第一部 打ち砕かれたホモ・サピエンスの諸相
奇人の諸相
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人は生涯に二、三回程度転居しても、誰からも不思議に思われない。しかし十数回になると、おかしくはないが、少し多いなと思われる。これが百回近くか、それを超えるかすると、まちがいもなく「引っ越し魔」というありがたくないあだ名をつけられる。こういった人に対する世間の評価も一定していて、たいていの場合、奇人、変人といわれるものだ。さしづめ、生涯に九十三回引っ越したといわれる葛飾北斎はその奇人、変人の象徴的人物だろう。
ところでこの奇人、変人といわれる人たち、どういうものか後世に名を残す場合が多いのである。とはいっても、その場合、彼らが己れの奇行そのものによって有名になったというのは、ごくまれである。やはり彼らが常人とは違った、あるいは常人よりすぐれた才能の持主であり、その才能が社会的価値を生んだということによって、名を残しているといった方が真実なのである。単なる「引っ越し魔」であるのなら、その奇行ぶりがブームとして一時的に喧伝されるかもしれないが、当の本人はいつしか不特定の誰かになって忘れられてしまうだろう。
それ故に、奇人や変人であるから後世に名が残るというのは誤りで、正しくは、後世に名を残すほどの才能の持主は、奇人、変人であるといわれている場合の方が多い、であろう。
さて、奇行の持ち主であるということと、その人に特殊な秀でた才能があるということとの因果関係の詮索はおくとしても、われわれの経験的判断においては、奇人、変人というのは、えてして世間の常識から外れた突飛な行為をしでかす人間と見られるものである。たとえば先にあげた葛飾北斎の九十三回の「引っ越し」は、彼の趣味の域をはるかに超え、悪癖に近いものであり、もし彼に画才がなかったならば、完全に気が狂っているとしか思われなかったであろう。
一般に、奇行には二つのタイプがあるようである。一つは社会における評価とか思惑とかを無視して、あたかも自分一人の楽しみのために行うかのようにしてなされるタイプである。上述の北斎の例はこのタイプに入る。ここではその奇行の持ち主は一種のやむにやまれぬ内からの衝動によって、社会的に無意味なこと、あるいはもっとすすんで社会的に了解不可能なことを主体的に実践しているつもりなのである。従って当の本人はその行為によって、己れの存在を卑下するということは全くなく、むしろ、これらの行為に誇りを持つ場合さえあるのである。
私はこのタイプの奇行を「逃避型の奇行」といってよいのではないかと思う。もちろん、この場合、注意せねばならないのは、奇行そのものの型が逃避的であるということであり、それによって奇行の持ち主の社会的存在の価値が損なわれるわけでないという点である。
たとえばこの種の型の奇行の一つである、程度を超えた物臭で有名だった菊池寛の例をあげれば、彼が時間の無駄だといって顔も洗わず歯も磨かなかったという奇行は、『父帰る』をはじめとした数々の名作を生んだということで十分に償われているのである。あるいは「わざと変わった風采をし……ネクタイもせず、開襟で頭をそって豪華なレストランに行き、体を緑色に塗り、トカゲをかい、何の理由もなく店のショウウインドーに物を投げつけた」(宮城音弥の文より引用)といわれるボードレールは、常識人からすれば、まさに奇行の持ち主であるといわれるのであるが、それが『悪の華』という名作によって、見事に相殺されているのである。
たしかに彼らの奇行は社会的視点からすれば、非生産的であり、一人合点もはなはだしいといわれねばならない。しかし、それらによる悪評にも動じぬ固いカラをもっていって、それが彼らの人となりを形成しているのである。ましてや彼らが、他の点において、優れた才能の持ち主であった場合など、たいていの伝記作家は、こういった人たちの奇行を、むしろ意味ありげな「エピソード」としてとりあつかい、それによって彼らの人となりを説明する調味料にさえしてしまうほどである。
もう一つの型の奇行は、私が「挑戦型の奇行」とよんでいるところのものである。この型の奇行は、いかなる場合でも人よりも秀で、極端には一番にならなければ気のすまないという覇気ある人によってなされる。その意味では、この型の奇行の持ち主は先ほどの現実を無視したり超越したりするタイプの人とは異なり、自分あるいは周囲の現状には満足しないにもかかわらず、現状の仕組そのものには同意するようだ。ただその挑戦の内容がきわめてナンセンスに満ちているところが奇行とよばれるゆえんである。
この例を示す素材を見つけるのは簡単である。すでに「権威ある」書物になったとされる『ギネス・ブック』あたりをひもとけば、その例がいくらでもでてくる。そこに記載されてあるもので、奇行と考えられるいくつかを紹介すれば、木の上にずっと登って生活しようと百八十二日の記録をうちたてた人や、地面を休まずに二十kmも這いつづけた人や、どれだけシャワーを浴びつづけられるかに挑戦し、三百三十六時間の記録をうちたてた人等の例が記載されている。
