第一部 打ち砕かれたホモ・サピエンスの諸相

    精神異常者の諸相



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 身内や知り合いなどに所用があったりして、たまたま、精神病棟、すなわち精神障害者と診断された人たちが入院という形で収容されている建物をはじめて訪れたとしよう。しかし、その人はその日の印象を生涯忘れることはないであろう。彼がそこで体験する正常人としての心の動揺は、すべて、病棟内の、いわゆる常識をこえた異様な雰囲気に起因しているからである。
 まず、入院患者とおぼしき人たちが普段着のままで病人とは思えぬ元気さでうろうろしているところから、訪問者は少し奇異な感じをうける。というのはそこは病院という観念が与える普通のイメージからは、はずれていたからである。たいていの場合、入院患者となった者はパジャマを着、気おちした顔つきでいかにも弱々しい動作でふるまったり、場合によっては死と直面している悲壮な感じさえあらわしたりしているというように考えるのである。
 ところが、ここ精神病棟での場合は、入院患者はそんな風情などどこ吹く風である。少なくとも、一見したところでは、彼らは普通の健康な人間と変わらぬたちいふるまいをしているのである。出勤にいそぐサラリーマンのようにせかせかと歩きまわる人がいるかと思えば、ピンポンや体操に興じている者、将棋やトランプをしながら和気あいあいの会話を楽しんでいる者、テレビやラジオの前にどっかとすわりこんで笑い声の絶やさない者、読書にいそしんでいる者等々がいたりする。それらをみると、ここの住人はそれぞれが思い思いに自己の生活を健康的にエンジョイしているようにみえるので、遠くからみると、彼らが巷間いわれているような「精神異常者」では決してないと断言できるくらいである。
 はじめての訪問者はこの光景によって、どういうものか、少しは安心するようである。そのため最初の奇異な感じが、一種の後ろめたい恥じらいとなって、入院患者を見直そうかという気になる。というのは、訪問者はここの門をくぐりぬける際には、なんらかの先入見をもっていたのはまがうことのない事実であったからである。
 すなわち訪問者は入院患者については次のように考えていたのである。「彼らは人間であって人間でなくなっている。人間の顔をもっていながらも、社会に少しの貢献もしないばかりか、逆に『まっとうな人間』に迷惑をかけるようなことばかりをする。常軌を逸した彼らは、社会の寛容のおかげで、おかしなことをしても許される上に、ただ動物として生きるためにむだめしを喰わせてもらっているのである。いわば彼らは社会と人間にとっての疫病神であり、彼らの存在は正常な人間の恥部以外のなにものでもない。しかり、彼らはまさに『きちがい』であって、こういう手合を相手にすること自体がまちがっている。彼らが世間の人の前に姿を見せないようにここに集められているのは至極当然のことなのである……。」(文脈上、あえてこう表現するのを許していただきたい。)
 極端な場合、はじめての訪問者はそこの患者に対してばかりではなく、彼らに関係する人たち、たとえば医者や看護婦や事務員に対してまでも、異常なことに関わっている物好きとして異端視しさえする。きちがいを相手にするのは気がしれない、きっと彼ら自身が普通と変わっているからであろう、といった具合に。
 そこにあるのは「異常なもの」や「異常なものへの関わり」に対する正常な人間を自負する人特有の生理的反応だけである。仮にこの訪問者がそれほどまでに偏っていない、ごく普通の人間であり、いわばわれわれの心を代表する者であったとしよう。そのような人間はこの病棟に入る際には、並の偏見をすてきれないにしても、かなりの良識をもっているために、今かいまみた「まっとうな光景」によって、「自分はそんなに思うほど、変わったところへは来ていないのだ」とすぐにでも自らの誤りをただすくらいの素直さをもっているのである。しいて訪問者の心の中にひねくれた考え方を認めてやるならば、それは「たいていの病院では入院する場合はパジャマや寝まきを着るのに、ここはそうではない」と感じた彼の最初の奇異な印象から、精神病棟の特異性をみようとする彼の思考方法だけだろう。
 事実、この訪問者のみならず、たいていの訪問者は、きわめて近代的な感じを与える精神病棟に裏切られた気持の交錯した共感を抱かせられるものである。ここは普通の人たちが療養しているところであったのだ、とことさらに確認せざるをえないような感じでもって。
 そういえば訪問者はここが大都市にある総合病院の中の建物であることを思いだしていた。決して世間の目から隠されたさびしい場所ではなかったのだ、と。
 しかしこれはあくまでも表面をなぞらえた外向けの描写であると言えなくもない。その程度ならば、神経科や精神科を持つどのような病院の広告パンフレットからだけでも十分にうかがい知るかもしれない。なぜならばいかなる患者を収容するところであれ、病院というところは病人を快復させ、従来の状態に戻しうるということを世間の人に認めさせなければならない場所とされているからである。
 それならば冒頭の文、すなわち精神病棟をはじめて訪れた人はその日の印象を生涯忘れないという書きだしはうそになる。私はその約束をはたすべくある場所に訪問者をつれていかねばならない。それは俗に「閉鎖病棟」といわれるところである。さっき紹介した光景は「解放病棟」の中のできごとだったのだ。
 解放病棟は比較的軽症の患者が収容されているところである。つまり、ある程度一人で身のまわりのことができるもの、完全ではないにしても、一応常識が理解できるもの、医者や看護婦の言葉の意味が了解できるもの等が収容されているところである。だがこの閉鎖病棟はそうではない。心の病める人をそのまま放置しておいたら、なにをしでかすかわからないという医療上の「判断」から、正常な人たちが「隔離しておく」ところである。ここには、だいたいのところ、急性患者の中で反社会的行動のいちじるしい者や、慢性患者の中で医者や家族から治るみこみがないと断罪された者が、治療と保護とを目的として収容されているのである。
