ザッツ11 「あなたはアナログ手帳派?デジタル手帳派?」 アナログ手帳も馬鹿にするな 2001年2月27日

ビッグローブの雑誌「サーイ・イサラ」の2001年3月号の33ページに表題の「世論調査」の記事があった。集計結果は、アナログ手帳派が60%、デジタル派(電子手帳派)が40%の結果であり、編集部(?)の総評には『まだ若干の差でアナログ派優勢という結果に終わりました。ただ、3年後、5年後はどうなっているかサッパリわかりません。携帯電話のように普及率が一気に上昇、(中略)今後も注目していきたい対決です』とまとめてある。

面白いのは、それぞれの派の声が出ていることだ。まず、アナログ派の声では、『アナログ手帳はあれこれ考えることがなく、思うままに記入できるのがいいところ。書いた時の文字の様子で、その時の心境がわかるのも面白い』という意見に注目したい。僕も「情報管理の部屋」で書いているが、「メモには五感をメモる」のであり、僕も同感である。一方、「デジタル派」の代表は『データの修正や保存が簡単だし、バックアップがあればデータが壊れても修復可能だから、自分は断然デジタル派!』というもの。僕はこの指摘にも大賛成である。

上記の調査は「二者択一」の質問だったのかどうか知らないが、もしかりにそうだったら、僕はどちらを選択するであろうか?「アナログ手帳」とは、持ち運びに便利な「手帳」であることは明確なようで、一方、デジタル派は『電子手帳』(携帯電話を含むようであるが)を指しているらしい。だとすると、僕は、現時点では「アナログ手帳派」に近いことになる。しかし、僕の考えは、「メモとデジタルの併用、それもメモに重点を置く派」とでも言おうか。その理由は、『情報管理の部屋』では、明確に書いていない(いや、書いてあるのだが、におわせてある)ので、あらためてここで整理してみたい。

この問題は、「モバイル」環境の問題ではないだろうか?「モバイル」(modile)とは「移動可能な」「活動的な」と言った意味だ。すると何故か、江戸時代の「矢立」(墨壷と筆を入れる道具)を僕は思い出す。「矢立」はモバイル筆記用具であった。「奥の細道」を紀行した松尾芭蕉は「是を矢立の初として、行く道なほすすまず」と書いている。当時高級品であった「半紙」(和紙=メモ用紙)と組み合わせれば、これは立派な「現代版手帳」ではないだろうか。僕はおそらく、江戸時代前から、竹でできた筆を竹の筒に入れていたのが「矢立」の原型だと思っている。何れにせよ、手帳の歴史は古いと思う。数年前、その「奥の細道」の草案文書が発見され、岩波書店から出版された。松尾芭蕉の「推敲の痕跡」(「用語の選択・一字一句の吟味など、実にアナログな世界だ)を記す貴重な文献らしい。この「江戸モバイル」は、今日でもおおいに活躍していると僕は思う。

前置きはとにかく、そもそも「モバイル」では、「どんな環境で、どんな中身を、どんな手段で記録するのか」で、その優劣が決まるのではないかと思う。特に「どんな手段で記録」するかに関して、アナログ手帳(筆記)とデジタル手帳(数値化)でもっとも異なる点は、「データの加工・検索・共有・互換性」ではないかと僕は思う。この「データの加工・検索・互換・共有」こそデジタルの最大のメリットがあるのではないか。だとすると、「加工・検索・互換・共有が必要な中身」にこそ「デジタル」機械を使うことになるだろう。その中身は人によっては異なるが、イメージとして僕の場合「じっくり腰を据えて、作成する文書」となる。じゃ、「じっくり腰を据えることができる環境」は、どんな環境であろうか。一定のスペースがあり、一定の電力が確保でき、一定の自分だけの時間が作れる環境ではないだろうか。これを考えると、今、はやりの電子手帳の類(パームトップタイプ=手のひらタイプ)では「じっくり腰を据える」には物足りないと僕は思う。まずは入力に問題がある。逆にいえば、「じっくり腰を据えて、作成する必要のない文書」は走り書きで充分であり、わざわざ、「入力しにくい(あつかいにくい)機械」を使う必要がないと僕は思う。

この項で僕が言いたいことは、アナログであろうとデジタルであろうと、そこに書かれた(入力された)ものの中身にこそ注目すべきではないかということなのである。この問題の根底には「もっと重要」なことがあると僕は思う。今後、述べたい(というより、聞いて欲しい)。

 

ザッツ談の部屋に戻る