黄金の環
時は巡る。
世界は、人間の思惑とは無関係だ。もし、この世に神などというものが存在するのだとすれば、それは偉大ではあるのかもしれないが人間のことなど気にも止めない存在だろう。
世界を管理するのに、いちいち個々の人間などに関わっている暇など無い。
願いが叶う、叶わないのは只の結果にすぎず、偶然であることを認めたくないが故に、神なるものをあてにする。
今日誰かが生きること、また死ぬこと、出会うこと、移ろうことが、遙かな未来において大きな意味を持つのかも知れない。また、持たないかも知れない。今日の善意が、明日の、いや数年先の不幸を招くかも知れない。良かれと思った道が破滅を招き、他者をあるいは己自身を滅ぼす。諺にもあるではないか。地獄への道は善意の敷石で出来ている、と。
其処に神の意志を感じ取る者がいるのだとすれば、それはとんだ楽天主義か、あるいは虚無主義の賜物だろう。
少なくとも私は神などというものに出会ったことはない。
この世は巨大な機構であるということ、それだけが私の信じるものだ。
だが、それは何かにすがる、信仰する、という意味ではない。仕組みを知っているというだけだ。
今日の雨が、地球の裏で干ばつを起こす。対岸の波が砂を削り取るとき、陸地は少し減る。太陽の恵みは必要だが、晴れの日ばかりでは作物は育たない。子供が無邪気に蝉を捕る傍らで、蜘蛛が一匹飢えて死ぬ。
世界はそういう仕組みで出来ている。幸や不幸ではない。何者も、何かに影響を及ぼさずにいることなど出来ない。
だからこそ、かつて、そう遠い遠い過去には、それらをどうにか出来る、と思いこんでいたこともある。思い込まされていた、と言うべきかもしれない。だがそれを吹き込んだ本人はもう存在しない。
判ったのは一つだけ、この世の全てはどうにもならないことの集合体にすぎない、と言うことだ。
科学が進んでも明日の天気は正確ではないし、人がこれだけいるにもかかわらず、そのほとんどの構成要素は謎そのものだ。人がなぜ生まれ、どこから来て、何処へ行くのか、その答えさえ見いだせてはいない。
判ったふりをする必要などどこにもない。知れば知るほど、自らの無知を悟る。それぐらいなものだろう。全てを知っている、などというのはまさしく神その人だけに違いないが、あるいは神でさえ機構の一部にすぎないのかもしれない。言い換えれば、その仕組みこそが神なる者であり、複雑な法則と偶然の擬人化こそが神である、ということだ。
だが、神ならぬ我が身にも、たった一つ判っていることがある。
私自身は何ものをも手に入れたことがない、ということだ。
時は巡る。が、ただ過ぎていくだけだ。
古い歌に「時の過ぎゆくままに」というのがあったが、さりとて待つ者のない身としては、ただひたすらに過ぎていくだけだ。
其処には未来などという洒落たものなどありはしない。
日が昇り、落ちる。夜が来て、朝が来る。昨日と今日は違う物なのかも知れないが、違いが判らなければ全て一緒だ。
変わることのないものは、存在しないのに等しい。
同じであることに何の意味がある?
それは死と同じだ。
仮に昨日と違う明日が来たとして、それに何の意味がある?