これらの数値はいずれ同タイプの奇行の持ち主によって更新されていくであろうから、数値それ自体を示しても無意味である。ただわれわれはそれらに挑戦しようとする数多くの人がいるという事実を忘れてはならないだろう。もとよりわれわれはこれらの奇行が真面目になされているのか、洒落のつもりなのかをもとより詮索する権限を与えられているわけではない。しかしこの種の型の奇行が「世間の人の目」を意識してなされている点は知るべきである。それ故にこそ、たとえばテレビ会社などが己れの会社の視聴率を上げんとして、ナンセンスな行為を素材にして、奇行の持ち主をして競わせるという、これまた奇行ともいえる番組を生活をかけて企画するのである。
もっとも、この「挑戦型の奇行」と「奇行とは言えない行為」との間には、はっきりとした境界線が引かれえないと言えば言えよう。なぜならば、なんでも一番にならなければ気がすまないという人間の傾向は、本来的に奇人のそれであるというよりは、人間に常態的なものであるといえるからである。成程、行為の内容が変わっているからという理由で、この第二の型の奇行を示す「樹上の生活」、「這い這いの世界記録」、「シャワー浴び最長時間」の例が『ギネスブック』からとりだされはする。だが、はたして、それらの行為が意味しているナンセンスさと、同じ『ギネス・ブック』に載っているエベレスト登頂を試みた人や、太平洋横断を単独、ヨットで試みた人の行為が意味している雄々しさとの間には、一体どれだけの違いがあるというのだろうか。
これは一方が人の非難を買い、他方が人の賞賛をうるものであると、簡単に決めつけられない問題であると思う。とはいえ、奇行が人の非難を買うものであれ、賞賛をうるものであれ、われわれの常識的感覚からすれば、とても考えられないか、考えられたとしても実践しようとする気をおこさせない類の行為であることだけは確かである。
その意味では第一の「逃避型の奇行」は第二の「挑戦型の奇行」以上に徹底して常識的感覚から逸脱しているといえる。これは「世間の人の目」を思んばかってなされる種類のものではなく、純粋に個人の内なるものの衝動と信念からでているのであるから、たとえ「一人よがり」と非難されても、ちっとも意に介しないのである。当然、社会的メリットがあるわけがない。あるいはもとから社会的メリットを期待するという気持がないのであるから、結果としてみれば、真の逸脱的行為、つまり本当の奇行といえるかもしれないのである。
もっとも、所詮、人間とは社会的存在であるといわれるので、この逃避型の奇行も外見的にはそのようにみえても、実際はそうとはいえないかもしれない。なぜならば、逃避型の奇行といえども、『ギネス・ブック』に載せられるかもしれないし、そうなるとその奇行もまた量的に判断せられ、それがために『ギネス・ブック』に載せられたいがために、己れの信念を裏切り、転向する者がでてこないとも限らないからである。
近代人の心というものは、逃避型の奇行をも金儲けの手段にするくらいの才覚をもち合わせているのである。当然、挑戦型の奇行の場合は、たとえそれが個人の内なるものからでていたとしても、衝動や信念というよりも、むしろ打算が行為のバネになっていると思われるだけに、その持ち主によって、より一層に生活の手段にされてもなんの不思議でもなくなるのである。
いずれにしても、これら二つの型の奇行は、詮索好きの近代人である私によって、これから、さらに一方的に分析されるのだ。ここでのタイトルは「奇人の諸相」であるが、私はこのタイトルでは十分に説明しきれない内容のものを展開するつもりである。それ故に、「逸脱者の諸相」とも、「破壊者の諸相」とも、「非常人の諸相」とも命名しても通用しうるあいまいさで論陣がはられていると思ってもらいたい。
もちろんこのエッセイ集のはじめから読まれた方は、そうは言ってもここでの意図が「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の行状の第三番目の型をあきらかにしようとしていることぐらいは判断できるであろう。その意味から、これまで述べられてきた奇行の持ち主、すなわち奇人もまた、現代においては、打ち砕かれたホモ・サピエンスの一端を伝えていることになるのである。
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さて、私は奇行には二つの型があることを述べた。すると、奇人には逃避型と挑戦型の二つのタイプがあるということになる。
それでは、奇人とはなにから逃避しようとするのか、あるいはなにに対して挑戦しようとするのか。これまでのコンテキストからすると、たとえばそれは常識的感覚、世間のコンセンサスというものであろう。そうなると奇行にしても、奇人にしても、本来的にそうであるというよりも、社会のなんらかの思惑によって奇行とみなされる、あるいは奇人とみなされるということになるのである。