 さて、閉鎖病棟という言葉が倫理的に適切な用語であるかどうかの詮索は別として、この病棟を存在させる本音は、まさに患者を鎖でつないでおかねばならないという単純で一方的な判断からきていることはたしかであろう。そして、治療的見地から考えてみれば当然の処置とされるわけであるが、ここへは原則として第三者は入れないことになっている。患者と面会するときでさえ、ちゃんと面会室という特定の場所で面会しなければならないことになっている。その意味では犯罪者の収容されている拘置所となんら変わるところはないのである。
 従ってこの病棟に入れるのは例外的措置であるという確認がなされたあと、訪問者はいよいよ閉鎖病棟に所定の用をはたすべく足をむける。看護婦の「どうぞ、こちらへ」という機械的な声にうながされた訪問者は、それだけでさきほどの安堵感をうちけすに十分な緊張した気分になる。次にじゃらじゃらと鍵束をならしながら、案内する看護婦の後に従っていくと、まちがいもなく、彼の心の中に得体の知れない不安がおしよせてくる。訪問者はこれから行くところの名が閉鎖病棟であるということを知らなくても、そこが鍵であけなければ入れない特別の場所であるということをはっきりと意識する。それだけでも無知な訪問者の心をおののかせる条件はそろっていたのである。
 事実、所定の場所に入室してからの訪問者の第一印象は「ああ、やっぱり……」という以外のなにものでもない。そして訪問者の心の中に見事な心理劇が展開されるのである。それはいわば人間が自然的にもっているとされる好奇心と、人間が本来的にもっているとされねばならない良心あるいはヒューマニズムの精神との葛藤となっておこってきているのである。
 彼は目的の場所に行くまでの間、そこで出くわす彼にとって全く異質の光景にすいよせられる。それを見た瞬間、動物的な反応でもって、彼は「君はそれをみてはならないのだぞ」という自分の心の中にあるなにものかの命令によって、つとめて顔をそむける。同時に「君の好奇心はそれだけでいいのか」とけしかけるものに負けて、横目となって一点を凝視する。奇妙にもそのとき訪問者はすでに自分の行動に対する弁明を用意している。「自分は決して面白半分でそれをみているのではない。少なくとも彼らに対して同情心でもってみている。そして彼らを自分と全く同じ人間としてみているのだ」というふうに考える。それでも結局は、不幸は見ないにこしたことはないと結論することによって心の動揺をおさえるのである。
 その場合、自分には自分の世界で行う用事があるという自覚は、何と心の動揺を鎮めてくれるのに協力してくれることか。再び「どうぞ、こちらへ」という看護婦の声は、さきほどとは違って、こんどはあたたかみさえおびていることに気づくのである。
 
 
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 それでは訪問者をかくも驚かせもし、かつ悩ませたりもしたここ閉鎖病棟に一体何が展開されているとでもいうのであろうか。
 あらかじめ断っておくが、私は興味本位でそれを紹介するのではない。いわんや「閉鎖病棟」自体が「悪しきもの」、「忌むべきもの」の巣窟であるなどと思って語ろうとするわけではない。ただ、ここに展開されている事実の描写が誇張的な感を与えているようにみえる点は否定しはしない。しかし私がこの表現形態を認めるのは、W・ジェイムズのいう如く、事実のティピカルな面にこそ真実が隠されている場合が多いと思うが故にである。
 さて、訪問者はそこにたくさんの種類の精神の異常な者といわれる人たちをみた。まず、部屋の片隅にじっとうずくまって哲学者のように一点ばかりをみつめ沈思黙考している若者をみた。彼は外見こそ若き哲学者のイメージを彷彿させたが、実際は、精神病患者としては最も重症のものであり、人間らしさを感じさせるなにものももっていなかった。「人格荒廃」、「分裂性欠陥状態」というのが彼を説明する精神医学上の最後の言葉であった。彼にとって唯一の行動と考えられたのは、食事時に看護婦が彼の口に食物を含ませると、緩慢な動きでもって口を動かし、嚥下したときだった。
 次に訪問者は柱を前にする熟練の大工をみた。この大工は柱の同じ部分に向かって同一の間隔時間を保って、想像上の釘を自分の額でうちつけていた。その正確さは機械の如しといった感じである。額と柱のぶつかりあう小気味よい音があるとき、ふっととだえたので、注目すると、静止して微動だにせぬ彼の額は空手できたえあげられてできたかのような胼胝(たこ)でいっぱいだった。彼の行う「常同運動」が、かつて大工であった姿のなごりを示しているのか、あるいは大工になりたいという願望の結果であるのかは、訪問者にはわかろうはずのないことではあったが、意味のない運動であることだけは確かであると思われた。
 突然、「君、カントがね、『われ思う、故にわれあり』と言ったんだよ。立派な言葉だとは思わんかね」と脇から声をかけられて、訪問者はどぎもをぬかれた。声の主はかなり年輩でいかにも教師といったインテリくささをもっていた。訪問者とて、多少の知識をもっていたので、学校で習ったことを思いだしながら「それはデカルトが言った言葉でしょう」とさえぎると、「ああ、そうだったかね」と別に恥じるともなくうなずいた。常識人の訪問者にはそのまちがいは重要なことではあったが、彼にとってはそのまちがいは大したことではなかったのである。
 元教師と思われるこの男にとっては、「われ思う、故にわれあり」はあくまでもカントが言ったことになっているのであり、しかもその言葉の解釈は訪問者が了解しているところのものとは異なっていた。彼によると、そもそもこの言葉は周囲の者の自分を抹殺しようとの陰謀に対抗して、自分が考えだしたものだけど、助平じじいのカントによって勝手に使われたということである。ちょうど通りあわせた担当医に対して、彼はこの言葉から体系化された哲学を怒りの感情で説明し、退院を要求したが、聞きいれられるところとはならなかった。
