第一部 打ち砕かれたホモ・サピエンスの諸相

    隷従者の諸相



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 かつての日本は、なんらかの大義名分のもとに中国をはじめとする東南アジア諸国を侵略し、又アメリカとも戦争したが、八紘一宇の夢もむなしく、連合軍によって駆逐され、無条件降伏という形で敗戦を迎えた。やがて戦勝国によるいわゆる「極東裁判」が開かれ、戦争犯罪人とされた数多くの人たちが刑を受け、ある者は刑場の露と消え、また他の者は巣鴨の刑務所に収容された。
 一般にこの話は、一世代前も二世代も前のことであり、それについてのわれわれの記憶がもはやうすれてきているのは否定できない。が、私にはそれは忘れられない事実として次のようにとらえられている。すなわちこの裁判で、被告の人たちは己れの数々の暴虐については上官の絶対的命令によってなしたのだと主張したのに対し、裁く側は、たとえ上官の命令であっても、ヒューマニズムや良心に反する行為についてはそれに従わぬこともできたはずだという理由で、彼らを有罪にし重き刑罰を与えたという事実としてとらえられている。もちろん、この印象は「極東裁判」についての私だけの印象であるから、誤っているかもしれないが、そのときの私は「ヒューマニズム」の言葉にいたく感動したのを今でもはっきり覚えている。
 しかし後になって、戦勝国のリーダーであったアメリカが、ベトナム戦争に関わり、その一つのできごととして、ソンミ村の住人を抹殺したアメリカの某大尉が自国の裁判にかけられた際に、彼もまた上官の命令に従って行動しただけだと言って弁明したとき、ヒューマニズムを大事にするアメリカの裁判所がどう裁定するかが、極東裁判の場合とオーバーラップして、私には大いに興味があった。この結果は、彼は有罪になったのではあるけれども、極東裁判の被告ほどにきびしいものではなかった。
 さて、こういったアジテーションの出だしによって、私は過去の恥部をさらけだし、そこに波風をおこそうともくろんでいるのではない。この二つのできごとを紹介したのは、被告がともに「命令に従って行動した」と主張しているからであり、そこからそのように主張する人間とは一体なんであるのかという点にいたく興味をもったからにほかならない。
 私がこれから展開したいと思っているテーマは、『奇人の諸相』にみられる英雄や天才といった、いわば時代を先駆けする人たちとは全く逆の、組織や社会の中にあって、その仕組に従い、その中の複雑な人間関係に呷吟しながら、ごく普通に己れの生をまっとうしようとしている数多くの現代的な人間の特性についてである。そして、結論を先にいえば、私は彼らもまた、「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の一員として立派に仲間入りができると、しんそこ思っているのである。
 しかし、ここでのテーマは、今の私にとっては一番やっかいな問題であることにはまちがいない。なぜならば、これまでの話の主人公は、精神異常者であり、犯罪者であり、奇人であったから、あえて彼らを「打ち砕かれたホモ・サピエンス」とみなし、話をすすめても、彼らはそれに十分答えてくれる素質をもった人たちであると考えられたのに対し、これからの主人公は、いわゆるなんでもない普通の人たちであると信じられているからである。いわば正常人というべきこういった人たちがなに故に打ち砕かれたホモ・サピエンスと言いえるのか。この答えいかんによっては、場合によって私は逆にアジテーターとしての資質が問われ、単なる言葉のもて遊びを楽しむ独善者として失笑を買うかもしれない。しかしながらもとより、この挑戦に対して尻ごみする気持は私にはさらさらないので、あくまでも私の確信に従って、第四のタイプの「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の諸相を展開していこうと思う。
 さて、組織や社会の中にいて、かつそれらに忠実であろうとする人たちが、打ち砕かれたホモ・サピエンスであることを示すには、たとえ皮相的であったとしても、彼らの行為がもたらす非人間性を提示するのが一番てっとりばやい方法であろう。その意味では、戦争時というそれ自体非人間的な状況下で、その前衛たる軍隊なる組織の中にいる人たちが、まさに敵をやっつけるために、上官の命令のもとにどんな非人間的なことでもしなければならない有様は恰好の例となろう。そのことについてはたとえ一兵卒であったとしても、軍隊にいた人ならば誰も知るところであろう。
 ここで問題になるのは、さきほどの裁判での被告の弁明のように、真に上官の「命令に従って行動した」場合である。この際われわれは被告が自分の命が助かりたいために責任逃れの弁明をしているのだと邪推するのは一時やめよう。仮にそう主張することが正当な権利として認められていたとしても、ここでのテーマをすすめやすくするために、あくまでも、彼らが命令に従って行動したことをむしろ「誇りに思っている」者として語っていこう。
