第一部 打ち砕かれたホモ・サピエンスの諸相
犯罪者の諸相
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一日の仕事を終えて帰宅した、いわゆる常識をわきまえているといわれる平均家庭の主を囲んでの団らんのひととき、テレビ画面に写し出された「凶悪犯逮捕」のニュースは、その日の家庭のディスカッションのテーマの一つになる場合がよくある。しかし、たいていの場合、そのディスカッションの結論は決まっていて、次のように落ち着くものだ。
「犯人は人を人とも思わぬ鬼のような人間である。だからほっておくと、われわれ善良な市民に危害を加えるので、逮捕されてよかった。このあと彼をブタ箱に一生閉じこめておくか、死刑にして、世の中から抹殺すればよい。」
各々の家庭環境によって多少のニュアンスの違いがあるにしても、上の結論からはずれることはまずない。たまに、思いやりをもってはいるが、世間知らずの娘から「あの人にだってそれなりのわけがあるのよ」との反論が出されたとしても、放映される犯行の残忍さによって相殺され、それ以上に話がすすまないものだ。
一般的にいって、われわれは、それなりの社会的教育を受け、それなりに自分の意思を表明できるほどのインテリジェンスをもつようになると、こういった結論に対しては意外に寡黙であるか、それとも「やむを得ない話」として鋒をおさめてしまう場合の方が多いのである。そのかわり、マスコミの報道機関がものの見事にわれわれの隠れたる本音を伝えてくれているのだ。
たとえば、さきほどの家庭の話題にしても、そのときテレビによって写し出された光景は、なるほど事実の忠実な報道であるといってしまえばそれまでであるが、内実は、ある種の正義感に燃えた一カメラマンによってことさらに撮られたかのような、犯人と思われる人に対してあびせかける野次馬の罵声や、したり顔で「彼は人間ではありませんね」と語る解説者の柔和な顔等の動くスナップの連続でしかない。平均家庭の家族の結論も、マスコミの報道も、ともにクールな一面性によって、犯罪者に対して断罪を下しているかのようである。
そうなると、社会の中で、犯罪者の本当の気持を理解するのは、われわれの誇る「常識」ではなく、さきほどの娘の特性である「世間知らず」であるのかもしれない。「世間知らず」とは、常識を知らないかわりに、偏見をもっていないからだ。いずれにしても、私のこれから話すテーマは、犯罪者の諸相を吟味し、私なりの「犯罪」観をあきらかにすることである。
話をすすめやすくするために、その手はじめとしてまず、ここに、ある死刑囚のつくった『鬼の涙』と題する詩から紹介しよう。
「人は俺の事を殺人鬼と言う
そして 悪魔! と叫ぶ
その声が その視線が
俺の背中に 突き刺さる
ほおが引きつり 唇がゆがむ
嘲笑とも 憤怒とも言いがたい
刹那的な溜め息が
ふうッ
と俺の口から漏れる
肩がそびえ 顔は人の罵声をはねかえす
殺人鬼
悪魔
だが─ だが─
たった一人のおふくろを!
その安否を気づかって
こっそりと枕を濡らしている事を
人は知りはしないんだ」
もちろん、この詩をいかように解釈しようとも、それはわれわれの自由である。それ故にわれわれがその作者に対して「なにを、今さら」の腹立たしさを覚える庶民感情をもったとしても誰もとがめはしない。たいていの人は「鬼の涙」を理解する精神構造をもっていないからである。
現代社会では、「鬼の涙」に同情したからといって、「じゃあ、彼の行為を許してあげましょう」という博愛主義者は一人もいない。「鬼の涙」に対する同情と彼の処罰への是認とは全く別の範疇のものであると、すべての人が非情にも了解しているのである。この了解は、まさに人間は社会的かつ理性的存在者であり、それ故に「正義」なる観念をつくりだしているところからきているのである。
しかも、冒頭に登場したこの主人公の場合は、われわれが「犯罪」について語るになんらさしさわりのない事例のように思わされている。実際ここで伝えられているのは、ある個人がなんらかの欲望にからむ理由に基づいて、ある人に害を与えたので、司法権力が社会秩序の維持の観点から、彼を捕縛し、処罰するという過程と、まるで刺身のつまのように、そこに加味された被害者に対する抽象的な同情と加害者に対する泡のような義憤だけである。そしてこの後にわれわれに残る感慨は、「昔、きちがいみたいな悪いやつがおって、世間を騒がしたなあ」というただそれだけのことでしかないのである。
ところがわれわれが常識的な生活をおくっている限りにおいて、いわゆる「犯罪」とはなんであるのかを考えてみた場合、この『鬼の涙』の主人公のような事例をすべてとしているのだ。「犯罪」観にしても、それは全く個人主義的で功利主義的なのである。たとえ、企業犯罪とか戦争犯罪とかいわれるような組織ぐるみの犯罪の場合でも、その中の「悪い」個人がしたのだというふうに、公的には、処理されているのである。なるほど、「犯罪」観が個人主義的であるといっても、われわれの住む現代社会が自立した諸個人の集まりによって成立しているという考えが公認されている以上、それは当然のことであるといえば言えよう。