 さて、元教師とおぼしき人が離れるや、またもやなれなれしげに近よってくる人がいる。この御人は夫婦二人の世界でならどうにか許されているような卑語を誰かれにとなくわめきちらしながら、さっきも看護士を相手にむしゃぶりつきにいっては、こっぴどくたしなめられていた。だが、みたところはかなり上品な感じのする婦人であった。訪問者に対しては、むしゃぶりつきにいきはしなかったが、物知りであることを披瀝した。まるで「『あ』のつくものなあに」という子供の問いに答えるかの如くに、彼女は「あ」からはじまる単語を次から次へとならびたてていった。それがとだえると「い」、次に「う」といった具合にとどまるところを知らなかった。かなりして恋人の名前らしき言葉を発したとき、彼女は突然怒りだし、訪問者にとびかかっていき、頑強な周囲の者の手によってやっととりおさえられたのだった。
 上品な感じの婦人の攻撃からのがれた訪問者が次にみたのは目に涙をいっぱいためてはためいきばかりついている人だった。彼はさきほどの人とは違って積極的に話しかけてはこなかったが、人と対話するとき、きまって言う言葉は「私はのろわれている」、「世間さまに申しわけない」であるという。なにが善であり、なにが悪であるかをこれほどまでに追求した人間は他にもいないと想像させながらも、同時に能面をおもわせるような彼の顔つきは、深刻な彼の過去をふりすてようとする思いに満ちていた。「あの人、自殺防止のためにここに入れられているのよ」と、おせっかいな入院患者が訪問者につぶやいた。
 訪問者がこれらの人々をみたのはほんの一瞬間であったように思われた。実際は、一定の時間が経過していなければこれほどの観察は行えないだろうから、その間、訪問者は時間の経過を忘れるほど、圧倒されていたというのが真実だろう。訪問者にとっては、彼の眼前に展開される光景はすべて驚きを喚起する新奇さで満ちていた。そして、いかに彼が良識のある人間であったとしても、この瞬間、彼らを「きちがい」と侮辱しても、許されるのではないだろうかとさえ思ったのにちがいない。
 この病棟には、訪問者によって描写された人以外にもいろいろな「症状」をもつ患者が収容されている。彼らは、M・フーコーの言を借りれば、「狂気についての理性の側の独白にほかならない精神医学の言語」によって、それぞれに病名をつけられて、ここに収容されているのである。私はその状況を一層理解してもらうために、訪問者の観察様式に従って、さらにそのうちのいく人かを紹介してみようと思う。
 たとえば、夜なべをする母を偲んでいるのか、うつろな眼に涙をためて、芸術家顔まけの美声で『母さんの歌』を歌っては、その都度、うるさいとどなられている者がいる。また、将棋盤前に一人すわって、さながらプロ将棋士の貫禄十分に、まだ一手も指さないで腕ぐみをしながら一日中長考している人もいる。彼は医者や看護婦から、名手がうかびましたかと尋ねられると、きまって首を横にふって、係りの者や同じ入院患者の笑いをさそっている。
 面会客がくるたびに、わたしの母さんは元気だったかと安否を尋ねる親孝行な娘もいる。彼女は看護婦が「…さん、面会ですよ」というたびに自分の母親がきてくれたのかと思って看護婦の目を盗んで…さんの後にくっついていく。面会客が自分の母親でないとわかったとき、がっかりするのであるが、便利なことに、その面会客が自分の母親の知りあいであると信じて疑わない思考習慣が彼女にはついていたのである。
 さらには、この場所は竜宮城であるといっては、いつも感謝し、乙姫様と楽しんだ様を講釈師のようにうまくしゃべるユートピアン。それとは逆に、この世はおしまいだ、新しい時代がやってくると革命参加をよびかける闘志型のアジテーター。誰かの命令によってそうしている、神のお告げだといっては自分の行動の合理化を図っている未来の指導者等々がいるのである。
 ついでに言えば、先程のご婦人の例でわかる如く、この病棟は男女両性を収容するところであった。(たいていの病棟は男女それぞれ別に収容しているのであるが、治療上あるいは別の理由からか、こんな病棟もあるのである。)そこでは、次のような光景をよく目にすることがある。大恋愛中のカップルのよくやるように、手と手をひっしと握りしめあいながら、ぴったりと寄りそい、同じ廊下をなんどもなんども往き来している男女二人の姿である。たいていは同じペアでくまれるが、時としてそれが変わっていたとしても、誰も不思議がる者はいない。ある妄想性分裂病患者の言葉をそのまま伝えれば、このような病棟では看視の目をのがれて乱交パーティがはなばなしく開催されることがあるということである。
 閑話休題
 ここで了解されるべきは、私が上記の描写を訪問者という私自身ではない人の目を通して行っているという点である。私がなぜこのような回りくどい手法をとっているかといえば、それに知性による偏見なく事実を浮きぼりにしたいとする私の思いが第三者の目を借らしめたからである。そこには専門家である場合なら一層に、また素人であったとしても予備知識をもっている場合には往々にして、私の意図するものをあきらかにしてくれないとするひねくれた私の主観が介在している。もともと、精神の病いに患っている(厳密には、その後に、と診断されている、がつく)人につけられる病名ほど不正確なものはないと一般に考えられている。その理由も精神病の原因が正確にわかっていないという点において一致している。
 それ故に精神医学の専門家によって、この病棟の患者の症状が説明されたとしても、おそらくその客観性は保証されず、その症状とて専門家の主観によって、しかも暫定的なものとして説明されているといってもいいすぎではない。症状の理解の主観性が避けられないとするならば、素人の、そしてごく普通の人の目を通して説明されたとしても、われわれが納得するものは同じであるばかりでなく、逆に専門家のように類型化しない説明であるだけに、より的をえた説明としてみなされてもよいのではないか、と私は思っている。これはなにも精神科医の限界性を指摘しているのではなく、精神病患者の固有性を強調しているのである。
 それ故に訪問者がうけた入院患者の印象は、まぎれもなく彼らの存在の真実を伝えたものであり、見方によっては彼らの全人格を象徴的にあらわしたものである、といっても過言ではない。