 おそらく彼らは最初はなんらかの目的意識をもって軍隊にいるのだと自覚していたことだろう。そして少なくとも軍隊がなんのためにあり、なにをしようとするのかについての知識ももっていただろう。しかしそこにいるうちに、彼らは軍隊そのものがもつ怪物のような意志に洗脳され、いつしか、人間的な思いは消え、ちょうど条件反射の実験をうけたネズミのように、命令をうけたらただちにそれに従って行動するバネ仕掛けの人形になっていったのである。それが、命令に従って行動したことを「誇りに思っている」ものとしての彼らの実態となっていったのである。
 それ故に被告たる彼らは自分たちがなにをしようとしているのか、そしてそれがどういう意味をもっているのかがわからなくなってしまっていたのである。彼らにとっては、少なくとも命令をうけて遂行する行為の内容が非人間的であるかどうかは関係がなかった。「△△村のすべてを焼きつくせ。」そういった命令が彼らの記憶のすべてなのであり、たまたま、その遂行の結果が非人間的であったにすぎなかっただけの話である。 そのことから、彼らにヒューマニズムの観念があったはずだといって後から責めるのは酷な話といえるだろう。
 同じヒューマニズム云々をたてにとるのなら、現代の裁判にもみられる如く、被告に心神喪失を認めてやった方が、むしろ筋の通った裁きといえるかもしれない。もっとも、それは無理というものではあろう。なぜならば裁判というものは、もともと「勝てば官軍」、「力が正義」の論理によってなりたっているとも考えられるからであり、また裁判自身がなんらかの組織の秩序維持の意志に左右されているとも考えられるからである。
 さて、組織の中の人間が打ち砕かれた精神の持主であることを示す証左を、私は軍人の中にのみ見ているわけではない。軍隊という閉鎖的な組織の中にその典型がみられるというので、命令にただ忠実な打ち砕かれた精神の軍人の例を紹介したまでであるが、単に命令に従って行動するタイプの人間は、その他の組織にも数多く存在するのは当然であろう。とりわけ組織そのものの存続を大事にし、従ってそのために規律を重んじるようなところでは「命じられたからそうする」といった形式主義が優先し、軍人の行為と同様に、どんなに非人間的な行為であっても、むしろ「誇りをもって」遂行されているのである。
 この具体例をわれわれは特に非合法とされる組織や、恣意的だが閉鎖的な組織の中でいくらでも見ることができる。やくざ組織をとりしきる親分に命じられて平然と殺人を犯したり、他人に売春を強要できる子分は、その俗っぽい打ち砕かれたホモ・サピエンスとみなされよう。また、組織を裏切ったというので、それまで親しい関係にあった仲間を粛清するように命じられて、これまた機械人形のように、その命令を実行する組員も然りである。なかには、信じられないことだが、日本のような国に数多くあるのは、組織に損害を与えたというので、つめ腹を切らされても喜々とする人間である。いかに閉鎖的で非合法な組織といえども、自らを傷つけることになんとも思わないというのは、どう考えたっておかしな話なのである。
 ところでこのような非人間的な行為を平然となしうるのは、なにも閉鎖的で非合法な組織の中の人間にのみ限っているのではない。合法的な組織といわれるものの中にも、いくらでも、打ち砕かれたホモ・サピエンスはいる。そもそも、組織が合法的であるかないかの問題にしても、よく考えれば、合法と非合法との間の違いはごくわずかなのであり、マクロ的にみた組織のあり方からいえば、少しの違いもないと極論できるのである。むしろ合法的な組織の場合は、なんらかの巨大な力に支えられているだけに、非人間的な行為をもカモフラージュできるので、一層陰険かつ残酷な様相を呈しかねないのである。いってみれば、そこでの彼らはより一層に「誇りをもって」非人間的になりうる条件を与えられているといえるだろう。それ故に、私が第四のタイプの打ち砕かれたホモ・サピエンスの最初の例として、合法的な組織である軍隊の中の人間をあげたのも理解できるかと思うのである。
 一般に、軍隊のみならず、利益をあげることを目的とする会社から、すべてを統括しうる国家にいたるまでのすべての合法的な組織の中の人間、いいかえればW・H・ホワイトのいう「オーガニゼーション・マン」に相当する人たちもまた、非人間的な行為をしないという保証はどこにもない。己れの組織に忠実であればあるほど、そこの上司の命令のもとに、それがひきおこす結果の非人間性を考えずに、己れの使命をはたそうとして喜々とする人間のいることはすでに自明の事実である。
 例えば資本主義社会の中にあっては、利益をあげ会社を存続させるために、副作用のある薬をつくらせては売り、有害な添加物を食品に入れ、大気や海を汚してまでも製品をつくることに生きがいを感じる打ち砕かれたホモ・サピエンスの数は枚挙にいとまがない。彼らは時として責められることがあったとしても、需要があるから売春させているんだとうそぶくやくざの組員となんら変わりのないセリフをはいて、ひたすら組織に忠実な下僕たらんとする。また、組織が危うくなったときは、彼らはいくらでもスケープゴートをこしらえあげるし、逆に自ら進んでスケープゴートになろうとしさえするのである。