このことについて、H・S・ベッカーは逸脱の説明をするのに「ラベリング理論」を打ちだしているが、私もまたこれに同意するものである。彼は次のように言っているのだ。
「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ、他者によってこの規則と制裁とが『違反者』に適用された結果なのである。逸脱者とは首尾よくこのレッテルを貼られた人間のことであり、また、逸脱行動とは人々によってこのレッテルを貼られた行動のことである。」
ここからすると、この逸脱という言葉は「犯罪学」のカテゴリーに入る言葉であるが、このエッセイでは私は、これを広い意味で、すなわち<逸脱=社会の規則違反>の図式を<奇行=反(あるいは非、あるいは脱、また場合によっては超)コンセンサス>の図式にまで拡大させて使おうと思う。
いずれにしても、奇行あるいは逸脱は世間の人がそのように見るために、奇行あるいは逸脱となるのである。その前提に立って話をすすめた場合、それは前節に紹介したように、どちらかといえば個人的次元にとどまっているものであり、社会にとっては差障りのない、あるいは社会に対して大した影響を与えない種類のものであるとみなしてもよいだろう。従って、それらは、われわれが奇行という言葉について語る場合にまず思い浮かべるような実例でしかないのであり、こういった実例をいくら紹介したところで、ここでのテーマに少しも答えるものではないだろう。われわれが語るべき奇行とは、もつと社会的に意味のあるそれでなければならないのである。
それではいかなる奇行が語るべき奇行なのか。私はここでもまた二つのタイプの奇行があると考えている。ここで基準となっているのは、その奇行に対して世間がどれだけ非難的であるか、また賞賛的であるかである。あるいはどれだけ忌避されているか、また崇拝されているかである。この考え方は世間の人の評価においては非難と賞賛あるいは忌避と崇拝は連続的なものであり、対立の概念ではないという考え方に支えられている。そして語られるべきなのはその両極端に位置すると考えられる奇行である。そうなると今まで私が語ってきた奇行とは、たしかに世間の人の評価をうけているのにはちがいはないのであるが、言ってみれば、その両極端からはほど遠い、すなわち中間に位置するありふれたものであるといってもよいであろう。
そうなると奇行には、先ほどの逃避型と挑戦型という二つの型を関連させて考えるならば、全部で四つの種類があるということになろう。すなわち、一つは逃避型で非難あるいは忌避された奇行、二つは挑戦型で非難あるいは忌避された奇行、三つは逃避型で賞賛あるいは崇拝された奇行、四つは挑戦型で賞賛あるいは崇拝された奇行である。従ってそれぞれの奇行をもった奇人というか逸脱者というのもまた、四種類生まれてくるといってよいであろう。
そして、このうちの最初の二つについては、すでに私は不十分ながらも紹介しおえている。すなわち「狂気」と「犯罪」という二つの奇行がそれらである。それ故にこれらの問題については、おさらいの意味で簡単に素描するにとどめよう。
いうまでもなく、読者は逃避型で非難あるいは忌避された奇行の行きつくところが「狂気」であることは推察されるであろう。この種類の奇行と狂気による行為との間の違いは、質的にはほとんどといってなく、そうだと判定するところの世間の人の立場の違いによって、名辞的に存在するにすぎないとも極論できよう。
もっとありていにいえば、資格をもった医者が認めたならば、その行為は狂気の行動ということになるのである。それ故に、厳密にいえば、この第一の奇行は必ずしも非難を生じさせるものではなく、どちらかといえば忌避される感じが強い。なぜならば、この奇行の持ち主には、われわれの通常的思考(理性的あるいは人間的思考ともいわれる)の理解を越えているが故に、評価を超越させる「内なる他人」の存在が認められているからである。それが忌避されるのはその「内なる他人」がわれわれの日常的正常的行為の証しであるところの「現実との生ける接触」を不可能にしているからなのである。
もとよりこの主張は、われわれ正常人に非難の感情が全然ないと認めているのではない。非難の感情は忌避の感情によって押さえられたのにすぎない。従って、われわれはこの種の奇行の持ち主に対しては直接的に非難するという行為をとらないかわりに、人間的思考のできない存在者として差別する感情を新たに生じさせ、場合によっては確実に差別する行為にでるのである。
ただこの第一のタイプの奇行の持主の強みは、次にのべる第二のそれとは違って、いわゆる世間の事柄については全然意に介さぬところにある。彼らはわれわれとは同等の権利をもってわれわれに対して開き直ってくることもできるのであり、われわれはそれを認めざるをえないが故に、彼らの開きなおりに対して秘かに恐れ、なんとか防衛せんものと身構えるようになるのである。
