年上事情


「妹できたんだって?」
 宮影 ゆきながルームメイトの瀬方 海(せがた かい)にそう言われたのは、二人が自室でくつろいでいたときのことだ。
 二人とも身長が180を越えているせいで部屋は狭く感じるが、気心知れた人間と居るという恩恵には代えがたい。本来は身長で割り当てられているわけではないはずだが、他の部屋よりも大きなベッドが用意されている辺り、担当した人間は最初からこの組み合わせにするつもりだったのではないか、と思っていた。
「あら、耳が早いわね。……というより、まだ誰にも話していないのに何故知ってるの?」
 読子に告白されてそう日も経っていない。自分が公言したことはなかったが、読子が自ら明かしたとも思えなかった。
 妹、というのは一種の隠語のような物だ。つまり「親しい以上の何か」のある関係、そういう後輩を持ったときに口にされる単語である。下級生が年上を呼ぶ時には姉、同級生なら先に告白したほうが妹になるらしい。
 その由来が何かは知らないが、上手い言い回しだな、とゆきなはその時はじめて思った。
「後輩が話してたよ」
「学校に噂はつきものだけど、ずいぶん早かったわね」
「噂好きな奴がいるからなあ。一体どこから仕入れてくるのやら」
「お茶のお供は噂話っていうのは相場よ、海」
 海は陸上部の所属だ。
 ということは、かなり広い範囲で噂になっていることを意味する。
 無論、ゆきなにとってあれは完全なる不意打ちであり、側に人が居たかを確認したわけではない。
 これからは人目をはばからなくては駄目かしら、と思う。
 学園に噂が流れるのは光よりも速い。
 とはいえ、それで別に不都合があるわけではない。他人が作った「いい人」のイメージなど壊れてしまって構わない。当たり障りのない対応をすることが「いい人」の条件なのだとすれば、それはゆきなの内面とは関係無いことだ。
 例え騒がれてもすぐに風化し、忘れ去られる。
 だから「他人」が「何」を言おうと、それは無意味だ。
「それにしても意外だよ。宮影は妹なんて作らないかと思ってたなあ」
「成り行き────というわけじゃないんだけれども、仕草とかピンポイントで突いてくるのよね。うすうす好意を寄せていたのには感づいていたし」
「あれか、萌えってやつか」
 想定外の単語に、ゆきなの手から編み棒がこぼれ落ちた。
「なんでそんな意外そうな顔をする?」
「萌えなんて単語が海の口から出てくるとは思わなかったわ」
「可愛いものをほっとけないことだろ? あたしだってそれくらいのことは知ってるさ」
 そうだったかしら、とゆきなは少し考えたが、自分でも正確な定義が思い浮かばなかった。
「萌えかどうかはともかくとして、側に置きたいとは思ったわ」
「部活の方じゃずいぶん慕われてるのに、そういう話を聞かなかったから驚いたよ」
「それはそれ、これはこれよ。海の方こそ、私よりもたくさん来そうなものだけれど?」
 海は両手を挙げて「お手上げだ」という仕草をした。
「特訓して欲しい、っていう変わったのは時々来たけど、妹になりたいって言うのは来たこと無いな。速くなりたいっていうのはわかるけど、何も倒れるまで走りこまなくったってなあ」
「そう」
 鈍感は時として罪だな、とゆきなは思った。
 あの運動能力で特訓されたら、それはそれは大変なことだろう、と純な後輩達に同情する。
 海は短距離走を得意とする者には珍しく長身で、胸が薄いことと鍛えられた筋肉、それに短く切りそろえた髪のせいで男性のようにも見えてしまう。それはそれでボーイッシュな魅力があるのだが、本人はもっと女らしくしたいらしい。
 彼女の走りに対する情熱は、もはや信仰に等しい。絶えざるトレーニングの果てに結果が生まれるというようなストイックな姿勢は、おそらくは一緒に走りたいという後輩の想いを超越してしまっているのだろう。
「あたしは宮影と違って女らしくないからなあ。冗談半分でも姉妹になるなんて考えられねーよ」
「そんな事無いと思うわ。海だって十分魅力的よ」
「どこがだよ。あたしはモテた事なんて一度もないぞ」
 ゆきなはため息をつきそうになった。
 判っていない。
 価値とは何か。事物に真の価値を見いだすには、物事の本質を知っていなければならない。
 要するに、見る目がないのだ。彼女の周りの人間は。
 ゆきなは編み棒を置いて、椅子から立ち上がった。
 椅子に座ったまま雑誌を読む海を見る。
 走るとは全身の運動であり、腕と脚の連動、リズムが速さを生む。これは海自身の言葉だ。
 風呂上がりに彼女の身体を見たことがある。驚くべき身体だった。
 確かに胸は薄いが、それはさして重要ではない。むしろ走るにあたっては胸など無い方がいい。つまり彼女のスタイルは、その本来の用途が最大限に発揮できるよう整えられた物であり、それは美ではなく実のもたらす調和だ。
 そして、その身体を生み出したものは何か。
 遺伝子などではない。
 彼女の身体は、彼女の在りようがそうさせたもの。
 その全てが彼女の魅力。
 言葉にするのは意味のないことだが、彼女自身がそれを自覚していないのは勿体ない。
 ゆきなの視線を感じて海は顔を上げた。
 彼女の怪訝な顔を見て思う。顔の造形だって悪くはない。
「私と同じくらい身長あるし、性格もさっぱりしていて裏表ないし」ゆきなは海に近づいてそう言う。「物事には真摯で真面目だわ」
 両手を伸ばし、そっと首筋に触れる。
 ゆきなの指の冷たさと、そこから伝わる形容し難いむず痒さに、海は身震いする。
 頸動脈から顎の稜線へ。ゆきなの指は見えない線を辿る。
 編み棒をたぐる手とは別の部位のように滑らかな、軟体動物のような動き。
 ルームメイトの別の一面に、言葉が出ない。
「それに胸が無いのを気にしていて牛乳欠かさないところとか、甘党なところとかはいいところついていると思うの」
 蠱惑的な声音。
「魅力がないなんて嘘よ。みんなはあなたの一面を知らないだけ」
「待った待った待った!」
 海は叫んだ。
 このまま放っておくと、何をされるか判ったものではない。
 椅子ごと身を引いて、海は一息つく。
「待った宮影。こういうのは、無しだ。冗談でもこんなことするんじゃあない」


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