そういえば、それが本来の目的だった。魂の呪縛に対する防御策。これを講じておかねば、油断も隙もない。俺自身の半身を糸電話代わりにアプローチされては、普通の方法で防御するのは難しい。
「なあ、バート。『スモーキー』のヤサは昔のままかい?」
「スモーキー? ウチの三階にいるよ」
「へ? なんでココにいるんだ?」
「買い物から帰ってきたら、家がなくなってたって。さっき引っ越して来たばかりだよ」
 俺はチラリとマリスを見た。まさか、あの時のブラスト・ヴォイスが原因ではあるまいな。
「丁度良い、ちょっと邪魔するな」
「構わないが、店はまだ壊さんでくれよ」
 それはマリスに言ってくれ。

  階段を上っていくと、若い男の叫び声が響いてきた。
「俺はコックリさんがいねぇと何もわかんねぇんだよーーーーー!!!!!」
 いつもの「スモーキー」の絶叫だ。相変わらず元気な自閉症だな。
「ダメだダメだダメだぁぁぁぁぁぁぁっ」
 階段を昇っていくたびに悲鳴に近い絶叫が響く。続いて何かを殴りつける音。
「荒れてるわね」
「いつものことさ」
 他人の脳を覗き見ていれば、いろいろと知らなくてもいいこと、知りたくもないことも知ってしまう。
 スモーキーはソウルサルベージャーの中でもごく真っ当な方だと思う。少なくとも、その倫理観と精神は正しいものだった。そして、人並みはずれた好奇心と探求心は、生まれながらにして彼を電子世界の冒険者にした。
 破損したデータベース、失われた記録、大破壊をかろうじて生き延びた古いデータの中を行き来し、時にはセンセーショナルな話題で表の世界に顔を出すことさえあった。
 敢えて過去形でいわなければならないのは皮肉だ。
 何を知ったのかは知らないがスモーキーは一種の狂気を抱えている。許容限界を超えたデータベースに接触したせいだと噂されているが、スモーキーが何に侵入したのかはわからない。一流のソウルサルベージャーが、自分の脳領域から逸脱するほどのデータを受け入れるような愚を犯すとも思えないだけに、そのデータの詳細は一切謎だ。
 俺の知っている限りでは、そんな大容量のデータはそれこそ「アカシア記録」ぐらいなものだが、あれは魔術師達が騒いでいる程度で真偽のほどは疑わしい。あとは「ネームレス・カルト」ぐらいだが、こいつも存在については眉唾な代物だ。とにかく、本人があの有様なので事実が判明することはそれこそ永遠にあるまい。
 少なくとも、そのせいで奴が電脳界に潜る力を失ったこと、それだけは明らかになっている。その代わりに奴は生身の人間の霊域へ行き来する力を得たが、それが正常な意識と狂気の狭間をさまよわせている。自我と他者の意識の領域が曖昧になっているのだ。
 薬物による自制がなければ天秤は簡単に傾いてしまうだろう。しかし、それを差し引いてもスモーキーは優秀なのだ。精神ではなく、霊的領域を自由に行き来できる力を持っている人間を、俺はスモーキー以外に知らない。
 ドアをノックし、開ける。返答を待っていては、日が暮れる可能性もある。薬次第だが。
「誰!」
 鋭い誰何の声が飛んできた。天秤は均衡を保ったらしい。状況が理解出来てる。
「よお、久し振り」
「十六夜じゃないか! 久し振り、そして、さようなら」
 振り返るスモーキーの身体が傾いだ。
 しまった、ソウルダイブか? 全然、正常じゃなかった。
 俺は素早く反応し、スモーキーに駆け寄った。間に合うか?
