第二部 打ち砕かれたホモ・サピエンスに関する論評


        犯罪とその反社会性


 T
 今日、犯罪はすべての人によって反社会的行為とみなされている。一度犯罪をおかした者は、なんらかの形で社会から疎外された存在となる。それからの彼は、その社会に順応する気持にならない場合は当然、又順応する気持になったとしても、常に社会からつまはじきをうけたままで、己れにとってはふさわしくも、とどのつまりは、すさまじい生きざまを貫徹していかなければならない。そのことは、人間が社会的存在であるといわれている限りでのイロハであり、それ故に彼は犯罪者として生きぬいていくことが大変な試練であるということをよく知っている。
 このことは犯罪者のみならず、社会に住むほとんどの人間の知るところでもある。それ故に、たいていの人間は、己れにとってはふさわしくもすさまじい生きざまが往々にして反社会的行為とみなされる危険性を察知して、社会との調和において自らの生きざまを決めるのが最良だと思うようになるのである。
 その思いは社会の種々の機能や存在から喩されたり脅されたりしておこる場合もあるだろう。又自らの苦き体験を主体的にとらえて生まれた信念の発露としておこる場合もあるだあろう。いずれの場合においても、われわれがその考え方をおおむね正しいとするのは、人間存在の有り様についての大前提があるからと思われる。すなわち、それは、人間とは「社会的動物」であるという大前提である。
  そこで本題に入る前に、私なりにこの「社会的動物」なる言葉について考えてみようと思う。人間存在が本質的にその社会性をもっているといわれるのは、アリストテレス以来いわば自明の真理とされている。従って、この大前提そのものについての詮索はあまりなされないようだ。言ってみれば、数学における公理をのっけから否定するような気分にさせられているからだろう。
 ところが一方では、狡猾な人間は人間存在の社会性については疑いえないとしながらも、その「社会性」とはなにかについての詮索は自由であると考えている。その結果、平凡にいえば、「社会」とは自分たちの定義できるものであるとして、それぞれが固有の「社会観」をもち、そのもとで人間存在の社会性、いいかえれば人間が社会的動物であることを自明の真理としているのである。
 これはなにを意味しているのであろうか。人間は「社会」というものをなんらかの事実の代名詞として考えているのではなく、理性によって考えだされた「あるべき存在」の代名詞として考えているということである。その考え方の具体的あらわれとして以下のような考えが生まれてきている。すなわち、なるほど、アリストテレスの時代であろうが、現代であろうが、「社会」とは人間のいる場所を総称したものにほかならない。が、それよりも大切なこととして思われているのは、どのような社会であれ、その中にいる人間というのは、単に物理的に存在しているというのではなく精神的に存在しているという点である。もっとはっきりといえば、人間といわれるためには、彼はその社会に単に存在しているだけでなく、その社会に属さなければならないということである。
 人間は、どのような社会であれ、その社会に属することのできる存在である。あるいは少なくとも、その社会に属しているという存在形態を了解している存在である。それが人間=社会的動物なる等式の原初的性格を構成していると、私には思われる。
 このことを裏からみれば、その社会に属してはおらず、単にその中にいるような人間は、たとえ人間の外観をもっていたとしても、その社会では人間的扱いをうけることができないということになろう。われわれはこのような人間存在に関する説明をさまざまな分野からうけている。ある歴史学者が唱える「プロレタリアート」、一連の社会学者が主張する「マージナル・マン」、あるいは文学者の「アウトサイダー」といった概念は、その具体例となろう。
 「彼ら」がその社会の一員となるには一種の屈辱的な儀式が必要とされる。すなわちその社会がもっている特性に同化するための条件をのみ、それを順守するという宣誓を自らに対しても、あるいはその社会に対しても行い、その上に社会もそれを受諾する旨の儀式が必要とされるのである。さもなければ、彼らはその社会から非人間的扱いをうけ排除されるからである。その社会に属するというのは、その宣誓が公認されることであり、それによって彼らははじめて「社会的」存在たりうるのである。
 ところがこの宣誓の内容はきわめて抽象的なものでしかない。あるいは観念的に構成されたものでしかない。従ってわれわれが社会生活を営むというのは、この「観念的に構成された社会的特性」の命ずるままに行動すること以外のなにものでもないのである。
