第二部 打ち砕かれたホモ・サピエンスに関する論評
狂気とその非人間性
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精神病が 単に「脳病」ではないなにかを示す心の病であるとする考え方が出てきて以来、精神病を医学の一つの対象とするよりも、むしろ哲学の対象とすべきだとする考え方が生まれてきたのは当然だろう。この考え方はおおむね哲学を精神的糧とする側によって積極的に提唱され、一部の精神科医もそれなりに賛同の意を表するようにもなったが、医学の世界一般では、一つの考え方としては受け容れられても、具体的な治療のなにものも示しえないという点で一笑にふされている。
それというのも哲学が精神病を直接的になおしてくれるわけではないとする功利的精神によって、この考え方が一種の知的遊戯の産物でしかないとされているからであろう。この事実は、精神病を治すのはやはり免許を取得する医者でなければならないとする先入見によって十分証明されるところである。(とりわけ今日では脳科学の発達が顕著になるに及んでは、である。)
しかしながら、この先入見による証明が最近の精神科医に対して、これまで以上に過酷な試練を要求していることになっているのにわれわれは気づかねばならない。なぜならば、精神科医は、他の科の医者と違って、良心的になればなるほど、哲学の領域に介入しなければ、精神病患者の完全な治療ができないというジレンマにとらわれてくるからである。良心的な医者は、凶暴な発作におそわれた精神病患者が注射や薬によってその発作がおさまったからといって決して満足しないものである。むしろ逆にその対症療法そのものに疑問を覚えるときさえあるのである。
いうまでもなく、これは精神病という病気そのものの特徴に起因しているのである。K・ヤスパースが「精神医学の実地で行われることは、いつも一人一人の人間全体を問題にすることである」といった言葉は、この間の事情をよく伝えている。私流に解釈すれば、哲学とは、まさに人間全体を問題にする学問であり、また哲学者固有の仕事とは、カントの言を待つまでもなく、「人間とはなにか」を全体的にさぐることである。ヤスパースがこの言葉をいった瞬間、科学として取り扱われた近代精神医学は、再び、哲学的な対処をも余儀なくされたのである。
そうなってくると、個々の症状といわれるものによって精神病と診断されたものが、はたして病気であるといえるのか、という問題が生じてくる。もちろん、その場合、病気ないしは病的であるということが一体なにを意味しているのかは、厳密に定義されておく必要はあるだろう。しかし前もって私見を述べさせてもらえば、身体的な病気の場合に相応する考え方が精神病にも通用するというのは一般的に疑問とされている。従ってヤスパースも「精神的なできごとを病的というか正常というかは、多くは生物学的な、価値の定め方による」というのである。このことから、彼の意に従えば、医者によって病気ではないといわれれば「慰めの価値づけ」によるところの、また病気であるといわれれば「道徳的な弁明という価値づけ」によるところの「正しくない」考え方が生まれてくるのである。
以上の考え方は、病気、とりわけ精神病の概念規定がはっきりとなされるものではないという教訓を伝えているにすぎない。それ故にわれわれもまた、今のところ、精神病が病気ではないとアジテートする性急さを避けねばならないだろう。
しかし同時に、われわれが、精神病という名によって示される諸症状が病的なものとして考えられても異論をはさまないようになった歴史的経緯については敬意を表さねばならないだろう。いいかえれば、「狂気」が非人間的なもの、ないしは反人間的なものとして完全に人間社会によって拒絶されたりしないで「人間的なもの」の一様相としてわずかでも認識されていることは、近代のヒューマニズムの観念の浸透の成果とされねばならないだろう。その意味では科学的精神によって裏うちされたヒューマニズムの観念は、一つの貢献をしていると評価をしてもよいだろう。
だが狂気をヒューマニズムに包摂するパターンは、いってみれば、根拠のない理性の傲慢によっていたので、われわれの認める「狂気」が、別な形の不幸に追いやられる破目になるとは、近代の知恵ある人間の誰もが気づいてはいなかった。その結果ヒューマニズムの観念は、それが理性的思考に保証されていたが故に、狂気に対して、一つの自己撞着を示さざるをえなくなったのである。これはなにを意味しているのであろうか。
ヒューマニズムはなんらかの形での合理的なものを含んでいた。いいかえれば合理的なものが人間的なものであり、逆にいえば、非合理的なものは非人間的なものであった。この命題がわれわれをして狂気に対する排他的な態度をとらせた張本人となっていたのである。これは実は「狂気」なるものが、理性の決めたり予測したりする枠の中に認められないところに起因していたのである。理性は狂気を人間の生の一つの反応として断定し、従って、理性的なものの亜種として対処する可能性をそこにみいだしたものの、狂気へともたらす現象に対してありのままにみるという態度を固持することができなかったのだ。
というのは、理性は狂気の本質について説明することができなかったからである。そこで「狂気」そのものが非合理的なものであると断定せざるをえず、条件つきで狂気を人間的なものとしたのである。条件つきであるというのは、もし狂気が合理的な存在形態をとるようになったら、いつでも人間的なものに帰属させるが、それまでは非合理的なものとしての地位に甘んじさせておくということである。
