作
大きいおばさん
小さいおばさん
新幹線ひかり号が、東京駅のホームに滑るように入ってきました。ホームのベンチに腰掛けていた中年の女の人が立ち上がり、電車の中をしきりにのぞき込むようにして、誰かを捜しています。おおかたの人が降りたあと、ゆっくりとした足取りで、白髪の老婦人が降りてきました。
「おばあちゃん、ようこそ。お疲れさまでした。」
中年の女の人が声をかけました。
「まあ、まあ、信子さん、お迎えご苦労様。」
老婦人は嬉しそうに顔をほころばせました。おぼつかない足取りで、電車のステップをを下ります。年は八十を過ぎたくらいでしょうか、階段の上り下りは時間がかかりますが、平らなホームを歩くのにさほど苦労はないようです。
「おばあちゃん、今日はちょっと歩くから、ステッキ買いましょうよ。」
「またステッキの話?なんだか年寄り臭くていやだわ。」
「そんなこと言ってないで、さ、」
このまえから信子さんは足の弱ったおばあちゃんにステッキを買うように勧めていたのですが、おばあちゃんはなかなかうんと言いません。信子さんはおばあちゃんの手を引いて、どんどん駅の中を歩いていきます。八重洲の中央口に出て、大丸に入りました。入り口でお店の人にステッキ売場を訊くと、エスカレーターで地下におりました。旅行カバンの売場の隅っこに、ステッキを並べたコーナーがありました。おばあちゃんはまだ気が進まないらしく、遠まきにして見ています。信子さんが幾つかのステッキを手に取って選び始めました。
「これがいいわ。」
信子さんが手にしたのは、ピンクがかった瑪瑙に似せたプラスチックの柄の付いたステッキです。杖の部分はえんじ色のアルミ製で三つに折れて小さくなります。
「軽いし、折り畳めばハンドバッグにも入れられるのよ。」
「長さは身長に合わせしてお切りしますが、・・・いまのままでちょうどよろしいのでは?」
売場の女の人が、丁寧に応対してくれました。おばあちゃんが渋々手にとって床に突いてみます。
「なかなかいい感じでしょ。これにしましょ。」
信子さんはさっさとお財布からお金を出して売場の人に渡しました。
「さ、行きましょう。」
信子さんに促されて、おばあちゃんは新しいステッキをさかんに気にしながら、信子さんの後に付いていきました。
「今日は暖かいしお昼は外でいただきましょう。」
信子さんは食品売場でおばあちゃんの好物の『米八のおこわ弁当』を買いました。炊きたての山菜おこわに、お魚の塩焼き、お煮しめに鶏肉の八幡巻き、信子さんの大好きな厚焼き卵、そして煮豆にお香の物が添えてありました。まだ、ほんのり温い包みを下げて、又JRの構内に戻りました。
「中央線は一番よ。向こうの端だわ。」
長いエスカレーターを登ってホームに出ると、赤い電車が止まってました。
「中央特快だわ。ちょうどよかった。」
「うん。」
おばあちゃんは信子さんに遅れまいとして一生懸命歩いたので、ちょっと弾んだ息でうなずき、にっこり微笑みました。それと駅の構内を歩いただけだったけれど、ステッキの使い心地がとても良かったので、内心すごく嬉しかったのです。でもまだ少し恥ずかしくって、行きかう人達が皆自分の手元ばかり見てる様な気がしました。電車は座席を半分位埋めて発車しました。段々混んできて四十分足らずで国分寺駅に着き、どっと降りる人達に二人も続きました。
おばあちゃんは5年前におじいちゃんを亡くしてから、旅に出るのが楽しみでした。それも全国の国分寺、国分尼寺、そして総社巡りをしてるのです。一人では心もとないので、
今回武蔵国は次男のお嫁さんの信子さんに頼んだのです。夏には孫と常陸国を訪れました。まず、国分寺駅前の殿ケ谷戸庭園からです。色とりどりの落ち葉の舞うお庭の池の回りをゆっくり散策して、住宅街に出ました。昔将軍が鷹狩に興じた『お鷹の道』を辿って、武蔵国分寺跡に着きました。新田義貞の鎌倉攻めの折り焼け落ちて、今は草原に礎石を残すのみです。広大な敷地に在りし日の七堂伽藍の偉容を偲び、二人は礎石に腰を降ろしました。小春日和のぬくい陽射しを浴びて、信子さんは持って来た小型ポットの熱いお茶をおばあちゃんにすすめました。