 従って訪問者が大工のような人間と感じた入院患者を「緊張型精神分裂症」と規定したところで、それは彼を説明したことにはならず、疾患単位をあえてみいだし彼を抽象的な一つの鋳型にはめこんだこと以外のなにものも意味していないのである。あえて入院患者に病名をつけるとすれば、一人一人にそれぞれ固有の名称がつけられる無数の病名を必要としなければならないだろうし、もしそれができないとするならば、鋳型をつくることの好きな精神科医は病名をつけるのではなく、たとえば○○県に住む人とか、××県出身の者とか、△△を職業とする者とかというように、それこそ誰もが了解する用語を使った方が、より適切な診断というものであろう。(もっとも私はこの考え方が暴論であることは百も承知している。だがわれわれがこの病棟の住人に対する場合は、そこから出発し、そして、その上で現実的な対応をした方がよいかもしれないのである。尚、この書が発刊された後、帚木蓮生氏の小説『閉鎖病棟』が新潮社で刊行され、患者の立場からその実態が鋭く描写されているので、興味ある方には一読をおすすめする。)


 V

 さて、話を戻そう。くりかえしていうが、この病棟の住人は精神医学の命名する病名をつけられて隔離されている。いわゆるこれまで「きちがい」とか「狂人」とかいわれてきた人たちである。そうだからといって、今のところ、私は彼らが本当に異常な人であるのか、あるいはあわれな人たちであるのかなどという性急な問いかけをすることによって良識家たらんとするつもりはない。それよりも、これからもやはり、こういった人たちについては全く無知な、そして彼らとは関わりのない人間だと思っている訪問者の立場にたって話をすすめた方がよいと思っている。
 おそらくこの訪問者は入院患者の実態をかいまみて、彼らがそれぞれに頑迷なほどまでに自分たちだけの世界をもっているということを、そしてその世界が訪問者のそれとはあきらかに異なっているという理由で、この病棟に収容されているのだということを悟ったのにちがいない。それに加えて、もし訪問者が心のねれた人であるとするならば、人類愛のなんたるかを理解しようと必死になって努力し、無理にでもこの場所に親近感を覚えようとしたかもしれない。それでも、ここに登場する主人公たちのたちいふるまいは、そういった理性的行為をも圧倒する力をしばらくは持続してもっている事実を否定できなかったのにちがいない。
 実のところ、こういった人たちすべてが収容されているのが精神病院であると言われえないのは当然である。通院して治療をうけている心の病める人の圧倒的多数の中で、重症の者だけがこの病棟にいるにすぎない。いわばこれらの人たちは精神病患者の中ではごく少数である。そして少数派であることが、よけい彼らの存在する意味を歪曲化してしまっているゆえんでもある。
 この病棟の住人はときには、さらに鍵つきの「保護室」といわれる部屋に閉じこめられる場合もあるだろう。が、それでも普段はその建物の中で自らの自由を謳歌しているといった方がよいかもしれないのである。事実、慣れてくるに従って、彼らの行為が奇異でもなんでもなく、われわれが日常生活の中でかいまみるユーモアに近いものであるとしても、なんら不思議さを感じなくなってくる場合さえある。ただ、これらの患者との出会いがあまりにも唐突であることからくる訪問者の心の動揺が、そして自分は彼らの世界の住人ではないのだとする訪問者の必死の抵抗が、彼らからの印象を事実以上のものにしてしまっているのである。
 いずれにしても、はじめて訪れた訪問者が所定の用事をすませて、従来の自由な世界に戻るときはほっとするのである。仕事の都合でたちよった場合は、もう二度と行きたくないという気持でもって、知りあいの患者を見舞ったときは、気の毒な顔をみなくてもよいという同情心でもって。肉親の患者につきそっていった場合は、もうこれで直接面倒をみなくてもよいという安心感から。
 とはいえ、この訪問者が再び同じ病棟を訪れるとしよう。その場合でもやはり異様な雰囲気に圧倒され、緊張感がおこってくることにはまちがいない。これはなんど訪れても同じであろう。この感じが訪問者の体から脱けきれないのは、要するに、訪問者の心の中で自分はこの病棟の患者と同じ種族の人間ではないのだとする思いが常におこっているからである。いいかえれば、訪問者は常に訪問者としての立場に固執しようとしているのである。われわれは、これらの思いや固執がなくならない限り、このあわれな訪問者は同じ思いを味わいつづけなければならないことを銘記せねばならないだろう。
 だが緊張感にも程度の差があるにはあるだろう。しかしこの場合、緊張感に差が生じるのは個人の性格の違いからであるというよりも、大部分、慣れから生じる生理的理由からである。慣れは驚きを鈍らせるかもしれないが、同時に余裕の心の生みの親でもある。その結果、おそらく二度目に訪問した人とて、当初のあちこちみてはならないのだといましめる緊張感からも解放されるに違いない。多分彼は患者を一瞥した後は、いろいろと周囲に目をむけ、残酷な好奇心で緊張感を相殺させるであろう。究極的には、この病棟の患者の行為を一種のユーモアとして見られるゆえんである。
 だが所詮、正常人であると自負するこの訪問者にとっては、好奇心は別の緊張感をよびおこす以外のなにものでもないのである。たとえば、彼はこの病棟のどこかに入院患者の誰かによって書かれたと思われる、たどたどしくも力強い文字をみたとしよう。患者にとってはその文字はまさしく本音そのままをあらわした呻き声なのであるが、この場合にも、訪問者は別の精神的緊張感がむず走るのを禁じえないのである。そうなるというのは、その内容の大部分が、普通の人ならば、かなりの演技の勇気を必要とするか、酒によっぱらうか、ないしは破廉恥になるかしなければ、書きしるせない代物であるからである。しかも訪問者はまさにこの病棟の中でそれをみているという意識によって、その書かれた内容により一層に特別の意味をもたそうとするのである。これは精神の異常な者でなければ表現されえない落書である、というふうに。
