Lilium/after

 物事の大半は後悔で終わる。
  心に『もうちょっと、どうにかすればよかった』という小さなトゲが刺さって、いずれ忘れていく。
  あれから数年。
  学校でも沙英に会うことは二度となかった。
  やがて高校を卒業し、あたしはついに彼女と会うことも和解することもなく、別の人生を歩んでいた。
  彼女のことを一日たりとも忘れることはなかった。
  自らが砕いた未来の欠片は、あたしの胸に刺さったままだった。
  それは時々、あたしの心を疼かせる。
  何度目かの同窓会。
  そこに沙英の姿はない。
  かすかな期待をもって毎回参加しているが、ついぞ彼女が現れたことはなかった。
 
  たわいない会話。近況報告とつまらない回想。
  同窓会というものはつくづくくだらないと感じる。
  皆がほろ酔い気分で会場を出た。
  二次会をやりたいものは勝手に集まり、帰りたいものはそれぞれの帰路につく。
  あたしに関わりのあることではない。 誘いを断り、私は駅へ向かう方角へと歩き出した。
  けれど、数歩もいかぬうちにあたしの前を影がふさぐ。
「同窓会に顔を出してるって噂を聞いてきてみたけれど……本当だったのね」
  白いTシャツに濃紺のジーンズ。一瞬男性かと思ったが、存在を主張する豊かな胸がそれを打ち消す。
  これほど大柄な女性は同窓会の席にはいなかった。
  だが知っている。
「沙英……沙英なの?」
「そうよ。久しいわね、史乃」
  忘れるはずもない、その声。
  しかし、私より小さかったはずのその体躯は、今や私を遙かに上回り、全身にまとったオーラは居合わせたものを萎縮させるほど猛々しい。細かった腕は筋肉の重鎧を身につけるに至り、あらゆる部位が肥大し、鍛えられていた。
「本当に久しぶりね。元気だった?」
  彼女の変化に戸惑いつつ、私は努めて明るく言葉を返す。
  どんな姿にせよ、彼女に会えたことはうれしかった。
「ええ、見ての通りよ」
「そう……」
  アルコールの力によるものか、沙英に会えた喜びからか、私の目からは涙がこぼれていた。
「あたし、紗英に会ったらずっと言いたかったことがあるんだ」
  いまこそ、あたしは過去を清算するときだった。 
「あのとき、沙英を傷つけるつもりはなかった。あんなこと、言うべきじゃなかった。それを、ずっと謝りたくて」
「私と別れたのが間違いだったってこと?」
「そう。あたしが間違ってた。本当に……ごめん」
「その言葉を待ってたわ、史乃。私もね、史乃に言われて考えたの。本当はどうしたかったのか」
  そう言って、沙英は懐かしむように目を細めた。
「本当はね、史乃のこと守れるようになりたかった。強くなって、私と、史乃の関係を邪魔するものから史乃を守りたかった。ふふ……笑っちゃうでしょ? でも私がんばったの。その成果がこれ」
  だらりと下げた左腕が不意に持ち上がった。
  右頬にすさまじい衝撃を感じ、あたしはコンクリートの壁に叩きつけられていた。
「全く変わってないわね、史乃。いまさら謝って、全て済んだ気になってる……それはあなたの自己満足よね」
 ヘビー級のジャブは軽量級のフィニッシュブローに匹敵する。
 あたしはそんな格言を思い出していた。
 背中を打ち付けられたせいで息が苦しい。
 それ以上に、沙英があたしに暴力を振るうほど憎んでいたことがショックだった。
「謝るなら、もっと早くできたはずよ。それを今までのうのうと……私の怒りを少しは思い知るのね。もちろん、これで終わらせるつもりはないけど」
「沙英、それがあなたの本心……?」
「そうよ。今日という日のために私は自分を鍛え続けた……それは思い返すのも恐ろしいほどの特訓の日々だったわ。こうしてあなたを見下すのが、こんなに心躍るとは思わなかった」
「嘘だよ……嘘だと言ってよ」
「事実よ。それはこれからじっくりわからせてあげる」
 一歩一歩近づく沙英。
 あたしはポケットから香水の瓶を取り出し、沙英に見せた。
「ねえ、覚えてる? これ、沙英があたしにプレゼントしてくれた香水の瓶だよ」
「もちろん、覚えてるわ。一度しか、私の前でつけなかったこともね」
 沙英の瞳はあのときのように怒りで燃えていた。
 しかたない。
 あたしは沙英に向かって香水のアトマイザーを押し込んだ。
「うっ……!」
 香水の甘い香りがあたりに立ちこめる。
 変化はすぐ起きた。
 沙英は胸を押さえて苦しみ出す。
「くっ……これは香水ではないわね……!」
「ああ。これは強力な自白剤。知ってただろ? あたしが製薬会社に勤めていることを」
 もし沙英が道を誤ったときは、あたしが何とかしなければならない。そのために作った薬だった。
  あたし自身はこの薬に耐性がある。
  もし効いたとしても、あたしが沙英に聞かれて困るようなことは何もなかった。
「さあ、言って。沙英、あなたの本当の気持ちを」
「女装アイドル「さくら」って実は俺のことなんだ!」
「前田君、豚みたいな顔してるけど、私豚が大好きなの!」
  同級生が巻き込まれているようだがそれはどうでもよかった。
「言って」
「あ……ああ……ぐっ……私は、史乃を……あああああ!」
  獣のような咆哮を上げると、沙英は自分の頬を殴った。
「いいわ、史乃……これで心おきなくあなたをぶっ飛ばせる」 