 もとより、社会に属するすべての人間が、己れの帰属意識を顕在化しつづけているというわけではない。むしろたいていの場合、逆に帰属意識を沈潜させることによって己れをただあるがままのものして、観念的に構成された社会的特性の命ずるものに無意識に従う方が、より「社会的」な存在性をもっていると思っている方が多いのである。
 この場合、帰属意識は、その社会にあって観念的に構成された社会的特性にそぐわない異端分子が生まれたときに、それを排除する側にまわり、それによって己れの「社会的」な存在性を証するものとして、間接的に顕在化されてくるのが常態である。従ってはじめから帰属意識を顕在させるのは「プロレタリアート」とか「マージナル・マン」とか「アウトサイダー」とかが、自己の実存性を屈服させることによって己れの「社会性」を了解する場合に限られているのである。しかしながら、いずれの場合においても、帰属意識は人間=社会的動物なる等式を成立させる心的根拠となっている点ではまちがいないであろう。
 さて、これまでの社会ないしは社会的存在としての人間の説明が、これから話そうとするテーマである「犯罪」論の布石としてなされているのを賢察されたであろう。従って、これまでの説明が社会や人間のあり方についての包括的なそれであるといわれないのは当然である。言ってみれば、私はここでは、自分の犯罪観に都合のよい説明をしているだけである。
 特にここで大切な観念は、「観念的に構成された社会的特性」なるそれである。この観念は具体的には、習俗、規範、法、法律といったものを指し示しているわけであるが、かなりあいまいな考え方なので補足説明しておきたい。もともとこの観念は積極的なイメージがあって生まれてきたわけではない。ただ、それに従って人が意識的にであれ、無意識的にであれ社会的生活を営もうとする人為的制約的機能をもつものを単に意味するにすぎない。あいまいさをもつのは、たとえば習俗などをその中に入れている点であろう。なぜならば一般に習俗といわれるものは、自立した個人間の人間関係の中から生まれてきたものではなく、そういった人間関係に気づく以前から、知らず識らずのうちにできあがっていたものと考えられているからである。そうなると自立した個人の契約説的考えの結果生まれた法律とは全く異質のものとなり、従って習俗を人為的制約機能の中に入れることはおかしいということになるからである。
 しかし、私が習俗も法律も十把一からげにして扱いたいのは、習俗といえども、自立した人間によってではないにしても、少なくとも、ホモ・サピエンスとしての自覚のもとに生き、なんらかの観念的規制を行っている人間によって生じる人間関係の産物である点を重視するからである。これについて、たとえば働き蜂や蟻に己れの使命をはたすように命じているなにものかとわれわれ人間の習俗とはあきらかに異なっていると認めるならば、この私の考え方について多少は理解してくれるものと信じている。
 それではその観念のもとで生まれてくる犯罪的行為とはなんであるのか、というこのエッセイのテーマにたち戻って考えてみよう。冒頭において、私は犯罪とは反社会的行為であると述べておいた。そうなると、最終的には、犯罪的行為は非人間的なそれとなり、犯罪者は人間でないとされるようになることに注目せねばならない。だがそれは究極における考え方であるとしても、その前にどうしてそうなるのかという点を吟味する必要があるだろう。
 われわれの知った限りでは、社会的生活とは「観念的に構成された社会的特性」に従うこと、それ以外のなにものでもなかった。現代的にいってみれば、現在ある法律に従って生活すること、それが社会的生活なのである。他方、われわれは人間=社会的動物なるアリストテレスの言を一応認めた。その関連性を忘れずに、犯罪が「観念的に構成された社会的特性」の命ずるものに従わないこと、現代的にいえば違法行為であることを思いうかべると、必然的に、犯罪的行為=反社会的行為=非人間的行為の等式が生まれ、犯罪者は人間ではないということになるのである。そしてこの結論が学問的理解としてはともかくも、実際には、だから犯罪者を普通の人間同様に扱ってはならず、差別するなり排除するなりして物や動物同様に扱ってもいいとする判断を招来しているのである。学問的に理解すれば、すなわち論理学の問題としてとらえれば、上の考え方はあきらかにまちがっていると論理学者はいうだろう。論理学者ならここでは正しい言いかえがなされていないことにただちに気づくであろうからである。