ところで第二のタイプの挑戦型で非難あるいは忌避された奇行の行きつくところ、すなわち「犯罪」の場合はどうであろうか。すでにあきらかにした如く、この奇行の意味はそれをなす人によって十分知られているのである。従ってこの奇行の持主は自らの行為によって、あまねく知られる常識的感覚あるいは世間のコンセンサスにあえて逆らっていることや、またそれによって制裁をうけねばならないことも、十分わきまえているのである。 それにもかかわらず、あえて自分の安住の地を捨ててまで、かかる奇行を犯したということは、見方によれば、彼らは弱者であるどころか、きわめて強い人間、いいかえれば社会に対してなにもできない人間なのではなく、「なにか」をなすことのできる挑戦者であるともいえよう。
しかしながらこのタイプの奇行は社会とのなんらかの関わりの中で、あるいは社会的なものに依拠して生まれてくるものであるから、社会の要請なり仕組を全然無視するというわけにはいかない。つまり彼らはそれになんらかの形で引きずられるところが、彼らの弱みとなっている。そのため彼らの奇行がおおむね社会の秩序の「破壊」につながっているため、彼らが非難された場合に、その非難を甘受せねばならなくなってくるのである。
読者の中には、先にあげた「樹上の生活」や「這い這い」や「シャワー浴び」といった奇行、あるいはそれらがもっとスマートになった「スポーツ」と命名される競技と、非難以外のなにものももたらさない「犯罪」とを十把一からげにして、同じ挑戦型の奇行の中にほうり込んでしまう私の考え方についていけない人があるかもしれない。というのは前者は社会の仕組(具体的にはルールといったもの)に全く従順であろうとするのに対し、後者はむしろその逆であるとの反論が考えられるからである。
しかしここで私が語ろうとするのは、社会の仕組(ルール)を破るかどうかの問題ではなく、挑戦型の奇行というのは、社会的なものの中で考えられれるということである。その意味ではあきらかに、超社会的なもの、あるいは脱社会的なものとの対比で考えられているのである。すなわち、「樹上の生活」の長さを競うといった愚行にも一定のルールがあり、そのルールを破れば愚行そのものも無意味になることをその行為者は十分知っているということと、犯罪をおかせば、それは社会の仕組の破壊に連なるのであるから制裁をうけて当然だと犯罪者が覚悟することとは、同じ心的構造によって説明せられるという考え方である。これは両者がともに社会的なものの属性をもっている証左なのである。
注意せねばならないのは、この第二のタイプの奇行は必ずしも非難をうけるものではないという点である。というのは、犯罪は端的にいえば法違反であるから、その時点ではまさに社会に秩序の破壊と断罪されるかもしれないが、もし、未来のなにかの創造のための破壊となれば、まず、その行為者自身は非難を甘受するという気持ちはさらさらないであろうし、世間の人も非難から賞賛に変わる評価をするようになるかもしれないからである。してみると賞賛される犯罪もありうるという奇妙な話になってくるのである。
このことはなにを意味しているのであろうか。一つは犯罪が挑戦型で非難あるいは忌避された奇行であると単純に決めつけられない複雑なものであるということであり、二つは挑戦型の奇行にはたしかに世間の人の評価が関係していることは誤りがないとしても、非難あるいは忌避の評価と賞賛あるいは崇拝の間には質的な相違などないということである。前者についてはわれわれにはすでに『犯罪者の諸相』においてあきらかにされているので、これ以上の補足説明は省こう。後者については、別の見地から、評価をする人の心とはうつり気であるという風にとらえればよいであろう。
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次にわれわれは残された二つのタイプの奇行について、より厳密な規定を行っていかなければならないだろう。実のところ、このエッセイで一番重要な部分がこれから語ろうとする第三、第四のタイプの奇行なのである。いうまでもなく、第三のタイプの奇行とは逃避型で賞賛あるいは崇拝された奇行を意味し、その持主として代表されるのが、聖人、ユートピアンである。そして第四のタイプの奇行とは挑戦型で賞賛あるいは崇拝された奇行を意味し、その持主として代表されるのが、天才、英雄といった偉人である。
ここで気づくのは、「賞賛あるいは崇拝された奇行」という言葉づかいのおかしさであろう。われわれの通常の感覚では「奇行」という言葉のもつニュアンスはあきらかに、「賞賛」や「崇拝」という言葉のもつそれとは異なっている。にもかかわらず、いわば形容矛盾ともうけとれる言葉づかいをあえて私はしているのである。読者諸兄はこれを私独特の衒気であると笑ってすませば、私もほっとするところであるが、しかし、そのような言葉づかいが、この『打ち砕かれたホモ・サピエンス』なるエッセイ集のターニングポイントを示唆している点にまで気づいてくれれば、私自身最も喜びとするところである。