意味は全て失われたのだ。
私はこの屋敷で朽ち果てる運命だ。それはもうどうしようもないことだ。そしてどうにかする気もない。時の果てが来るまで。
積み上げられる紙の中で、虚構と欺瞞と人の業がただ書き連ねられた紙の束の中で埋もれ死ぬ、と言うのも悪くない話だ。
人と人を繋ぎ、数多の権力闘争に介入し続けたこの家の歴史も、私の代でついに終わりを告げるだろう。そのことについては何の感慨もない。手放せる物は手放し、渡せる物は全て渡した。ただ一つ、恭也の遺産を残して。
それは、恭也が生前集めた膨大な量の資料だった。
銀行の貸金庫に納められていたそれは、複製された裏帳簿、密約書、おそらくはマネーロンダリング済みの有価証券、海外の法人として登録されている複数名義の口座、そういったものだ。
足のつかない金と、多くの人間を強請れるほどの証拠物件。何を意味するか考えるまでもない写真の類も混ざっている。この世の汚泥、まさにそのものだ。
これで恭也が何をするつもりだったのか、考える必要はなかった。
理想のためには手を汚すことも厭わない、そう言う男だ。これはその情念が残した負の結晶と言うところだろう。
そのために恭也は死に、世界は変わることがなかった。いや、ひょっとしたら変えることは出来なかったかも知れない。こうなるのが定めだったのかも知れない。私の手元にあるのは、そういうものだ。暗い夢の断片だ。
叶わぬ夢の欠片。ともに滅びるのも一興だろう。かつては、いやつい先日まで私はこれと同じようなことに荷担していたのだ。バランスを保つよう努力していた、などというのは唯の言い訳に過ぎない。自分の伝えたことが何をもたらすのか、私は知っていたのだ。これこそ汚れた血筋の為せる業だ。
あるいは、これが由梨香の手に渡る可能性もあっただろう。そこには恭也自身を劫火へ陥れた人間どもの名前もある。この遺産を辿れば、あの男達にも行き着いただろう。そして奴らをどうするか、その生殺与奪を握るものがここには幾つもある。どうやっても、どのような方法でも、奴らを滅ぼせる。
が、それはもう終わった出来事だ。とある愚かな男が仇討ち紛れに「同じような死に方をさせた」。遺産が由梨香の手に渡っていたならば、彼らには違った未来、いや結末が与えられていただろう。
しかし明香は私がこれを使わないだろう、と確信して託した。それは正しいことだ。なぜならば、私にはもはや未来へと邁進する力も、破滅へと突き進む力も残されていないのだ。
これを必要とする時が来るとも思えない。
恭也の遺産は今や私の書斎の一介に埋もれる紙片に過ぎない。戯れに中身を見ることもあるが、興味を引くべき物はなかった。
それを知ってどうする。それを知って何をする。
何も出来はしない。目的がない。行動のために生きることも出来ない。生きることには、何らかの目標が必要だ。その日一日を過ごすため、それでもいい。しかし私にはそれさえ無い。今日、ここで命が尽きても失うものがない。
時間はただ過ぎていく。
朝だと思ったがもう昼で、多分そのうち夜になるだろう。暑いと思ったら涼しくなり、いずれは寒くなる。言葉で飾り立てる必要さえなかった。
私にとって、四季とはその程度の変化に過ぎなかった。
無意味だった。今までも、これからも。
その日も、何事もなくただ過ぎていくだけだった。
そのはずだった。
だが、何をするわけでもなく漫然と過ごしていた午後に珍しく来客があった。
呼び鈴が延々と私を呼び続ける。
椅子から立ち上がり、書斎から出る。身体が軋んでいるような気がするが、それを確認するのも億劫だった。
来客など久しく無かった。一体誰だ。
玄関を開けた私の目の前には、会いたくもない男の顔があった。
「西遠寺か」
「西遠寺だ」
悪趣味なオーデコロンの匂いをまとわりつかせながら、その男は立っていた。
しばらく声すら聞いていなかったが、別に懐かしいという気もない。
ストライプの入ったダブルのスーツも悪趣味極まりないし、後ろになでつけた髪もそれを助長している。さらには、人の良さそうな笑みを浮かべているのが気に入らなかった。
「何の用だ」
「別に用はない。暇が出来たから立ち寄ったまでだ」
「そうか。では、帰れ」
「客に茶でも入れようと言う気はないのか」
「無い」
私がドアを閉めようとする前に、西遠寺は体を割り込ませていた。
「まあ茶なら自分でも入れられるからな」
自分から他人の家に入り込む人間は、客とは言えまい。
つまみ出さなかったのは、単にその気力もなかったからだ。次からは、玄関の戸口にカメラを設置して来客の顔が見えるようにした方が良さそうだ。無駄な労力が省ける。
今の私には、西遠寺と言い争うのさえ億劫だった。