 しかしながら、日常生活の中で行動し生きていかなければならない人たちにとっては、立場の問題が大いにからんでくる。そうなると、犯罪的行為が反社会的行為であり、犯罪者は人間ではない(少なくとも人間として扱うにふさわしくはない)という思いが先行し、そこから犯罪者を差別し排除する己れの行為の正当性を論拠づけようとする態度は、なんらやましいものとされなくなってくるのである。それ故に、われわれはこうした考え方をも考慮した上で犯罪の反社会性、従って非人間性について考えていかなければならないだろう。


 U

 犯罪者が反社会的行為をおかすが故に人間とは扱われないとする論理が世間では立派に通用しているということは、事実が証明している。たとえそれがいわゆる詭弁の論理であったとしても、それを利用し、あるいは利用していかなければならない社会的人間の生の必然的要求のあらわれである限りは、われわれはその事実をいつのまにか認めてしまっているのである。
 さすがに、そういった人間の存在形態がこれまでの人間のすべてにあてはまるといった考え方は、近年になって、ヒューマニズムの観念の浸透によって否定され、ごく一部の人間、たとえば権力者などにあてはまるとされるようになったが、過去の日本においては、犯罪者が「非人」という人間的扱いをうけない政治的につくられた身分にされたのは、すべての人の知るところであり、現代でも、先の『犯罪者の諸相』において私が引用した大江健三郎が取り上げる例のように、犯罪者をオニ扱いしているマスコミ権力の一部が存在していることは否定できない。
 正直なところ、そういう詭弁の論理を使うのはごく一部の人間であるとする考え方に、あんがい盲点があって、逆に多くの人が、極論的にいいかえれば、すべての人が自分たちもそういう詭弁の論理を日常的に使っていることを隠すために、わざわざ、一部の人間のみが詭弁の論理を使いうるのだとして、自分たちの潜在的考えを正当化しているのかもしれない。というのはそういう人間には自らを安全におくために権力におもねることも、あるいはその権力者の力がなくなったときに彼を裏切ろうとすることも、造作のない所業だからである。
 みなさんは私がこの人間の所業をやむをえず認める立場に立って話をすすめていることを、たやすく推察されるであろう。犯罪者は非人間的存在であるとする考えが、たとえ詭弁の論理によって生まれているとされたところで、そう考える人間にはそれが現実的な生の営みにとって有効であるのなら、それで十分なのである。むしろ、彼らの心の奥底では、その詭弁の論理こそが種々の生活の中で有効性をもっていると思われているし、そういうふうに思って生きていくことの不可避性と不可欠性とがひしひしと感じられているのである。
 以上の考え方を整理すると次のようになるだろう。事実が示しているという点に依拠するならば、犯罪者が非人間的な扱いをうけることの正しさは、権力者にとっての社会的秩序維持の必要性と被権力者にとっての己れの生活の場の保証を求める態度の不可避性によって証明されているということである。いずれにしても、すべての人間が己れの諸要求の充足を意図する生活態度をとる限りにおいては犯罪者を自分たちと同じ仲間にしてはならないのである。われわれは、この事実が、たとえ詭弁の論理によって裏打ちされたとしても、その事実の意味する重みによって、少しも不整合を感じなくなってきているのをすでに感じとっているのである。それ故に、欲望を充足する生の力がすべての論理に先立ってあるとする近代人の一つの考え方も当然正しいとされているのである。
 しかしながら、他方では、犯罪者を非人間的な扱いにするのは、すべて単に事実による要請からだけであるといえるのだろうか。なぜなら事実による証明というものはいつでも別の事実をあげることによって相対化されてしまうからである。このよい例を取ると、さきほど私は権力者と被権力者の思惑がすべての人間にあてはまるかのように言った。それこそ、それは「部分より全体に及ぼす」の論理的誤りをおかしているのであり、彼らのような思惑をもたない人間は他にいくらでもいるのである。当然その帰結として、犯罪者はすべて非人間とみなされているのではないという事実が強調されるのはいうまでもないだろう。そうなると「犯罪者は人間ではない」とする命題そのものがおかしくなり、逆に「犯罪者もまた人間である」という命題が脚光をあびてくるのである。
 おそらく犯罪者も人間的に扱われている事例の方が数多くあり、その意味で犯罪者を非人間として扱うのはごく一部の、異端的な考え方、従って暴論であるとされるかもしれない。というのはこの考え方は、さきほどの「ヒューマニズムの観念」がいわばお墨付を与えていることにより一層の重みをもっているからである。
