「まだ春なのに、もう冬のことですか?」
 あえて、ゆきなに問うてみる。
「冬になったら、編んでる場合じゃないもの。今からちょっとずつ織れば、冬までには二人分編む時間は十分にあるしね」
 こんなものを二つも織ろうというのか。 
 ゆきなの手は魔法のようだ。
 読子は改めてゆきなに対する畏敬の念が湧きあがることを感じつつ、聞いてみた。
「こんなのって……どうやって織るんですか?」
 どのような手段を用いればこんなものが作れるというのか。これを編むには二本以上の手が必要な気さえする。特殊な道具を使うのだろうか。
 好奇心は読子の原動力だ。
 ゆきなは微笑み、身を乗り出した。
「教えてあげようか」
「手芸部で?」
「やあねえ。そんな意地悪なことはしないわよ。此処で教えてあげる」
「でも……」
 読子はためらう。
 もとより、女らしい技術の類を何も身につけてはいない。炊事も洗濯もからきしだ。裁縫などもってのほか。
 むしろ現代にあってはそうした人間のほうが多いのかもしれないが、ゆきなの前では恥ずかしいことのように思えた。
「編み物はしたことない?」
「ありません」
 嘘をついてもすぐにばれる。
 それならいっそ白状してしまったほうがいい。
「うん、正直でよろしい」ゆきなはうなずいた。「凄く簡単な奴から教えてあげる。簡単なのをたくさん織って、後でつなげるだけで大きなのも作れるから」
「よろしくお願いします、先生」
 茶目っ気を出してそんなことを言ってみる。
 調子に乗りすぎたかな、とも思ったが、ゆきなはそれが気に入ったようだった。
 ぱらぱらとページをめくり、それからページを開いて読子に見せた。
 見開きには小さな花の形をしたモチーフが載せられている。
「ニットはね、そんなに難しくないのよ。一から目を数えて編むやり方もあるんだけど、慣れないうちはこっちの方がいいわ。時間のあるときにちょっとずつ編んだものを溜めるようにしておけば、後はそれを繋いで何でも作れるし。暇つぶしにももってこいよ」
「何か必要なものとかありますか?」
「編み棒があれば、あとは適当な色の毛糸があれば十分。どんなのが良いかわからないだろうから、最初は私が持ってきてあげる」
「いつから教えてくれますか?」
「次に来たときに」
「私の家でもいいですよ」
「そうね。いずれは、お邪魔したいわね」
 ということはまだ読子の家に行く気はないのだ、と受け取る。
 黒い影が胸の内をかすめる。腹の底で何かがうねる。
 読子は自分の中に表に出したくないものが渦巻いていることを自覚している。
 想えば想うほど、それは日に日に強くなっていく。
 奪ってしまいたい、手に留めたい、という独占欲。
 それは破滅の鍵。積み上げた信頼という名の城壁を打ち壊す破城鎚。
 先人たちの多くが誘惑に駆られてそれを手にしてきた。相手の愛を試すため。あるいは、今あるものをもっと強固にしたいと願うため。
 けれど壊れた先には何もない。廃墟と荒野があるのみ。
 その一撃は、その行為は、城壁を打ち壊し、地に楔を刻む。試みの代償はいつだって断絶だ。
 一度は誤った。
 二度目はない。
 ただの人間である読子は、この邪悪なものと戦うのに必要な聖別された剣も、祝福を受けた十字架も持っていない。「これでいい」「うまくいっている」「このまま少しずつ積み上げればたどり着ける」という暗示だけが読子の拠り所だ。それはひょっとしたら祈りに似ているのかもしれない。
 それは叶うかもしれない。
 神が、それを聞き届けるのなら。七つの罪の一つを笑ってくれるなら。
 チャイムが鳴る。
 今日の逢瀬はここで終わり。
「もう閉める時間なのね。あっという間だわ」
 ゆきなは手にした本を鞄に押し込んだ。
 読子もカウンターに散らばった鋏やシールの台紙を片付ける。
 室内を見て回り、異常がなければ鍵を閉めておしまいだ。
 とはいえ、今日は読子とゆきなの他には誰も居ない。見回りは必要とは思えなかった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。窓は全部閉まっていますし、あとはカギを掛けて職員室に返すだけですから。それより……今日は一緒に帰りませんか?」
 それは単純なように見せかけて、渾身の力を振り絞って出した言葉。