話をもっとわかりやすくするために、再び病気そのものについて述べよう。
今日、ほとんどの病気は、完治できるかどうかを別にして考えれば、解明されているか、それとも解明されうると考えられている。少なくとも、これこれは病気であるとして規定したとしても、それに対する説明は人々の納得される形でうけ入れられている。病気の存在性は合理的なものとしてあったのである。ただ近代人の本性からすれば、合理的なものとは説明されうるものであり、その意味では、合理的なものの理解はわれわれの精神における了解という主観的なものを介して生まれたトートロジー的な問題であったともいえよう。
それ故に、奇妙なことには、われわれに説明されえない事態がおこると、それはただちに非合理的なものとされ、その存在性すらもわれわれによって拒絶されてしまうのである。ところが、精神病といわれるものの症状としてはいろいろあらわれてくるものだから、それらについてのなんらかの記述がなされなければならないものの、精神病そのものが一体なんであるのかについては全くといってよいほど説明されえなかったのである。その結果、精神病は非合理なものであり、従って病気ではないのだとする、きわめて皮肉的な結論さえでてくるのである。
いずれにしても、精神病そのものがなんであるかわからないというのは、近代人の科学的精神によれば、精神病の原因となるものがなんであるかわからないというのと同じであろう。そしてわからないということに屈辱を感ずれば感ずるほど、仮説をうちたてる作業を通じて、近代人はその原因を究明しようとしたが、まだまだその途上にあるというのが実情である。場合によっては科学的精神は将来精神病を再び脳病として規定でき、そのついでに対症療法による治療を可能にするかもしれない。だが今のところ、私はそのような先の話の仮説をたてないでおこう。
さて、これから私は逆にきわめて危険な仮説のもとに話をすすめてみようと思う。その仮説とは、精神病が病気ではないとする最近のヒューマニスティックな考え方に盲目的に正義の証しをみてはならないという仮説である。ただし、この考え方を単純にうけとってもらいたくはない。もし読者諸兄の中に無批判的にこの考え方に賛同を示す人がいるならば、奇妙な話ではあるが、私は彼らに対して、逆に、精神病は病気であるとする考え方の方を採るようにすすめたいと思うのである。もちろん、現時点においては精神病を病気であるとみなす人も、その逆の人もそれぞれのヒューマニズムの観念に支えられていることはまちがいのない事実である。従って、そのどちらを主張しようが、精神病者をいわゆる「きりすて」てはならないとする思いが両者の考え方に認められていると信じてよいだろう。
しかしながら、精神病が病気でないとする考え方は、かなり高度な段階での話であることをわれわれは認識しなければならない。なぜならば、現在の社会が、精神病を病気でないと判断することによって生じるデメリットを十分に償うほどの品性をもっているとは思われないからである。いいかえれば、現在では弱者の権利なるものは名目的な形でしか存在しないが故に、精神病者はなんらかの形での社会的貢献の機会を保証されてはいないからである。
今のわれわれは精神病を病気であるとみなし、その市民権をえたということがせいいっぱいのヒューマニズムのあらわれてあるといえる段階にいるのである。そして病気であるとみなすことによって生じる不幸についてまで考える余裕は、今のところ、まだまだありはしないのである。これは社会の悲劇ではなく、歴史の悲劇である。しかしながら、そうだからといって私はこれまでの人間の努力について評価しても無駄であるというのではない。仮にも社会の進歩といわれるものがあるとするならば、むしろ精神病を病気としてとりあつかう姿勢に、そしてその治療のための奮闘的努力に、その証左をみてもまちがいではないと思うのである。これが一般に対して精神病が病気であるといわしめる私の論拠である。
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実際、われわれが、なんの抵抗もなく、精神病を病気とする態度を有するにいたるまでにはヒューマニズムの観念の進化と先人たちの人類愛的努力があったと結論するのは造作もない。そこで私は、別の視点から、この確認にいたる道程をスケッチしてみよう。
まず大切な最初の確認は、精神病を病気とすることのもつ意味である。すなわち、再三再四くりかえすように、ここにはヒューマニズムの精神が横溢していなければならない。と同時に病気そのものが人間存在に致命的な打撃を与えてはいないとする考え方もなければならない。病気は人間存在における一時的欠陥、偶然的な不幸であるが、しかし、まちがいもなく、その不幸はいずれ解消されるものとされねばならない。病気は治るものとしてあるのであり、また治らなければならないのである。それ故にこそ、病気になったからといって、その人の本質がちっともそこなわれるわけではないと断定されるばかりではなく、むしろ彼を早く回復させて、社会への参加を企図するという努力を怠る方に、問題があるとされるくらいである。