 さて事実による証明の話が思わぬ方向へとんでしまった。私がここで言いたかったのは、犯罪者が非人間的な扱いをうけるのは、単に事実による要請からではなく、人間の本性的なものの働きによるからだということであったはずである。その反論をヒューマニストたちが、私と同じ証明法を逆手にとって、ヒューマニズムの観念をおしつけることによって、犯罪者もまた人間であると考える方が、人間的思考の本性に適っているかの如くにしてしまったのである。
 奇妙にも、近代ではヒューマニストの考え方を支持する人間の方が多いが故に、あたかも犯罪者もまた人間であるかのように考える方が人間的思考の本性に適っているとされていそうなので、私の立場はますます苦しくなっているといわねばならない。これは事実による証明を行なった私の拙速のむくいというべきであろう。そこでこれからの問題を整理していけば、われわれが犯罪者をわれわれの仲間として見なす方が人間的思考の本性に適っているのか、見なさない方が人間的思考の本性に適っているのか、ということになるだろう。あるいはもっと簡単に別の角度からいえば、犯罪的行為は人間の本性に適っているのか、否か、ということになろう。
 
 閑話休題。例によって私の表現は屈折していて、みなさんの心を試すような陰険さがあるので、これらの問いに対する答えをあらかじめいっておこう。私は犯罪者をわれわれの仲間としてみなさない方が人間的思考の本性に適っていると思っている。ただし、その場合、人間的思考とは理性的思考を意味し、人間とは理性的存在者であると考える場合に限られるであろう。私もそれが人間の実情を示していると思うが故に現時点でこの立場に立っている。しかしその立場の逆であるのが正しいと考え、逆であって欲しいと願うのが私の正直な考えである。これは『打ち砕かれたホモ・サピエンス』それ自体のテーマでもあることから、みなさんはすでに気づかれたか、それともこれからにおいて気づかれるであろう。

 さて、この問題を考える際に、われわれは前節で考えた人間が社会的動物としてあり、人間による社会生活が「観念的に構成された社会的特性」に従うことによってなりたっているという指摘を思いださねばならない。つまり、今日的にいうならば、人間とはなんらかの同意とそれに基づく契約によって仲間をつくるのが本来的な姿としてあると考えられているので、その同意と契約の埒外にいる間は、仲間にされなかったとしても、当然だと人間は考えている。今日ならば、そういう人は別の仲間に入ればよいので生存の致命的な打撃をうけなくてもよいような仕組ができあがっているが、それでも仲間による仲間外の人に対する評価は「けしからんやつだ」ということになって倫理的な非難をうけるだろう。 
 このパターンこそが人間=社会的動物なる等式にも拡大されて考えられるというのが私の考えである。「観念的に構成された社会的特性」に従う人間は、従わぬ人間に対して、なんらかの倫理的非難を行うのである。もちろん、両者は生物的には同種であるから、ホモ・サピエンスとして同じ仲間ではあることは認めながらも、そのホモ・サピエンスの本性が「観念的に構成された社会的特性」に従うことである点のみが強調され、純化していくにつれて、それに従わない人の特性が逆像として非人間的なものとなり、最後には彼は生存の致命的な打撃をも受けることになるのである。この際われわれは「倫理的非難」なる言葉のもつ意味の重要性について忘れてはならない。なぜならばそれは犯罪の観念と密接に結びついているところの「悪」の問題に関係しているからである。もっとも、私はここでも「悪」の問題すべてについての考察はしないで、言ってみれば『犯罪とその反社会性』のテーマに都合のよい「悪」の問題をとりだしている点を断っておかねばならない。
 さて、倫理的非難がおこるのは、本来そうしてはならないのに、それに反した行動を行なったことに対する咎めの気持が働くからである。いわば理性が現実によって打ち砕かれたからである。この時点でそれを可能ならしめているのはホモ・サピエンスの本性が理念に沿っていくこと、いいかえれば「観念的に構成された社会的特性」なるものが一つの理念としてうちたてられ、それにホモ・サピエンスは無条件に従わなければならないとする考え方である。そして、それはホモ・サピエンスの本性と人間の本性とが同義であり、かつ人間の本性と理性的存在者の本性とが同義であるとみなされることによってはじめて可能なのである。(ついでながらいえば、この倫理的非難がおこるのは、人間が全く理性的存在者そのものでなく、理性的存在者のように行動しない事実が、理性的存在者の側からみられることによっているというのは、すべての倫理学者の認めるところである。)
