「あら……読子ちゃん、ボタンが取れてるわよ」
「え?」
別れは一瞬引き延ばされ、読子は指摘された自分の上着を見る。
みれば確かに上着のボタンが一つ、糸が解れて垂れ下がっている。
気がつかなかった。だらしがない女だと思われなかっただろうか。
次に発せられたゆきなの言葉に、読子は耳を疑う。
「ちょっと貸してごらんなさいな? すぐ付けてあげる」
そんな事はさせられない。
「大丈夫です、後で自分で付けます」
「いいからいいから」
ゆきなはそっと手を伸ばす。
断りたい。そんな事はさせられない。
それでも、その白い指に手渡したいという誘惑は何物にも代えがたかった。
読子は上着を脱いでゆきなに手渡した。
「椅子、借りるわね」
ゆきなは持ち歩いているソーイングセットを取り出すと、ぱちぱちと糸を切ってボタン付けを始める。
長身のゆきなが小さな針で器用にボタン付けをしていく光景は、どこか微笑ましい。
それでも手芸部部長だけあって手際はよく、くるくると針を動かしてあっという間に縫い付けていく。針の運びに迷いはない。ミシンのように正確に、踊るように優雅に。
窓辺から差す光が、まるで天使の梯子の如く一筋の光明となり、ゆきなの手元を照らす。時を止めて、閉じ込めてしまいたい。それはまるで、おとぎ話の織手のように美しい。
時間にしてどれほどだっただろうか。
早かった気も長かった気もする。時間などどうでもよかった。
ゆきなは縫いつけたボタンを上にして畳んだ上着を手渡すと、一言詫びた。
「ごめんね、紺の糸が無かったから黒にしちゃったけど、気に入らなかったら後で付け替えてね」
「は、う、えーと、ありがとうございます」
読子は上着を胸に押し抱き、小さくお辞儀した。気の利いた返事が出てこない。
悟られないように息を吸い込む。上着にはゆきなの香りが染み付いている。
「気にしないで、私のお節介なんだから」
ゆきなは穏やかに微笑みながら、ソーイングセットを片付けた。
「先輩、背が高いし、優しいし、何でもできるんですね」
お世辞ではなくそう思ったことを、読子は口にした。読子にとってゆきなは万能の象徴だった。もちろん、それがただの思い込みであることは頭の片隅で理解はしていたが。
そんな読子の言葉にゆきなは苦笑いする。
「何でもってわけじゃないわよ。それに背が高いのは良いことばっかりじゃないし」
「そうなんですか?」
「身長大きいから、初対面の人はなんか引いちゃうみたい。
大きいと目立つし、何かと頼りにされるから結局手芸部でも部長なんかやらされてたりね」
「先輩、そんなに背が高かったら運動部の方が向いてたんじゃないですか?」
「うーん。バスケット部とかバレー部から誘いが来るんだけど、運動は苦手なの。
手芸部に入ったのも、寮にいた先輩の薦めなんだけどね」
謙遜しているが、面倒見の良いゆきなが部を上手くまとめているのを読子は知っている。
「でも、先輩は素敵です」
「おだてても何も出ないわよ?」
素敵、という表現以上の気持ちを込めても軽くいなされてしまう。
微かな失望と安堵。彼女に、自分の気持ちは知られていない。憧れ以上のものがある、その重さに。
椅子に座ったゆきなと、立っている自分の身長が同じくらいだ。わずかに読子の方が高い程度。
普段は見上げるような彼女の顔が等位にある。それはとても不思議な光景。
手を伸ばせば届く位置にある。願っても届かなかったものがすぐそばにある。
吸い込まれる。
花に誘われる蝶のように、誘蛾灯へと誘い込まれる蛾のように。
半ば倒れるようにしてその身を預ける。
得難い物。求めていた物。それは今、自分の中にある。
息をのむ音。読子は自分の位置を知る。腕の中にはゆきなの身体がある。微睡みのように鈍く曇った魂がその鮮明さを増すにつれ、自分が何をしたのかを知る。
「気は済んだ?」
ゆきなの問い。
読子の精神は拘束の解除を命じた。肉体は反射し、両腕を解き、飛び退くように後ずさる。
何をしたのだ。一体何をしたのだ。一体、どうしてしまったのだ。
ゆきなは笑っている。
心臓が音を立てて脈動する。
壊した。私は、今、壊した。私は、今、かけがえのないものを、壊した。
こわしてしまった。
暗転する。
我は死なり。世界の破壊者なり。
「気は済んだかしら?」
ゆきなはもう一度問う。
頷くことも首を振ることも出来ない。ただただ膝から力は抜け、床に座り込むのが精一杯。なんて愚かな。なんて惨めな。魔が忍び寄ったとしか思えない。
自らの行いに恐怖し、放心し、愕然とする読子の前でゆきなはなおも笑う。
そこに嫌悪の相は見られない。ただ笑っている。
「貴女がね、初めてじゃないのよ。そういう風に私を見ているのは」
それが、笑いの理由。
判っています。
知っています。
ごめんなさい。
どれもが言葉にならない。自分が何故泣いているのかも判らない。制御できない。
涙腺からあふれる大粒の涙が何を表現しているのかも判らない。
喉から漏れてくるのは呻くようなすすり泣きの声。それが余計に読子を惨めにする。
いっそ消えてしまいたい。5分前のことを無かったことにして欲しい。
魔法の力は働かない。読子が頼りにしている魔法の源は、悪魔の力だから。
一番大事なときに、一番大事な物を奪っていく。密やかな恋、その宝石のように貴重な時間を。
ゆきなはハンカチで読子の目元を拭う
「ごめんなさい」ようやく、その言葉を絞り出す。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ゆきなの手が、頭の上に載る。くしゃくしゃと、優しくなでる。
「言ったでしょう、私をそういう目で見ているのは読子ちゃんだけじゃないって。泣くほどの事じゃないわ」
「でも、私は、気持ちの悪い子です」
「どうして?」
「女同士なんて、おかしい」
「あらあら。それは困ったわ」ゆきなは笑う。それは今まで読子が見たこともない、蠱惑的な笑み。 「泣いている読子ちゃんは可愛いのに。私もおかしいのかしら」
「先輩はおかしくなんかないです。おかしいのは私です」
「そうなのかしら?私には、読子ちゃんの方がずっと純粋で、私の方が邪に見えるわ」
嘘だ。
本当はそんな事を思っていないのに、この人は私に嘘をついている。
その優しさに涙が止まらない。
嬉しくて。そしてどうしようもなく惨めで。悲しくて。
彼女はそんな読子を待つ。落ち着くまで、ただ、じっと。
涙が止めどなく溢れる、などということはない。涙はいつか涸れる。涙とはそういうものだ。気持ちを押し流して心を鮮明にする生理的現象。
泣いていたら、もっと嫌われる。
息を吸い、吐く。深く吸って、深く吐く。繰り返していると嗚咽がやむ。
気持ちは落ち着いてはいない。惨めな気分のままだ。自己嫌悪で消えてしまいたい。それでも今は逃げられない。彼女は逃がしてはくれない。
「さて、読子ちゃんは一体どうしたいのかしら?」
ゆきなは問う。信者を試す、御使いの如く。