これは人間の事実をではなく、確信を述べたものにすぎない。しかし、それは、冷徹な科学者を除けば、すべての近代人の賛同する考え方となっている。『精神異常者の諸相』でも触れたように、病院が病人を必ず健康な状態に戻すという神話によってなりたち、それ故にわれわれが病院を決して「うばすて山」であるとみなさないのは、上述の独善的だが誰もが反論しがたい病気の観念に対する「思いこみ」がわれわれを支配していたからである。それ故に病気とは身体ないしは精神の「休息指令」であり、病院とは「休息所」であるといっても、近代人、とりわけ合理的思考に依拠する現代人なら、的を得た比喩としてうけとるのである。
もっとも、われわれは、交通事故のような本人の全く与りしらないのに、病気にかからされたという思いや、数多くの病死の事実に遭遇している。それにもかかわらずそれらの事実によって、われわれは病院の神話を否定しようとしたり、裏切られたという思いにとらわれない場合が多いのである。
病気に対するこのような楽観主義は、一方的ではあるけれども、近代人の心情にマッチしているのは事実である。病気とは個人的には不幸、社会的には損失ではあるけれども、別の観点からでは人間的なものの持続を願う一種の自然暗喩であったのである。
これで、精神病が病気の仲間に入れられることが、いかに重要であったかが、あきらかとなっただろう。従って精神病が病気の仲間に入れてもらえるということは、実に大変なできごとだということになる。もっとも、これまで私が使用してきた「精神病」なる言葉自体が病気を意味しているのであるから、私はおかしな表現をしていたわけであるが、これにはわけがある。次節で述べる如く、精神病が病気でないとする高度な段階での考え方(これまた論理的におかしな表現であるが)を強調するためでもある。
実は私は精神病という精神医学でいう言葉を使うかわりに、「狂気」なる言葉をも使えるのではと思っている。それは私が精神医学者でないから言えるのだろうが、それでも、この狂気という言い方はさまざまな思考の逃げ道を与えていることだけは注意しなければならない。
第一に、狂気の意味の多元性は誰もが認めるところであるからである。場合によっては、狂気の存在が人間のマイナス面を示すという一般的なとらえ方よりも、創造性をもたらすという意味でプラス面をもっているといったような主張さえみられるのである。
第二に、狂気がある種の異常性を示す文学的な表現としてうけとられている場合が多いからである。その場合、狂気そのものは問われなく、狂気を思考する人間の思惑のみが先行しているのである。このことから狂気に対して寛容であるうちは、狂人を面白おかしくとりあつかえるし、ひとたび、自己の都合で不寛容になれば、彼らを非人間的な存在としてとりあつかっても、全く許されるところの免罪符が与えられるという事態を招来するであろう。すなわち、狂気とは、どのようにでも扱われる言葉なのである。
今のわれわれの認識にとって大事な点は、もし狂気を病気であるとみる場合、狂気が近代医学によってオーソライズされた精神病以外のなにものでもないと限定することである。そしてさらに重要な点は、現在のわれわれが精神病を病気であるとみなした場合、それは医学的な意味で考えられなくてはならないという点である。そこでは狂気についていう場合のように逃げ道は一切許されない。この厳密な定義の中に、われわれが病気というものを人間的存在の一様態としてみる限りにおいて、狂気の持主に対する道徳的な態度も又きっちりはめこまれていなければならないのである。そしてさらにこの道徳的な態度なるものが観念的、形式的なものとしていわれていては、決していけないのである。
それがなにを意味しているのかはおのずとあきらかであろう。近代以後に発達したヒューマニズムの精神は、たとえば精神障害者を保護しなければならないという考え方をもたらし、その受け皿は保護や救済を目的とする施設から治療を目的とする精神病院へと変わっていったわけであるが、この精神の内部における不整合に対しては、傲慢といっていいほどの無頓着ぶりであった。
たしかに、保護院や救済院や精神病院が建設されたのは、それなりのヒューマニズムが具象化されたものとうけとられる。だが、そこに収容される人たちそのものに対する対応の仕方はヒューマニズムとは異なったものからの影響を感じさせるものがある。それは自利によって動くと定義される近代人の「ひとりよがり」に起因するとも考えられる。ちょうど、現代の親が子供に好きなものを買いあたえておけば、それが子に対する親の愛情と考えるようなものである。この場合、親というものは子が自分と同じくらいに自立する人間であるとみなそうとはしている。従って子が希望するものを満たしてやれば、子は自らの判断で自らの欲望を充足していくだろうと思いこむ。そのくせ、親は、子はやはり自分と同じ大人ではなく子供でしかない、いいかえれば子供だから買いあたえておくだけで十分なのだと信じて疑わないのである。
しかし、そこに問題があったのである。話を精神障害者に対するヒューマニズムの場合に戻してみよう。真実のところ、近代人は精神障害者をヒューマニスティックにとりあつかおうとするが、そのことはもともと木を竹につなぐようなものであると思えるふしがある。それこそ極論であり、非人道的な考え方として非難されるのを覚悟でいえば、近代人にとって狂気とはもともと人間固有のものではないとするのが、もっとも整合的な考え方なのである。これはなにを意味するのかといえば、それほど近代人の知性の抽象化による偏見が根付いているということである。
