるが、彼らは隷従者の二つのタイプ、すなわちエリートとその追随者にあたるものであるといってよい。いいかえれば、もはや「人間的生の雄たけび」すら不可能になってしまい、その意味では精神が打ち砕かれているといってよいほどまでに退化したのが、彼ら二つのタイプの隷従者たちなのである。
 私はこういった隷従者たちに対して覚える恐怖感と、その対極にある精神異常者に対して覚える違和感とを比べたとき、どういうものか後者の方に親近感を覚えるのである。それは理性的なものによってではなく、一種の情念的なものによって思われているのかもしれないが、たえずそれはお前はこのような隷従者になったらおしまいだぞと警告するなにものかとなって、現実には隷従者の思考パターンをもつ自分に対して働きかけてくるのである。
 みなさんは、私がとどのつまりはこれまでの「打ち砕かれたホモ・サピエンス」には好意的であり、最後の隷従者として打ち砕かれたホモ・サピエンスに対して冷淡であったのは、どうしても隷従者のような思考パターンに従いがちな私自身を戒めるためでもあったことを理解されるであろう。現代の社会状況がさらにすすめば、われわれ隷従者は、それに対応した生き方を強制されるようになるであろう。
 一般に「コンピューター時代」といわれる現代においてすら、われわれはきわめて従順な性格をもつようになってきている。私自身もまた最近、実に興味深い体験をした事例を紹介してみよう。囲碁を趣味とするようになった私は、さらに上達せんものと「コンピューター囲碁」なるものと遭遇した。私が「正しい」手をうつと、コンピューターは「続けて下さい」といっていたが、「誤った」手をうつと、すかさず彼は「まちがい」といった。私は「まちがったこと」を悔み、なんとか彼に認めてもらうべく必死になって考え、正解をすると彼から「続けて下さい」と言われた。そのとき私はなんと喜んだことか!これで私も少しは上達したかなと思ったのである。
 私のみならず、われわれ隷従者は、このコンピューター囲碁にみられるような指令に全く弱い存在となっている。もっと一般的にいえば、組織や社会の命令、理性的思考や科学的な考え方には、盲目的になってしまっている。それもはじめのうちは、多少は批判的主体的にうけとめていたのであろうが、いつのまにか、骨抜きにされて、自分が能動的になるべきだと気づいたときは、なんにもできないようになっている。ちょうど、それは自分の秘密を守るために口のきけないふりをしていたのが、事が成就し口をきかねばならない状況になったのに、本当に口がきけなくなった物語の主人公に似ている。
 また、われわれは常に正しい答のでるような選択を余儀なくされている。その際自らが選択するので主体的であるかのような錯覚を覚えるが、あらかじめ用意された答以外には選択のしようがない以上、結局は、命令や指令に隷従したということになる。さきほどのコンピューター囲碁の場合のように、なまじ囲碁を上達させたいとの欲望をもっていた私は、「まちがい」といわれ悔んだ。他の人もきっとそうなっただろう。もし、このとき「まちがい」といわれ、悔んだり、悲しんだり、恥入ったりしないで、その逆の心的状況をもったとしたならば、どうであろうか。それはまちがいもなく「理屈にあわない」行為だとされ、私はあざ笑われ、ののしられ、さげすまれるだろう。
 しかしながら、「まちがい」といわれ、ごくすなおに喜べるような人がもしいたとすれば、私は彼らを一種の羨望の念でもって迎えいれるであろう。私には、彼らの方がホモ・サピエンスとしての生を享受しているように思えてならない。彼らは「まちがい」といわしめる固有の生の形態をもっているのであり、それに反し私はそういった生の形態を反価値の存在として否定しようとしているのである。
 おそらく、私が奇人や犯罪者や精神異常者に対して好意的であるのは、彼らが「まちがい」といわれて喜べる資質をもっていると見るからであろう。実際には、彼らはそういった資質をもっていないのかもしれない。ただ、あわれにも、われわれの「内なる他者」としてスケープゴートにされた悲劇の主人公であるにすぎないのかもしれない。だが火のないところに煙はたたないのたとえの如く、そういった資質を内在する可能性は十分に考えられるのである。
 正直なところ、私には彼らをスケープゴートとしつつも、他方ではヒューマニズムの観点から擁護する気持よりも、われわれ隷従者にはない固有の生を営みえる存在だとして羨む気持の方が強いのである。そのくせ、お前は、彼らが社会的迷惑をかけていることになんとも思わないのかとなじられれば、ぐうのねもでないで、それに従ってしまうほど、私の心は「打ち砕かれて」しまっているのである。



 参考文献

D・デフォー『ロビンソン漂流記』(吉田健一訳、新潮文庫)
J・A・L・シング『狼に育てられた子』(中野、清水訳、福村出版)
H・G・ウエルズ『盲人の国』(阿部知二訳、ウエルズSF傑作集、創元推理文庫)

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