しかしながら、この個人主義的「犯罪」観は、犯罪解釈に一つの貢献をもたらしているものの、いろいろな問題を残すようでもある。おそらく、このような「犯罪」観ですますことの方が便利なのであろう。だが、犯罪の社会的解決になんらの機能もはたさないのは自明である。さらにやっかいなのは、それでもわれわれは、たとえば犯罪者を罰したというただそれだけで社会的解決をみたと錯誤してしまうことである。この考えは、まちがっているというより、近代人特有の独善性のもたらすものであるといった方がよいかもしれない。
ともあれ、導入部分はこれくらいにして、以下、私なりの犯罪観ならびに犯罪者観を展開していこう。
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われわれが犯罪について十分に理解しようと思っても、それは無理な状況にあるのも事実である。それは犯罪といわれるものの事実が、非行や逸脱、また公的に報告されないものも含めてあまりにもありすぎるという点と、虚構のものも含めて犯罪についてあまりにも語られすぎているという点に起因しているようだ。
前者の点については、いずれ実証的研究の成果として「犯罪学」がその独立的地位を確保し、われわれを助けてくれるにしても、われわれは次から次へと発生する犯罪の新たなパターンにたえずふりまわされるにちがいないだろう。
後者の点については、たとえ社会的事実のなんらかの反映であったとしても、犯罪が無限にかつ恣意的に語られるおそれがあり、それによりわれわれは観念的な犯罪さえも現実的なそれのように誤解させられてしまっている。
もっとも、そう考えるのは、われわれの中でよっぽど物好きな詮索家だけかもしれない。それ故に、たいていのわれわれは、さきほどの一家によって論議されたような、『鬼の涙』の主人公の行いのみが犯罪なのだと単純に思いこみ、その後は思考停止をしてしまう方が理性の、あるいは社会の要請に応じているというふうに考えさせられているようである。
このわれわれの思考停止は、さらに次のような短絡した考え方を提供しているのも事実である。つまり、犯罪とは公的な機関によってあきらかにされ処理されたものを指し、それ以外は犯罪とはいいがたいといった考え方をである。そうなると、合理的でかつ狡猾な区別が生じてきそうである。すなわち、ひとたび犯罪行為あるいは犯罪者とみなされるや、それらがいかなる程度のものであれ、徹底的に異端視され、あるべからざる存在として排除の対象にされるものと、そうではないいわゆる正常行為あるいは正常人とされる隠れたるものとの区別である。
いわば前者は事実以上のものになるのであり、極端にいえば、犯罪行為や犯罪者にとっての真の存在形態はどうでもよくなるのである。それに反し、後者は俗にいう「シロ」として認定されるのであり、「犯罪的」であったとしても、そこには犯罪行為はないとされ、犯罪者ははじめから存在しないとされるのである。丁度われわれは交通警察の俗にいう「ネズミとり」によって捕まった人間を思い浮かべればよい。制限スピードを超えていても、「ネズミとり」にひっかからなかったならば、罰をうけなくてもよく、従ってスピード違反を犯していないことになる。そのかわり、「ネズミとり」にかかれば、いかに不合理を感じようとも、犯罪者の烙印を押され、罰をうけねばならなくなるのである。
ついでながら、この交通警察によるスピード違反の取り締まり方こそ、現在の犯罪を考えるにもっともふさわしい素材を提供しているように思われる。われわれは、一般に交通犯罪とその他の普通の犯罪とは別のものであると考えている。その証拠に交通犯罪をおかしたからといって、他の犯罪のように、とがめられず、H・J・アイゼンクが言うように「一種の災難、一時的な不注意、単なる不運」としてみなされる場合が多いというわけである。
しかしながらこの区別こそ、近代人の狡猾さをあらわしているにすぎず、犯罪者を特殊な存在にしてしまうことによって、彼らを自分およびその仲間とは別の異端者にしてしまう効用性を秘かに認めていると思われる。というのは、もし交通犯罪とその他の犯罪とを同一に扱うと、自分たちと犯罪者とが本質的に同じ資質の存在であることを認めることになるので、そうされたくはないとする思惑が働いてくるからである。これは人間が本質的にもっているとされる見事な差別意識のあらわれと言えないだろうか。
いずれにしても、私自身は交通犯罪とその他の犯罪とを同一のものと扱いたい。社会的にとがめられるかどうかは別として、犯罪が成立する過程が全く同じであるという理由からである。つまり、近代社会が法治国家の形で現存している以上、種々の法が社会秩序をつくる観点から要請されつくられてくる。次いでその法の番人が必要視され、その制度を設けることによってその法に抵触しないかどうかを社会秩序の維持の観点から、監視にあたらせる。犯罪もその法に背いた行為の一部というよりその大部分である。かくて、法の数だけ犯罪の数があるといわれるように、まず多くの潜在的犯罪が成立する。次いで、その法の網の中へ「はぐれ者」がとびこむや、その番人は社会秩序維持の使命感から得たりとばかりに犯罪者をこしらえてしまうというわけである。
これはわれわれの社会が近代的であると自負する限りにおいては、法に関する「イロハ」である。法の番人の立場からすれば、きわめて一面的で冒涜的な考え方のようでもあるが、当然容認されるべき「イロハ」なのである。(もっとも、この考えがそれこそ機械的で、ヒューマニズムないしは権力者の寛容を全く度外視した考え方であることは、認められねばならないにしても。)