「あら、もう一時だわ。お弁当にしましょう。」
「信子さん、ありがとう。ステッキのお陰でこんなに歩いたのに平気よ。」
「そう。よかった。」
厚焼き卵をほうばりながら、信子さんも嬉しそうです。食後のみかんを口に運びながら、初冬の抜ける青空にちぎった綿を散りばめた様な雲に紛れて浮かぶ昼の月を、ぼんやり眺めていると、信子さんと同年輩のグループがちょっと会釈をして通り過ぎました。おばあちゃんはもうステッキの事は全然気になりませんでした。その一団とすれ違いに向こうから、鳥打帽子にダウンのチョッキのおじいさんが近づいて来ました。ステッキをひょいひょいとうまく操っています。信子さんとおばあちゃんは揃っておじいちゃんの手元を凝視して、思わず腰を浮かせました。おじいさんのステッキが同じだったのです。そう、瑪瑙の柄の。色違いでちょっと青みがかった瑪瑙の柄のステッキだったのです。
「いいお天気になりましたね。」
そのおじいさんが、立ち止まって二人に声をかけました。
「ええ、いいお日和ですね。お散歩ですか?」
信子さんがお相手をします。
「はい。リハビリには歩くのが一番いいらしいですから。」
「まあ、お体悪くされていらしたのですか?」
おばあちゃんが心配そうに訊ねます。
「はい、三ヶ月ほど入院生活をしましてね。退院してから息子の嫁がほれ、このステッキを買ってくれました。それで歩くのを始めたんです。」
「あら、私のステッキもこの信子さん、次男のお嫁さんが今し方買ってくれたんですよ。ステッキは、誰かに買ってもらって使う物のようですね。ほほほ・・。」
「いやいや、ステッキを馬鹿にしてはいけません。ずいぶん歩くのが楽になりました。それにステッキを使うようになって、私は今まで見えなかった物が見えるように、聞こえなかった音が聞こえるようになったのですから。さてと、もう少し歩きますか。では、私はこれで。」
そう言っておじいさんは鳥打帽子に手をやって挨拶をすると、また歩いていきました。
「まあ、面白いことを言う人ね。さあ、私たちもそろそろ帰りましょうか。」
信子さんはお弁当の包みにミカンの皮を押し込んで、立ち上がりました。二人はそのまま西国分寺駅の方へ歩き始めました。ちょうど向こうから威勢のいいかけ声と共に、近くの大学の学生でしょうか、スポーツ選手の一団が駆けてきました。三十人はいるようです。お揃いのユニホーム姿で地響きを立てて近づいてきました。信子さんが慌てておばあちゃんの手を引いて道をあけようとしましたが、学生の勢いには間に合わず、おばあちゃんだけが道の真ん中に取り残されて集団に飲み込まれてしまいました。おばあちゃんはステッキの柄に両手でしがみついて、ぎゅっと目をつぶりました。大声のかけ声と足音が轟音となって耳元を走り抜けます。
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「大野先生には参ったよ。いきなり当てるんだから。」
「まあ、また居眠り?」
轟音が一瞬途絶えて、おばあちゃんの耳に男女の学生の声がします。
「おれ、慌てて教科書を読んだら、みんな大爆笑。ぜんぜん違うところを読んでいたんだ。
大野先生ににらまれてしまった。」
「『紫のひともとゆえに武蔵野は草はみながらあはれとぞ見ゆ』(作者注:古今集)でしょ?」
女の子がそらんじて言います。
「それそれ、おれ、古文苦手なんだ。いつも居眠りしてしまうんだ。」
「でも渡辺君は数学が良いもの。羨ましいわ。」
「二人の国語と数学を合わせれは、入学試験も恐くないんだがなあ。」
「ふふふ・・ほんとね。」
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おばあちゃんはびっくりしました。そこにいるはずのない二人の会話がします。そのとき、
「おばあちゃん、おばあちゃん、だいじょうぶ?」
信子さんの声です。ランニングの一団が去って、おばあちゃんが道の真ん中に取り残されていました。
「ああ、びっくりしたわ。目が回ったでしょ。若い人たちは元気ね。エネルギーの塊だわ。」
「信子さん、変なの。あの中にいるとき不思議な声がしたのよ。一体誰かしら。」