 さて、この訪問者は今度もやはりほっとした気持になって帰路についたとしよう。そして、たまたまやむにやまれぬ生理的要求によって、傍の公衆便所にとびこんだとしよう。もちろん、正常な人間の当然の行動として。やがて、その生理的緊張も排泄作用によってなくなり、余裕の心が生じ、本来の自分をとりもどすようになった彼は、周囲をきょろきょろしだす。つい最前の病棟でみた内容を彷彿させながら、彼は便所の壁に残された芸術家もどきの絵や文字にみいる。このときの彼は断じて精神的緊張など覚えはしない。むしろ逆に、にやにやと悦に入るであろう。
 これはなぜであろうか。つまり、いかなる理由によって、精神病棟の壁の落書をみた場合に彼は異様な雰囲気に緊張し、公衆便所での場合には彼は逆にほっとするのであろうか。答は簡単である。最初の場合、彼はその落書が自分とは明確に異質の存在によって公然と書かれたものであることを自らに了解させなければならないからであり、しかも書かれた内容についても、書いた当人に対しても、ことさらにその異常性を唱えなければならないからである。次のケースの場合、落書は自分と同じ考えをする仲間によって、いわばひそかに行うきばらしとして書かれているからであり、場合によってはその落書をよりふさわしいものにするために、自らも修正してもよいと考えるだけの余裕が存在しているからである。
 このあわれな訪問者はまさに自分が正気であるという自覚によって、ときには緊張したり、ときには悦に入ったりしている。もし彼が病棟の壁の絵や文字に芸術的不満を感じて手なおしをしようとしたり、公衆便所の壁に描かれた作品に心底から困惑に似た緊張を覚えたとしたら、彼もまたただちに精神の異常な者としての烙印を押される資格を有するだろう。しかし正常人であるといわれるためには、彼はそのように自分を傷つける行動を決してしないであろうことはまちがいのない事実なのである。
 われわれは異常であるといわれることを極度にきらう存在である。それは悪を憎む精神構造に似たところのものからきているのかもしれない。つまり、なにが善であり、なにが悪であるか、はっきりわからない場合でも、人間は善を求め、悪を避けねばならないとする倫理的本性をもっているとする考え方に従っているように、人間はなにが正常であり、なにが異常であるか、わからない場合でも、人間は正常を好み、異常を嫌う本性的なものをもっているのかもしれないのである。そのくせ、われわれが異常であると決めつける根拠はたあいのない根なし草のようなものであると思われる。
 たとえばいま問題になっている精神の異常の場合で言えば、ミンコフスキーが精神分裂症を指して「現実との生ける接触の喪失」と定義したことはあまりにも有名であるが、これとてもつきつめていった場合、現実とは他者の賛同ないしは同意をえている世界を意味する以外のなにものでもないと私には思える。
 もっとも、正直なところ、私のこの解釈はミンコフスキーの言を換骨奪胎したものといえる。というのは、少なくとも彼においては「生ける接触」を喪失せしめたのは当人の「自閉的」傾向性にあると考えられているのに対し、私においては、そのような傾向性を認めていないからである。これは「生ける接触」を拒否しているのは当人以外のものであると考える私の独断的な考え方からきているのである。
 してみると、さきほどの正常な訪問者は一人よがりの思惑でもって精神病棟の落書には緊張を覚え、公衆便所のそれには余裕の心を生じさせているにすぎないといえるだろう。というのは、他者の賛同ないしは同意というのは、倫理的な場合は、現に他者が不在であっても、いるかの如くの想定がなされるが、この落書に対する場合は、もし精神病棟の壁のまわりに他者が現存していなかったら、訪問者はそこにちょいといたずらをするかもしれないし、公衆便所の壁あたりに他者が現存していたら、さすがの彼もそれをながめるだけに終わるという、たかだかそれだけのことしか結果しえないからである。この事実が「現実との生ける接触」の結果であるとみなすならば、なんとわれわれ人間はあわれな存在であるのだろうか。
 さすればわれわれはあえて次のようにも言えるであろう。二つの落書は、限られたものが公然と書いているか、多くの人が秘かに書いているかの違いをもっているにしても、だいたいが同じ内容のものであるから、訪問者はいかなる場合においても精神の異常な者としての烙印を押される資格を十分にもっているというふうにである。この場合についてさらにいえば、訪問者だって精神病棟の壁をみて、困惑を思えずににやにやしながら、自分も一筆書きいれることにことさらに恥いる必要などないということになるであろう。いずれにしても、これら二カ所に書かれた落書は、全く抽象的な意味でしかいわれない正常人の倫理的(あるいは美的)な観点から消し去られる運命にあることはまちがいのない事実なのであるが。(もっとも、精神病棟の中には、治療上の理由で、いつでも落書をしてもよい公認の場所が設けられているところもある。)
 しかしそれでも訪問者の行為はあくまでも訪問者としてのそれであり、入院患者の行為は精神の異常な者とみなされるもののそれであるとして区別されている点は忘れてはならない。そのもとになっているものは、くりかえすが、後者が「現実との生ける接触」をしなかったと判定されているところにあるのである。
 さて、この判定(しかも正常な人間とみなされる人たちによる)の結果は次の差異となってあらわれるのではあるまいか。精神病棟と公衆便所の落書の例に戻ろう。さきほど私はそれらの場所における内容がだいたい同じであるといったが、実は、たった一つ異なる点があるのである。それはなにか。精神病棟の壁には必ず次のような文言、すなわち「先生、早くこの病院から出して下さい!」「神様、お母さま、どうか退院させて下さい!」というのがあることだ。公衆便所にはそのような類のものはない。むしろそこはある意味ではすべての人に歓迎されている場所でさえある。なぜならば、そこはあきらかに用が足せば自由にでていくことのできる開放された場所でもあるからである。