奇妙にも、この考え方とは逆の立場に立ちながらも、心の矛盾もなく受け入れられている考え方もある。それがさきほどの『鬼の涙』の主人公のように「悪い気をおこして」犯罪をおかしたという考え方である。ここには犯罪が捏造されたのではなく、自らの思惑によって犯罪をなしたのだとする類の個人主義的犯罪観があらわれている。さきほどのスピード違反の例を再び使えば、この犯罪者は「ネズミとり」によって待ち受けられているのを承知で制限スピードを超えて走った、ということになり、決して、「一種の災難、一時的な不注意、単なる不運」の目にあったというわけではないということになろう。
この考え方を補強する以下の論証は今や古典的なものになりつつある。すなわち、どんなに苦しくても、あるいはどんなにせっぱつまっていたとしても、決して犯罪を犯そうとはしない人がいる。しかもそれは数多くいるのだ、という考え方である。当然、この論理の帰結として、犯罪者はもともと犯すべくして犯す素因を自らのうちにもっているのだ、いいかえれば、普通の人には見られぬ異常性や、狂気をもっているのだという考え方が生じてくるのは目にみえている。
これは一般には犯罪原因を「素質説」に求めようとする考え方の中に入るのであるが、極端な場合、「生来性犯罪者」説を唱えたロンブローゾのような「犯罪者は普通の人間にはない頭蓋骨の特徴をもっている」といった似非科学的結論を導出しかねない危険性を有しさえしている。今日、さすがにこの学説が否定されているのは、精神病を脳病とするグリージンガーの学説が否定されているのと同様、科学的見識の成果である。(もっとも、これもDNAの解明や脳科学の進歩で将来どのように結論づけられるか、私も知らないが。)
それでもこういった考え方の亜流は科学信仰をもつわれわれにさえ、神話的迫力でもって、新たな活路を求めさせようとしている。それがさきほどの犯罪原因を犯罪者固有の資質に求めようとする姿勢を放棄させないのであり、ひいては犯罪者を普通の人から区別するための根拠づくりに手を貸すことになっているのである。
ここに、私がなぜに交通犯罪とその他の犯罪とを同一視する立場に立たせてもらうよう要請しているかが、おわかりであろうかと思う。感情的にいえば、私は同じ犯罪者であるのに交通犯罪についてはきわめて寛容なのに対し、その他の犯罪に関しては、犯罪者を非人間的な地位にまでおとしめて、自らの「スケ−プゴート」をこしらえる近代人のぬけめのなさやずるさに耐えられないからである。
しかし、実を申せば、これら二つの犯罪の同一視は、私のずるさのせいでもある点を正直に告白せねばならない。というのは、この同一視によって、私は近代人のぬけめのなさとずるさとを逆手に取ったある主張を破廉恥にも行おうとしているからである。つまり、交通犯罪が一般に「一種の災難、一時的な不注意、単なる不運」の産物であるとみなされるならば、その他の犯罪も同様であるとみなされないものだろうか、という主張をである。
くりかえすが、もとよりこの主張が独善的で、場合によっては、反社会的であるといわれるかもしれない点を私は十分承知しているつもりである。実は、この主張はさまざまの難関を突破することによってみんなの了解をえなければならないはずのものである。
第一に、短絡的に交通犯罪とその他の犯罪とが同一のものであるとする仮定そのものがおかしいという反論が待ち受けている。それに対し、私の方から交通犯罪は善良な上・中層階級によってなされ、その他の犯罪が悪意ある下層階級によってなされる場合が多いという差別的主張をとがめたところで、十分に反論しなおしているわけではない。
第二に、仮に二つの犯罪を同一視することを認めるならば、どうして交通犯罪をその他の犯罪に対するのと同じような厳しさでとりあつかえという考え方の方を採用しないのか、そう考える方がはるかに理屈にかなっているのではないかという反論である。これは倫理的に潔癖な人や厳格な人から出そうな反論である。それに対し、この反論があまりにも厳しく、他方では権力者的発想ともなりかねやすいからといって否定したところで、私の考えを浮きぼりにする積極的な理由にはならないだろう。
第三に、これは一番やっかいな問題なのであるが、被害者側の償いを求める感情的な反論がある。それでは被害者の立場はどうなるのか、加害者を社会的にも倫理的にも、葬り去らないならば、涙ほどの詫びを入れてもらったところで、気持の治まるものではない、というわけである。それに対して、これは被害者を無視する考え方ではなく、加害者もまた人間なのだという点を力説しているにすぎないのだと再反論しても、平行線をたどりつづけて決定的な反論にはならないだろう。
要するに私は以上の難問の解決を保留にしたまま、そういう理屈がなりたたないでもないという消極的な妥協を唯一の手がかりにして、語ろうとしているのである。
さて、不本意ながら、読者諸兄が私の要請に従うとするならば、この現代社会におけるすべての犯罪は「一種の災難、一時的な不注意、単なる不運」ということになる。それにあたり誤解を避けるためにさらに次の二つの点を附言せねばならない。第一点は、これらの言葉はH・J・アイゼンクが『犯罪とパーソナリティ』の中で使った言葉なのであるが、氏はこれを肯定的にも否定的にも使っているわけではないということである。多くの人によってそのように信じられているというので学者として紹介したのにすぎないものである。第二点は、それを私が借用したわけであるが、これらの言葉の意味をもっと拡大させて使っているということである。