「誰って・・・。今通った学生のかけ声ですよ。」
「変なのよ、私の生徒の声みたい。高校の教師の時の。」
「まあ、ずいぶん昔のお話ですね。おばあちゃんが国語の教師をしていたときのことですか?」
おばあちゃんは名古屋に一人で暮らしてました。なんだか気楽でまだまだその方が好い様に思われたからです。東京から帰ると、瑪瑙のステッキの手を借りて散歩に毎日出るようになりました。随分遠くまで足を延ばす事もしばしばありました。
こんな事がありました。小公園の日だまりのベンチで一休みしていると、初老の紳士と孫と思われる坊やが、ボール遊びにやってきました。
「あら、おじいちゃんだわ。」
おばあちゃんは、思わず立ち上がろうとして瑪瑙の柄に力をいれました。しかしもう少し様子をみてみようと、浮いた腰を元に戻しました。
「おじいちゃん、いつもここで遊んでやってくれてたのだわ。」
孫の投げたボールを受けそこねて、おじいちゃんがこっちに走って来ました。
「おじいちゃん。」
と、声をかけようとしたその時、後の大通りで車のクラクションと急ブレーキのけたたましい音に、飛び上がって振り向くと、赤い車が何もなかったかの様にすうとスタートしました。おばあちゃんはほっとしてかしらを直すと、もう、おじいちゃん達の姿はありませんでした。不思議な事に、おばあちゃんの心にすきま風がぴゅうぴゅう吹き込み、瑪瑙の柄をさする様な思いで散歩に出掛けると、そんな時に限って誰も現れてはくれませんでした。その日、午後から訪れる女学校以来のお友達にと、彼女の大好きな和菓子を求めに商店街まで出掛ける途中でした。何だか瑪瑙のステッキを持つ手も軽やかにうきうきとして角を回ると、門の脇にきじがらの猫がうずくまっていました。
「おやおや、可愛い猫ちゃんだこと。」
なでようとしてかがむと、猫の方からおばあちゃんに擦り寄ってきてゴロゴロ喉を鳴らします。
「キュウちゃん!おまえは、キュウちゃんね!」
おばあちゃんが女学生の頃、飼っていた猫でした。キュウちゃんはするりとおばあちゃんの手元を抜けると、のそのそ歩き出しました。
「おや、まあ、キュウちゃん何処に行くの?」
キュウちゃんは塀に登ったり溝を飛び越えたりしながらどんどん路地奥に入って行きます。
「こんな所にもいっぱいお家があったのだわ。」
キュウちゃんはその家の前にたどり着くと、松の枝から屋根に飛び乗り向こう側に消えてしまいました。
「あら、あら、」
ふと見ると、その家のガラス窓の中の障子が半分程開いていました。若いお母さんが、うつむいて赤ちゃんにおっぱいを上げているところでした。襖がすうと開いて若いお父さんが入って来ました。
「お、お父さん!」
おばあちゃんは立ちすくみました。おばあちゃんのお父さんは赤ちゃんのほっぺを人差し指でちょっとつつきました。おばあちゃんは大きく見開いた目から大きな涙の滴を一粒瑪瑙の柄に落とすと、くるりと踵を返しました。
おばあちゃんは最近すごく調子が良くなりました。足も痛まないし、腰も良く伸びます。夜だってぐっすり眠れるのです。
「信子さんの瑪瑙のステッキのお陰だわ。」
おばあちゃんは会ってみたいなと思ってる人があと一人いました。今日は時々薄日が差すだけのどんより寒い日でしたが、おばあちゃんは一枚余分に着込むと、ポケットに五円玉をすべり込ませ、瑪瑙のステッキを取っていそいそといつものように散歩に出かけました。ほお刺す北風にはやかすかに春の気配が感じられます。少し歩けば体がほてりそれが気持ちよく肌をなでます。まもなく鳥居が見えてきました。よく回るコースの城山神社です。織田信長の弟信行の居城だった末森城跡で、小高い丘の上にあります。正面の石段を避けて山道に入りました。若い人なら数分の道のりをゆっくりゆっくり辿ります。歩を休めれば鳥が行きかい、見上げれば梢の小枝が騒ぎます。ほどなく木立のまにまに社が見え隠れして来ました。