 国家となると、事は一層大仕掛けである。その制度のいかんを問わず、すべて国家の政策という名のもとに、絶大な権力をもって、大きな詐欺を行い、国家秩序を乱したというので大量の人間の粛清を行い、国を守るためというので多くの人間の殺しを命じる者がいるし、またそれらを遂行するのが正義であり、名誉にもなるとまじめに信じる者もいる。もはや、ここにいたっては、ヒューマニズム云々などといういいぐさは通用しないのである。
 また、前にも言ったように、一見しただけでも非人間的な行為をする者のほかにも、日常われわれが是認している行為の中には、見ようによっては、実に残酷だと思われるものがある。たとえば無慈悲な殺人者にかかわる人たちの行為である。無慈悲な殺人者はまさに打ち砕かれたホモ・サピエンスとみなされるのは当然としても、私にいわせれば、その彼に死刑の判決を下す者や、死刑執行の許可を与える者、そして死刑を執行する者もまた、国家という組織のもつ意志の命ずるままに己れの使命をはたしている打ち砕かれたホモ・サピエンスであるともいわれるだろう。(もっとも、私が個人を指してそういっているのではないことは了解してもらえると思う。)実に彼らは故意か、あるいは過失であっても、無実の者でもその正当な手続きに従って葬り去ることができる存在なのである。
 以上のように、ざっと見まわしただけでもわれわれの身近な世界には、精神異常者や犯罪者や奇人といった人たちと同様の打ち砕かれたホモ・サピエンスが、正常な人間の顔付を呈して数多く存在しているのである。  


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 もっとも、私はこの第四のタイプの「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の諸相の素描が誇張的であり作為的である点は十分承知しているつもりである。前にも言った如く、私は精神異常者や犯罪者や奇人以外にも彼らと同様の「おかしな」「理解しがたい」行為をする人間がいることを証明するために、単に行為の結果の非人間性に焦点をおいて、さまざまな打ち砕かれたホモ・サピエンスを例示したのにすぎない。彼らはすべて組織の中の人間である。そして彼らはまさに組織の中にいるが故に、そこから制約をうけてヒューマニズムの観念を見失ってしまった人たちなのである。
 だが、ここに問題がある。彼らが私によって打ち砕かれたホモ・サピエンスの範疇にいれられたのは、行為の結果がたまたま残虐であり非人間的であったが故にであって、もしそうでなかったなら、彼らは多くの人間がそうであるように、組織の中の正常なホモ・サピエンスと言えるのか、という問題である。そこには、組織の命令、そして上司の命令に従って行動したのに、その結果だけをみて、自分たちだけが打ち砕かれたホモ・サピエンスとみなされるのはたまったものではないとするエゴイスティックな思惑がありありとうかがえるのだ。
 この思惑が何故にエゴイスティックかというと、当初は「誇りをもって」行為を遂行したのに、非難されるや、その誇りをすててまで、自己保身を図ろうとしたからである。実際のところ、真に「命令があったからそれに従った」というただそれだけで、機械の如くに、実行に移したならば、その人は文字通りの「打ち砕かれたホモ・サピエンス」であり、真に私の語りたかった人間なのであるが、その点、彼らは私の期待に反する人間なのである。
 すると私に困った事態がおこるのである。はじめに例示した数々の打ち砕かれたホモ・サピエンスの諸相は、彼らが純粋に「命令に従って行動した」という点に「誇りをもって」いることを前提にして語られているからである。しかるに例示した彼らがその誇りをすててしまうとなると、彼らのすべては打ち砕かれざるホモ・サピエンスとなってしまって、私がうそをついていたことになってしまうのである。
 どうやらこれは私の話のすすめ方のまずさに起因しているようである。そしてそれは行為の結果の非人間性をみて、彼らを判断していることと大いに関係があるようである。すなわち、私の話のすすめ方からすると、行為の結果が大いに人間に恩恵を与えているのならば、逆にその遂行者は組織の中の正常な人間であるとうけとられるからである。そこで打ち砕かれたホモ・サピエンスと断罪された人たちは、行為の結果の非人間性から自分たちが悪者にされる筋あいはないというので、「命令に従って行動した」といわざるをえなくなったのであろう。そうなると、たしかに彼らは、自己保身を図るという意味で大いに人間的な存在なのかもしれない。少なくとも、彼らは自分が組織の中にいることの不合理さを感じる自然人の残滓をもってはいるのだろう。
 しかし、その彼らとて組織の中から外にでようともしないし、また外にでることもできない、文字通り、組織の中に閉じこめられているのである。彼らには、その組織の権威のもとに「命令に従って行動する」営みは、好むと好まざるとにかかわらず、避けられないのである。そして、その結果、S・ミルグラムの実験でもあきらかなように「人間性を捨てうる人間の可能性、人間が大きな制度的構造の中に自分のユニークな人格を没入させたときには必ずそうなる不可避性」という「自然がわれわれ人間を設計したときの致命的なミス」に、われわれは災いされなければならなくなるのである。
