ジョジョ界における『運命』とは?

 さてジョジョの世界における『運命』とはどんなものなのでしょうか?その世界観を作者の言葉と劇中から探ってみようと思います。とにかく長いので、結果だけを読みたいという方はこちらへどうぞ。

α:63巻・著者
『連続』−(略)この世には連続するどうにもできない「運命」というものを認めざるを得ない。しかし一方で「運命」で決定されているとなると、努力したり喜んでも仕方がないという考えも生まれてくる。そこなんですよ。人間讃歌を描いていて悩む点は。答えはあるのか?

β:79巻(SO16巻)・著者
 マンガ編集者は普通、お昼すぎから出勤する。20数年前、ぼくが原稿を集英社に持ち込んだのは午前中だった。だが、たまたまひとりだけ出勤していて、その人に原稿を見てもらった。彼は『ジョジョ』の初代編集者であり、彼の意見と影響は、あまりにも大きい。午後に行ってれば、きっと違う編集者で、その人の影響を受け、違う作品になっただろう。
 「運命」は偶然でなく理由がある。『ジョジョ』の中では、この考え方をとる。科学的には証明できないかもしれないが感覚がそうだと言っているからだ。

γ:80巻(SO17巻)・著者
説明がムズかしいんだけれど、マンガを描いていると『重力』の存在というモノをすごく感じる(略)主人公が作者の意に反して行動せざるを得ない時とか、絵にも描かざるを得ない絵というのが出てくる。これをぼくは『重力』と感じ、『重力』とは『運命』だと感じるのだ(略)。

δ:各々の予知能力
100%当たる。ただし予知観察者が解釈した通りになるとは限らない。

ε:46巻・早人
「おまえに味方する『運命』なんて(略)ここにある「正義の心」に比べればちっぽけな力なんだッ」

ζ63巻・スコリッピ
「あれは『運命の形』なんだ(略)ブチャラティは近いうちそうやって死ぬ…われわれはみんな『運命の奴隷』なんだよ」
「形として出たものは…変えることができない」
「彼らが『眠れる奴隷』であることを祈ろう……目醒めることで…何か意味あることを切り開いていく『眠れる奴隷』であることを…」

η:80巻(SO17巻)・エンポリオ
「人の出会いも重力」
「「正義の道」を歩む事こそ「運命」なんだ」

θ:80巻(SO17巻)・神父
「わたしが死んだら人類の「運命」が変わってしまうぞ」
「きっと違う未来になる」



Q1.運命とは?

 運命とは何でしょうか?広辞苑によると「人間の意志にかかわらず、身の上に巡ってくる吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。転じて、将来のなりゆき」。そして運命により事前にあらゆることが決められているとする説を「運命論」といいます。運命論では、人間がどんなにあがこうが事前に決められたことの前では無駄に終わってしまう。ジョジョの世界ではこの運命論を採用しているようです。ただし運命論者の必然の葛藤として、人間の「努力」や「意志」などは塵芥と変わらない無駄なものかというものがあり、荒木先生も当然のことながらそれを抱えています。エピソードαやζからもそれがうかがえます。

Q2.運命は変えられるのか?

 運命論を採用しているからにはもちろん変えられません。ただしジョジョの世界を検討してみると、何から何までガッチリと決められているわけではなく時間の流れの中のあるポイントを「結果」として、そこまでの「過程」はある程度は変更可能であることが解かります。

Q3.予知とは?