とはいえ、これらの言葉の使用によって、私はすべての犯罪者の無過失性、あるいは責任の欠如を主張しようとしているのではない。こと犯罪に関する限り、精神病による狂気の行動は別にして、犯罪行為は自らの主体的な意志の関与なくしてはなされえないということは自明であるとされているからである。
私がここで言いたかったのは、犯罪の特殊性、いいかえれば犯罪は普通の人とは異なる異常な人のみが行う行為であるという主張は断じてまちがっているということである。そして、すべての犯罪とまではいわないまでも、たいていの犯罪は、ちょうど運転者が制限スピードを承知の上でそれを超えるのと似た形で行われるのではないかということである。
その意味では、私はN・モーリスとG・ホーキンスが『犯罪と現代社会(邦題)』の中で次のように言っているのに全く同意する。「犯罪は刑事法に違反する人間行動であるが、その大部分は、統計的意味においても、自然に発生するという意味においても、まったく『正常な』行動である。……ありていに言えば、ほとんどすべての大人はその一生のある時期において犯罪行為を犯しているのであり、異常なのはむしろ一度も犯罪行為を犯したことのない者である。」
しかるに、われわれはなぜ犯罪者をあたかも腐り物に対するかのように、忌みきらうのであろうか。私にいわせれば、それは「正義」の観念が働いているからとはそう簡単にはいえない、なにか狡猾な心的作用がわれわれにとりついているからであるとしか思えない。高尚にいえば、この心的作用は人間が生きていくための「保身」の術のあらわれだろう。そして低俗にいうならば、それは完全さを求める人間の内なる弱点を隠蔽しようとするエゴイスティックな作用だろう。大江健三郎は『核時代の想像力』の中で、ある女性を撲殺した某熊次郎なる犯罪者に対して社会が「『鬼熊』と呼びはじめ、人間扱いすることを止め」た例を興味深げに紹介し、「そういう動物のような犯罪者がいるのだという考えかたによって、われわれは時に自分を安全圏にお」くのだということを述べているが、案外、近代人の狡猾さとはそんなところにあらわれているのではないかと思われる。
こうしたコンテキストで、われわれが犯罪者について考えてくると、犯罪者がなにかあわれな犠牲者であるというように思われてくるのではあるまいか。他方、多少、不真面目な言い方で被害者には申し訳ないが、犯罪者は自らの犯罪行為によって、大胆なる主張をなしえたとも言えようか。あるいは犯罪者は自らの犯罪行為によってしか、自らの主張を貫徹しえない弱者であるとも言えようか。ともあれ、犯罪者の側に立とうと、その逆であろうと、犯罪は社会現象としては少しも不自然なできごとではないということはたしかであろう。
ここにいたって私の立場は、どちらかというと犯罪原因を「環境説」に求めているものであるが、それが確定的な立場であるという表明は、今ここでは避けようと思う。それ故、私はこれまでの話のコンテキストに従って、もう少し「犯罪者の諸相」について各論的に紹介する作業をすすめてみようと思う。
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その前に「犯罪者の諸相」の紹介が私のコンテキストに従ってなされているという点を説明しておかなければならない。いわゆる「犯罪」なる現象が、これまで、「法」学的観点のもとにのみ考えられてきて、いまだに「犯罪学」が独立の学問として認められているのかどうかが問題にされている昨今である以上、犯罪行為もまた「違法」行為としてのみ考えられ、それに従って犯罪現象の類型化も行われている事実は否定できない。それ故に私などもその不可避ともいえる制約をうけて、短絡的に「違法」行為の紹介ということで「犯罪者の諸相」を紹介したいという誘惑にのってしまいやすい。
しかし、そうだからといって、それを避けようとして「哲学」や「人間学」の対象として犯罪者をとりあつかうとなると、前にもいったように、恣意的にならざるをえない。ましてや「文学」の世界でも犯罪がとり入れられやすいということになると、観念的にならざるをえない。従ってあれもこれもといった種々の立場を考慮して「犯罪者の諸相」をあきらかにすること自体が不可能なのであって、私の場合、それには素人ということもあって、ここでの完全な類型化、体系化はあきらめた方が賢明である。それ故に、『精神異常者の諸相』でとりあつかった場合と同様(そしてこれからのテーマについても)、私が自分の気に入った事例を選んでそれに言及している点について、すなわち私が自流の紹介方法をとったとしても、それは許していただきたいのである。
私は、どちらかというと、自らの精神的糧としている「哲学」の立場、より限定すれば、(その哲学をも裏切って)きわめて恣意的に人間の理性の働きに盲目的な信頼をおかない者の立場で申し述べようとする者である。
さて、きわめて形式的にとらえるならば、犯罪が法の数だけあるというのは、法治国家である限りは一応認めねばならない事実である。それ故、J・B・メーズの言によれば、「現代社会にあってわれわれは非常に多くの法律によってとり囲まれているので、あれこれの法を破る機会は年々多くなってきている。その違反行為がどれほど瑣末に思われるものであっても、また、事情の酌量性がどれだけ罪責感をまぎらわせてくれ、世論や友人の評価がどれほどわれわれを慰めてくれても、いったん法を破れば、われわれは無辜の状態から『前科者』に転ずるのである。」極端にいえば、法律が存在する故に、犯罪が発生するのであり、法律がなければ犯罪は存在しないのである。