 ところで、われわれは悪の問題を神との関係においてではなく、人間それ自身との関係においてとらえる場合、悪は人間の本性(いいかえれば理性的存在者の本性)との関わりにおいて生まれてくるとみているようである。たとえば、ある「倫理学教科書」の著者(J・V・マクグリンとJ・J・トウナー)は、「人間の本性と結びついているものは善とみなされ、人間の本性に反するものは悪とみなされる。これが、道徳的に善いものはなにか、道徳的に悪いものはなにかを決定する根本的なルールである」といっている。この考え方からすると、まさに悪とは「観念的に構成された社会的特性」に従わないことそれ自体となるだろう。しかし、人間の本性との関係においては、そう簡単に悪の問題は語りえないので、次節において、さらに深く吟味する必要があるだろう。


 V

 さて、その人間の本性についてであるが、それが普遍的な形で決めつけられない歴史的経緯をもっているだけに、事はやっかいである。というのはわれわれはこの点について、単に「人間」についての事実の解剖ばかりではなく、それの「あるべき姿」の開示をも要請するからである。従って、いくら人間の本性に結びついているものが善であるといったところで、その人間の本性を認めるかどうかの、人間あるいは社会の判断がからんでくるために、善が突如として悪になったりすることは、ざらにあるだろう。
 そもそも、人間の本性にかなった行為であるということは、自らの行為の正当性にハクをつけるためになす人間の奸智であり、実際のところは、善とか悪とかは少しも関係していないのかもしれない。そのうえに、この考え方には、論理的な矛盾も含みこまれているのである。たとえば、私はさっき、犯罪的行為は人間の本性に適っていないといった。それ故に犯罪者は人間の仲間に入れてもらえないともいった。しかし、ここで人間の本性が悪をなすように生まれついていると認めるならば、われわれは犯罪者をいやでもわれわれの同胞として迎えいれなければならなくなるのである。さもなければわれわれ自身の思考の自律性が疑われることになるからである。(ヒューマニストはこのあたりの論理をたくみに利用している。)
 おかしな話である。しかしこれはあくまでも仮定の話であるから救われている。われわれは人間の人間たるゆえんをその動物的特性においてみているのではなく、純粋に理性的機能をもっているホモ・サピエンスとして認めている以上、人間の本性もまた、そのような理性的機能をもっているものと当然にも考えているのである。従って、悪すなわち犯罪をおかす人間の本性なんてありえないと楽観視しているのである。
 われわれが犯罪者を自分たちの仲間に入れないのは、彼らがそのあるべき人間の本性をもっていないとクールに判断し処断するからであり、信頼していたのに裏切られたということからくる報復の感情が働くからではない。もしそうであるなら、それこそ、われわれもまた動物的特性をもっていることを認めねばならなくなるからである。
 さて、われわれは、犯罪者に対する非情とも思える判断や処断が実は非情でもなんでもないのは、それらが、いわば、人間的であると見なさない存在に対するふるまいとして了解しているからだということを知った。ところで、この言い方は犯罪者に対するわれわれのふるまいの正当性を力説しているのでも、また弁明をしているのでもない。まさに、「観念的に構成された社会的特性」に従うところの、あるべき人間の本性の側からみた必然の結果として、そうなっているということを伝えているにすぎないのである。従って、われわれが犯罪者を人間的に扱い、彼の行いに対し、猶予を与えたり、寛容であったりすることほど、偽善的なものはないとも考えられるのである。そのことは同時に、次のこと、すなわちわれわれが犯罪者を同胞視するのは、「ヒューマニズム」からではなく、ホモ・サピエンスにそなわる自然的ななにものかによるからだということを伝えてもいるのである。
 しかし、われわれはここで、犯罪者のサイドから、この問題について考えてみよう。彼は文字通り、「観念的に構成された社会的特性」に従わなかったために、犯罪者と認定され、時によって生存の致命的な打撃をうけるまでに、非人間視されてしまった。ここで彼が己れの生存のために、「わび」を入れ、「こび」を売ったとしよう。彼はそれによって、自分もまた別の意味で人間であるということを主張し人間的に扱ってもらおうとしているのだろうか。
 もし、そうであるのなら、彼の精神は回復不可能なまでに打ち砕かれているといってよい。なぜならば、彼は己れが、「観念的に構成された社会的特性」に従わなかったことのもつ意味が全くわかっていないからである。彼のこのような思考態度は、前にも紹介した精神分裂病者のそれとよく似ている。なぜなら精神分裂病者は己れのやっていることの意味がちっともわかっていないとされているからである。すでにわれわれは、彼が精神分裂病であると認定されたとき、「自分はそんな病人ではない」といいはっていたことを、覚えているはずである。