  口の端から血を流しながら、沙英は凄絶な笑みを返す。
「痛みで自白剤の効果を打ち消すだなんて……」
  あたしは驚いた。あたしの薬はそんな単純なことで打ち消せるものではない。
  彼女は痛みをトリガーにして、意識をリセットしたのだ。瞬時に条件付けし直した、というべきか。
「死ねぇ!」
  全力で振るわれるパンチから、あたしは転げるようにして逃れた。
  運動神経には自信があるが、沙英のそれとは訳が違う。
「手足の関節を全部逆に折って、それから命乞いする壁掛けにしてやる!」
「さすが沙英。すごい殺し文句だ」
  軽口をたたいてみるが、あたしに余裕はない。
  捕まったら、沙英はさっき言ったことを実行するだろう。
  あたしはポケットからペンを取り出した。
  正しくは、ペンに偽装した高圧注射器のアンプルを。
  沙英の蹴りを避け、自分の腕にそれを押し当てる。
  薬事法違反の成分がざっと80ほど入っているが仕方ない。
  かすかなガス音とともに、薬液があたしの体に流れ込む。
「何をこそこそと……!」
  沙英があたしの右手を掴む。
  握力で骨がきしみ、痛みが腕全体を走る。
  けれど、彼女の手の内にあるあたしの腕は、みるみるうちに彼女のそれとほぼ同じサイズにまで膨張していた。
  驚く沙英の隙を突き、あたしは左ジャブを彼女にお返しする。
  予想外の威力に沙英は掴んでいた腕を放し、よろめいた。
  あたしの体はその間にも膨張を続けていた。
  緊急防衛用超筋肉活性剤スーパーステロイド。 あたしの奥の手だ。
  もはやあたしと沙英に体格のハンデはない。
「これで対等だね、沙英」
「気に入らないっ!」
  彼女のパンチをあたしは避けずに受け止める。
  同じ部位に受けたパンチは、先ほどと違ってあたしを揺るがせはしない。
  パンチにはパンチを。
  沙英の顔にも同じ打撃をたたき込む。
  足を止めての壮絶な殴り合い。
  外野の騒ぎもあたしたちの耳には入らない。
  やり方は違えど、あの時はこうすべきだった。あたしたちは、自分の全て、自分の思いをぶつけ合うべきだったのだ。
  蹴りを脇腹に受ければ、同じように返す。
  内臓がうねり、吐き気がこみ上げてもそれを飲み下す。この痛みは沙英の痛みでもある。
  あたしに対する怒りで練り上げられた打撃を、沙英への愛で作り上げた打撃で返す。
  互いの体力の消耗は激しかった。それでよかった。
  疲労と痛みで、あたしたちは浄化されていた。
  だが決着はつけねばならない。
  互いに通じ合った仲。考えることは同じだった。
  沙英の左足が僅かに沈む。
  僅かな屈伸から夜空を突き刺すようなアッパーカットがあたしの顎に放たれる。
  あたしは上体をひねりながら捻り込むようなアッパーで沙英を狙う。
  拳がクロスし……沙英の拳はあたしの頬を切り裂き、あたしの拳は沙英の下あごを打ち抜いた。
「が……はっ!」
  沙英は膝をつき、うずくまる。
「私の動きを……読んだわね」 
「いつもあたしを見ていた、といってたね。……あたしもだよ。いつも、沙英を見てた。だから、勝てた」
  彼女の癖はわかっていた。歩き出すとき、一歩踏み出すとき、必ず左足が軸になっていることを。
  私と決別する一撃は、必ずそうするであろうと言うことも。
  周りでは訳のわからない歓声が響いているが、あたしにとっては沙英が大事だった。
  彼女の手を取り、たたせる。
  沙英の顔は穏やかで、憑き物が落ちたようだった。
「効いたわ……あのアッパー。顎ががくがくしてる」
「あたしのは薬だけど、沙英のは鍛えてそれだもん。すごいよ、沙英。やっぱり、沙英は素敵だよ」
「こんな筋肉ダルマみたいになっても?」
「もちろん。沙英は今も昔も、あたしにとって最高の女の子だよ」
  互いの距離はかつてのように近づいていた。
  沙英。あたしの元カノ。
  そしてできることなら、やっぱり彼女と歩みたい。
  あたしはそう思っていた。
「史乃……」
  沙英のたくましい腕があたしを抱きしめる。
  何年ぶりかの抱擁。
「沙英……あたしね、今でも沙英のことを……」
  背中に回った手の感触が心地よい。
「……甘いわね」
  沙英の呟きとともに背後に回った手がクラッチされ、あたしの体がリフトされる。
  視界がぐるりと回った。
  鮮やかなアーチを描いたであろう沙英の変形フロントスープレックスは、あたしの脳天を地面に串刺しにした。
  ゴツゴツしたアスファルトと、生暖かい血の感触。
  視界が明滅し、意識が暗転する。
  だがあたしの体内を駆け巡る薬物は、瞬く間にダメージを修復した。
  血小板が加速度的に損傷部位を止血し、凝固した血液はかさぶた状の皮膚を形成して傷口をふさぐ。
  アドレナリンが痛みを消し、闘志に変換する。
  明晰になった頭脳が損傷を計算する。
  強化された頸椎とその筋肉が激突のダメージを抑えていた。
  損害は軽微。戦闘続行可能。
  あたしは沙英のクラッチをふりほどくと、そのまま素早く立ち上がる。

 あたしと沙英の同窓会は、まだ始まったばかりだった。

 


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