ここでなぜ法律がなければならないのかの問題は、多くの法治主義者が答えを出しているので、詳しい話は省くが、要するに、生命・自由・財産といったものが人間の権利として保証された結果の産物としてさまざまな法律が生みだされたのであろう。犯罪者とは、結果としてみれば、その法を己れのものとして処せられなかった無能力者であるとされている。すなわち法は彼にとっての障害となっていたのである。実際のところ、法はその社会的必要性から根拠をもって生まれてきたわけであるが、それが一度、法律として形式をととのえると、いつのまにか、その法の意味するものはすべての人間が了解したものとして機能するという自律性をもってくるのである。
その結果、犯罪者にとれば、法とは自分をつかまえるために暗闇に張られた網でしかないということになり、犯罪者はまさに一種の災難、一時的な不注意、単なる不運によってそこにとびこんだのである。交通犯罪の場合は、それで許されるだろうが、そうでない犯罪の場合は、たちまちその犯罪者の人格にまで立ち入り、解剖されてしまう。
その中で最も浮きぼりにされるのが「動機」という彼にある主体的ななにものかである。
「なぜ、やつはそんなことをしでかしたのか?」簡単にいえば、そのような設問からはじまって、犯罪者は次第に裸にされていく。そして、その結果はさまざまである。例えば文学者は「想像力の欠如」を言い、精神医学者は「狂気」を言い、金持は「怠惰」を言い、節度ある普通一般の人は「貪欲」を言う。その他の人も含めて、だいたい自分やその仲間が「美徳」としているものと反対のものを犯罪者がもっており、それらが彼をして固有の動機をつくらせたのだということになるのである。そして、とどのつまりは犯罪者個人の「未成熟性」のせいに十把一からげにされて、彼に断罪が下されるのである。それ故に犯罪者はこれに抵抗する力もない「弱者」であるとも言えようか。
ところが、この弱者たる犯罪者が一度犯罪者としての烙印を押されたとき、突如として「開きなおって」自らの生存のたしかな証しを求める強者となる場合がある。最近の出版ブームにあおられて、各種の犯罪者の手になる書物をひもといた時、まさに彼らは「法」のなんたるかを自家薬籠中のものとしたかのようである。
たとえば、「『連続射殺魔』という称号を世論から頂戴している」地方出の一青年が、「無知の涙」にくれた後、彼のいう「善良なる市民」に対して逆襲している生のたくましさは、「無関心─関心─高次の無関心の弁証法の中で生活している」私などには及びもつかない迫力でもって、犯罪者の「開きなおり」を証明している。彼はいずれ現在の法律の定めるところによりそれ相応に処断されるだろうが(実際処断された)、それでも法の番人が最後の断を下す際には、青年の犯した残忍さを思いおこし、彼の非人間性を再確認しなければならないだろう。この青年は、もし幾人もの人を無慈悲にも射殺していなかったならば、これほど強くならなかっただろうというのはまちがいないことである。彼は法を犯すことによって、はじめて現代社会の本質を示すなにかを、未消化ながらにも、知ったのである。
もっとも、彼に場合は例外かもしれない。たいていの犯罪者はその犯行後の自由が拘束されるや、己れのもっていた「美徳」がさまざまの社会の人格者によって「悪徳」であると示唆されることによって、光明をみいだしている。冒頭の『鬼の涙』の主人公もまた、結局は次のような手記を某週刊誌に投稿することとなったのである。
「私は昭和五十年六月十七日に、連続殺人等で逮捕され、現在拘留中のみですが、あのとき四百人からの機動隊に包囲され、最後の一発となった拳銃を握りしめ、何度我が頭に押しあてても遂に自決する勇気もなく、降伏してしまい、生き恥を晒している者です。四人もの尊い命を無造作に取る我が冷酷さ、射殺した方々や家族の方々を思う時、我が死への躊躇が本当に矛盾していると思うと同時に、己れの決意の無さに嫌悪感さえ沸いてきます。今はただ判決により、死して罪の消滅を待つばかりですが、執行までの生ある時に、死者に冥福を祈ることに存念したいと思っておりますが、まだ大事なことを忘れているような気もします……。」
なぜ、こういった事態になるのか。これに対し「押さえがたい関心」をもっているルポライターもいる。鎌田忠良氏は『殺人者の意志』のあとがきの中で、犯罪とは、「その時代と社会での無名の一個人が当面の現実を孤立的に生きていくうちに、自己のうちに否応なく堆積させてしまった怒りと狂いを、ある“障害”をきっかけに、一気に公然と無署名で爆発させた行為」であるにもかかわらず、その犯人が「いったん逮捕されたとたん、なぜ一様に口を閉ざし、無表情、無主張となり、急に従順な家畜のごとくに変貌してしまうのか」と問うている。
私は、やはりこの『鬼の涙』の主人公もまた、前の攻撃に転じた「連続射殺魔」と同様に、現代の法のなんたるかを、いいかえれば社会の本質のなんたるかを理解したからだと思う。そして、もし彼が死刑にされず、再び現実の社会に舞い戻ることができたならば(実際は出来なかったが)、まちがいもなく、他の正常な多くの人たちのように、巧妙に打算的に世渡りができただろうと思う。つまり、犯行後に、世間の第三者から「もっと他の方法で生きられるすべがあっただろうに」といわれないような法の目から逃れた方法で事を処すことができたであろう。われわれは犯罪者の特性が、まさにそういうことができない点にこそ隠されていることを忘れてはならないだろう。