 ダウンタウンには、死んでいいようなクズは掃いて捨てるほどいるが、数少ないまともな仲間であるスモーキーに死なれてはいささか困る。
 窓から落ちようとするスモーキーの腕を掴み、全力で引っ張る。
 無理な体勢からだったがそれは功を奏した。
 傾いていたスモーキーのからだが窓から引きずり出され、部屋へ倒れ込む。
 問題はそこからだった。
 無理に引っ張ったため。つんのめって俺の身体が窓へ飛び出したのだ。
 物理的に姿勢制御が無理な状態になって、身体が重力に引っ張られていく。
 そういえばここ、三階なんだよなぁ。
 まあ、いい。幸い、落下地点には何の障害もない。問題なし。
 着地の間際に衝撃を分散させればちょっと痛い、ぐらいですむ。
 そう考えた瞬間、足首が何かに拘束された。不意をつかれ、何の反応も出来ず、足首を支点に壁に叩きつけられる。
「大丈夫?」
 マリスか。お前の攻撃のせいでダメだ。
 俺は、強かに打ちつけた鼻を抑えながら、逆さまのまま壁を這い上がった。
「スモーキーは?」
「そこ」
 指差された先には、倒れ伏したスモーキーがいた。
 ゆっくりと抱き起こす。意識がない。
 やはり、ソウルダイブか。どうやら精神世界に行ってしまったらしい。
 ぴしぴしと頬を叩く。
 ……反応無し。
 ちょっと強めに叩く。見る見るうちに赤くなっていくが目を覚ます気配はない。
 呼吸はしている。まだそんなに深くには行っていないようだ。
「ちょっと。何やっているの?」マリスの表情は怪訝だ。
「ショック療法だ。心神喪失には効果がある」
「医学的根拠は?」
「死んだじいさんが、いっていた。『病は気から』」
「関係ないじゃない」
「気のせいだ」
「ホント、気のせいね」
 その言葉に視線をスモーキーに移すと、その目が大きく見開かれた。
 おや、ホントに効果があったか、と思ったら、白目を剥いて小刻みに痙攣している。
 口が大きく開かれた。低い音が漏れる。
「やばい! 何か連れて来ちまった!」
 あわてて一歩下がる。同時に、口の中から煙のようなものが噴出し、凝縮して質量を増していく。
「……何、これ」
「スモーキーが精神世界から連れて来た生物だ!」
 完全な実体化を果たしていないので、その正確な正体まではわからない。もちろん、正確な正体というものが存在するのかも不明だ。前に呼び出したのは、吊りズボンの真っ黒い人食いネズミというはた迷惑なものだった。
 ……軍隊でも呼ぼうか。それくらい性質が悪いのは間違いない。
 薄茶色の鱗と鋭い爪。
 それが徐々に実体化してくる。大きさは人と同じぐらいのサイズだ。
 全身ではないようだが……。
「何か、とんでもないものみたいね」
 その割にマリスの声は落ち着いている。
 俺はそんなに落ち着いていられなかった。
 何となく見覚えがあるのだ。子供ならたいていは憧れる生き物。原初の最強動物。
「俺……昔見たことあるんだよなぁ。これ」
「なんなの?」
「恐竜」
「へえ」
「しかもこの爪の形は、白亜紀後期に現れた最強の肉食恐竜の一つであるティラノサウルス・レックスで体長は15メートル体重は……」
 と、俺がうんちくを披露しているのに、全く聞いていないマリスは蹴りを放った。
 ボバン。
 ってな具合に爆散する。
 形だけで生物として固着していないエクトプラズムの固まりだから、きっと風船が割れるみたいに壊れたのだろう。
 ……原初の最強動物なのに……。
 ちょっと見てみたかったな、などと呑気なことを思う。
「おあ、おあおう」
 口から恐竜の切れ端をはみ出したまま、スモーキーが起きあがった。何の予備動作もなく、死体が蘇生したような起き方だ。
 そして、口からはみ出していたものを、租借してから飲み込む。
 食事か。食事なのか?
「生肉食は腹をこわすぞ」
 俺のツッコミも耳に届いていない。
 精神世界から獲物を連れてきて食す……自給自足が完成しているな。エクトプラズム自体はほとんどタンパク質なので栄養源としてはそう悪くはない。
 狙ってできるのなら、世界の食糧危機を救えるだろう。
 もっとも、そのタンパク源がどこからどうやって合成されてくるのかは判らない。少なくとも俺は、人の口からわき出してきたものを食べたいとは思わなかった。
 一通りの咀嚼を終えると、寝息が聞こえてきた。
「腹が一杯になったから寝るらしい」
「凄い特技ね」
「特技にして良いのか、あれは」
 むしろ人間びっくりショーという感じだが。
「だって、精神世界の生き物を現実化できるのよ? 理論上はこの世界にいない形態の生き物だって連れてこれるわけだから、活用の幅が広がると思うけど」
「俺はこいつが正気じゃないと用が果たせん」


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