 そのことからわれわれは次のようには考えられないだろうか。組織の中にいて、その意志によって行動すること自体が、打ち砕かれたホモ・サピエンスの行為なのである、と。そう規定すると、行為の結果のよし悪しには関係なく、われわれは組織の中の人間が精神異常者や犯罪者や奇人とさほど変わらない人種であると断言できるようになるのである。すなわち、組織の中の人間は、たまたま精神異常者や犯罪者や奇人のようなふるまいをしていないかもしれないが、その予備軍なのであり、そして実際に精神異常者や犯罪者や奇人となったとしても、ごくあたり前の変身をしているとうけとってもいいのである。
 もともとこれまでのタイプの打ち砕かれたホモ・サピエンスは、スケープゴートのようなものであると考える立場が私にはあった。その関連でいうならば、彼らは、個人を越えた組織の被る損害を最小限にとどめるために、たまたまそれにかかわっていたという不運によって、スケープゴートにしたてあげられたにすぎないのである。実際のところ、組織によってスケープゴートにされた人間が、いわゆる正常で良識をわきまえた人間とみなされたためしはない。「あいつは気がおかしい」、「犯罪をおかすやつだ」、「変わり者だ」という形容詞をつけることによって、はじめてスケープゴートとされるのである。すべての精神異常者や犯罪者や奇人がそうであるとは限らないが、それでも、すべてといってよいほどに、精神異常者や犯罪者や奇人は、組織の中の人間の異種としてあるのである。日本流にいうならば、彼らは「人柱」になっているのである。
 さて、話を戻して考えるならば、組織の中の人間がすべて、潜在的な打ち砕かれたホモ・サピエンスであるとする考え方は、大した説得力をもたないのは事実である。ちょうど、無害になるまで薄められた毒入りの溶液のようなもので、この考え方では、「すべての組織の中の人間は打ち砕かれてはいないのだ」というのと同じではないかといわれる危険性をはらんでいるのである。例の「多数者正常の原則」や「スネに傷もつ者どうしのかばいあい」が、こういった開きなおりに手をかしているからである。
 実はこういった開きなおりこそが、正常な人間の逆像としてのスケープゴートや人柱を捏造する要因となっているのであるが、皮肉にも、私が組織の中のすべての人間が打ち砕かれた存在であるということによって、たとえば、ただ死刑を執行するという職務に忠実であったにすぎない公務員の、先程の私の主張によって生じたやるせない憤りぐらいは和らげられたのではなかろうかと思うのである。
 しかし、せっかく私は、それこそ「おかしげなる」仮説を立てたのであるから、そのわけを説明していかなければ、立つ瀬がないであろう。ただし私は「組織」そのものについての社会学的考察をする気はない。従って組織については、「ホモ・サピエンスが『効率的で円滑な人間関係の構築』のために合理的につくった社会機構である」程度の貧弱なイメージしかもっておらず、例によってアジテーションするように語っていきたいと思うのである。
 人間がまさに効率的で円滑な人間関係を構築していこうとする背景には、ホッブス流の人間規定、すなわち「人は人に対して狼である」なる考え方に対する合理的解決をめざす自立する人間の思惑が大いに働いている。その結果、ホッブス自身も言っているように、人間はお互いの主体性を制限し、牽制しあうことによって、人間的な欲望充足の生命線だけは図ろうともくろんだのである。人間の社会といわれるものは、自然発生的に生まれた社会であっても、そのような人間のもくろみが関与しているのであり、ましてや、組織すなわち、意図的に構築された社会にあっては、人間の思惑はラディカルなまでに徹底されている。
 ここで問題になってくるのは、いつのまにか主客転倒がおこってくることである。いいかえれば、人間あっての組織であったものが、組織あっての人間になってしまっているのである。自立する人間が、隷従する人間になっているのである。すでにこの例をわれわれは軍人にみている。すなわち、冒頭の軍人は軍隊に志願する限りは(徴兵されたのであればはじめから隷従しているのであり、論外とする)、己れの生命線を拡張しようとしたのであったが、いつのまにか、これまた組織に隷従する上官の命令に隷従していたのであった。そして、私の考えによれば、この組織あっての人間というふうに、自分を規定し、喜々としてその組織に隷従していくことが、どう考えたって「おかしい」のである。それは理屈ではなく、人間が自然的存在である限り覚えねばならない生の反応としての私の考え方である。
 にもかかわらず、組織あっての人間という自己の位置づけは、決して否定的意味をもっていないところに、現代の価値観の特異性がある。われわれはその証左を、組織およびその思惑からはなれた行為を意図的に排斥し、狂気の行い、犯罪行為、奇行と命名しがちな現代人の気質の中にみることができるだろう。そこでは、人間が組織に隷従することが人間の本性に適っているといわんばかりである。いいかえれば、人間は隷従する本性をもっているのであり、その本性に従って生きていくことこそ、現代人のあるべき姿であるといわれているかのようである。