さて、これまで示してきた二つの事例は、われわれが「犯罪」と考えてきているものの典型、すなわち個人的犯罪なのであるが、複雑な社会的背景をもつ現代には、いわゆる考えられない犯罪が普遍化している事実も見逃せないであろう。むしろ、数的にいえば、こういった犯罪の方がはるかに多くあると言えなくもない。
すなわち、それは「被害者」がいないという意味では、また「加害者」に罪責感がないという意味で、古典的な犯罪論が展開できないような犯罪のことをいっているのである。これら二つの型の犯罪にはそれぞれの犯罪の特性によって純粋に存在する場合もあるし、他の型の特徴をもって複相的に存在する場合もある。あるいは前述の個人的犯罪の変型として存在すると考えられる場合もあるし、要するに、単純な図式でもっては説明せられないだろう。それ故に、話をわかりやすく運ぶために、私はあえて、それらを「被害者のいない犯罪」と「罪責感のない犯罪」とよんでおこうと思う。
前者の「被害者のいない犯罪」はまさに法あればこそ生まれてくる典型的な犯罪といえるであろう。この代表的なものには堕胎、麻薬等の薬物使用、猥褻物の販売等があるのは周知であろう。再三再四、話題にしているスピード違反で捕まった場合も、事故をおこさない限りでは、この範疇にいれられないこともない。これらの犯罪をおかす際に、犯罪者が順法意識をもつべく教育されている場合は、それだけで罪責感をともなう場合もあるだろうが、被害者がいない、あるいは自分であるということで案外罪責感がないものである。そればかりか、犯罪の遂行に誇りをもっているような「おかしな」人も存在するくらいである。
この犯罪の大きな特徴は法の番人の恣意的な裁量によって、どのようにでも処理されるということである。ということはこの犯罪に関していえば、犯罪と決めつける普遍的な基準というものが定まっていないということであろう。「お目こぼし」も受けるかわりに、「みせしめ」にもされるゆえんである。しかしこの人たちも、結局は前述の個人的犯罪と同様、正常な社会人の認める「美徳」に自らの弱さの故に従いえなかった「はんぱ者」として断罪されるだろうし、不思議なことは、罪責感が少ないわりには、うしろめたさを感じるようには教育されているのである。
次に後者の「罪責感のない犯罪」もいくつかのさらに細かいタイプにわけられるだろう。このうちの一つは岩井弘融氏が『現代社会の罪と罰』の中でいっている「気づかれざる犯罪」である。以下、氏の見解にそって紹介すれば、この犯罪は加害者と被害者がいるにはいるのだが、はっきりしないのである。例えば売春や賭博のように両者とも犯罪者の場合、行政の権力機構の中にある者によってなされる虚偽の報告による利得行為の場合、そしてその典型としてある合法性の仮面をかぶって行われる企業犯罪や戦争犯罪といわれるような場合である。
これらの犯罪者になぜ罪責感がないかといえば、それは「自分が犯罪者とは思っていない」からである。彼らは自他ともに「善良な市民」であると思っているばかりか、それ以上に「やり手」と思い思われているの観さえある。彼らの行為が自分たちの利益になるのは当然としても、それ以上に少なくとも「なにかのためにもなっている」といった一般の評価によって是認されているからであろう。あくどいとまでいわれる他会社の乗っとりや買い占めを行う「やり手」とか、残忍とまでいわれるほどに侵略先の住民の首をはね、それをもてあそぶ「勇者」とかが、家に帰れば、子ぼんのうで親思いの人間であったというのは笑えぬ喜劇である。もっとも、その彼らとて、なにかの拍子に、法の制裁をうける破目におちいったときは、徹底的に彼らが個人として行った悪行のせいにされてしまう悲劇は、実は悲劇でもなんでもなく現代社会では当然であるといえよう。
「罪責観のない犯罪」の次のタイプは、あきらかに自分は犯罪を行っていると確信している者の犯罪である。これは前者のタイプの人によってもなされる。つまり「自分のためにもなる」という条項が完全に欠落し、まさに「なにかのためにもなっている」ことのみを目指してなされる犯罪である。しかもそれは抽象的な対象であっては不十分であり、常にそこには具体的な対象が設定されていなければならない。罪責観がないのは犯罪者個人の行為が彼の所属する抽象的リバイアサン的実体の行為へと吸収されてしまうからである。曰く、現存の組織のため、国家のためというわけである。あるいはその逆の架空の組織のため、国家のためというわけである。
いわゆる「確信犯」といわれるこれらの犯罪者は、自らの内に非人間的特性を認めないではその実行が不可能な「エリート」たちである。しかし彼らは、まちがいもなく人間であるために自らの所業が「犯罪である」ことを確信しながらも「犯罪ではない」とする弁証法を主張するといった人間的弱さをももっているのである。(ここで附言すれば、私は権力に奉仕する犯罪と権力に敵対する犯罪とは本質的に区別すべきだとする社会理想主義者の言には耳をかかさないでおく。)