 この犯罪者の場合、たしかに精神分裂病者とは違って、己れの所業については熟知しているはずである。すなわち「観念的に構成された社会的特性」に従わなかったということを彼自身は知っていたはずであるし、われわれもまた彼がそれを知っているということを知っているのである。それが故に、われわれは正義の観念のもとに、彼にその責をおわすことに痛みを感じないのである。彼が「わび」を入れ「こび」を売るのは、その責を一手にひきうける気持を放棄することである。ということは、彼がその責を一手にひきうけないことが「観念的に構成された社会的特性」に従わなかったことのもつ意味がわかっていないということである。いいかえれば、人間的であることの本質的な点についての了解が彼にはわかっていなかったのである。
 もっとも、奇妙にもここに、「わび」を入れたり、「こび」を売ったりする無責任さに対する弁明の論理があるにはある。それらが「反省」の観念のもとになされているから、まさに「人間的」であるというのだ。この弁明は主として「倫理的リゴリスト」のかたくなな態度に対する反発から生じている。すなわち、「観念的に構成された社会的特性」に無条件に従うべしの断言的命令に完全に従いえぬところにこそ、「人間」の特性をみようとするところからきている。人間は完全な存在ではない、純粋に理性的な存在者ではないというわけであろう。
 しかし、ここで注意すべきなのは、過去の歴史において、この考え方からの帰結として生まれたものは、「人間の本性」の積極的容認論ではなく、寛容とか猶予とかいった欺瞞的行為を通しての、ホモ・サピエンスによる己れの行為の免罪符でしかなかったのである。そのことによって、人間は「理性的なものでないなにものか」によって棹さされた行為をなしたとしても、極端に言えば、犯罪的行為をなしたとしても、人間のもつ「本来的な特性」だけは失っていないと考えたのである。なんと狡猾な人間の知慮であることか。しかし、残念ながら、この考え方が通用したのは、ごく一部の、強い人間でしかなかったのである。多くの弱い人間はこの少数者に「あまえ」ることによってのみ、己れの行為のいくらかが免罪を宣告されたのにすぎなかったのである。
 たいていの場合、われわれは「観念的に構成された社会的特性」に従うことが人間の人間たるゆえんのものを証す踏絵のように思っている。それが義務意識からでているものであれ、正義を守る気持からでているものであれ、いつのまにか「人間の本性」に適った行為であるということにされてしまっている。それ故に「観念的に構成された社会的特性」に従うことは、人間の本質的行為であるとみなされている。従って、それに従わない人は、たとえ、その事実を承知していたとしても、その時点で、人間の本性にはずれた行為をしているとみなされるのであり、従わせぬようにしむけた彼の精神は、すでに通常の機能をもたぬ異常なそれとみなされてしまうのである。つまり、彼の精神は打ち砕かれているのであり、それを倫理的にみれば、彼は悪の所有者であるということになり、社会的にみれば悪人、もっと具体的にいえば犯罪者ということになるのである。
 それではわれわれは何故にそこまで言いきることにためらいをもたないのであろうか。「観念的に構成された社会的特性」に従うことが人間の本性的行為であるとみるばかりではなく、人間の自律的行為であるとみなしているからである。自律的行為とは、この場合、すべての出発は自らが決めたところのものにあり、そのものは絶対的であるという信念に支えられている。実はそのことが、人間が自然界から独立するために必要であったのである。その結果、人間は己れの自律性を保持せんがために観念的なものに己れの生存を託し、その観念的なものに己れを託しきれなかった者を、自律性なき存在、すなわち人間にあらざるもの、打ち砕かれたホモ・サピエンスとして排除せねばならなくなったのである。
 これではまるで悪人や犯罪者を社会から抹殺するための論法のようにみえる。この論法が通用するのは、まさに現実に存在しない理性的存在者あるいは魂なき倫理主義者にであって、いわゆる普通の人間にではないともいえよう。とはいえ、われわれがなぜ犯罪を反社会的行為とみなし、犯罪者をわれわれの仲間扱いしないのかという問いかけをした場合、ニュアンスの違いはあれ、今まで私が話してきた見地から、その結論が導きだされてきているのはたしかであろう。