 さて、疑問点が多いのが「予知」です。予知能力で獲得した「未来の画像」は100%当たるのですが、予知を見た者が得た解釈とは異なる場合があります。

 例えば、トト神の予知した「承太郎が射殺される」という予知は、トト神の予知したマンガの承太郎が弾丸に貫かれるものでした。これを運命論的に考えると、トト神が予知をするのも運命であってマンガの承太郎を撃たれるのも決まっていた…ということになります。実はよく考えるとおかしいことがあります。何故「撃たれる運命のない承太郎が予知に出てくるのか」というパラドックスとなるのです。これはトト神が予知するのも運命だからという問題ではなく、「100%当たる予知」能力なのだから当たらない映像は勿論として、実はマンガの方が撃たれるといった捻った予知映像が出るのは個人的な感覚に留まらないで不自然でしょう。

 この現象を熟考してみますと、実は予知とは「運命を見ている」のではなく「運命を決めている」能力ではないでしょうか。すでに決められている運命に対して、予知能力者は無意識的に「運命(=未来)を決め直している」。その決められた運命に対して逆らおうとするパワー…予知能力者本人の予知回避行動、元々の運命と予知との食い違い、強運等等…により、一応100%当たってはいるが解釈が異ならざるを得ない結果が起こるのではと思います。
 例えば、本来の運命としては承太郎は2011年のケープ・カナベラルまでは生き残るが、トト神の予知として承太郎の死亡が決定されたため、その折衷案としてマンガの承太郎を弾丸が貫くという結果になってしまった。

Q4.重力とは?

 γを読むと、面白いことに作者である荒木先生も「ジョジョ界の運命」に巻き込まれている…らしいです。俗にいう、キャラが勝手に動くという現象のことでしょうか。それを荒木先生は「重力」と表現しています。

 そして興味深いのがβとηです。「人との出会いも重力」。荒木先生と初代編集者(恐らく椛島編集者、ヒエログリフを読める位のエジプト通)のように、出会いは重力であり運命。運命には必ず意味がある…この考え方をジョジョの世界ではとっているようです。例えば、ウェザーとペルラが出会ったことにより、ウェザーと神父の深い対立が生まれ、最後には神父による『天国』の完成を阻止しました。

Q5.正義とは?

 εとη、奇しくも子ども達が言った言葉。正義の道が運命とは、私の本心としては青臭いなぁ〜と思ったりしていますが。ただ、あながち間違ってもいないとは思います。神父が『天国』を完成できなかったのも、エンポリオを殺そうとした正義から外れた行動のためですし、他人を殺すことを欲望としていた存在自体が悪の吉良が討伐されたのも当然だったのかもしれません。ついでに言えば、ディアボロは自身の正体を隠したいがために実の娘を殺そうとしなければ組織の頂点に居続けられたでしょうに(それとも殺そうとしたことも運命だったのか)。
 特に神父は、エンポリオに自分が殺されるかもしれないことを容認して『天国』の完成を優先させておけば、ウェザー・リポートに殺されて全てが水の泡になる等ということはなかったでしょう。


まとめ
「運命」とは「決定されている未来」であり、また「人と人との出会い(=重力)」のことである
「運命(=未来)」はあらゆることが決定されているわけではなく、「結果」と言う「特別な瞬間(ポイント)」のみが決定されている。特に「死」に関しては決定されていることが多く、それを覆すことは非常に困難である。そして、結果へ到達するまでの「過程」はある程度の変更が可能である。
「予知」とは運命が決定していた未来をさらに「決定し直す」能力である。ただし、この「未来」は「一〇〇%当たるが予知能力者の解釈通りではない」こともある。これの理由としては「元々の運命との折衷」や「人の自由意志による努力」、「強運」などがあると思われる。
「運命」とは「人と人との出会い」であり、「出会い」とは「重力」である。何故、人と人は出会うのか?それは何らかの意味があるからであり、意味があるからこそ人と人は引き付けあって出会う。短い人生と狭い視野しかもたない我々がその「意味」を知ることは、通常ではありえないであろう。
「正義の道」を歩むことは「運命」か?ここで言っている運命が何を指しているかはハッキリとしてなく、漠然としている。言葉どおりに正義に運命が味方するかということに関しては、必ずしもそうではないだろう。「黄金の心」を持つ者が「最悪」に屈することもあるのだから。ただし、最後の神父に関して言わせてもらえば、「正義の道を歩まなかった」ことが運命に負けた敗因となっている…あの場面(ウェザー・リポートに神父が殺害されかけている場面)でのエンポリオのセリフは正しい。


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