「忘れてください」
それが最良。
「嫌よ」
ゆきなは、読子の言葉をあっさりとはね除ける。
予想だにしない言葉に、読子は呆然となった。
今、彼女はなんと言ったのだ?  『嫌だ』? 意味がわからない。
「どうしたいかと聞いたのは先輩です」
「そうね」ゆきなの声が冷たさを帯びる。「でも、それは嘘でしょう? 私は嘘の答えを聞きたいわけじゃないわ」
「……嘘なんかじゃないです。忘れてください。私は先輩とは釣り合いません。それにこんな気持ちは間違っています」
「あらそう。じゃあ私は間違っているのね」
読子には理解できない。
何故ゆきなが苛立っているのか。ゆきなの言葉には今まで片鱗さえ感じたことの無い怒りが含まれている。
「読子ちゃんはもっと素直で正直な子かと思っていたけれど。思わせぶりな、ただの嘘つきだったという訳ね。がっかりだわ」
ゆきなのぶつける言葉は辛辣で、そこには最早隠そうという意図さえ見えない怒気が込められていた。
この人は本気で怒っているのだ。
でも何故。
何が彼女の怒りに火を付けたのか。
嘘をついた? 違う、嘘ではない。読子は何一つ嘘はついていない。
この想いは成就しないのだ。ならば忘れることが互いにとって最良ではないか。
「読子ちゃんの思い通りになんかならないわ」
ゆきなの影は読子を覆い尽くす。
目の前の憧れの人に、読子は初めて禍々しさを覚えた。
射すくめられるとはこう言うことか。それは陶酔などではない、明確な恐怖。
私は捕らえられたのだ。
顎に手がかかったときも。
濃い影が読子を覆うときも。
そして驚くほどに柔らかく、熱く、甘い、口づけも。