 その意味では、人間とは己れが断を下すときになって突如として理性的存在者になりうるという奇妙な変身能力をもつ自然的存在であるともいえよう。このあたりの人間の身勝手さをとがめ、人間をして謙虚な存在たらしめた考え方には、たとえば宗教の世界で考えられた「原罪」説や、カントなどのいう「根源悪」説があるだろう。これらの考え方は一言では説明できないものであるが、私なりの理解では、要するに、人間であること自体が悪であり、悪への傾向性を本質的にもっているということを告白する考え方である。実際は、この謙虚さも人間が完全であり理性的であらねばならないとする厳格な動機からでた裏返しの態度なのであるが、私はこれらの考えを基にして『犯罪とその反社会性』の結論を考えてみたいと思う。


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 『犯罪者の諸相』では、私は犯罪原因を環境説に立って求めることによって、犯罪者の行為もまた普通の人間の行為の一つであるかの如くに主張してきた。しかしこの考え方は個人主義的犯罪観がはばをきかせている限りにおいては、犯罪が個人にあるなにか欠けたもの、換言すれば犯罪をおかす資質のようなものによってなされるのだとする考え方によってかたくなに拒否されている。その意味では犯罪原因における素質説は、犯罪を異端視する考え方に加担しやすい危険性をもっているので、そうならないための私の高等戦術として環境説がとられてきたとも考えられよう。
 実際、犯罪原因における素質説は「犯罪処理」に重点を置いて考えた場合、これほど便利な考え方はない。とりわけ個人主義的社会観によって成立している社会では、犯罪をおかした個人にすべての責を負わせればよいのであるから、行政上、たやすい「犯罪処理」がなされるし、またそれが望まれてもいるのである。
 もとより素質説のすべてが個人の内に存する犯罪をおかす資質を認める立場からきているわけではないのであるが、個人主義的に解釈される限りは、究極的には、そうなってしまうのである。ここにK・メニンガーがいうところの「正義という名の不正」が、合法的にかつ歓迎されてなされるゆえんのものが隠されているのもうなずけよう。
 しかしながら、他方では、犯罪をおかす資質が個人の中に特殊的に存在するというのではなく、普遍的に存在するという考え方も、素質説の一つであると言えるであろう。その観点から私はさきほどの原罪説や根源悪説を思いうかべたわけでもあるが、もとより原罪説や根源悪説がいわゆる「犯罪」とわれわれがいっているところのものを直接に説明できるものではないことは了解しているつもりである。なぜならばこれらの説は罪ないしは悪そのものについて語っているよりは、人間の感性的存在性について語っているといった方が正しいからである。
 実際これらの説において罪ないしは悪という言葉が使われたとしても、それは人間的存在とは縁遠い神ないしは純粋の理性的存在者の目からみての話であることぐらいは現代のわれわれにはあきらかになっているのである。しかしここでは私は、原罪説や根源悪説というものが人間の中に犯罪的資質を認める考え方をとっているのだと思いたいのである。厳密にいえば、すべての人間は犯罪的資質をもっているのであるが、ただそれを眠ったままに、あるいは潜在的にもっているのだということである。
 私のこの主張はかなりアジテーション的な強引さをもっているのは事実である。それ故にみなさんは私がさらに、犯罪的資質を潜在的にもっていることとそれを顕在化させることとは、ほんの少しの違いでしかなく、ある場合には、ほとんど同じであるといわんとしているのではないかと思われるだろう。
 然り、全くその通りなのである。私は犯罪的資質を顕在化させてしまうことが人間の行為の悪質への大いなる堕落であると考えるのではなく、健康な人間が病気になったようなものであると考えたいのである。もっとも、病気の場合は、必ずしも病因が本人の体質にあって、それが顕在化したとばかりはいえないのであるが、それはともかくとして、病人に対するわれわれの扱いは、少なくとも人格的扱いの面からみて、彼の健康な時のそれとは基本的に変わっていない。われわれはごく自然な気持で病人に対して「早くなおって下さい」といいうるのはその証左である。この例などは病気になったのが一種の「不運」であるかのようにわれわれが一般的にみなしているところから生まれてきているのである。
 みなさんはこの考え方が『犯罪者の諸相』で「犯罪とは一種の『不運』によってしくまれたワナにとびこんでいった弱者である」といわれていた箇所と相通じている点を思いだされるであろう。実際のところ、犯罪をおこすことと病気になることとは、当事者の意思関与の有無の違いによって、言葉上は異質のようにみえても、様相上はほとんど同じであるのである。それにもかかわらずわれわれは人間存在をあまりにもシンボリックにとらえる「理性のサガ」によって、言葉上の異質性を実在的なそれと思いこんでしまうのである。