「ごめんなさいね。それは駄目なの」
 ゆきなは心底申し訳なさそうな顔をして謝った。
「……やっぱり、周りに知られちゃうからですか?」
 ゆきなの人気は高い。それは手芸部での取り巻きの多さからしても判る。
 こうして部を離れ、人目を忍んで図書室に通ってくるだけでも大変なはずだ。
 これ見よがしに連れ立って歩くのはリスクが多いことかもしれない。
 しかし、ゆきなは首を振った。
「ああ、そんな些細なことではないのよ。読子には言ってなかったから、知らないのも無理はないわね。―――私、寮なの」
「えっ!?」
 膝から力が抜けそうになった。
「知らなかったでしょう? まだたくさんあるのよ、読子の知らない私」
「だから、正門で見かけたことがなかったんですね」
「ひょっとして、待っててくれたとか?」
 読子は下を向いて赤面する。
「あははは、ごめんね。そこまで気が回らなかったわ」
 カウンター越しに伸びるゆきなの手。
 それはこんな小さな壁など軽々と乗り越えて、読子に届く。
 少しだけ冷たい指先が、読子の頬を撫でる。
「きっと私の知らない読子もいるものね。埋めていこうね、ちょっとずつ」
 いつも鮮やかに読子の心を奪う、ゆきなの言葉。
 満たされる、欠けていたもの。それは、欠けているとも知らずにいたもの。
 砂に水が染み入るように、全部埋めて欲しい。
 それは、読子の願望。
 ゆきなは手を離し、読子は解放された。
 ほう、とため息が漏れる。
 彼女は魔女だ。言葉と仕草で読子を絡め取る。歓喜という名の鎖は何よりも自分を強く縛る。
魔のなんたるかを知っている自分よりも、それはずっと魔法に近い。
 小さく笑ってゆきなが図書室を出た後、追いかけるように読子もそこを出た。
 引き戸を閉めて、鍵を掛ける。
 読子とゆきなが居た、その時間の名残を閉じ込めて。

「一緒には帰れないけど、校舎を出るまでは一緒に居てあげる」
 ゆきなはそう言い、職員室に鍵を返すまで連れ立って歩いた。
 禁を犯す。
 否、誰が定めたわけでもない。
 文字通り大人と子供ほどの差のある2人が連れ添って歩く。見とがめる者は居ない。誰も居ない。それに安堵し、それを惜しく思う。いつの日か、胸を張って共に歩むことが出来るだろうか。
 足取りは軽く、重い。
 歩調を合わせて進む行程は楽しく、けれども避けられない別離が待っている。
「お待たせしました」
 鍵を返して再びゆきなの前に立つ。
 ゆきなが身をかがめて読子の手を取り、指を絡めて繋ぐ。
 身長の差がありすぎて、読子は肘を延ばさないと少し足りない。
 このつなぎ方はまるで恋人というよりも親子のようだ。もう少し背が伸びたなら、とこの時ほど強く思ったことはなかった。嫌いだけど牛乳を飲もう。
 手を繋いでいると、いつも少しだけ冷たいゆきなの指が少しずつ熱を帯びる。
 互いの熱を交換しあっている、と思った瞬間に心拍数が上がった。
 手が汗ばんでいく。
「読子の手は温かいわね」
 どう答えたらいいものか判らず、答えの代わりにゆきなの手を強く握った。
「繋がるっていうのはいいわ」ゆきなは言った。「繋がるって事は一人ではないってことだものね。人には人が必要だわ」
 ゆきなが望むなら、読子はこの手をずっと離さないでいたいと思った。
 けれども下駄箱の場所が違う。
 年次が若いほど階は上だ。読子は二階、ゆきなは三階。
「忘れていたわ。そういえば靴の置き場所が違うのよね」
 指を解く。
 外気に晒されて汗が蒸発し、熱が奪われる。読子はそれを嫌って手を握りしめる。ゆきなの温もりが逃げてしまわないように。
「靴取ってきます!」
 自分で自分の大声に驚きつつ、読子は走り出した。
「廊下は走っちゃ駄目よ」
 後ろからゆきなの声が響いた。
 走ってはいけない、と言われつつも読子は走り、階段を駆け上がる。
 けれど運動不足がたたった。下駄箱の前でひどくむせてしまい、時間をロスする。
 咳き込んでめまいがした。
 息を吸って、吐く。吐いて、吸う。
 合間にむせつつも、30秒で息を整える。
 血を送り出す心臓は壊れたポンプのようにがなっている。
 馬鹿な事をした。そんなに急いでもここでゆきなを待たせては意味がない。
 もう一度深呼吸して下駄箱から靴を出す。