 しかし人間は変なところで狡猾な弁証法をもっている。すなわち隷従する本性の存在を事実として認めながらも、かえってそれを逆手にとり、自己拡張の手段としてしまうことである。そのことは「隷従」という言葉が「模倣」とか「協調」とかいうスマートな言葉に変えられたり、時として「献身」とか「奉仕」とかいう美徳の響きをもつ言葉にとってかわられたりする事実によって証明されるだろう。そして、その結果が非人間的で悲惨なものであった場合は多少の反省をするが(より真実にはスケープゴートをこしらえあげることによって責任回避を図ろうとするが)、そうでなかった場合は、「隷従への道」(F・A・ハイエク)を歩むのをよしとする人たちは、自分たちの精神が打ち砕かれているなどとは夢にも思っていないのである。そのことはなにを意味しているのであろうか。私は次節において、さらに詳しく語っていこうと思う。


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 これまで述べてきた隷従者たちが己れの生き様に反省を加えようとはしないのは、まさに彼らの「生き甲斐」の問題と直結しているからである。その生き甲斐とは「自分たちがなにかを欲しており、そのためになにかをしている」という自覚によって喚起されている。少なくとも、その時点では彼らは自分たちが自立的で主体的な存在であると思いこんでおり、隷従は単なる手段としての行為の形態だと決めこんでいるのである。その証拠に彼らは、「隷従」にとってかわった言葉を決してデメリットをもつ言葉とは扱わないのである。たとえば「模倣」はA・トインビーのいうように、さしずめ、文化形成のための不可避の条件とみるだろうし、「協調」は己れのもつ貪欲さを他者にカモフラージュしてみせる潤滑油とみるだろう。「献身」とか「奉仕」とかとなると、大なる他者へと同化していくことによって大なる自己をみいだす喜びを与えてくれる試練とみるだろう。
 これらすりかえられていった言葉は、決して「強いられた」という感じを与えはしない。むしろ逆に、まさにこれらの行為の形態こそ、有限的な人間だけがもたねばならない飛躍のための起点であり、またそこから理性的で完全な人間存在へと自己を拡張する証しであるにちがいない、と思わせる力強さをもっているのである。
 それは、いわば聞く者をしてとろけさせるハーブの調べにも似た魔力をもっていると同時に、禁断の木の実を食べた人間の雄々しい開きなおりの心情をあらわしている。なぜならば、彼らが模倣し協調し献身し奉仕しようとする対象は、彼らによってはまさに「恵みをもたらす」組織ないしは、そのすばらしい文化遺産にみえるからである。それ故に彼らはそれらに従うというよりは、それらに対し自ら参加し、それらとともに自己を拡張していくのだという意識しか覚えないのである。この意識が「自分がよしと思うものの意にかなうことがなぜ悪いのか」という開きなおりの論理をつくっていることはいうまでもないであろう。
 われわれは、こういう開きなおりのできる者を、きわめて自己保存と自己拡張の能力のある少数のエリートたちにみることができる。彼らは現実には組織に「隷従」する以外のなにものもしていないのだけれども、それを模倣や協調や献身や奉仕と感ちがいし、それのみか、それらを通して、自分は「創造」や「変革」をし、社会を動かしているのだとさえ信じるほどの強き人間である。いいかえれば、この強き彼らは、自分たちのやっていることは決して無意味な行いなどではなく、立派な社会的意味をもち、それによってなんからの社会的貢献をしているのだと誇らしげに思ってさえいるのである。
 こういった現実的な諸対象に依拠し隷従しているにもかかわらず、なおかつ、創造や変革に貢献していると自負する「開きなおった隷従者」によく似た例をわれわれは以前考えた天才や英雄の中にみいだすことができる。すなわち、この隷従者たちの行為が社会的なメリットをもっているという点に焦点をあわせて考えてみるならば、彼らは前に紹介した「挑戦型で賞賛あるいは崇拝された奇人」いいかえれば天才や英雄の系譜に数えあげられそうである。事実、天才や英雄を奇人としてではなく、社会の要請によって生まれた社会的産物とみる考え方からすれば(これこそ現代の学問的な考え方であるが)、天才や英雄は現代ではエリートの中のエリートとして認識されうるだろう。
 してみれば、私は挑戦型で賞賛あるいは崇拝された奇人の中に、指導者的現実主義者としてのエリートを列挙してその「打ち砕かれぶり」を語っていくべきであったかもしれない。しかしながら、私の考え方からすれば、エリートたちは奇人として打ち砕かれているのではなく、隷従者として打ち砕かれているのである。両者の行為が与える社会的なメリットの同一性をいうのは、当事者の意向を無視した単なる結果論的な見解にすぎない。
