Lilium

「どうしてなの? どうして、『別れよう』なんて言うの?」
 目に一杯の涙をため、私に掴みかかっている沙英を見るのは、正直あたしにも辛かった。
 あたしは放課後に沙英を呼び出し、簡潔に別れを告げた。
 だから彼女から疑問が返ってくるのは当然だった。
「わかってるでしょ。あたしたちはもう駄目なんだ。こうするのがいいんだよ」
「わからないよ! 私たち、上手くいってたじゃない!」
「沙英、それは間違いだよ」あたしは諭すように言った。「最初から、あたしたちは間違ってたんだ」
「なんで? 今になって何でそんなこと言うの?」
 沙英は困惑と悲しさがごちゃ混ぜになった顔であたしの胸元を叩く。
 あたしよりちょっとだけ背が低く、あたしよりちょっとだけ痩せてて、あたしよりずっと可愛い彼女をそんな顔にしてしまったことに胸が痛んだ。
「女同士が駄目だって事? それとも、最初から私なんか好きでも何でも無かったって事?」
 彼女を抱き寄せてしまいたい衝動をこらえながら、あたしは何とか言った。
「そうじゃないよ。 ただ、あたしと沙英は、決定的に間違ってたんだ」
「わけがわからないよ! 私のこと好きだって言ってくれたじゃない! 私を拒まなかったじゃない!」
「そうだよ。私は沙英が好き。それはいまも変わらない。でもね……沙英はどうなの? 私のこと、本当に好きなの?」
「当たり前だよ!」
 沙英は叫んだ。
「髪型だって、史乃の好きなのに変えたし、洋服だって、聴いてる音楽だって、みんな史乃に合わせたじゃない!」
 そうだった。沙英はあたしの全てを肯定した。趣味も、好みも、あたしが間違っていることも。
 最初は良かった。こんなにフィーリングが合う相手がこの世に居るなんて思いもしなかった。
 無邪気に喜び、それを享受した。
 でも気づいたのだ。彼女からは肯定しか返ってこない。何もかも、あたしに合わせてくる。
 しかし、それは。
「沙英、人を好きになるっていうのは、そういうことじゃないよ。あたしの好みに合わせて何でもやるのは、好きって事とは違うんだよ」
「好きな人を理解したいって思うのは当然じゃない。普通は相手に好かれたい、好かれる自分になりたいと思うのものでしょ? 私はそうしただけ。どうしてそれがいけないの?」
「それじゃ、あたしの言いなりになってるだけじゃないか。本当の沙英はどこに居るのさ」
「本当の私?」
 嗚咽が止まり、沙英は真顔で問い返す。
「そうだよ。あたしの好みに合わせたんじゃない、今までの沙英はどこにいるのよ」
 沙英の表情が厳しく変わった。
「なにそれ。本当の私? 史乃は私の何を知ってるって言うの?」
「笑うと可愛いところとか、優しいところとか、繊細で傷つきやすいけど、自分の決めたことはやり通すところとか、沙英のいろんなことをだよ」
「は……ははっ……そんなこと? それだけ? ねえ、史乃? あなたの理屈で言うなら、史乃が見てきた私が『誰かに作られた私』でないってどうして言えるわけ? それで次は『私のため』とか言い出すつもりなんでしょう? 知っているわ。そう言うのを偽善というのよ」
 いつしか、沙英は憎悪に燃える瞳で私を睨み付けていた。
「ほかに好きな人が出来たなら、そう言えばいいじゃない。誰なの?」
「そうじゃないよ。私はただ、沙英のためを思って……」
 あたしの言葉は、図らずも沙英の言ったとおりのものになってしまっていた。
 沙英のために、というのは本心からだ。でもそれは、今言うべきではなかった。
 彼女の顔にはありありとした軽蔑の色が浮かんでいる。
「どうやったら一番傷つくのか考えたって事?」
「ち、違う……!」
「違わないでしょう。史乃が『相性がバッチリ』って言えたのは、私が好かれるように努力したからじゃない。今更をそれを否定してなんのつもりなの? 私のため? 笑わせないで」
「どうして、どうして分かってくれないのさ!」 
「分からないわ。全部上手くいってた。なのに、別れよう、と言う。ほかに女が出来た、あるいは私に飽きた、それならまだ許せる。でも言うに事欠いて『私のため』? あなたは何様のつもりなの?」
「だって、このままじゃ……あたしにあわせてたんじゃ沙英は駄目になっちゃう。沙英はあたしに依存しすぎなんだ。沙英は、自分を取り戻すべきなんだ」
「それこそ傲慢、偽善そのものじゃない。私が幸せかどうかは、私が決める事よ」
「それは……」
 沙英はあたしの言葉を遮った。
「つまり、私の存在が重かった。そういうことよね? 最初からそれだけ言えばいいものを……おためごかしはうんざりよ」
 沙英の涙は怒りで乾き、もはや一滴の水分も残されてはいない。
「あなたには失望したわ。確かに、もう、終わりね」
 驚くほど冷めた声音。それは地獄の底から響く怨嗟の声。
「さようなら、史乃さん」
 目尻に残された怒りの片鱗に、彼女があたしに抱く憎しみが見て取れた。
 去って行く彼女の背中を、ただ無力感だけを抱いて見送る。
 あたしは全てを失った。 
 思い出はたくさんあったはずなのに、それらは全て砕け、燃え尽き、灰となって散り、そして去った。
 彼女に残してあげられたのは、憎しみしかなかった。
 あたしは沙英を傷つけた。彼女にそうしなければならなかったからだ。
 自分が間違っていたとは思っていない。でも、もっといい方法は、あったはずだ。
 彼女を解き放つためだったはずなのに、まるで両の翼を奪われた気分だった。
 それはとても哀しくて、あたしはただ泣き崩れるしかなかった。


→Lilium・after

 

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