それは以下の理由によるのである。これまでの私は打ち砕かれたホモ・サピエンスの諸相として、精神異常者をとりあつかい、次いで犯罪者をとりあつかい、そして奇人をとりあつかってきた。それは、われわれの常識的感覚からして、彼らはやはりどこかに異常があるのであり、従って、打ち砕かれたホモ・サピエンスの実例として説明するのになんの違和感も感じさせないようにもくろんできたことである。だから精神障害者と言わねばならないところをあえて精神異常者と言ってきたのである。しかるに、今ここで私は一般に賞賛され崇拝された人間をも奇人としてとりあつかいたいということである。ここにはあきらかに衒気以上のもの、いいかえれば発想の転換のせいといってもよいなにものかが、私の中で頭をもたげてきているのである。
だが釈明はそこまでにして、さっそく第三のタイプの奇行の説明に入ろうと思う。このタイプの奇行の持主の特徴は、要するに、己れの理想に生きぬいている点であろう。いわば理想主義者といってよい彼らは、現実との妥協は汚辱を生む以外のなにものでもないと考えるが故に、常に現実から隔絶した観念の世界に、あるべき生活の場をみようとしているのである。当然、彼らの行為は普通の世間の目からは奇行としかみえないのであるが、しかし、普通の人も己れの中にある理想的傾向を否定できないために、ひたすら理想に生きようとする彼らに対して、賞賛でもってみざるをえないのである。
私はこのタイプの例として聖人をあげたが、厳密にいえば、その中の隠者的生活をした人、つまり、社会に対して関わりもせず、そうかといって愚かしいとも思えない無欲の持主をこのタイプの典型と考えている。たとえばアレキサンダー大王が願いをなんでも聞きとどけてくれるというので太陽の日があたるように大王がよけるだけを願った哲学者ディオゲネスは、現実には樽の中でしか生活をしなかったといわれる。あるいは『ギネス・ブック』に収められている最も古い記録といわれる、四十五年間石柱の上で苦行しつづけた六世紀の柱上苦行僧セント・シメオンは、己れの位置する空間の広がりだけで生活をしている。またこういった例で、われわれ日本人なら、すぐに思い出すのは、人里離れた山奥で庵の生活を楽しんだ、いわゆる世捨人だろう。たしかに彼らは無欲といえば無欲であるが、しかし彼らの内面における、修行、苦行、克己といった実践がたしかな信念にうらうちされている点で世間の人の賞賛をうるようになっていたのである。
第三のタイプのもう一つの典型は常にユートピアを夢想する人間にみられる。彼らは前者の隠者的聖人とは違って、実践的生活においては観念を構築するだけである。つまり彼らはユートピアという「現実に存在しない場所あるいは状態」にあるべき姿をみいだし、その観点から自分の生をまっとうしようとするのである。この思いは当然現実の存在形態とは相容れないが、しかし、現実に対する直接的な干渉にはならないので、いかに彼らが真剣に自らのユートピアを語ろうとも、それは一般の人からは現実からの逃避としかうけとられないのである。つまり非現実的なものを夢想するというこの奇行は、理想的傾向をもつということで、かろうじて賞賛されているにすぎないのである。
従って違った観点の人からいわせれば、この第三のタイプの奇行すなわち逃避的で賞賛あるいは崇拝された奇行は、必ずしも好意的に見られないかもしれない。というのは、例にあげたような樽の中で住んだり、石の上で住んだりすることや、あるいはとてつもなく現実離れの考えをもつことが、いかにその持主が理想的生活だと思ってみたところで、普通の感覚では、生産的であるとは思われないからである。とりわけ唯物的な考え方をする人には、その思いが強いだろう。彼らにすれば、そもそも逃避的様相をもつことが社会にとっては非生産的なのであり、むしろ非難の対象とされねばならないのである。
してみると、この第三のタイプの奇行は賞賛あるいは崇拝された奇行というよりは、かえって、非難を買う奇行、その意味では常識的な意味あいでも文字通りの「奇行」といえそうである。なぜならば、現代では多くの人が唯物的な考え方のもとで生活を送っているからである。もしこのような考え方をする読者がおられるなら、案外、賢明にも、この第三のタイプの賞賛あるいは崇拝された奇行は反語的に語られているのだと独り合点してしまうのではないだろうか。私としては不本意であるが、客観的にみれば、そう思われても仕方がないのかもしれない。