この暴論をいわしめるそもそもの出発点は、人間のもつ尊厳性をことさらにうたいあげようとする近代の最初の頃の考え方にあった。歴史的にみれば、それまでの人間存在は、自立しておらずなにかの属性として位置づけられたが故に、そこからの独立は、いわば当然の願いであったといえよう。従って人間の自由や尊厳性を主張する姿勢それ自体にはまちがいはないのだが、しかしこの姿勢のおとし穴は、自由ならざる者や尊厳性に気づかぬものをめざめさせようとする人道主義的態度と、彼らが本来的に自由や尊厳性をもっていないものとみなして彼らをきりすてようとする排他的態度との違いについての自覚が少ないということである。
それのみか後者の態度の固執が、弁別を常とする理性の実践的あらわれであるとさえ信じられていたのである。こういった考え方に支えられて生まれてくるヒューマニズムの悪しき傾向性が、精神異常者という人間存在にまで影響を与えたのである。すなわち、Y・ペリシェが『精神医学の歴史』の中でいうように、「人間の尊厳を回復しようとする訴えの大きい時期であっただけに、狂者という反対命題を、人間の逆像として浮かび上がらせた」のである。
その結果、精神障害者はその他の人のために、「閉じこめられ」なければならなくなったのである。さらにやっかいなのは、精神障害者の「閉じこめ」がヒューマニズムの精神の博愛的具現であると思いこんでしまうことである。だがこれが思い誤りでもなんでもなく、自利の原理によって動くとされる近代人の無意識のふるまいであるといった方が、ヒューマニズムの考え方をもちだして弁明するよりは、論理的に適い、従って正直な言明であるといえよう。
注意しておかなければならないのは、私がこの事実を悪いと断定しているのではないということである。私はこの事実なくしては、近代人が実際に自立して生きていけないところの歴史の悲劇を正直に伝えているだけである。いいかえれば精神障害者、即ち精神異常者を非人間的な存在であるとみなさなければ、まわりまわって自分たちがこの世を生きていけないとする意識の恐怖に、近代人がおのずととらわれている姿に注目しているだけである。
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そうは言っても、近代人が、ある種の狡猾さをもちつつも、精神病が病気であるとみなす態度は、やはりヒューマニズムのあらわれであることには変わりはない。この考え方は、結局は、そう判断する自利の精神によって生まれているとはいえ、付随的に精神病に患った人間を治療するといった努力に向かわせているからである。これは分別を事とする理性を大事にする近代人の自然の性向にかなっているのであるから、われわれはそれについてとやかくいえる筋あいのものではないだろう。
さて、そこで私はもっと高度な段階での話にテーマを変えて考えてみたいと思う。すなわち、それは精神病が病気でないとする考え方についてである。
前にも述べた如く、言葉の定義からすれば、この考え方は論理的におかしい。従って精神の異常現象は病気ではないのだとする定義の方が適切であるのかもしれない。あるいは、さまざまな逃げ道を作っている狂気という言葉を使えば、狂気は病気でないのだといった方が、さらに適切であるのかもしれない。しかし、私はあえて、ここで精神病は病気でないとするいいまわしの方を採用したいと思う。いずれにしても、みなさんはこの問題にかかわる前に、どうしてこの考え方が高度な段階での話であるのかについて了解しておく必要があるだろう。
まず、この考え方は単純な論理のもとでは生まれていないからである。つまり一定の症状から機械的に病名をつけるといった、分析的な理性に依拠するよりも、人間に対する総合的な判断がここでは要求されているからである。論理からすれば、事をよけい複雑にしているとも、あるいはひねくれた詭弁を弄しているともいわれるこの考え方は、しかしながら、人間が生きるということの意味について、明確なビジョンをもっているともいえるのである。
その意味ではこの考え方は前節とは違った視点からのヒューマニズムの観念をあきらかにもっているともいえよう。大事な点は、この考え方が科学的であるというよりは哲学的であるという点である。つまりここでは人間における生命現象が「魂」の活動においてみられているのである。従って、この考え方に同調する公認の精神科医は建前上精神病が病気でないとする考え方を認めるわけにはいかず、せいぜい、病気と病気でないこととの間の境界線がはっきりしていないという程度である。
哲学者の場合、その考え方を重視し、科学的な立場による判定に一つの「思いあがり」の姿勢をみようとする。たとえば精神病かそうでないかの診断の主観性ないしは価値判断の介在性を例にとる。あるいはもっと広く文化体系そのものがもつところの偏見性を強調する。
とはいえ、この反論は平行線をたどるだろう。精神科医が事実を事実として見て判断する良心的態度は、哲学者の反論によって少しも揺るがないだろうし、哲学者のもつビジョンは、精神科医の没価値的世界観にうちまかされるほど、弱々しいものではないと考えられるからである。
しかしながら、ここでは哲学的な見方の方に賛意を示しながら話をすすめてみよう。すでに語ったように、哲学者が精神病を病気と認めたがらないのは、彼が人間の生きるということの意味について根源的に問おうとする視点にそのわけがある。その視点からすれば、哲学者にとれば、精神病とそうでないものとの差異は大したそれではないのである。とりわけこの考え方はいわゆる「実存哲学」と称せらせる哲学の観点からは積極的に支持されている。