 なぜならば、私の考えからすれば、真の天才や英雄は既存のものとの関わりを一切無視することによって社会的価値を転換させるのに対し、エリートは既存のものとの関わりの中で、これまた既存の社会的価値を当世向きに洗いなおしているにすぎないからである。それ故に前者は既存の者からのけものにされても、少しの痛痒も感じないが、後者は断じて既存のものからのけものにされてはいけないと思うのであり、それがために、常になにか「やってはいけないこと」にびくびくしなければならないのである。
 この点の指摘は重要である。なるほどこの「開きなおった隷従者」たるエリートたちは、己れのもつ強き属性の故に、実際には、なにかを創造したり変革したりして、世の指導者としての力をもっているかもしれない。まさに彼らは、C・W・ミルズのいうように「パワー・エリート」として「大会社を支配し、国家機関を駆使し、国家機関における特権を要求し、軍事力を指揮している。」また「権力と富と名声の効果的な諸手段が集中される社会構造の戦略的指揮中枢を占拠し、今やそれらを享受している。」
 その意味ではエリートたちは基盤を同じにするとりまきによって支えられており、「孤独な支配者ではない。」しかしながら彼らは、英雄や天才とは違って、孤独をおそれ、それがために、組織や秩序の命じる「やってはいけないこと」を忘れまいと必死の思いでいるのである。それのみか、彼らのいる地位そのものが、彼らにかなりの組織的貢献を余儀なくし、組織の要求する価値を生むべく彼らは、己れにムチ打って「創造」し、「変革」しつづけなければならないのである。ここにわれわれは彼らが形態上は支配者であるが、実際は隷従者以外のなにものでもないことを知るのである。
 もっとも、われわれはエリートたちが現代における理想的な人物とされている以上、彼らにも「良さ」がある点も認識しなければならない。たとえば、きわめて自己保身的なエリートたちの場合、ちょうど戦前の軍隊にみられる如く特攻隊員に死の突撃命令を下しながら、自分はぬくぬくと生きのびていられる特権がもてるからである。その意味では、エリートたちは後で話すその追随者たちよりはめぐまれているといえるだろう。
 だがそれも、私にいわせれば、たかだか「自分の思い通りのことがやれる地位にある」という小さな満足、しかも自己満足しか味わえないような気がする。それよりも、彼らがそのような地位をえるまでの間、それこそ狂ったような、自己喪失する人間的努力をやらねばならないいばらの道程をたどるという現実性を考えたとき、あるいは、その結果、やっと手にいれた地位に君臨したと思ったら、得体の知れない組織の命令に従うために、自分が無の存在にならなければならないと認識する悲劇性を考えたとき、私は思わず、エリートたちのホモ・サピエンスとしての悲哀に同情せざるをえなくなるのである。ましてや、彼らから「それがなぜ悪いのだ」とか「それでも社会的貢献をしているのだぞ」とか、さらに開きなおっていわれるに及んでは、一瞬、私の方が同情してもらいたくなる心境になるにちがいないだろう。
 とはいうものの、彼らにも自らの麻痺した精神をゆさぶられる時がないでもない。せっかく組織のために身を粉にして働いたのに、それが報いられないばかりか、逆に非難される破目におちいったときである。冒頭に紹介したように、彼らはその時になってはじめて「命令に従って行動した」ことをかみしめて考えるようになるのである。実にその時こそ、彼らは人間的な楽しみの味を涙とともに覚えるのである。たとえばかつての総理大臣であった田中角栄氏が収賄の罪で逮捕され、法廷の前にたたされたとき、自分が日本のためにやったことが理解されないと、はらはらと涙をおとして陳述したというのは、彼が怪物ではなく、人間であったと思い知らされる唯一の瞬間ではなかっただろうか。
 だがしかしである。その総理大臣とて、再び社会的貢献をせんものとの自負から、エリートとしての最高の地位を求めて、自己喪失する人間的努力を続けるのを垣間みるとき、われわれは彼の無反省なずぶとさに感嘆する以上に、彼のエピゴーネンたらんとする彼の同志や、彼の庇護のもとに、なんらかの自己保存を願う追随者の魑魅魍魎たる支持のうごめきを彷彿として感じるであろう。ここにわれわれは開きなおった隷従者すなわちエリートたちとは別の、単に自己保存を願うのがせいいっぱいの隷従者たちの姿をみることができるのである。


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 彼らこそ、打ち砕かれたホモ・サピエンスの大部分を占める通常「凡人」とよばれているところの隷従者たちである。彼らは「打ち砕かれた隷従者」としてわれわれに気づかれないままわれわれの隣にいて、なにくわぬ顔で己れの小さな欲望を満たしながら生きている。彼らは、はっきりいってエリートたちのように自己拡張の能力がないので、常にエリートたちの追随者として、まるで追随するのが喜びとばかりに、小さな自分の城を守ろうとしているのである。