「罪責感のない犯罪」の最後のタイプは、現代の科学がいまだにはっきりとは解明しえない、しかもそれでいてもっとも現代的であるともいえるものである。それは、いわば「純粋犯罪」ないしは「犯罪のための犯罪」とペダンティックにいえなくもない犯罪である。このような犯罪をおかす者に対して「なぜ、それを行ったか」を聞くこと自体がまちがっており、本人自身も「そうしたかったからしたんだ」としか答えないだろう。われわれはそれに対し、後になってあえて犯罪を犯すことがその犯罪者にとっての喜びであり生きがいであるともいえるし、また「狂気」のなせるわざと一応認定することもできるだろう。しかし、それも断定的に片づけられない複雑性をもっているのは否定できない。
われわれはこのような犯罪を「動機なき犯罪」ともよんだりしている。しかもこの犯罪は犯行の経過も多様である。衝動的な場合もあれば、きわめてクールになされている場合もある。一過性の場合もあれば、習慣的になっている場合もある。しかしながら犯罪の型が新しく衝動的であるだけに、われわれにはかまびすしく報道され、もはや犯罪パターンとしての市民権を獲得しているといってもまちがいではないだろう。
ではこのような犯罪をおかす人とはいかなる人なのか。それは他の犯罪者のように「なにかの欠けた」人間では決してないのである。C・ウィルソンは『殺人もの三部作』の最後の著書でこの型の犯罪者(殺人者としての)について論じており、その中でドストエフスキーの描く殺人者を次のように解説しているが、それはまさしく私が今言おうとしている犯罪者の特性なのである。
「彼らは自分の行為の性格を理解しており、善悪に関する知識を受け容れもし、行動するばかりでなく思考もする。」にもかかわらず、彼らは「自分のためでもなく」「何かのためでもなく」、ある時に、平然と、罪責感もなく、犯罪をおかすのである。いわば「犯罪人間」というべきこの種の犯罪者に対しては、われわれは、他の犯罪者に対するのと同様に、さとしあるいは、つまはじきするにはあまりにも無力である。それにもかかわらずわれわれは彼らに対しては奇妙な同質性を覚えるので、あきらかに彼らがまさに現代人の癌として存在しているといってもまちがってはないだろう。(読者諸兄は、他章で私が犯罪というとき、このようなタイプの人間を思い浮かべていると御承知いただきたい。)
以上、私は犯罪あるいは犯罪者の諸相を、恣意的な考えのもとに、素描してきた。くりかえすが、私は犯罪あるいは犯罪者の諸相を包括的に話しているのでもなければ、話すこともできない。身勝手にいわせて貰えば、私は自分の主張に都合のよい事例を素材として使っているにすぎない。私の分析は専門的な「犯罪学者」のそれには足元にも及ばないほど独善的なものである。
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そして私は、さらに独善的になろうと思う。というのは、私は今まで犯罪者に対して同情的に語ってきたが、このエッセイでの結論を下す時になって、彼らを一時的に裏切ろうと思うからである。私が彼らに同情的になっていたのは、あらゆる犯罪者が社会的機能の必然的産物であり、犯罪者とは、一種の「不運」によって、しくまれたワナにとびこんで行った弱者であるとみなしたからであり、もっと心情的な立場に立っていえば、犯罪者が隣人や身内といったわれわれと全く考えを一にする同胞であるとする人類愛的な気持ちが働いたからである。
この理由は多少の説得力をもっているために、ある程度、みんなも認められたのではないかと思う。われわれが、弟や妹を飢え死にさせないために一片のパンを盗んだジャン・バル・ジャンに対して同情的になるのは、こういった理由によるのである。しかし私が「犯罪のための犯罪」と命名したその犯罪をおかす犯罪者までも同情的に書いたのは、少し「はしゃぎすぎ」との非難をうけそうである。
実際、われわれの彼らに対する排他的態度は、彼らがなにをしでかすかわからないという不安感からきている。傍観者としてのわれわれでさえ、そう思いがちなのであるから、彼らによって被害を受けた人やその関係者にとれば、ヒューマニズムのかけらもなく問答無用とばかりに犯罪行為をなす彼らが、文字通りの犯罪者、すなわち本質的に犯罪の素質をもつ「鬼のような人」であると思われるだろう。「できるものなら、自分のこの手で復讐してみたい。もしそれができなかったら、誰かが、あるいは社会が彼らをつかまえて永久に閉じこめるか、極刑にしてもらいたい」と思うのが、被害者やその関係者の正直な感想である。(どのような犯罪であれ、被害者とは、もともとそう考えるものである。)
私は「犯罪のための犯罪」をおかす、いわば「犯罪人間」もまた、個人的事情により犯罪をおかす弱き人間と同様に、「不運な人間」であったとみなしていたのである。多少屁理屈になるかもしれないが、私には、彼らが「犯すべくしておかした」犯罪素因を自己のものであると認めるほど強い人間であるとは思われなかったからである。そもそも彼らの中にわれわれが認めようとする犯罪素因もまた、ちょうどわれわれがテレビの悪役を演じる俳優から彼の性格を悪だとみるような幼児的視点によって、内在しているかのように考えられていたのかもしれないのである。
それにもかかわらず、私の説明するすべての犯罪者は、現代の社会にあっては、適正に作動しえない故障中の機械の一部分の如く、「異常な」人間であると正直に認めなければならないだろう。彼らがいかに社会の弱者であったとしても、それ故に社会の犠牲者であったとされても、それだけでもって、彼らのもつ「異常性」を免罪することはできないのである。