 全てが読子を絡め取る。

「戴いていくわ」

たった一言。
それは厳かで、絶対的な拘束力を持つ言霊。
再び自分の視点が下がる。
膝が勝手に折れ、力が抜ける。魂を吸い取られる。
ああなるほど。
これが腰が抜けた、ということなのか。
「あら、ごめんなさい。ちょっと刺激が強すぎたかしら」
ゆきなは笑う。その笑みはいつものように屈託が無く、澄んでいる。
「さて、正直になるきっかけはつかめたかしら?」
計算尽くだったと言うことか。
怒りなど沸くはずもない。この人は優しい。それはとても残酷で、とても強い事の証だ。
強くなければ、優しくは生きられない。
今更ながら、それが惚れた欲目などではなく紛れもない事実だということを読子は悟る。
それにしても。
「先輩は……先輩はこういうのは、初めてじゃ無いんですか?」
「知りたい?」
質問を楽しんでいる、そんな顔。
「―――もちろん、初めてよ」
初めて、とは思えなかったが、それでも読子はそれを信じることにした。
「前にあんな風に迫ってきた後輩がいたから試してみたんだけど、読子ちゃんはそうなっちゃうのね。感受性豊かでうらやましいわ」 
「その、後輩の人はどうなったんですか?」
「どうなったと思う?」
逆に掛けられた問いに、読子は不吉な予感さえ抱く。
初めてではない。
ということはつまり、読子以外にも居るのだ。 居ても不思議ではない。
つまり。それが意味することは。
私は。
あらゆる否定的可能性へと思考は飛び、平静を装ったつもりでも血の気が引いていくのが分かる。
その表情からゆきなは何かを読み取ったのか、笑いながら首を振った。
「ああ、別に酷いことをしたわけではないのよ、勘違いしないでね。ちゃんと誠実にお断りしたわ。でも、頑張って迫ったのに成就しなかったのはちょっとショックだったみたいね」
止まりかけていた心臓が再び血液を送り出す。
それが身勝手な想いであるとはいえ、読子は深く安堵した。
この人だけは、私の特別だ。
ゆきなはへたり込んだ読子に手を貸すと、椅子に座らせてくれた。「さてと。気持ちの確認が出来たところで一つ心配なんだけれど」
ゆきなの顔が少しだけ曇る。
「そう頻繁には顔を出せないからちょっと待つことになるかもしれないけど、それは許して貰えるかしら?」
いいわけがない。
読子が真に望むのは、そのあらゆるものを束縛し、手の内に留めておくこと。
それは呪いにも似ている。
恋は呪いだ。私は彼女を縛り付けてしまいたい。彼女自身が、私の心を絡め取るように。
それが正しいことではないことなんて知っている。
読子は首を振った。
待つのはつらい。
でも。
「待ちます」
それは矛盾した答え。
ゆきなはそっと手を伸ばし、読子の頭をそっと撫でた。
「読子ちゃんは、強いのね」
それは褒めているようには聞こえない、どこか重たい空気をはらんだ言葉。 両の手を伸ばし、ゆきなに抱きついてみる。許しも得ず。衝動ではなく、自分の意思で。
身長の差は、まるで子供が親にしがみついているような、そんな風に見えることだろう。
読子の頭は、せいぜいゆきなの胸の辺りまでしかこない。
何もいわずに、ゆきなも読子を抱き返す。
身長の差は読子の肩ではなく頭を抱えるような位置にしてしまう。
図らずも読子の顔はゆきなの胸に押し付けられるような形になり、読子は幸福感で窒息しそうになる。
息を吸う。
肺に満たされていく空気が、すべてゆきなのものだ。
「これ、なんだかすごく良いわね」 
ゆきながそんな感想を漏らす。
私もです。
と答えたかったが胸の中で喋るとまるで息苦しさからうめくように聞こえた。
「あ、ごごめんなさい! 苦しかったよね?」
慌てた声。それは初めて聞く声音。まだ知らなかった彼女の一面。
ゆきなが手を解き、一つだったものは再び分かたれた。
ひとつだったもの、互いの体温、におい、質感、そういったものがすべて現実に戻される。
「時々こうしても良いですか?」
「意外と積極的ね」抱き合ったときにずれたベストの位置を正しながら、ゆきなは笑った。「でも、そういうの、いいと思うわ」
読子は赤面のあまり顔が爆発するかと思った。
この人には、かなわない。
「さて、長居をすると部員が心配するからもう行かなくちゃね」
「次はいつですか?」
行かないで、といったら彼女はきっと困る。
「そんな事言われると女郎部屋に通う侍みたいな気分だわ」それでも、まんざらでもないといった面持ちのゆきな。「あまり間の空かないうちに。それに同じ学校の中に居るんだからそんなに心配しなくても大丈夫よ」
そうはいっても。
読子は不安を隠し通すことが出来ない。 知らなければ耐えるのは何とかなる。
知ってしまうと、次が欲しくなる。
恋とはそうしたもの。
思った以上に、自分には堪え性がないようだ。「そんなお預けをくった犬みたいな顔をしないの」
ゆきなの両手が読子の頬へと伸びる。 もう一度、影が読子を覆う。
読子も少しだけ背伸びする。 足りないもの、届かないものを少しでも埋め合わせたいから。
吸い取られるような感触はもう無い。あるのは、ただ火照り。
「これは手付け」
頷く。
しかし、ぬぐえぬ疑問。
「先輩は、それでいいんですか?」
「連れて帰って見せつけるわけにもいかないでしょう?そこが部長の辛いところよね」などと嘯く。
「ずっと一緒にいられる人も居るのに? もっと私よりも素敵な人も居ると思います」
「弱気になった? まだまだ先は長いわよ」
先、の意味することも読子が理解せぬままに、ゆきなは艶のこもった声で付け加えた。
「私はね、自分の気に入った物を手元に置いておきたい主義なの」
閨の睦言の如く、淫りがわしささえ含んだ一言。
再び膝から力が抜けそうになるのを感じながら、読子は思った。
嘘つき。
絶対に慣れてる。初めてなんかじゃない。
膝に力を入れて、立つ。
「離れません」
それは告白。
ついでに宣戦布告。
「頼もしいわね」
ゆきなはバッグを肩に掛けてもう一度読子の頭を撫でた。
「本を借りに来て、彼女までできるとは思わなかったわ」
「私もこんな事になるなんて思っていませんでした」
今自分が立っているのが正しい場所なのか、歯車の狂った世界なのか、読子には判らなかった。
「さて。もう本当に行かないと。それじゃまたね―――読子」
ちゃん付けではなく、名前だけでそう呼ぶ。
「はい」
この瞬間に、自分はゆきなの物になったのだ、という確たる思いを抱いたのだった。

ゆきなは静かに図書室から出て行った。
世界は薔薇色なんかではなかった。
幸福感だけではなく不安でも満たされたその高揚感は言語に窮する感覚だった。
それはなんと表現すべきなのだろう。白も黒も孕んだ、暴風。あるいは竜巻。渦巻く奔流。混乱の極み。
のしかかる重さとその意味に、読子の心臓は規定以上の血を送り続けている。
木漏れ日の差す図書室での、小さな逢瀬。 窓辺に見える、ゆきなの姿。その長身は、豊かな髪を跳ねさせながら、きびきびと遠ざかっていく。
私があの人のものであるように。
あの人も私のものだ。
息を吸う。吐く。もう一度吸って、ゆっくりと吐く。
私は此処にいる。
それから考える。
一体何のまじないが効いたのだろうか、と。 一つの物語の始まり。
その妙なる感触に目眩がする。 息を吐く。吸わずに吐いて、もう一度吐く。
それから読子は。
足下がまるでオレンジのシャーベットであったかのように、静かに机に突っ伏した。


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