 私はその具体例を幾人かの学者の見解によって紹介しようと思う。R・J・リフトンによって紹介された「プロテウス的人間」は、ギリシャ神話にでてくるプロテウスのように、社会の状況に照応して変幻自在に変身するのであるが、本当の自分をなかなかにあらわしえないために、自分がなにものかについては自分でもわからないタイプの人間を意味している。D・リースマンのいう「他人指向型の人間」は、いつも他人や人間関係を気にし、彼らを凌駕するよりも、彼らと調子を合わせて唯々諾々としていることを好む人間のことをいっている。またE・H・エリクソンの考えからヒントをえて、小比木啓吾は「モラトリアム人間」なる名を冠して、変動する社会にいつでもついていけるように、常に自分自身を限定することを避け、猶予の状態に保とうとする人間を紹介している。また精神医学の古典的な例をあげれば、K・シュナイダーのいう「意志欠如型の精神病質人」も、私のいう「打ち砕かれた隷従者」の仲間と考えられるだろう。
 こういったタイプの人間は、細部においては異なっているのだろうが、だいたいにおいて、組織や社会や環境、あるいはそこに君臨するエリートたちの「いうがままに」動かされ、かろうじて己れの保存を願おうとする点において共通している。彼らの願う自己保存といっても「ただ生きる」だけのものであり、確固としたアイデンティティをもって生きぬくことを意味してはいない。それのみか、「ただ生きる」場所を死守するために、アイデンティティをもった自己拡張ならぬ、E・H・エリクソンのいう「自己(同一性)拡散」を図ってまで、真の自分を被いかくし、もって、己れの保存を願おうとするのである。
 このあまりの追随、追従の姿勢、あまりの凡庸、凡愚の風采、あまりの愚鈍、愚直のふるまいをみるにつけ、われわれは時として、彼らが故意にそうしているのであり、本当の自分は自己防衛のために隠しているのではないかという気にさえなる。はたして彼らは本当に隷従に喜びを感じているのだろうか。それとも、ただ芝居をしているにすぎないのだろうか。
 前者であるのなら、彼らは現代に住むにはまことにあわれな機械のような存在であり、封建時代のようなところで、利用しつくされながらも、やっと人間らしさをみいだせるような人たちであろう。後者であるのなら、これはまた逆に、彼らはきわめて卑屈ながらも狡猾であり、見方によっては大なる野心家の本性をもっているともいえるだろう。だが、真実のところ、彼らがいずれのタイプであるのかは、われわれのみならず、彼らもわかっていないのである。そしてこの誰にもわかっていないということが、逆に彼らの存在理由ともなり、自己保存しようと願う彼らの存在の力ともなっているのである。
 それはなにを意味しているのであろうか。すでに承知の如く、ここは「隷従者の諸相」というタイトルのもとに語られている。そして組織の中にいる人間について語られ、彼らがそれの隷従者である域を超えられないとの考えから、二つのタイプの隷従者、すなわちエリートとしての隷従者とそのエリートに従う凡人としての隷従者とが紹介されてきた。その時点からいうと、前者のエリートは己れの強き資質を武器に隷従を隷従とも思わず、逆に組織の中の指導的活躍をよいことに自分たちの「社会的貢献」を認めさせようと開きなおっているのに対し、後者はただ単に隷従するのみであるとされてきた。すなわち、ただ単に模倣し、協調し、献身し、奉仕するといったことを自己目的化し、それらを手段として己れの拡張を意図する能力などもっていないとされてきた。もっとありていにいうならば、後者の隷従者は文字通りの隷従者として、エリートたちに「強いられた」形で模倣や協調、献身や奉仕を行ってきたといえる。そこにわれわれは、両者の行為の形態の同一性を認めながらも、資質の違いによってそれぞれの思惑の違いが生じているとの観点から、両者を区別する根拠をみいだしてきたのである。
 しかしながら、私の考えによれば、前にもいったように、エリートたちは、その社会的貢献によって賞賛され崇拝されるということから英雄や天才の範疇に近い存在であると考えるよりは、彼らの下にあって追随する凡人たちに近いと思った方がよいのである。そのことについては、私が彼ら両者をともに「隷従者」とみなしていることからも了承されよう。
 だが、もう一歩進めて、実はそうすることが私の希望であり要望でもある点を理解してもらいたいのである。そもそも英雄や天才といった打ち砕かれたホモ・サピエンスの実相は、忌避され非難されるところにあるとするのが私のほのかな願いであった。しかるに社会的貢献が云々されて、彼らは賞賛され崇拝される奇人として、やや、組織の中の人間たるわれわれに近しい位置になり、しかもわれわれの理想的人物をあらわす虚名となってしまった。(やむをえず、私もそれに同意する話のはこびをとってしまったのであるが。)エリートたちはそのなんでも利用する貪欲さから、自らを相互依存の関係にあった追随者たちとは別の人種にしたいがために虚名を看板にするといった「打ち砕かれぶり」を体したのであるが、実はそのエリートに従う追随者たちも同様にそのことを認める心性が働いていたのである。
 そして、そのことがエリートたちとその追随者たちとがより近しい関係にある(というよりは同一の存在である)ことを示す別の証拠となっていたのである。前に語った如く、われわれをしてエリートの追随者たちの隷従ぶりがお芝居であったと思わせるのもそのためである。