実にこの第三のタイプの奇行ほど、立場の違いによって賞賛と非難の両極端に評価が割れるものは他にないのである。そしてこの奇行を賞賛するか非難するかで、われわれが近代的価値観を支持しているか、そうでないかをおし測る試金石になっているといっても過言ではないと私は思っている。私はこの奇行を賞賛されたそれとみてとった。これは現代的価値観のもとでこの奇行をみていないという証左である。つまりこの奇行を人間の悪しき行為とみていないということは、私が観念論的な人間であり、それこそ唯物論者からどなられそうな考え方、すなわち観念が存在をつくるという考え方を認めているということと同じ事柄なのである。とはいえ、そこまで開きなおる必要性は今はないとしても、私がこの第三のタイプの奇行を好意的に、いいかえれば、いいところだけに注目して語ろうとしている点をご承知願いたいのである。
それではこの第三のタイプの奇行の持主のもっている社会的意味とはなんであるのだろうか。私はJ・O・ハーツラーの『ユートピア思想の歴史』の中で書かれたユートピアンたちについての彼の考え方を参照しながら、私なりにあきらかにしていこうと思う。彼によれば、ユートピアンたちはいくつかの共通した特徴をもっている。
一つめは、彼らはたしかにそれぞれのユートピアを夢想するのであるが、しかしそれは彼らの気まぐれのせいではなく、常に結晶化し堕落した制度や社会的慣習に反逆する聖なる不満に満ちているということである。その行為は思考する人間に感化を与え、なにかをつくりだそうとする者にははげましとなり、また勇気を与えたり示唆したりすることになるというのである。
そのために、二つのめの特徴として、彼らは当然彼らの時代の批判家としての役割をはたしているのである。
三つめは、彼らはそれなりの資質を備えているということである。すなわち彼らは常になにかをしうる知的想像力と構成的想像力とを他の人以上にかね揃えているということである。
四つめは、彼らは己れの夢想に対して、それが実現され、現状が限りなく刷新されるであろうとする信仰をもっているということである。
総じて、彼らは一歩も二歩も先をみぬき、受けつがれたものの中にある見知らぬ新しい手段をみいだす天賦の才をもっているということである。それ故に、まさに彼らは「彼らの世代の人間であり、しかもそれを乗り越えている人々、特別な機能のために特殊化された人類の中のまれなる種、進化した産物であり、しかも社会進化の中の独創的な動的な力、社会の中の人間であり、しかもその外にある人間、『時代精神』を感じながら、しかも『世界苦』に支配されている人間」であったのである。
さて、われわれはハーツラーがユートピアンたちについて定義するように、かくものめり込む必要はないにしても、少なくとも、ユートピアンや第三のタイプの奇人を賞賛の対象としてみるならば、ハーツラーのような見方もあるという点は頭に入れておいてもよいだろう。くりかえすが、このタイプの奇行やその持主に対する評価は立場の違いによってがらりと変わるのであり、さしずめ頑固な現実主義者ならば、上に説明したユートピアンたちの特徴をあげて、「だから彼らはユートピアンといわれるんだ」と逆に馬鹿にするのにきまっているのである。なぜならば現実主義者は、観念のはたす役割や理想の効用性についてはちっとも理解を示そうとはしないからである。
とはいえわれわれは現実主義者の彼らに対する対応は必ずしも単純ではない点に気づくべきであろう。というのは、社会的性格をもたない聖人に対する場合は、彼らの奇行に対して、口では立派なふるまいだと褒めそやし、腹の中ではあざ笑うこともできようが、社会的ユートピアンあたりに対するようになると単にあざ笑うだけではなく、秘かに恐れたりもし、しかるべく防衛策を講じたりしようとすることさえ、現実主義者、とりわけ権力者はしかねないからである。
いずれにしても、この第三のタイプの奇行は、いわゆる世間でいう「奇行」として扱うこともできるが、他方、賞賛あるいは崇拝されうる行為とも扱うことができる複雑な概念であることにまちがいはないだろう。同時にこのタイプの奇行は社会的性格を強く帯びてくればくるほど、第四のタイプの奇行、すなわち挑戦型で賞賛あるいは崇拝された奇行へと連続的に移行していく可能性をももっているのである。さすれば人はこの第三のタイプの奇行をいわゆる社会的に無意味な「奇行」として呼ばれなくなるであろう。なぜならばこの第四のタイプの奇行は、次に示す如くあきらかに社会的価値を生んでいるからである。
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とはいえ、この第四のタイプの奇行は必ずしも世間の人の目からみて常に賞賛され崇拝されているわけのものではないことも周知の事実である。というのも、この第四のタイプにみられる挑戦的傾向によって、また、世間の人の評価いかんによって、この奇行は文字通りの評判悪い行為として、たとえば、愚行であるとか蛮行であるとかいわれるからである。このような世間の人の気まぐれな評価によって翻弄される奇行の持主を指して、われわれは一方では「天才」とよび、他方では「英雄」とよんだりしているのである。以下、私はこの考え方をもとにして、さらに詳しい語りをはじめようと思う。