私は条件つきであるが、この考え方を承認するものである。その条件とは、「異常性」は必ずしもその反対のものによる「異端視」ないしは「差別視」を招来する真の理由としてはならないということである。むしろ、「異常性」とは社会が要求する機械的「正常性」に対する、生の側からのアンチ・テーゼと考えられるべきである。犯罪は己れのもつ異常性が社会の要求する正常性によって攻撃されることを認めえなかったという意味において、彼の精神は「打ち砕かれて」いたにすぎなかったのである。
それ故に、まさに彼ら犯罪者は精神障害者、すなわち俗に「狂人」といわれる人たちと同様に、社会の「不必要物」であると同時に「やっかいなお荷物」であると世間の人からいわれかねない存在である。しかも、前にも言ったように、精神障害者の「狂気」による行動は、ある程度社会的に免罪されているにもかかわらず、犯罪者のもつ「暴力性」は、いかなる理由があろうとも、現代社会では容認されていないのであるから、ある意味では精神障害者以上に「不必要物」であり、「やっかいなお荷物」であると悪意でもって言われよう。
われわれが犯罪者に対してよりも、精神障害者に対してより寛容であったのは、精神障害者においては理性的意志の機能を認めておらず、従って精神障害者がわれわれとは全く無縁の存在であると認定するところに起因していた。しかるに犯罪者はどうか。少なくとも犯罪者には理性的意志の機能が働ける可能性があった。いいかえればわれわれと同じように、行動しうる可能性があった。それにもかかわらず、犯罪者はわれわれを裏切るような行動にでた。そういう意味で、われわれの中のある部分は犯罪者に対して、制裁的意図をもって、彼らを「不必要物」扱いにし、「やっかいなお荷物」として忌みきらおうとしていたのであるまいか。
これはなにを意味しているのであろうか。要するに犯罪者がわれわれ普通のものと同様に社会的に考えたり行ったりすることができなかったということが、われわれをして犯罪者を異常な存在へと駆りたたせてしまっていたのである。すでにわれわれは犯罪者をなぜ異常な存在であるとするかについての古典的な説明を行っている。すなわち、どれだけ苦境に立たされていても犯罪をおかそうとはしない者がいるのであり、それが普通のわれわれであり、その数の方が圧倒的である、という説明をである。ここに犯罪をおかす人とそうでない人との間に根本的な違いがあるのであり、そしてわれわれは犯罪をおかす素因つまり異常性が犯罪者にはあるのだと確信する根拠をみるのである。この根拠は客観性を欠くのきらいがあるものの、普通のわれわれによっては、それでわれわれが正常な人間であるとみなすに十分なのである。(もちろん学者の中にはそれを信じて、まじめに犯罪原因を犯罪者自身の中にみようと研究する人も多くいる。)
次にもう少し実際的な生活の場の中で、犯罪者の異常性について考えてみよう。われわれは社会がいつも住みやすい環境ではないことを知っている。しかしたいていはその社会に順応するすべをも知っている。それ故になんとか犯罪をおかさないように、いいかえれば違法行為をしないようにして、自らの「不満のはけ口」を求めるものである。フロイトのいう「昇華」のような高尚な行為をとったり、公営ギャンブルを認めるといった合法的行為の可能な場を設定したりするのは、個人の中に生じる矛盾をなんとかときほぐそうとするあらわれである。まさにそういったことが可能であるが故にわれわれは人間を「ホモ・サピエンス」と命名し、他の存在から区別しているのである。
しかるに犯罪者はこういったホモ・サピエンスとしての特性を生かすことなく、短絡的に反社会的行動にでる。社会の与える「猶予」さえも正常に受けとめることのできない犯罪者は、もはや異常という以外のなにものでもないのである。それ故に私にいわせれば、まさに彼らは「打ち砕かれたホモ・サピエンス」なのである。
たしかに以上のような理由づけによって、われわれは犯罪者を異常だと決めつけることは暴論かもしれない。ましてや彼らを「打ち砕かれたホモ・サピエンス」と断定することは、彼らを全く非人間的な存在にしてしまうおそれがあるかもしれない。しかし彼らは現代社会がどのようなものであるかを理解することもできず、またその現実性を認容することもできない限りにおいては、多くの「正常な人たち」と括弧付きで言われている人たちから異端視され、排除されたとしても、それをあえて甘受しなければならない宿命にあるのである。その理由については『犯罪とその反社会性』であきらかにしようと思うが、このテーマに関しては、ひとまず、ここで終えよう。
参考文献
佐木隆三『曠野へ』(講談社)
H・J・アイゼンク『犯罪とパーソナリティ』(M・P・I研究会訳、誠信書房)
岩井弘融『現代社会の罪と罰』(NHKブックス)
N・モーリス&G・ホーキンス『犯罪と現代社会(邦題)』(長島敦監訳、東京大学出版会)
大江健三郎『核時代の想像力』(新潮社)
J・B・メーズ『われらみな犯罪者か(邦題)』(仲村、井上訳、雄渾社)
永山則夫『愛か─無か』(合同出版)
鎌田忠良『殺人者の意志』(三一書房)
『被害者のない犯罪』(竹中和郎編、現代のエスプリ、h齊O五、至文堂)
C・ウィルソン『純粋殺人者の世界(邦題)』(中村保男訳、新潮社)
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