西遠寺はと言えば、部屋のあちこちをのぞき込んでは頭を振っている。
「これは凄い。まるで廃墟だな」
「だからどうした。ここ住んでいるのは死人ばかりだ。何の問題もない」
「お化け屋敷として解放したらどうだ」
意外と繁盛するかもしれんぞ、と西遠寺は付け加えた。
「余計なお世話だ」
西遠寺はあちこちに指を走らせては、その先に付いた埃の量を見て顔をしかめた。
「なるほどな。明香がどれほど優れたメイドだったかよくわかったよ」
「そうか」
「こんな生活をしているといつか死ぬぞ」
「別に私がどうなろうと貴様の知ったことではない」
そもそも、私の心配などしていないのだ、この男は。誰に対してもそのように振る舞う。親切に似た社交辞令。この男の本質は、もっと深い部分で冷酷だ。騙されてはならない。
「相変わらず可愛くないやつだ」
「用がないなら帰れ」
「ふふん。頼まれて様子を見に来たが、なるほど聞きしに勝る状態だな」
「頼まれた?誰に?」
「それはいえないな。じきにわかると思うが」
由梨香か。
「なるほどなるほど。これでは茶も出せんな」
「判ったなら帰れ」
いらだちが増してくる。
語尾に険悪な雰囲気が含まれていくのが自分でも判る。
「二言目にはそれか。もっと違う言い回しはないのか」
だが、西遠寺の返答はいたって飄々としている。
「なぜいちいち言葉を選ぶ必要がある? 私の要望は簡潔明瞭、お前に早く帰って欲しいと言うことだけだ」
「どうせやることもないくせに」
「それとこれとは関係ない。私は私の心の平穏のためにお前にいなくなって欲しいだけだ」
「平穏など墓に入ってからでも十分だ。その年で楽隠居など健全とはいえんな」
「いいから帰れ」
「気が向いたら、な」
居座る気か。
「とはいえ、お前の暮らしぶりは部屋の様子を見るだけで十分だな」
「判ったなら帰れ」
「まだ二部屋しか見ていないからな。他にも見て行かねば」
私はいい加減に言い合いをするのも疲れてきていた。
「好きにしろ」
帰らないのであれば、私は私の城に立てこもるまで。
自分の領地で、持久戦をしなければならないのは皮肉な話だが。
私は後ろで呼び止める西遠寺の声も無視し、書斎に入ると鍵をかけた。
机の引き出しを開けると耳栓を取り出して耳に詰める。
カーテンを閉めて、光を遮る。
書斎は偽りの闇夜へと変わり、私はスタンドの明かりで読みかけの本を手にした。
いつしか、本当の夜がやってきていたようだった。
カーテンの向こう側も闇だ。
耳栓を使うまでもなく全ては沈黙に包まれている。
屋敷の中も暗黒に包まれていた。
一部を除いて。
食堂へと降りていくと、西遠寺は性懲りもなくそこに存在していた。
ワインの瓶が三本。うち二本は空になっているらしい。
何処からそんな物を出してきたのかと言えば、もちろん地下のワインセラーからだろう。
無論、そんなことを許した覚えはない。
「勝手に酒盛りなどするな」
「好きにしろと言ったのはお前だぞ。それにしてもお前がビンテージワインのコレクターだとは知らなかった」
「それは前から家にあるもので私が集めたものではない。勝手に飲むな」
そもそもコレクションと言うほどの量はなく、うち三分の一はたったいまこの男が消費した所だった。
「誰も飲まないなら、味のわかる人間が飲む方がワインだって幸せに決まっている。それにしても酒の肴がないのは残念だ」
「冷蔵庫の埃でも舐めていろ」
「斬新な提案だが、シュタインベルガーには合いそうもないな」
地下室には南京錠を3つほど付ける必要があるのかも知れない。
「こんな男の下で働いていたとは、明香も可哀想だな。こんな事ならもっとしっかり引き留めておけば良かった」
「お前と明香はどういう関係だ」
「夫婦だ」
「なに?」
「そんなに驚くな。冗談だ」
西遠寺は意味ありげな笑いを浮かべて続ける。
考えるまでもなく西遠寺は妻帯者だ。よって、明香と夫婦であると言うことはあり得ない。重婚でもしない限り。
ほんの僅か、考えるまでもなく判る事実だったが、西遠寺の台詞に惑わされたのだ。
私が西遠寺家に出向くことがない、と知った上でそんなことを言ったのだ。
煮え立つような感覚が身体を支配したが、静かに息を吐いて気を静める。
「私と明香の関係は、お前と同じ、雇う者と雇われる者の関係だよ」
「それが以前言っていた、西遠寺家の庇護を受ける理由か」
青筋を立てて怒りを露わにしても、この男は内心で喜ぶだけだろう。そういうことをして楽しむ、子供のような奴なのだ。
それよりは西遠寺に話をさせたほうが良い、と私は思った。