さて、そうなると第四のタイプの奇人すなわち天才や英雄をどのように定義すればよいのだろうか。天才については、私はW・ランゲ・アイヒバウムの考え方を採ろうと思う。彼によれば、天才とはある人間集団とりわけ崇拝者集団によって、その業績を通して、最高の待遇を与えられた人の謂である。英雄については、O・E・クラップの説を採れば、たいていの評価者が「ヒロイックな、あるいは称賛すべき」だとみなすタイプに人間の謂である。
このように世間の人の評価の観点からみれば天才も英雄も同じであるし、われわれも、ときには、同じようにとりあつかっている。わずかの違いといえば、天才の場合には、その行為が創造的であり、英雄の場合には、その行為が開拓的ないしは変革的であるくらいのものだろう。それ故に第四のタイプの奇行には、天才によってなされる創造的奇行と英雄によってなされる開拓的奇行との二つがその代表としてあるということになろう。もちろん、その際には、あえて奇行といいうるのは、創造的であれ、開拓的であれ、凡人のなしあたわざる行為であるとの前提があるのはいうまでもないことである。
ところで、われわれは天才や英雄によってなされるこの第四のタイプの奇行を問題にする場合、他のタイプの奇行とは違って、その奇行の諸相をみるというのは、それほど重要ではないと考えてよいのではないだろうか。なるほど、われわれは放射線を発見した最初の人といわれるレントゲンについて、彼がその発見を通して格別の医学的貢献をしたという事実を考えれば、彼を天才とよぶにやぶさかではない。あるいはアメリカ大陸を発見したコロンブスは、たとえ彼がそれをインドと見誤っていたとしても、その後のアメリカ大陸の重要性を考えれば、彼を天才とよんでも誰も異論を唱えない。また単なる一兵卒であったナポレオンが皇帝にまでなったのをみて、彼を英雄であると思わない者はいない。あるいは第二次世界大戦時において世界を震撼させたヒットラーは、少なくとも当時のドイツ国民にとれば英雄であったと言えるであろう。
しかしながら、このタイプの奇行の問題が世間の人の評価の問題と大いに関係がある以上、どうしてもその逆の評価をうけた第一、第二のタイプの奇行との比較において考えることが重要になってくるのである。ここで私がいいたいのは、奇行の内容それ自体をみると第四のタイプの奇行は、第一、第二のそれと、(あるいは第三のそれとも)大した違いはなく、いずれも常人の思いもよらない思考形態に基づいて生まれているということである。これらの奇行が偉業となるか、そうならないかの違いは、それらが社会的メリットをもったかどうかの違いでしかないのである。
実際、第四の奇行といわれるものが社会的メリットをもたない間の時に世間の人の過酷な仕打ちにその持ち主が呷吟している事実をわれわれはいくらでも知っているのである。後に天才的発明だ発見だといわれる行為が、俗に言うきちがいじみた行為、愚行として、どれだけ冷視され、馬鹿にされていることか。そしてその主人公である天才がその時には、極端な場合には、文字通りの「狂人」扱いをされているのは誤りのない事実なのである。それ故に、資質の面から、天才と狂人は紙一重であるとする学問的かつ差別的な考えも生まれるのである。この点については、学問的には精神科医C・ロンブローゾがパトグラフィとしてそれをあきらかにしたし、一般的には凡人が己れの世間的なものわかりのよさを示すためにそれを揶揄的に支持しているのをみてもあきらかであろう。
他方、後に英雄といわれている人たちあるいはその行為の方はどうか。これも極端な形でいわせてもらえば、彼らは文字通りの「犯罪者」であり、彼らの行為は犯罪である。あるいは少なくとも彼らは犯罪的といってもよい逸脱行為をしている人間なのである。なぜならば、彼らは、スポーツ選手やエリートたちのような、与えられた仕組や条件のもとで満足するといった挑戦的性格をもっていないからである。彼らの挑戦的性格は量的拡大を最大限に望むことにあるのではなく、質的飛躍を意図することにあるのである。従って、単に与えられた仕組や条件に反抗しようとする人間とみなされる犯罪者とは違って、創造性をもっているだけに、彼らを一方的に犯罪者と同一視することは誤っているとされねばならない。
しかしながら、なんらかの質的飛躍そして質的転換を望む者にとって、それが社会的性格をもっている場合には、いかに軽微なものであっても、違法的行為あるいは背徳的行為といわれるものと抵触しなければ、英雄という賞賛すべき称号を与えられることができないのは、歴史の示すところである。