つまり、生きるということとそれにともなう人間の意識すなわち不安の意識との不可分性を主張する立場からすれば、精神病とは、たまたまその不安が一つの実体となってわかりやすくされているにすぎないのであって、それ自体を問題にすれば、精神病の示す症状は、一つの人間の生き方をあらわしているにすぎないのである。これは精神病にかかっていないとされる、いわゆる普通の生き方と、人間的存在という意味からは、なんら変わっていないということをも意味しているといえよう。
話をわかりやすくするために、一つの例をとろう。その際、皮肉的にも私は純粋の実存哲学者の言をもちだすよりも、精神科医として知られるR・D・レインの言を私流の理解に従って採用したいと思う。
彼は自著『ひき裂かれた自己』において「存在論的に不安定な人間によって出会われる不安の三つの形態」として「呑みこみ(engulfment)」、「内破(implosion)」、「石化(petrification)」を指摘する。
「呑みこみ」とは、自分ないしは他の誰かとかかわる際に、自分が理解されたり、把握されたり、了解されたり、愛されたり、見られたりすることによって自律性とアイデンティティを失いはしないかという恐れ、すなわち他者に呑みこまれ、吸収されるという恐れを意味する。
「内破」とは、外からのなにものかによって自分が破壊されるという恐れを意味する。人はもともとなにももたない空虚なものであると感じるが故にそれを満たそうとする。しかし、それは彼にとっては逆に、彼なりのアイデンティティをおかされるという意識となる。そして日常の体験、現実との関わりそのものが、自分は無の存在だと感じる彼に恐れや不安を与えるのである。
「石化」とは、自分が行動の人間的自律性を欠いたものに変えられはしないかという恐れ、あるいは物としてとりあつかわれることへの恐れを意味している。これは以下の考え方、すなわち自分にはこのような非人間化をこうむらない自由な一定の生活領域があるはずだとする考え方に基づいているとレインは言う。
ここで注意しておかねばならないのは、レインは上述の三つの不安の形態を「存在論的に不安定な人間」のもつ不安のそれとして位置づけている点である。従ってそこでは、存在論的に安定している人間の存在が忘れさられているわけではない。彼は精神病がいかにして発現するのかの解明にとりくむ途上において、上述の三つの不安を述べているにすぎないのである。しかしながらレインの場合においても「存在論的に不安定な人間」とそうでないものとの区別は、彼の医学的能力に由来する直観によってなされていると考えられないでもない。
彼の学問的良心はそこまでであるが、そのことによって、われわれは彼の偉大さにけちをつけられないだろう。彼の偉大さは別のところ、すなわち、学問的良心をうわまわる倫理的崇高さをもっている点にあるのである。その観点に立っていうならば、彼がはっきりしようとはしなかった主張は、次の点にあるのではないだろうか。つまり、すべての人間は「存在論的に不安定な人間」であるということである。
たしかに「呑みこみ」されたり、「内破」されたり、「石化」されたりしはしないかという不安は、アイデンティティや自律性にかかわる重要な人間的存在形態ではある。しかし、それはわれわれが心理学的次元において考えれば了解できなくもないということを伝える以外のなにものも意味しはしない。むしろ逆に、「呑みこみ」をしたり、「内破」したり、「石化」したりするのは、近代社会においては公認された人間の生の形態ではなかろうか。いなそれ以上に、それらの行ないは、近代人の生の原理にさえなっているのではなかろうか。
その点を重視すれば、たとえ、われわれがそれらの行ないをE・フロムのいうように、「生物学的に適応し生に役立つ良性の攻撃」として正当化しえたとしても、そこには常にある種の危険をはらんでいる価値づけが横たわっていることを覚悟しなければならない。「呑みこみ」をされたり、「内破」されたり、「石化」されたりする不安から逃れる一番良い方法は、自分が「呑みこみ」や「内破」や「石化」をする立場に立つことであると考えるのは、ごく自然な近代人の論理の帰結なのである。
もっとも、レイン自身はそれによって「存在論的安定」がえられるとは決していっておらず、ただ「存在論的な不安」を究極的に解消しえなかった「精神病者」とみなされた人たちに対するヒューマニスティックな弁護と、「その心が根本的に病み、自他にとって同程度もしくはそれ以上に危険でありながら、しかも正気とみなされている人々」の存在に対するわりきれない不合理さを訴えているだけであるが、彼の立場に立つわれわれならば、ここで思いきって「近代人ならばすべて精神病者」であるといっても、さしつかえないだろう。
不思議にも、近代的な論理からすると、それが、「精神病は病気ではない」とする考え方に通じるのである。その根拠には二つがある。一つ目は次の通りである。「呑みこみ」や「内破」や「石化」は、欲望充足を生の形態ととらえるホモ・ファーベルにとっては、主体的生存のための手段なのである。われわれがこれらによって覚える実存的な不安を被害者の論理から考えていけば、たしかに「精神病は病気である」とされることは必要であろうし、これまでもそう考えてきた。だがこの不安を非生産的なものとしてではなく、生の契機として考えていく論理からすれば(それは加害者の論理であるともいえようが)、精神病は病気ではなく、自己以外の存在に対して投企しえぬ弱者の存在の一つの形態であるともいわれうるのである。弱者は病人ではない、従って精神病は病気ではないというわけである。