「家で雇って金を払い、少々の教育を付けてやることが庇護、と言うのならまさしくそうだな。元々は恭也がどこかで見つけてきた家政婦さ。都合4年ほどいたか。あのころはまだあどけない少女、という感じだったな。しかし、引き留めようと思ったら逃げられた」
「助平心を出すからだ」
「あのときは本気だったのさ」西遠寺は額に眉を寄せる。「しかし恭也も死んで、西遠寺家がドタバタしていた時期だったからな。行き先を探すのに人を使うわけにもいかなかった。5年近くたって見つけたと思ったらまた居なくなったが」
「契約が切れたからな」
「何故引き留めなかった。あんな働き者、そうはいないぞ」
「出ていったのは本人の意志だ」
「なるほど。お前がそういう男だったと言うことを忘れていたよ」
その話が何処まで本当かはわからない。実際、そのころにはもう妻子がいたはずだ。わざわざ女中に手を出して火種を作るほど酔狂だとも思えない。
私が、西遠寺家にいた頃の明香を知らなかったのは、恭也の妻である紗耶香が死んで西遠寺家に寄りつかなくなったせいだろう。元々、私が西遠寺家に足を運んでいたのは彼女のたっての願い、と言うよりは執拗な要求のせいだ。
彼女は悪性腫瘍があちこちに転移し、見る見るうちにやせ細って死んだ。あまり苦しまず、長引かずに死んだのは幸運といえなくもないだろう。
だがそんなことは関係した人間にとっては慰めにはならない。まだ幼い少女を抱え、西遠寺家の中は誰も信用できないとあれば、当然外部から信用できそうな人間を連れてくるだろう。私の想像に過ぎないが、そのうちの、たぶん複数の人間のうちの一人が明香だったのだ。そしてあの頃から私は自分の屋敷を離れなくなった。時期としては符合する。
西遠寺はそれ以上明香のことを口にはしなかった。
ただ、瓶の中身を減らしていくばかりだ。
「飲むな」
「ワインは生き物なのさ」グラスの中のワインを弄ぶように揺らして西遠寺は気取る。「コルクを抜いた瞬間から死んでいく。ここに詰まっているのは、凝縮された過去の時間だ。開けたら最後、全て飲み干すのが過ぎていく時への礼儀というものだよ、六道君」
「そんなことは知らん。作った年代のことなどどうでもいい。問題は、お前が勝手に飲んでいる、と言うその事実だ」
「それに対する返答は、詰まるところお前が好きにしろと言ったからそうしているだけさ。
シュタインベルガーのビンテージはなかなかお目にかかれないが、こいつは酸味が出かけているからな。今をおいて他に飲む機会はない。そしてたまたま此処にその価値を知る人間が居た。出会いというものはそういうものさ、六道」
「知るか。少なくともお前に飲ませるのには過ぎた代物だと言うことぐらいは判っている」
「そんなに大事な物なら鍵をかけておけばいいものを」
「鍵などかけるものか。これからは鉄球の落ちる罠でも仕掛けてやる」
「いいね。探検の後の一杯は楽しそうだ」
駄目だ、これは。
話にならない。
西遠寺は顔を赤くして、食堂の椅子でくつろいでいる。
「さて今夜は泊まっていくか」
「帰れ」
「おいおい。私は酔っているんだぞ? 飲酒運転させる気か」
「そのまま谷にでも落ちてくれればなお良い」
「せめて送っていって欲しいものだがなぁ」
車を呼べと言うのか。
だが、普通のタクシーなど呼んでやる気はなかった。
「パトカーと霊柩車、どちらがいい」
「霊柩車を頼もうか。一度乗ってみたかったんだ」
「よかろう。そのまま火葬場へ送り届けてやる」
「お前が言うとジョークに聞こえないあたりが凄いな」
「私はいつも本気だ」
「こいつは凄い殺し文句だ」西遠寺は足を組むと横柄に椅子へ座り直した。「では、その楽しそうな乗り物を待たせて貰おうかな」
結局、ペースは西遠寺の物だった。
言い出した以上、本当に呼ばねば私の面子に係わる。
霊柩車を単独で呼べるはずもないが、私が頼むなら話は別だ。
時間にして20分ほどで、洋型の霊柩車が門の前に横付けされた。
「来たな」 西遠寺は意外にしっかりした足取りで玄関から出ていくと、霊柩車の後部扉を開けた。
「おっ。床は大理石か。気が利いているな」
困惑した顔のドライバーへ財布を放り投げ、西遠寺は陽気に霊柩車へ乗り込んだ。
「火葬場へ寄ってくれ。ちょっと暖まっていきたいんだ」
自分で後部扉を閉めながら、西遠寺は付け足した。
「ああ、向こうに着いたら消防車も呼んでくれよ。火葬場からはそれで帰る」
ドライバーの男はさらに困った顔になる。
「連れて行ってやってくれ」
「はあ」
気のない返事で男は運転席へ乗り込む。
夜中に呼び出されて、金持ちの道楽に付き合わされるのだ。気持ちはわかる。
判るが、西遠寺の西遠寺への嫌がらせはそれより優先される事項だ。
律儀に弔鐘代わりのクラクションを鳴らし、霊柩車の黒はやがてとけ込むようにして消えていった。