境内は人影もなく、ひっそりとしていました。社務所には白い着物に赤い袴の巫女さんが一人、お札の売場に座っていました。おばあちゃんは軽く巫女さんに会釈をして拝殿にすすみお詣りをすませ、人影がないのを見て拝殿の前の木の階段に腰をかけました。新しい年が明けて今は一月も半ば過ぎ、初詣の喧噪を終えた神社は、しんと静まり返って、時折モズやオナガの鳴き声だけが響きます。梅の古木が黒々とした枝に二つ三つ、白い花をつけていました。おばあちゃんはほっと息をつきステッキの柄に両手を重ね鳥の声のする方を見やりました。しばらくして正面の石段から人声がしてきました。石段の向こうから若い学生四・五人の頭が次々に見えてきました。お詣りに来たようです。楽しそうに話しながら社務所で絵馬を買い、なにやら願い事を書きつけています。受験の願い事のようです。
「ねえねえ、なんて書いたの?」
「秘密!」
「うわっ、五つも大学名を書いてる。欲張りね。」
「私はこれ一つだけ。だからきっと受かりますように。」
「俺、予備校も一つ入れといたよ。せめてこれだけでもって。」
「まあ、ふふふ。」
「はっはっはっは・・。」
思い思いの願い事をしたためて学生達は絵馬を絵馬かけに結んでから、拝殿の方にやってきました。その中の一人の女学生がおばあちゃんの方を見たときおばあちゃんはあっと声が出そうになりました。おかっぱ頭のその女学生は冷たい外気にさらされた頬を赤く染めて、勢いよく白い息を吐きながら、はちきれそうな生気に満ちたその目はきらきら輝いていました。おばあちゃんと目が合うと少しほほえんで会釈をし、すぐ他の学生達との会話に戻るといっしょにお詣りを済ませ、おばあちゃんの脇を通り抜けて拝殿を出ていきました。そして石段を下りる前にまた振り返っておばあちゃんを見て会釈をし、石段の中に消えていきました。明るい笑い声とおしゃべりが、いつまでも聞こえていました。
一人境内に残されたおばあちゃんはその声が聞こえなくなるまで、じっと座って聞いていました。
「私が会いたいと思っている人たちをこのステッキは知っていたのね。」
先ほどの女学生は、おばあちゃんその人だったのです。もう一人、会ってみたかった自分自身のかつての姿でした。------でも、本当はそうではありませんでした。帰り際に石段を下りていくときもう一度振り返った女学生は知らない顔の女の子でした。
国分寺で出会ったおじいさんが言ったように、信子さんに買ってもらったこの瑪瑙の柄のステッキを使うようになってから、おばあちゃんは次々ともう会えないはずの昔の人に会うことが出来ました。何十年も前の教え子や五年前になくなったおじいさんや、若い頃の父親、昔飼っていた猫まで。みんな懐かしい顔ばかりです。でも、いま考えて見ればそれはどこにもある風景で、おばあちゃんの父親だったり教え子だったりの確かなものではなかったように思えてきたのです。ちまたの風景の中に自分の思い出を重ね合わせていただけだったのかも知れないと、おばあちゃんは思うのでした。
どんよりとした空はいっそう雲をあつくして、今にも降り出しそうです。おばあちゃんは瑪瑙の柄をさすりながら、
「でも、もういいのよ、ステッキさん。会いたい人はいつも私の胸の中にいると言うことが分かったのだもの。それを確かめさせてくれて、ありがとう。」
厚い雲からとうとうポツポツと降ってきました。おもむろにおばあちゃんはステッキを支えにして腰を上げました。雨だと思っていたものは、白い雪でした。
「初雪ね。道理で冷え込んでいると思ったわ。灰色の雨も、冬に降れば真っ白な雪。年を取ってからの方がいいこともたくさんあるのだもの。昔のことはそっと胸の奥に納めておきましょう。」
無限に広がる雲から無限に降り注ぐ雪を見上げながら、おばあちゃんはつぶやきました。
「『草も木も降り紛へたる雪もよに春待つ梅の花の香ぞする』(作者注:新古今集)か。さて春になったら、また国分寺巡りを始めなくちゃ。今度はどこがいいかしら、ステッキがあるから、ちょっと遠出をしてみようかな。」
おばあちゃんはステッキを握りなおして、ゆっくりと石段を下りていきました。
おわり
一九九七年一月十八日完結
作者プロフィル
大きいおばさん 千葉県千葉市在住
小さいおばさん 東京都あきる野市(旧秋川市)在住
二人は高校時代の親友で、このお話はパソコン通信の電子メールをリレーして作りました。