この考え方は崇高であるが、あきらかに強者の論理である。それ故に、人間の生の尊厳性をうたいあげるが、大いなる危険性を内包する。つまり人はなぜ弱者を守らねばならないのかという視点を欠落すると、まさにいま問題となっているところの「精神病者を閉じこめる」ことに倫理的な痛みを感じなくなる危険性(というよりは現実性)をともなうのである。
強者の論理はこれまで幾多の人間を救ってきたが、しかしどちらかというと確実に多くの問題点を残してきたのは、みなも承知の事実である。私のさきほどの考えからすれば、強者自身もまた精神病者そのものであるのだが、彼らはその精神病的特徴を自らの力によってものの見事に隠蔽してしまっているのである。もちろんその場合、彼らは自分たちが精神病者であるとの意識は露ほどにももってはおらず、逆に他の弱者にその名をかぶせてしまっているのである。
もう一つの根拠とは、『精神異常者の諸相』でも述べたように、「多数者正常の原則」が働いているところにある。これはどちらかというと、意図的に生まれてきているのではなく、自然の感情の産物といえるだろう。つまりレインのいうような存在論的な不安は多くの人というよりは、すべての人がもっているそれである。従って精神病の症状を病気であるというほどのことではないというわけである。とはいえこのヒューマニスティックな判断にも、前者の場合と同様に、少しエゴイスティックな感じがしないでもない。
なぜならば、この場合、人は次の点を恐れるからである。すなわちわれわれは存在論的な不安をもちつつも通常に正常な生活を送っているとみなしているのであるから、もしレインの主張が正しいとするならば、われわれ自身も精神病にされてしまうことになりはしないかと恐れるからである。こういった手合の人たちは、もし多くの人間の心臓が体の右にあれば、体の左にある自分の心臓をみて、異常であると心配する人たちであるに違いない。そして彼らは、その裏返しとして、精神病は病気ではないとするヒューマニスティックな考え方をもっている弱い人たちなのである。だが、これは少しひねくれた見方かもしれない。われわれはもっと素直に彼らのヒューマニズムを信じるべきであろう。
これらのヒューマニズムは、少しは弱者のエゴイズムをもつとはいえ、精神病者とそうでないものとの間の本質的な差異をみいだそうとはしないところにあったのである。たしかに彼らは精神病者の存在を事実として認める。しかしながら自分たちと精神病者との生の形態の類似性を思うとき、彼らは自分たちだって精神病者になる可能性を大いにもっていると判断する。いわば自分たちは潜在的には精神病者であるとみるのである。そして精神病者に対する同胞者意識が強まるに連れて、精神病者とそうでないものとをわける境界線の観念が次第にうすれてき、自分たちとはまさに精神病者と連続的につながっていると考え、そして例のエゴイズムによって、精神病は病気でないとする逆転的結論を下すのである。少なくとも倫理的観点からすればこの考え方をとがめるいかなる論法もわれわれはもちあわせていない。なぜならば、そこには精神病者の存在を悪しざまにいういかなる根拠もないからである。
さて、今まで私はずいぶんと独断的に話をすすめてきた。この私の論法によっては精神病が病気でないとする立場が十分に説明されているとはいえない面もあるだろう。事をクールにとらえて本節のテーマに答えるとするならば、私のいいたかったのは、精神病が病気でないとする考え方があるのは、正常な人間といわれるわれわれと精神病と診断される人たちとにおいては存在論的に質的な差はないという考え方に支えられているからだ、ということだけである。この程度の主張であるならば、なにも哲学的に小むずかしく人間存在について考えなくても、すでに多くの精神科医や精神病理学者のいっているところである。
それについての、二、三の実例をあげよう。最近において精神病理学的研究がすすむにつれて、精神病と神経症との間の違いもわずかであるという考え方が定着しているようである。この考え方も精神病が忌むべき病気ではないとする考え方を側面的に支持しているといわれよう。たしかに神経症も一つの病的症状である限り、治療の対象とされねばならないのは事実である。しかしながらわれわれは神経症の患者に対してはきわめて寛容である。少なくとも人格の荒廃を思わせる事態にはならないということで、この患者は人間的にとりあつかわれている。大げさにいえば、「休息でもとればすぐにでも治りますよ」という医者の言葉だけで、社会復帰は保証されてくるのである。
さらに、K・シュナイダーの著書名でも有名になった「精神病質人格」の観念も忘れられてはならないだろう。この観念は、「病的性格」とも、「異常性格」ともよばれている。この観念がここで重要になるのは、神経症にしても、精神病質にしても、言われている内容において両者がほとんど同じであるということからである。両者の違いは、神経症が病気とされて、それ相応の処置をうけるに対し、精神病質はそれでもって病気であるといいえない点にある。たしかに精神病質あるいは精神病質人格は、シュナイダーがいうように「その人格の異常性を悩みとし、またはその異常性によって利益社会が悩むような異常人格である」と定義されるかもしれない。しかしその彼とても、精神病質をもつ人間を非社会的な人間として考えることに反対しているのに注目するならば、われわれが精神病質をもつ人間をいわゆる普通の人間と同じレベルにおいてみても不思議ではなくなるだろう。 さらにわれわれは、こういった精神病質人格なるものとわれわれが一般に認めている「性格」なるものとを比較するならば、シュナイダーの述べるいろいろな精神病質のタイプが、場合によっては、まさにわれわれの性格そのものであるか、ないしは性格の少し誇張されたものにすぎないとさえ思いいたるであろう。