 精神病患者の解放されたいという悲痛な叫びは、もともと彼らに病識がない上に、閉じこめられているという意識からきているといわれている。彼らに病識がないとしても、客観的事実として彼らに異常な症状がみられるという正常人の判断が、彼らを精神病棟に閉じこめておく医学的理由である。
 とはいえ、いくら解放されたいといっても、実際に人格が全く荒廃してしまっていて、自分が一体なにものであるのかもわからなく、ただ息をするための動きだけするものをみれば、医者ならずとも、常に気をくばる必要のない安全な場所においておきたいと思うようになるだろう。また、数人が押さえようとしても押さえきれない凶暴な人間が四六時中発作を起こしているのをみれば、誰にも迷惑のかからぬ一室に監禁するか、ロボトミー手術のできる所におくりこんでまでもおとなしくさせてやりたいと思うようになるだろう。そういった人間をかかえる当事者ならば、そのような行為は決して偏見に満ちたものではなく、むしろ人道的な気持のあらわれであるとさえいうであろう。精神障害者を看護する者にとって、その看護の実態を知らないで抽象的なヒューマニズムを飾りたてられることほどいやなことはないと考えさせられる場合がよくあるからである。
 このような観点からすれば、精神病患者が解放されたいからといっても、すなおにそれに応じられない事情とかも認められるであろう。近代的医学の寛容と社会的環境の劣悪さとによって精神障害者が、いわゆる野放しにされ、そのことによって一般の人がなにかにつけて迷惑をこうむっているという事実が否定できないために監禁することの正当性が唱えられるゆえんである。
 かくて精神病患者がいかに檻から解放されたいとわめきちらしても、それ自体が狂気のなせるわざとされ、種々の社会的理由から、その行為の正当性は社会そのものの心変わりを待つまでの間は保証されえないのである。例え精神病棟の存在の意義が精神病患者を排除することにあるのではなく、治療することにあるとしても。
 実際のところ、精神病患者が退院を許されるのは「寛解」(この世界では「快復」という言葉は使わない)したときだけである。しかし一度精神病患者として認定された人間は、寛解した後でも、別の意味で檻の中にいるような苦しみを味わいつづけねばならない。H・ビュルガープリンツが『ある精神科医の回想』の中の『蛇の穴』と題する第十六章で次のようにいっているのはまことに興味深い事例である。
 「原職に復帰したこの某氏は……今後、健康なかんしゃく晴らしなどやろうと思わない方が良い。独創的な見方を主張したり、世間の知らないような企画を進めるとか、ただ口添えする程度のこともやめておく方が良い。要するにこの人は、周囲の者と悶着を起こすようなことは一切、できるだけ控えるだろうし、また控えねばならないだろう。ということは、ズバリ言って、健康人らしく振る舞えない、ということである。さもないと、やがて陰口をきかれる破目になる。『そうら、また始まったぞ!』この『また始まったぞ』は、無造作に吐かれた言葉というだけのものではない。その奥には、まったく度しがたい因循な姿勢も潜んであるのであって、その言葉を吐いた当の本人は気付いていないことの方が多いが、吐かれた側にとっては、それを向こうに回して必死にあがく一つの壁ともなりうるのである。」
 そこにはあきらかに逆流することを許さない理性の暴力が介在している。理性は精神障害者のもつ狂気に対して決して自ら歩みよっていかないのであり、ただ狂気が理性への異質的転換をすることによってのみ、その狂気を自分たちの仲間にしてやろうと思っているにすぎないのである。
 このことは実際なにを意味しているのであろうか。理性と狂気は構造上同じ根からでているにもかかわらず、しかもそれらによる現象は同じ様相を呈しているにもかかわらず、両者は全く異質の心的機能であると、理性の側の一方的宣言によってみなされているということである。M・フーコーが『狂気の歴史』の序言でパスカルの「人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも別種の狂気の傾向からいうとやはり狂気じみていることになるだろう」なる文を紹介したり、さらには多くの精神病理学者や精神科医がそれについて言及したりしているゆえんである。
 わが訪問者の例をみるまでもなく、ここの入院患者は得体の知れない力をもつ理性による偏見によって、はじめから差別された存在であるともいえよう。過去にも、そして現在においてすらも、社会秩序の維持の観点から、権力者によって生まれながらに差別された人々がつくりだされてきた悲しい例があるが、精神障害者に対する差別もそれに似た様相を呈しているのではあるまいか。
 前者においては、権力者の権力を維持する手段として差別のシステムが設けられてきたが、後者においては、正常な人間という名の権力者が正常な社会の秩序を守るために精神障害者という名の無権力者をこしらえることによって差別のシステムが生まれてきているともいえるのである。ただ前者における権力者は少数で、多くの普通人は共犯としての責任があるが、後者においては多くの普通人が主犯としての責任をもっているという点に違いが存するだけである。それ故に、精神障害者に対する差別の問題を社会変革のそれととらえる考え方も生まれてくるのである。
 だがそれだけに問題がやっかいであるといえよう。というのは、後者の場合、多くの普通人は「正常な人間という名の権力者」と「精神障害者という名の無権力者」といった比喩を少しも理解していないし、理解しようともしないからである。その意味では精神障害者、とりわけ入院を余儀なくされた精神病患者とは、現代における魔女のようなものであるといえよう。この状況はまさに安手のヒューマニズムが横行したことに起因している。安手のヒューマニズムとは次の如きものでしかない。すなわち、精神障害者とて人間である、ただ少し心の病にかかっているにすぎない、だから保護してやっているのである、という程度のヒューマニズム、いいかえれば正常な人間のためのヒューマニズムでしかないのだ。(これはさきほどの訪問者のもっていた考え方と矛盾するものではない。)
