小さな逢瀬


 

 学園の一角にある図書室は、図書委員である本宮読子にとって聖域である。
人もまばらなその場所を、彼女はこよなく愛していた。
古い本のにおい。
その質量がもたらす静寂。
昼休みと放課後に開放されるそこは、昨今の活字離れを象徴するかのように閑散としている。
読子はそこで本の貸し借りや整理をしながら、一人で過ごす。
友達とどこかへ出かけるのも嫌いではなく、放課後、時間さえ合えばクラスメートと帰宅し、寄り道もする。
それでも彼女は出来るだけ長くここに居たかった。
孤独を好むためではない。
いつ来るかもわからないある人を待つためだけに、彼女はそこへ留まることを願う。
その鮮烈な記憶。
自らに芽生えた高鳴りとその正体を理解するのに、彼女は幾ばくかの時間を要した。

記憶を手繰る。

名前は知っていた。本に予約をかけていたからだ。
手芸部の部長であるその人は、読子に軽い衝撃を与えた。
なによりも背が高い。
後に知った話ではあるが、180センチを超えているのだという。
黒曜石をよりあわせて作ったかのような艶のある黒髪は、後ろでひとつに束ねられてポニーテールになっている。対照的に肌は驚くほどに白く、その対比は鮮やかで、読子はいまだにそれを表現する言葉を持たない。
そして背の高さ、それに伴うであろう偏見など物ともしないようにぴんと背筋を伸ばした立ち振る舞い。
カウンターにいる読子をすっぽりと影が覆ってしまうほどの人物。
そして何よりも彼女の心を捉えたのは。
影になった読子のために、少しだけ体をずらしたことだった。

彼女の名前は、宮影ゆきなという。
読子は彼女のいくつか個人的な情報を持っている。
それは、職務上知りえたもの、つまりは『知ったことさえ表に出してはいけない』事柄。
学生の登録情報を盗み見て知ったもの。
それは小さな罪。
読子はそれを楽しむ。住所、電話番号、それらに直接触れることなく、その場所を想像する。
ゆきなは手芸部の部長だ。取り巻きも多い。
読子がその輪に加わることは出来ない。 
派閥というほどのものではないが、読子のテリトリーは図書室であり、ゆきなの居る場所に入り込むことは出来ない。それは学校という閉鎖社会における縄張りのようなものだ。馬鹿馬鹿しいかもしれないが、影響力は計り知れない。無視できるものでもない。
手芸部はゆきなの領域であり、彼女の傍に居るためには読子は今のテリトリーを捨てて手芸部に入らなければならない。
取り巻きの多さから考えれば、そこからさらに生存競争を強いられるだろう。
勝ち取ることはたやすい。自分は彼女のためならおそらくは何だって出来てしまうだろう。自分がそういう類の人間だということを読子は自覚している。いくつかの、手痛い失敗とともに。
だが、そこで立てられた波風はゆきなの立場を危うくする。
自分とゆきなだけが残ればすべてが壊れてもいい。
それもひとつの解決だ。
けれど、ゆきな自身はそれを望むまい。
あの端正な顔が悲しみに歪んだりするのを見たくはなかった。

 図書室の時間は驚くほどゆったりと流れる。
書架を整理し、壊れた本は修理に回す。返ってきた本に落書きがあればそれを消す。 
本というものは意外と埃が出るので、こまめに本の上を払う。
そんなことをしているうちに閉室の時間になり、読子は鍵を閉めてそれを職員室に届ける。
それで一日の業務は終わり。 
教師からの受けはいい。地味な仕事を熱心にやり、トラブルも起こさない。絵に描いたような「いい子」だ。 だからこそ出来ることもある。
ある程度の裁量をもって学生の希望する図書を購入する制度があるのはどこの学校でも同じだ。
しかるべき手続きを踏めば、予算と必要性の範囲内で新規に本を購入することが出来る。
読子は毎月買う本のリストの中に、時折自分の欲しいものを混ぜ込む。
ほんの一冊か、二冊。それは読子が犯す、密やかな罪。
それでも一年もそれを続けていれば、そこにはおのずと成果が現れる。
書架の一角で広がり続ける魔術や神話に関する書籍の列がそれだ。暇を見てはそれを紐解き、あるいは借りて自室で読みふける。
魔法は、憧れだ。自分にはないことが出来る。
陣を描き、呪文を唱えて、願いをかなえてもらう。