その意味では、天才と狂人は紙一重といわれるのと同様、ここでも、英雄と犯罪者は紙一重といわれて、なんの不思議もないであろう。有名な『罪と罰』の主人公ラスコリニコフの論理は、彼がたった二人しか殺せなかったということで、反社会性を宣告されて破綻してしまったが、もし彼が百万人を殺しておけば、逆に社会的意義が強調されて、ナポレオンのように、英雄になっていたかもしれないのである。
とはいえ、いくら天才や英雄を狂人や犯罪者と同一視したところで、前者はなんらかの形で賞賛あるいは崇拝される要素をもっているわけであるから、後者と区別する一応の基準は設けておいた方がよいかもしれない。そうなるとそれはやはり世間の人に是認されている創造的資質あるいは開拓的資質があるかどうかということになろう。しかも彼らを一応の奇人とみなすからには、厳密に言えば、これらの資質は最初は凡人や権力者によって異端視されるが、やがては追認されるか、あるいは追認させるかする力をもつものといってよいだろう。第四のタイプの奇行あるいは奇人についての説明は、私としてはここまででストップしようと思う。そして最後にこのエッセイに軽い「おち」をつけようと思う。
X─閑話休題的に─
すでにあきらかにしていた如く、私はこのエッセイにおいて支離滅裂な一人よがりの世界に入り込んでいる。当初、私はこの『奇人の諸相』をあきらかにする際にもくろんでいたのは次の点であった。すなわち、「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の諸相を紹介するには、精神異常者や狂人といわれている人たちを俎上にのせるのは誤っていないであろう。次いで犯罪者を素材にするのも、これまた誤っていないだろう。そこで次には、精神異常者や犯罪者ほどではないにしても、それに近いような人、それでいて世間の人から「おかしい」と思われるような人をとりあげて説明していけば、「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の諸相の説明としては十分であった。つまり、私は、彼らを奇人と命名して、いくつかのパターンをあきらかにしていけばよかったのである。
しかし、「引っ越し魔」や『ギネス・ブック』に載った挑戦者を考えていくうちに、彼らと同様に、世間で是認され賞賛された人たちをも奇人とみるべきではないか、そして、世間をさわがすことのできる力があるほどに異常な人間とみるべきではないか、と思うようになったのである。
そこで奇行あるいは奇人の四つのタイプを私なりに想定することになり、そのもとで賞賛され崇拝された人をも奇人とみなされるにふさわしいとする考えをもつにいたった。しかしここで私ははっきりと意図するようになったのは次の点であった。すなわちこのエッセイのはじめに言ったように、賞賛され崇拝され歴史に名を残した人が、自分のもっている異常な才能のために脱線した形で数々の奇行をしていたというように、いわば彼らの奇行をエピソードとしてとらえるよりも、彼らの行為そのものが奇行であり、まさに彼らの打ち砕かれた人格のすべてを示しているというふうにとらえることであった。前者のいい方ではどうしても彼らの真の姿は奇行を行う彼らとは別のところにあるということになってしまうからである。
まあ、一般的にいえば、冒頭にも言ったように、奇行とは人間の本質的なものとは無関係であるとの見方もあるだろう。その意味では、私の考える奇行とはまさに打ち砕かれたホモ・サピエンスの行為の一形態であり、とりわけ天才や英雄といわれる人の行為そのものを意味するものなのである。すなわち彼らは「創造」という名の奇行、「開拓」という名の奇行を行う打ち砕かれたホモ・サピエンスのチャンピオンなのである。こういった美名のもとに冠された奇行は、既存のものの破壊からまた新たなる破壊へ、あるいは逸脱からまた新たなる逸脱へととどまることなき歩みを続ける愚行であり蛮行以外のなにものでもないと明言することもできるのである。
従ってこのような奇行の主人公は、なまじ秀でた資質があるだけに、それにおびえ、ものの気につかれたように世間を扇動し攪乱するアウトサイダーであるといってもよいのである。そして平安と常態とを望む正常なホモ・サピエンスにとれば、彼らは、精神異常者や犯罪者と同様に、警戒すべき存在であるといえるのである。だが平安と常態とを望む正常なホモ・サピエンスが打ち砕かれていないと言えるのだろうか。それについては次のエッセイにおいて語ろうと思う。
参考文献
別冊歴史読本、伝記シリーズ16『にっぽん奇人変人列伝』(新人物往来社)
N・マクワーター編『ギネス・ブック80年度版』(青木栄一訳、講談社)
H・S・ベッカー『アウトサイダース』(村上直之訳、新泉社)
宮城音弥『天才』(岩波新書)
J・O・ハーツラー『ユートピア思想の歴史』(クーパー、スクエア出版)
W・ランゲ・アイヒバウム『天才』(島崎、高橋訳、みすず書房)
O・E・クラップ『英雄、悪漢、馬鹿』(仲村、飯田訳、新泉社)
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