 実はそのことについては精神障害者自身が一番よく知っているのである。彼らは姑息につくりだされたヒューマニズムの裏に精神障害者を忌みきらう存在としてみる生理が働いているということを肌で感じとっているのである。そうであるからこそ、精神障害者であるといわれる人は「狂気についての理性の側の独白にほかならない精神医学の言語」によって病人であると宣告されるまでは、なんとかしてそうされることを避けようと防禦の姿勢をとるのであるし、また一度宣告された後は、やっきとなって「私はきちがいではない!」と反発するのである。まさに、それ故に、D・クーパーがいっているように、「精神医学自体が暴力である」とする考え方すら生まれてくるのである。


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 さて、訪問者がかいまみた人たち、彼らこそ「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の典型であると私には思われる。われわれは彼らについてそう命名することになんらはばからない。狂気がまだ市民権を獲得していない現在、文化の体系の全く異なる彼らに相対するときの視点は、彼らの存在性の否定にある。われわれは彼らを「心の病いに患っている者」ないしは「狂人」として扱うことによって、しぶしぶ寛容的になっているのであるが、そうだからといって、われわれは彼らをわれわれに共通の文化をもつ「ホモ・サピエンス」の一員であるとは決してみなしていないのである。それでいて、われわれはわれわれ自身の存在性の主張のために、彼らを「閉じこめ」、「抹殺し」ようとするわれわれ自身の狂気はなんら問題にしようとはしないのである。(この狂気こそ、クーパーの言を借りれば「正常性」という名の狂気なのである。)
 そもそも「打ち砕かれたホモ・サピエンス」の諸相を検討し、そこにヒューマニズムの立場からその問題性を指摘しようとする場合に、なぜに彼らが第一番目にあげられなければならないかを考えることは、ヒューマニストにとってはきわめて重要である。好んで異端者をこしらえあげ、彼らを苦しめることによっていたらぬ自己を満足させようとする攻撃的心情と、自分は彼らとは違うんだとする別格の意識とは、ホモ・サピエンスに残された生の防禦手段であると考えれば、この問題に対する解答は示されているようである。
 なぜならば、彼らが異端者になったのは社会や正常な人間のあずかり知らないところで自らの生に対して無力になったからだという考えや、さらには彼らが時として社会や正常な人間に迷惑をかける存在であるとする意向がホモ・サピエンスの文化生活の営みの結果として生じているからである。従って彼らの存在の否定性を指摘するにあたっては、抽象的につくられたヒューマニズム以外に恐れるものはなにもないのであり、われわれはいささかの心の痛みを感じることなく、傍観者的に彼らを面白おかしくとりあつかうことができるのである。
 そう考えて自らを反省する場合、われわれの心の痛みをおさえる唯一の方法は、精神障害者、誤解を恐れず言えば狂人といわれている人たちに対してあいまいな態度をとってはならないということであろう。そのためには二つの考え方のいずれかに徹しなければならないと私は思う。
 もし彼らが狂気の持ち主であると認めるならば、それ以外のすべての人たち、たとえば犯罪者はいうにおよばず、社会の指導的役割を果たしているとされるエネルギッシュな人たちは扇動家として、またあらゆる組織にあって平々凡々に任務を遂行している多くの人たちは追随者として、それぞれ固有の狂気の持主であるとみなさなければならないであろう。逆にこういった追随者や扇動家たちの行動が社会的是認をうけているという観点から、また犯罪者が自己の行為における社会的意味を理解しているという観点から、それぞれ狂気の持主ではないと断言するのであれば、精神障害者についてもまた、彼らの行為が少なくも固有の文化生活を営んでいるという観点から、狂気のなせるわざではないと断言しなければならないだろう。
 私の立場は、どちらかといえば、前者に近い。だが賢明な人ならば、いままでのコンテキストから、精神障害者といわれる人たちが「文化体系の全く異なる」タイプの人間であると紹介されているところから、私がむしろ後者の立場にたっていると思われるかもしれない。基本的にいって、これら二つの考え方は同じ事象を違った視点でいっているにすぎないからである。
 というのも第一に理性的行為、従って正常といわれる行為と狂気による行為、従って異常といわれる行為とが、理性と狂気の定義のあいまいさ、ないしは主観性によって、はっきり区別されていないことからみても、その弁明の正当性がなりたちうるであろうからである。ここにおいて多少の区別の可能性が認められるとするならば、せいぜい木村敏氏も認める「多数者正常の原則」が働いているからだともいえよう。いずれにしても理性と狂気とを区分するにあたり客観的明証的なものはなにもないのである。
 それでは私の立場があえて前者にあるとするのはなぜであるのか。ここでの結論になるであろう点をいわせてもらえれば、私は理性的思考、理性的行為そのものが狂気であると考えているからである。人間の生活は文化の生活である以外には機能しえない。そしてこの文化の生活そのものが、自然の目からすると、狂っているのである。もっとも、この考え方とて私の論法からすれば客観的明証的ななにものももっていない点は十分承知されている。その意味では私は一つの仮説の上にアジテートしているにすぎないと正直に告白しなければならないだろう。