 とはいえ、いくら私が屁理屈をこねたところで、私の本音が病人に対するのと同じように、犯罪者をも扱うべしという点にあることはまちがいない。原罪説や根源悪説も、そのために、いいかえれば犯罪者もそうでない者もホモ・サピエンスとして共通の要素をもっているのではないかと言いたいがために、利用されて使われたのにすぎないのである。もっとも、みなさんは私の得手勝手な一方的な主張に同意する必要などさらさらないが、私自身としてはこのエッセイをしめくくりやすくするためにそして犯罪者にこっぴどく痛めつけられた被害者の気持に水をささないためにも、次の点まで妥協しようと思う。
 すなわち、現代社会において、犯罪者の精神はまちがいもなく打ち砕かれている。その意味では現代社会に適用しえない機能の異常性を彼らはもっている。それ故に彼になんらかの社会的制裁を加えるか否かは、ホモ・サピエンスの特性にまかせてもよい。その際私はそのホモ・サピエンスが理性的存在者として反社会的存在たる犯罪者を非人間化したとしても、それには干渉しはしないだろう。なぜならば私もホモ・サピエンスである限り、犯罪者を非人間化する精神構造が理解できるからである。従って、逆にまた、すべての人間に犯罪的資質があるとしても、それが「観念的に構成された社会的特性」に従っている限りにおいては、いいかえれば犯罪的資質が社会的に影響を及ぼさない限りは、犯罪をおかしたことにはならない、ということも理解できるからである。
 みなさんがこの妥協を認めてくれるのなら、さらに私の次のシニカルな命題までもエスカレートして認めていただきたいのである。すなわち、犯罪者はまさに「観念的に構成された社会的特性」に従いえぬ存在であるというただそれだけの理由によって「打ち砕かれたホモ・サピエンス」と命名されるにふさわしい存在であるという命題をである。なぜならば、われわれはこれまでのアジテーションにおいて「観念的に構成された社会的特性」に従うということが、人間の本性に適った行為であったということを幾度も確認したからである。この妥協において、私は、人が原罪や根源悪をもっているからといって、彼を「打ち砕かれたホモ・サピエンス」とみなさない人々の考え方を容認しているのである。いいかえれば、「観念的に構成された社会的特性」に従う人が同時に原罪や根源悪をもつ存在であっても、それを認めるというのである。
 それ故に私のこの妥協はまことに心苦しい妥協であるといわねばならない。なぜならば、原罪や根源悪をもっているということが、人間の感性的存在性の容認であるとするならば、逆に「観念的に構成された社会的特性」に従わぬ状態こそ、原罪や根源悪の結果するところのものであるとも考えられるからである。この論理を極限状態において考えれば、原罪や根源悪をもつ存在が人間であるとするならば、犯罪者はある意味では最も人間的であるということになる。私の心苦しさは、前者の考え方を容認したからといって、後者の論理を積極的に弁護できないというところにある。
 さすれば私は己れの妥協による心苦しさから解放されるには次の点を強調するしかないであろう。すなわち、われわれが「観念的に構成された社会的特性」に従わないことによって、われわれの精神が打ち砕かれた状態にあるといわれうるならば、少なくともそれと同等の力でもって、われわれが「観念的に構成された社会的特性」に従って生きていかなければならないということもまた打ち砕かれた精神状態の結果するところであるということをである。あるいはそれほどではないにしても、われわれがたえず、「観念的に構成された社会的特性」に従わねばならないような強迫観念にとらわれているということが「打ち砕かれたホモ・サピエンス」のもう一つの様相を示しているということをである。もし、このような仮説までも認めてもらうようになるならば、われわれが己れの生存のために犯罪者を犠牲にするというおごりの姿勢が決して生まれてきはしないであろうと、私は思うのである。


 参考文献

A・トインビー『歴史の研究』(長谷川松治訳、社会思想社)
H・デッキー=クラーク『差別社会の前衛(邦題)』(今野、寺門訳、新泉社)
C・ウィルソン『アウトサイダー』(福田、中村訳、紀伊国屋書店)及び他のアウトサイ ダー、サイクルの著書 
J・V・マクグリン&J・J・トウナー『現代の倫理理論』(堀、藤巻訳、勁草書房)
K・メニンガー『刑罰という名の犯罪』(内水主計訳、思索社)

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