以上の実例は必ずしも精神病が病気でないとする考え方を支持するとは思えないかもしれない。むしろ、結論はその逆のこと、すなわち、すべての人は精神病者であるとの命題をひきだすのに恰好の実例であるかもしれない。それ故に精神病が病気でないとする考え方も、ある立場があってはじめて生まれてくるともいえるのである。すなわち精神病者と普通の人を一つの連続的なものの両極端としてみるなかで、その中間点は、すべて、さまざまな存在形態をもつこれまた普通の人でなくてはならないという立場である。そういう立場があってこそ、われわれは、たとえばH・S・サリヴァンのいうように「急性の分裂病患者がみせる最も奇異な行動さえも、それはわれわれの誰しもが日常馴染みの対人的過程、あるいは過去の生活において馴染みであった対人的過程からなるものである」とする断定がなんのてらいもなくなされうるのである。
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さて、みなさんはこれまで精神病が病気であるのか、それとも病気ではないのか、という論議に長々とつきあわされて、少々うんざりとした気分にもなっただろうと思われる。この論議そのものが、場合によっては、有閑人の知的遊戯と同列視される危険性をもつのは、定義する側の実践的主体が少しも問われていないからであろう。文字通り「くだらない」形而上学的論争を続けるだけに終わるならば、この問題の提起の意図がヒューマニスティックな動機からでていたとしても、それはわれわれ人間の未来になんの役にもたたないであろう。いずれの説をとるにしても、所詮はむなしい論議であるといわれるゆえんである。
だがこのあたりの理由の解明については、われわれはなおざりにしてはならないのである。そのうちの最大の理由は、こういった論議が「当事者」の立場や考え方をスポイルして、論議する者の思惑でのみなされている点であろう。しかも論議し定義する側の実践的主体がなにも問われないでいるとなると、「当事者」ならば、一層やりきれない思いになるであろう。
次にわれわれが「ヒューマニズム」という言葉をあまりにも軽々しく使っている点があげられよう。事実今までの私の話にしても、それを批判的に読みとってきたみなさんならば、そこに「ヒューマニズム」という言葉が無造作に使われている事実を苦々しく思ったであろう。まさにこの言葉をどうとらえるかによって、われわれの批判的資質が問われてくるのである。
なるほど精神病が病気であるか否かの問題を、それ自体において考えるならば、「精神病」を定義することによっていかなる具体的結果が生まれてくるかを考えればよいとする「プラグマティズム」の守則に従っておれば、その医学的な論争に終止符をうつことぐらいはできるかもしれない。しかしこの問題には人間全体の問題が関係しているのであり、そのためにはわれわれは「人間とはなにか」あるいは「ヒューマニズムとはなにか」の問題にまでたちいらなければならなくなってくるのである。
ところがである。この「ヒューマニズム」ほどそれぞれに意味され用いられている観念は他にないのである。ちなみに、近代思想のすべては「ヒューマニズム」であるといっても過言ではない。それのみか、実存主義やプラグマティズムといった現代の思想を信奉する人にいたっては、堂々と「実存主義はヒューマニズムである」「プラグマティズムはヒューマニズムである」と公言してはばからないのである。それ故に、われわれはここで「ヒューマニズム」を金科玉条にする態度を改めなければなんの結論も得られないような時期を迎えているのではないだろうかという気にさえなるくらいである。
たしかにわれわれはこれまで「ヒューマニズム」なるものを絶対視し、聖域においてきた。平たくいえば「ヒューマニズム」はいかなる場合においても「悪い」ことを意味するものとしては使われてこなかったのである。ヒューマニズムの精神をもっているかどうか、それが近代人たりえるかどうかの踏絵となっていたのである。その結果、いかなる事態を迎えたか。いかなる偉大な思想家も決して「ヒューマニズム」を批判する危険をおかさなかったし、逆に「ヒューマニズム」の信奉者になったのである。それと同時に、各人の恣意的な主張がヒューマニズムの具現とされ、ヒューマニズムは、どんな姿にも変身できる物語にでてくるような実体のない妖怪になっていったのである。
従って私はこれからは少なくともヒューマニズムを相対化させつつ、場合によっては否定されるべき観念であるとみなす立場で、話を進めようと思う。かつて私はアメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズに興味をもち、彼からいろいろと教えられたが、彼の考えこそ「ヒューマニズム」を考える恰好の素材となるので、まずそれから紹介しよう。周知のように、ジェイムズはプラグマティストといわれるが、彼の哲学は、私の理解では文字通り人間のための哲学であり、神のための哲学でもなければ、自然のための哲学でもなかった。だがこの哲学を支えるヒューマニズムの精神は、近代人にあっては、結局は「自然界にあっては独裁者の如き高慢さを宣言する法典」でしかなかったし、その歴史的使命は終わったというのが、私の考えである。