 下駄箱の脇には誰でも使えるように靴べらが用意されているが、それを使う気にはなれない。急いで靴に足を突っ込み、踵を踏みつけながら階段を一段抜かしで駆け下りた。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
 ゆきなが笑う。 
 それだけでも走る価値があったのだ、と読子は胸の内で呟いた。
 ゆきながそっと手を差し出した。読子はためらわずにそれを握った。
 繋がるのはいい、と読子も思う。手を繋ぐのはそこに相手がいるからだ。
 相変わらず心臓は過負荷に喘いでいるが、いま濁流のように血が巡っているのは走ったせいだけではなかった。
「夢のようです」
 読子の言葉にゆきなは微笑む。
「私はここにいるわよ。だから夢じゃないわ」
 再び手に汗がにじんでくる。ゆきなは不快に思わないだろうか。緊張しているのがばれないだろうか。
 そんな思いがぐるぐると巡り、それが余計に汗の分泌量を増やす。
 階段を走った運動量もあって、額に汗が滲んでいるのも感じる。
 変な子だと思われてはいないだろうか。
 気になる。
 ふと、ゆきなが尋ねた。
「読子の家は遠いのかしら?」
「電車で二駅くらいですから、そんなには遠くないです」
 時間にして10分ほど。
 そもそも学校を選んだ理由の一つが近いからだった。 
 そんな単純な理由でも、選ばなかったらこの出会いはなかった。人生は不思議なものだと思う。
「そう。私が寮でなくて電車での通学なら一緒に行けたかもしれないのに残念だわ」
 通えない距離ではない、ということを読子は知っている。
 それでも電車に乗っているだけで一時間。駅まで少々。電車通学には少しだけ遠い、ということもわかる。
 それでも事情がわかるという事と、惜しいと思うことは違う。
「私もです」
 読子は表情を曇らせた。
 触れ合う時間が長ければ、より近くに感じられるのに。
「仕方がないことではあるけれどね。それにひょっとしたら電車通学じゃ出会わなかったかもしれないのだから、それを嘆いても仕方がないわ」
 その意味することは判らない。
 しかし何処で変わるか判らないのが運命だ。読子は一月前にそれを知ったばかりである。
「そうですね」読子は頷き、それからゆきなを見上げた。「一緒に帰れないのは残念だけど、幸せな気持ちに変わりはありません」
「読子は本当に可愛いわね」
 ゆきながしみじみと言うので読子は赤くなった。
「次に会う楽しみを思えば、一時の別れもまた良いものなのかもしれないわね」
「はい。一人がいいこともありますけど、それは二人で居るときがあればこそだと思います」
「私にもその強さがあれば……」
「え……?」
 ふとそんな呟きが聞こえた気がして、読子は再びゆきなを見上げる。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでもないです」
 気のせいだったのか。ゆきなの顔は穏やかだ。
 歩くほどに近づく別れを惜しみつつも、そのときは必ずやってくる。
 寮は学園の敷地内にあるため、必然的に別れは正門ということになる。授業が終わって時間が経っていることもあり、人影もまばらだ。
 再び絡んだ指は解かれ、一つであったものは二つに戻る。
 ゆきなは立ち止まり、読子は一歩進んだ。
 振り返り、頭を下げる。
「さようなら、宮影先輩」
「気を付けて帰ってね、読子」
 夕陽で緋に染まるゆきなの姿は神々しささえ感じる。
 崇拝しすぎだろうか。
 でも焦がれるとはそういうこと。相手の全てを肯定すること。受け入れること。認めること。それが読子のやり方。
 ゆきなは小さく手を振って校舎の方へと戻っていく。
 と思いきや、一回転して再び読子へ歩み寄ってきた。
 何か、あるのだろうか。
 ゆきなはどきまぎする読子の側へ。
 その長身をかがめ、吐息の如く柔らかに、ゆきなは囁く。
「いつか部屋に呼んであげる。ルームメイト同伴でいいならね」
 ゆきなはそれから校舎の方へ、いつものようにきびきびとした足取りで去っていった。
 一度も振り返らぬまま。
 読子はその姿が見えなくなるまま立ち尽くし、それから言葉の意味を反芻して再び赤くなった。


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