「彼女が、私を得難いものとしてくれますように」

もちろん悪魔も天使もやってこない。
願いを叶えるために捧げるのは己自身であり、力を行使するのも自分自身。古来より悪魔とは人の影たる部分を指してきたが、読子の秘められた願いを現実とするなら自らが悪魔を演じるしかない。
それは堅固な城壁から滲み出す水のように読子の中で囁きを続ける。
声なき声。形無き叫び。意味だけを持つ音。
触れるだけなら。
伝えるだけなら。
嗚呼、それでもその先はまだまだある。触れる。掴む。奪う。囁く。
汝、何を望む? 
主は言われた、「求めよ さらば与えられん」
読子の心は現と夢の狭間を行き来する。得るなどとはおこがましい。ただ側にいる、その一時の輝きのみが私を満たす。
今の読子がそう思っていられるのは、幾度と無く確認し、手に取った一枚の紙のせいだ。
それは約束された切符。
読子の手元にあるのは何のことはない、ただの本の予約表。
印刷された、ただの紙の切れ端。文字は神との誓約を交わした血ではなくカーボンの残滓。鋏を入れて小さくなった、B5のコピー用紙の印刷物。
たったそれだけのもの。
ああでも。そこには彼女の名前が書かれている。
それは、自分の元へと彼女が来訪することを示す契約書。
待つのは仕事だ。
その時間のもどかしさは、出会いの喜びをより甘美にする。
けれど待つにも限度がある。焦がれた情念で自分自身が焼けてしまう。
相反する感情は絶え間なく揺らめく小波のように読子の胸をかき乱す。
自分は。
運命とも呼べぬ情と偶然に翻弄される、笹舟のようなものだ。
この澱みと乱流の中で、ただもがく事と待つことしか出来ない、小さな欠片。
息を吸って、吐く。ただこれだけの行為を繰り返す。
意識すると気持ちがいくらか落ち着く。溺れていない。私は、此処に居る。
彼女も此処に来る。
図書室の扉に射す影は、一目でそれと分かる。
時が来た。
引き戸に張られた摺りガラスにうなじが映るほどの人物といえば、彼女のほかには居るはずもない。
息を吸う。大丈夫。落ち着いている。
「こんにちは、読子ちゃん」
引き戸をくぐって現れた彼女は、光が飛び散るかのような笑顔で微笑んだ。
「こんにちは、宮影先輩。頼まれていた本が入っていますよ」
極力、平静を装う。
手が汗ばんでいることを知られてはならない。
破裂しそうなほど、脈動が耳に響くほど高鳴る心音を聞かれてはならない。
紅潮し、熱くなっていく顔を隠してしまいたい。
献血でもして血を減らしておけば良かった。
「ありがとう。じゃあ早速だけど借りていくわ。次のテーマに使おうと思ってたの」
歴史のある学園だけに蔵書の数もかなりのものであるが、もちろんニーズの全てを満たせるわけではない。
手芸部のような小さな部では予算が限られているので、裏技的に必要な本を希望図書として申請し、必要に応じて借り出すのは伝統的な手段だったりもする。
学園側も「蔵書に多様性を持たせる」という意味で黙認しており、よほどのケースでないと却下はされない。
ゆきなはカウンターの前で立って待っている。
悟られないように、小さく、深く、息を吸い込む。
微かに香る、彼女の体臭。胸の内が甘く疼く。
それは痛み。想いがそこで心を刺す、甘い痛み。
異常、なのかも知れない。こんな想いは普通じゃない。
けれど、つかの間の逢瀬にそのくらいの悦びを得ても良いではないか。
彼女は行ってしまうのだ。
読子の想いとは無関係に、その手は本の貸し出し処理を済ませ、返却日を記したスタンプを押し、ゆきなへと差し出している。手馴れた作業は彼女の意思を介さない。
「返却は二週間後です」
「ありがとう、助かるわ」
ゆきなは手渡された本を畳んでいた布のバックに押し込む。
彼女自身が縫ったのだろうか。読子はそれを聞くことさえ出来ない。彼女と自分に許された時間は終わったのだ。
詮索したら、嫌われるかも知れない。だから聞けない。
今日の逢瀬はこれで終わり。
のはずだった。


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