仕事納めの翌日である 2008年12月27日(土)は快晴との予報だったため、
山に行くことにした。
向かったのは信濃川上。この近辺にある未踏の山を狙うためである。
ところがである、中央高速道を須玉ICで降りて国道141号線を北上し、信濃川上への入口となる小海線 野辺山駅が近づくに連れ、
周囲は完全に雪景色へと変わり、野辺山駅を過ぎたところで川上村へと向かう道路に入ったら、完全に道は雪で覆われていたのであった。
この先、平らな道が続くだけならば何とかなるかもしれなかったのだが、山道もある訳で、とてもノーマルタイヤではたどり着けるはずがない。
自分の読みの甘さを呪いつつ、すぐに Uターン。また須玉ICへと戻る羽目になったのであった。
空は快晴、こんな良い天気の日にこのまま家に帰る訳にはいかない。
ということで、須玉ICに戻りながら代替の山をどこにすべきかについて頭を巡らせた。
そして思いついたのが、南大菩薩縦走の縦走である。
他に 茅ヶ岳なども思いついたのだが、
南大菩薩も含め、いずれも再訪となる。
それならば、前から気になっていた景徳院から南大菩薩を登るべきと思った次第で、早速須玉ICから中央高速道に乗り直し、
勝沼ICに向かったのであった。
景徳院が気になっていたというのは、そこが武田一族の菩提寺と聞いていたからで、
過去に小金沢連嶺の縦走や南大菩薩縦走の後、
湯ノ沢峠から甲斐大和駅 (昔の初鹿野駅) に戻る長い車道歩きの終わり間際に、
いつも景徳院の前を通っていたからである。
しかし、いつも景徳院に至る頃には時間が遅くなっており、また長い車道歩きにくたびれてしまって、立ち寄ることをしなかったから、
いつかは寄ろうと思い続けていたのである。
景徳院は甲州市大和町田野にあり、この田野は武田一族の終焉の地である。
甲州市観光協会のホームページによれば、
天正10年 (1582年)、織田・徳川軍との戦いの中、武田勝頼は日川渓谷沿いに天目山をめざしたが、
この田野で激戦の末、悲惨な最後をとげたとのこと。その年の七月、徳川家康が武田一族の冥福を祈るため建立したのが、
天童山景徳院ということで、天正十六年 (1588年) に完成したという。
七堂迦藍の立派な寺であったらしいが、二度の大火で焼失し、当時の建物としては山門を残すのみということである。
景徳院の向かい側の駐車場に車を駐め、身支度をして出発。
小海線野辺山駅からの Uターンなので、時刻は既に 8時54分になっている。