 なるほど、われわれはエリートたちとその追随者たちとを区別してきた。しかしその区別は、エリートたちが断じて追随者になりえないということを、あるいは追随者たちが決してエリートになりえないということを前提にしての区別ではない。区別の根拠たる自己拡張の能力、あるいは開きなおりの資質は、たしかに人間の有能さを決めるものとされるのであるが、エリートになるか、それとも単なる追随者になるかを決める最終のポイントは、その人がどれだけ目を覚ましているかどうか、もっとラディカルにいえば、どれだけ多くの欲望をもっているか、またどれだけ「覇気」があるかにあるのである。
 しかしここでわれわれは注意しなければならない。追随者は小さな欲望しかもたず、また自分を守るだけの覇気しかないので考慮に値しないが、エリートたちのもつ貪欲さと覇気については是非ともコメントしておかねばならない。それは、エリートたちがいかに貪欲であり覇気があったとしても、追随者たちよりは少しは多いだけだという点である。いいかえれば彼らの貪欲さと覇気は決して破壊的傾向や変質への方向へと進むだけの力をもってはいない点である。
 仮にエリートたちの中に、奇人とも思えるほどの並はずれた欲望と覇気の持主がいたとしても、彼はあてにする追随者の無能力のために一人からまわりせねばならなくなったり、同程度の仲間から「われわれをないがしろにするのか」と陰に陽に牽制されたりして、結局は、彼は己れの属する組織の許容する欲望と覇気の程度で屈服せねばならなくなるのである。それでも彼が破壊的傾向や変質への方向をもつとなると、組織の自浄作用によって、自然にか、ないしはスケープゴートとして外に排出されてしまうのである。そして、ちょうど、傷口がいつのまにかふさがり元のような皮膚になった人間の体のように、彼を排出した組織は、彼がはじめからいなかった如くに、従来の機能をもちつづけるであろう。このことは、所詮、彼もまた隷従者であることを物語る証左以外のなにものでもないのである。
 もとより、エリートたちとその追随者たちとは同じ土壌の上に立っているのであるから、エリートたちの悲哀は、規模を小さくした形で凡人たる追随者たちにも体験されるのはいうまでもない。しかし、それは追随者たちがエリートたちと同様の「欲を出した」場合だけであり、そうでない限り、もともと追随者たちとは破壊的傾向や変質への方向(いいかえれば創造能力や変革能力)をもっていないと認定された機械人形のようなものであるから、己れの小さな領分を守っている段において、彼らはいつでも組織の力によって安堵されているのである。ここに追随者たちに、いわば一種の隷従する特典が与えられるゆえんのものがあるといえよう。
 彼らの行為は常に不特定多数の行為としてある。それ故に彼らは、ちょうど自然の色にあわせて変色して己れを霧消させる動物のように組織の動向にあわせて、自らを調節して、自己保存できるのである。もし組織が、中世のヨーロッパにあったような、集団の狂気をもって魔女狩りのようなものをやったとしても、戦前の日本のように八紘一宇の夢にうかれて他国を侵略しても、またナチスドイツのようにユダヤ人狩りをやったとしても、咎められるのは、少し「欲を出し」、「やる気をみせた」エリートたちだけであるから、彼らは安全である。その際には、「自分もその気があった」とか「命令に従って行動した」とかいうように、変に自己の存在を主張しようとしない方が得策かもしれない。とばっちりをうけて、エリートたちのように断罪されるからである。
 エリートたちもまた然りである。なまじもっている「欲望」と「覇気」によって、社会的貢献をするのだと、変な片意地をはらずに、コンピューターにぴったりと身を添えて、その指示通りに動いておればよいのである。コンピューターとて、エリートたちが自ら勲章をつくり自らに与えて悦に入る気ばらしまでは干渉しないと思うのである。
 そうなってこそ、はじめて、彼ら隷従者たちが「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の第四のタイプの人間として、それまでのタイプと同様になんの異議もなく了承されてくると、私は思うのである。

 参考文献

W・H・ホワイト『組織のなかの人間』(岡部、藤永訳、東京創元社)
S・ミルグラム『服従の心理(邦題)』(岸田秀訳、河出書房新社)
F・A・ハイエク『隷従への道』(一谷藤一郎訳、東京創元社)       
C・W・ミルズ『パワー・エリート』(鵜飼、綿貫訳、東大出版会)
R・リフトン『誰が生き残るか─プロテウス的人間(邦題)』(外林大作訳、誠信書房)
D・リースマン『孤独の群衆』(加藤秀訳、みすす書房)
E・H・エリクソン『自我同一性(邦題)』(小比木啓吾訳、誠信書房)
小比木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中央公論社)

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