もちろんこの考え方は私の独善によるのであるが、今になって考えれば、「人間のことだけしか考えない思想」に大いにひかれつつも、物たりなさを感じていた私だったのである。(この点については法律文化社発行の拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』を参照されたい。)つまりジェイムズの考えは別の観点からいえば同じプラグマティストのシラーがいっているように「Personal
Idealism」(人格的理想主義と訳すべきか)なのであるが、これはまさに「Naturalism」(自然主義)に対立するものであったのである。そして私は実にこの「ナチュラリズム」に興味を感じていたのである。ここを起点にして考えて、結論を下せば、ヒューマニズムとはたかだたナチュラリズムの対立用語としてしか位置づけられないのであり、場合によっては、ナチュラリズムの部分であるともいわれうるということになるのである。
そしてこのナチュラリズムの立場に立って考えをすすめていくと、精神病は病気であるとする考え、そして精神病者を治療しなければならないとするヒューマニズムは、「自然」を克服しえなかったことに対する負い目の意識のあらわれでしかなくなるのである。そして一方ではヒューマニズムを絶対視しなければならないから、このヒューマニズムは治療という形で負い目の意識をとり払おうとしながら、他方では治療の対象とされるものに対してはアンチ・ヒューマニズムの具現者とみなさざるをえなくなってくるのである。
あるいは逆に精神病者を、具現したヒューマニズムの逆像とみなすことによってのみ、だがヒューマニズムの神聖さを守らなければならないが故に、精神病者を治療しなければならなくなってくるのである。ナチュラリズムの立場からいわせると、いずれにしてもヒューマニズムは己れ自身を絶対化、神聖化したが故に自らを「狂わせ」てしまったのである。
他方、精神病は病気でないとする考え方は、前者のそれと違って、幾分ヒューマニズムの根拠をナチュラリズムにおこうとする姿勢をみせているだけに、私には親しい考え方になっている。しかしながらこの考え方はヒューマニズムを絶対視したり、神聖化したり、従って非身体的なものとしてとらえようとする考え方に歯どめをかけるのに貢献しているだけであり、そう考えたからといって、そこから具体的ななにものも生まれてこないのは事実である。
もっとも、なにものも生まれてこないといったことに対する諦観の念をもっておれば、それはそれなりに、私の考えるナチュラリズムに一層近づくとも思われるが、近代人の思考習慣からすれば、そこまで徹底できないであろう。従ってヒューマニズムとしてのナチュラリズムがさけばれるのであり、その意味ではヒューマニズムは絶対視されないまでも、なんらかの偶像に支えられており、その結果人間は作為的に生きることが要請されてくるだろう。たとえば人間とて自然の一部であるから、その本性に従った生き方を選んで生きていかなければならないのだという思いにとらわれるだろう。
私の考えからすれば、その思いはずいぶんと皮肉な自然のしっぺ返しをくらうのである。すなわち、精神病は病気でないとする考え方の根拠が求められてき、その結果われわれは、精神病の症状とはすべての人間の属性であるから、従って精神病でないとされねばならないという、実に奇妙な理性による結論を認めざるをえなくなってくるのである。そうなると、われわれすべてはA・セント=ジェルジのいう「狂ったサル」であるとすなおに認めればよいのに、いいかえればわれわれは実際に精神病者であると認めればよいのに、どういうものか、そう判断している限りは「狂って」はいないと思いたがるのである。ナチュラリズムに近いヒューマニズムにして、かくの如くであるから、絶対化されたヒューマニズムにいたっては、そのもとで生を営む人間すべてが「狂って」いるなどという意識はさらさらにないであろう。
ここできわめて頑固にナチュラリズムの立場に立つならば、われわれはなんらかのヒューマニズムを信奉する限りにおいて、すなわち、その結果として人間がいわゆる理性の働きによる文化的社会的生活を営んでいる限りにおいて、それはホモ・サピエンスとして「狂った」生活をしていることになるのだという認識にいたるだろう。やっかいなのは、ホモ・サピエンスはそれが「狂った」生活なのだとことさらに思わないところにあるのである。
その点からしても、われわれはすでに「打ち砕かれたホモ・サピエンス」になっているのである。精神医学でいう「狂った」症状を精神病として限定し、それ以外は「狂っていない」と区別して、安らぎの心を覚えるわけにはいかないのである。この点については、別の観点から、『隷従とその効用性』において再びとりあげられるであろう。
参考文献
K・ヤスパース『精神病理学言論』(西丸四方訳、みすず書房)
Y・ペリシェ『精神医学の歴史』(三好暁光訳、白水社)
R・D・レイン『ひき裂かれた日記』(阪本、志貴、笠原訳、みすず書房)
E・フロム『破壊』(作田、佐野訳、紀伊国屋書店)
K・シュナイダー『精神病質人格』(懸田、鰭崎訳、みすず書房)
H・S・サリヴァン『現代精神医学の概念』(中井、山口訳、みすず書房)
W・ジェイムズ『プラグマティズム』(桝田啓三郎訳、岩波文庫)
A・セント=ジェルジ『狂ったサル』(国広正雄訳、サイマル出版会)
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