にしき石の歴史

■縄文時代〜弥生時代
青森市にある三内丸山遺跡[約5500年前-4000年前]にて、加工や使用の痕跡のない青森産の錦石が出土。
また、青森市岡町遺跡からもこぶし大の錦石2個出土。その他県下各地の遺跡より、錦石の石鏃や石錐、瑪瑙(めのう)の石匙や赤瑪瑙のまが玉等の石器や装飾品が出土している。

■江戸時代:寛永年間(1624〜1643)
若狭の藩士玉屋喜平が、故あって故郷を出奔し津軽へ落ち着いた。 そのとき、津軽玉の製作を見て故郷の若狭瑪瑙を思い出し、弘前で製作技術を修行した後帰郷した。 若狭の国へ帰った喜平は、珠作りの技術を広く伝え、現在の若狭瑪瑙細工の隆盛をもたらしたと云われている。
後年、玉屋喜平の技術の流れを継いだ玉屋弥助が甲斐の国に入り、有名な山梨水晶細工の基礎づくりに貢献したと伝えられている。
若狭や甲州では珠作りの技術が伝えられていったが、本場の津軽玉は影をひそめ絶えてしまった。

■江戸時代:天和3年(1683)
津軽藩四代藩主政信公は、今別石と驫木浜の石を共に献上させたとある。

■江戸時代:天明年間(1781〜1788)
有名な旅行家、橘南谿・菅江真澄・古河古松軒等が、紀行文に津軽の石を色々紹介している。
菅江真澄は、「遊覧記」に数ヶ所錦石のことを記しているが、それらの石の名を今別石としている。
橘南谿は、今別朱谷(砂ヶ森)の今別石を津軽玉とも宝石とも云っており、江戸・大阪・京都では、緒締めや簪として愛玩されたと記している。

■江戸時代:寛政初年(1789)
近江の人で石の長者といわれた木内石亭が、「奇石産誌」に陸奥の外が浜袰月の舎利石やその他の石を津軽石として紹介している。 石亭は津軽石を「棗桃のごとくして赤白相交じり、人の手の筋のごとくうずまき、美なることこの石におよぶものなし」と絶賛している。

■江戸時代:享和2年(1802)
伊能忠敬の「測量日記」にも錦石が登場し、今別の地に津軽石有と記している。

■江戸時代:弘化元年(1884)
松浦武四郎が「東奥沿海日誌」に、深浦村にある珍品として錦石の名をあげている。 「錦石…錦川の浜辺により出る由、青石赤石等多く接りて色良くなり汐干には甚だ美しきものなり」と記している。 これが文献における「にしき石」という言葉の初出ではないかと思われている。

■明治中期
若狭の国遠敷村の中川清助氏が、初めて珠以外の飾り物細工を行い、その技術が養子の中川貴一氏に伝えられた。 徒弟として中川家に入った津軽の人、石戸谷勝雄氏は、約十年間に渡って石工技術を習得し一時弘前に帰ったが、招かれて再び若狭に入った。

■昭和10年(1935)
再び弘前に戻った石戸谷氏は、和徳町に工房をかまえ瑪瑙細工を続けた。その頃、今別で拾い集めた錦石の研磨を依頼され、 再び錦石の加工が行われることになった。

■昭和31年(1956)
5月3日、弘前城西の丸で「にしき石同好会」が発足した。当初は石戸谷勝雄氏の後援会的性格が強かった。

■昭和35年(1960)
弘前本部の他に弘前支部、東青支部(現青森県にしき石愛好会)、金木支部を置く。 同好会の機関誌も「石之精」をはじめ、東青支部の「石の華」、弘前支部の「にしきいし」、金木支部の「まがたま」等も断続的に発行された。

■昭和38年(1963)
全国的な石ブームと共に会員も多くなり、東青支部が分離独立し「青森県にしき石愛好会」となった。 研磨技術も進歩し加工販売業者が増えると共に、アマチュアの愛好家も多くなった。

■昭和末期
石ブームも衰退し、会員数も減少の傾向を見せる。
また、にしき石自体も環境の変化(海岸のテトラポットの設置、河川における砂防ダムの影響)等の理由で、表出する数が減少の兆し。 にしき石の県外への大量流出という問題も起こってきた。

■平成8年(1996)
3月、にしき石が青森県伝統工芸品として認定される。

■平成14年(2002)
3月、にしき石の加工業者2名が県の伝統工芸士として認定される。

■平成16年(2004)
3月、伝統工芸士である小田桐吉津氏が「伝統的工芸品産業功労者褒賞」の稀少工芸品産地部門で褒賞を受賞。 錦石の研磨技術の研究ならびに長年にわたる人材育成が評価されたもの。


参考文献:郷土史「うとう」58号(津軽のにしき石)義之英公著1963年青森郷土会


錦石とは
にしき石の種類
青森県にしき石愛好会
リンク集

トップページに戻る