 しかしながら、狂気と文化とはある種の因果関係にあることは現代社会を分析すれば事実であるといえよう。荻野恒一氏にいたっては、狂気が狂人を疎外する文化現象であり、一定の文化を照らしだす鏡であるとさえ考えられているし、T・S・サズは狂気の病気、すなわち精神病について次のようにいっている。「われわれは人間の行為がある種の倫理的、社会的規準を外れるとき、精神病と叫んでいるのである。」とりわけ文化が合理的な社会機構の中で営まれている場合、そして合理的な社会機構が複雑であればあるほど、狂気は非合理性の様相を呈する形で文化的質を根底から変えてしまうようにみうけられる。しかも狂気が文化的質を変えてしまうといっても、それは決して自然的存在の一様態になったとはみなされないところに狂気の存在の特殊性と悲劇性とがある。つまり狂気は仮に異なった文化として認められたとしても、一般的には非合理なもの、既存の文化を否定する別のそれとして認められるだけであり、実際には存在させないような防禦体制をはられているのである。存在の自由はあるが現存の権利がないというのが、現在における狂気の存在形態なのである。
 その意味では、狂気と文化とはある種の因果関係にあるといっても、せいぜいそれは狂気の側の論理であり、文化の側の論理からすれば、狂気は依然としてそれ自身において文化の方に調子をあわせることのできない異端者であり、しかも狂気の原因は狂気それ自身の中にあるとみなされるのである。その考えは現代の「貧困」に対するそれと類似している。貧困は究極のところ貧困をもたらした当人の、つまり怠惰で自分を律することのできない個人のいたらなさに原因をもっているとされる。彼が貧困を社会のせいに帰そうものなら、彼はただちに倫理的非難をうけるだろう。そして彼は「あてにならない」人間とみなされる。彼が社会からみなおされるのは、真面目にあくせく働き、かなりの称賛をうけてからなのである。
 しかし、狂気の持主は怠惰で貧困になった人とは違って直接的に社会、すなわち合理的な社会機構のせいにはしない。仮に彼らが狂気の素質を内にもっていたとしても、発病したとき、彼らの大半が抱くのは合理的社会機構からのろわれたという気持だけである。従って彼らは合理的な社会機構そのものを、漠然とした形であるがそれぞれのイメージでもって、自分たちに敵対する外的障害物とするだけである。
 この実例をフィクションの世界から借りてみよう。たとえば『郭公の巣の上で』の語り手ブロムデン酋長にとっては「コンバインcombine」なるイメージは人間を望むままに変えてしまう「巨大な組織」であるし、『デボラの世界』の主人公にとっては終わることのない呪いをあびせつづける「コレクトcollect」のイメージは自分をとりまくあらゆる人間の「集合体」であった。
 なにがホモ・サピエンスを「狂わせ」、精神病患者にしてしまったのかを考える際に、この二つの例は私の主観によって都合よく採用されたものであるといってしまえば、それはその通りである。精神科医や精神病理学者は私のこのような虚構による例証に対し、まっこうから反論するか、さもなくば局部的な見方であるとして異論を唱えるであろう。私とて、自らの体験やさまざまな文献の渉猟から他のさまざまな事実を知らぬわけでもない。しかしながらK・キージー、H・グリーンによって創作されたこれら象徴的な言葉は、正常な人間として異常といわれる人をとりあつかう専門家のためらいをうちはらう力強さを提供しているように思われる。
 なぜならば「コンバイン」「コレクト」なる言葉によってあらわされるもの、いいかえれば、合理的な社会機構は人間関係を緊密かつスムーズにする機能をはたすものであるというよりは、むしろ人間存在を根底的に破壊する実体として断定的に使われているからである。私の独断であるが、ここに、合理的な社会機構そのものをホモ・サピエンスの存在空間とする考え方に対して警鐘がうちならされているように思われるのである。
 もしそれが警鐘として聞きとられないとするならば、われわれの忌みきらう狂気は、それこそ新しい文化の存在形態として容認されねばならないし、われわれがその論理的一貫性についていけないとするならば、われわれの理性もまた、パスカルのいうように、狂気じみているといわれえないまでも、いいかげんな機能であるとみなされなければならないだろう。
 われわれの訪問者がかいまみた人たちは、その意味では一種の予言者であろう。統計的にみて現代人の百人に一人はいるといわれるこの予言者たちは、単に「多数者正常の原則」によって異端視されている。彼らは合理的な社会機構に調子をあわせられないために、彼ら固有の実存方法において現代を生きている。それだけに現代においてもっとも生き生きとした生活をしているともいえるのである。彼らに対するわれわれの純粋に理性的な処遇とはなんであるのだろうか。
 木村敏氏は『異常の構造』の中で次のような興味深い主張をしている。「『異常者』は危険な存在だから一人残らず病院に収容すべきである。そして病院内で彼らに最大限の『人権』が与えられるべきである──この二つの主張の奇妙な対位法こそ、現代の合理化社会の体質をみごとに象徴してはいないだろうか。」
 これなどはまだ余裕のある正常な人間のジレンマといえよう。実際、正常な人間によって狂人といわれる人たちがますます増え、それにつれ残された正常な人間といわれる人たちが合理的な社会機構の中で機械のような隷従人間になっていった場合、そして両者が生の社会的均衡を保つまでにいたったとき、ホモ・サピエンスは一体いかなる社会をつくろうとするのであろうか。狂人の社会なのか、それとも機械人間の社会なのか。それを考えるのは、一人の訪問者ばかりではないのである。
 
 
 参考文献

H・バリュック『精神病と神経症』(村上、荻野、杉本訳、白水社)
M・フーコー『狂気の歴史』(田村傲訳、新潮社)
F・クルーチェ『心の健康』(吉倉範光訳、白水社)
E・ミンコフスキー『精神分裂病』(村上仁訳、みすず書房)
H・ビュルガープリンツ『ある精神科医の回想』(福田哲雄監訳、佑学社)
D・クーパー『反精神医学(邦題)』(野口、橋本訳、岩崎学術出版社)
木村傲『異常の構造』(講談社)
荻野恒一『文明と狂気』(講談社)
T・S・サズ『狂気の思想(邦題)』(石井、広田訳、新泉社)
K・キージー『郭公の巣』(岩元巌訳、富山書房)
H・グリーン『デボラの世界(邦題)』(佐伯、笠原訳、みすず書房)

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