日々は巡る。
  変わらぬ日々。朝が来て、夜が来る。変化はない。熱いか寒いか、温度湿度、雨が降るか降らないか、その程度の差。
  事業から手を引くまでは頻繁に掛かってきていた電話も、この頃はほとんど鳴らない。注文は予定通り新しい依頼先へ移行しているのだろう。
  私を消しに来る人間が居るのかと思ったが、そう言う動きもなかった。
  自分で思っているほど、私は重要な人間ではなかったと言うことだ。全てを捨ててから判った真実の一つだろう。
  野心もなく、他人に危機感を持たせるほどの存在ですらない。それは、私がつまらない人間である証であり、それは私が思っている通りの答えだった。その点については満足すべきだろう。私は、自分自身で自分が無価値であることを証明できたのだ。
「ぶはぁーっ」
  ほっかむりをした少女が、顔をしかめながら部屋から出てきた。
  普段着ではなく高校のジャージに身を包んでいるが、学年を表すであろうエンジ色は、所々灰色の埃でデコレーションされている。
  手にしたはたきも、積もりに積もった埃や蜘蛛の巣が奇妙なオブジェのように張り付いている。
「信じられないわ。一年でこんなになっちゃうなんて」
「無理するな。適当でいいぞ」
「そうはいかないわ。お金もらってるんだし」
  少女は、頭に巻いたバンダナをふりほどいてため息をついた。
  立場としては、私の姪になるのだろう。西遠寺 恭也の一人娘、伊月 由梨香。西遠寺の姓を名乗っていないのは、西遠寺家の「政治的配慮」と言うことだ。つまりは死んだ母親の姓を名乗らせることで、西遠寺家の遺産を受け取る権利はない、と言うことにしたいらしい。幼稚な牽制だが、こういうつまらないことをされるのはひとえに父親の恭也がいささか奔放すぎたためだろう。まして、恭也は妾腹の子だ。その娘となれば、立場は微妙になる。よって、正式に引き取ったわけではないが、恭也の遺言に従って経済的な意味でも後見人となっている。由梨香自身が成長すれば、違う手も打てるだろうし、当然西遠寺家に戻ることも出来るだろうが、どうやら本人にはその気はないらしい。
  それよりも、念願の高校生活を満喫する方がずっと有意義だと判断したのだろう。
  そんなわけで高校に入学するために金銭面での援助をしたせいか、由梨香は押しかけ女房よろしく学校が休みになるたびに私の屋敷にやってきて、掃除やら片づけやらをやっていく。そのうえ、昼食か、あるいは夕食を作ってから自転車で街まで降りて、家へと帰る。
  家、というのはもちろん自宅という意味ではない。由梨香が長年暮らしている施設だ。高校生になったからと言って小遣いを貰えるわけではないので、変わりに私が多すぎない程度の金額を与えている。掃除や家事はそのための口実だ。
  とは言っても、その上達はなかなかのもので、日頃から熱心に訓練しているか、誰かいい先生が付いているのだろう。来訪のたびに、欠点が少しずつ改善されている。
  今日は夕食を作ることにしたらしい。
  豚肉のブロックと大根を煮たシンプルな煮物に御飯。当初の予定だった味噌汁は、味噌が駄目になっていたために献立から消えた。浅漬けの予定もあったらしいが、やはり糠床が駄目になっているのでそれもなくなった。
  こんな事ならインスタント浅漬けの素でも買ってくれば良かった、とは由梨香の弁である。
  個人的にはなくても全然構わないし、インスタント味噌汁の素が実はたくさんあるのだが、由梨香には黙っておいた。あれを主食にしていることがばれると、面倒なことになりそうな予感がするのだ。
  少女の苦労に、わざわざそんなもので水を差すこともない。
  大根は芯があり、豚肉も脂をすくっていないせいでぎとぎとだったが、気にするほどではなかった。味は至極まともだったからだ。
「上達したな」
「でしょ?」
  由梨香が輝くような笑みを見せる。
「醤油一、みりん一、酒一でやると良いんだって。家でも結構好評だったのよ。練り辛子があればもっと良かったんだけど、この家には無かったから………今度買ってくるね」
  なるほど、味付けはやや甘めだが辛子があれば引き立つだろう。豚の角煮にも辛子を添えて出す店は良くある。
  ついでに言えば、豚のブロックを煮るときは軽く焼いてから煮ると形が崩れなくて良い、と言おうかと思ったが、明香の受け売りであるし、そんなことを言うのはただの蛇足だったので黙っておいた。
  ただ、胸焼けをしそうなので、後で何かしら薬を飲んだ方が良さそうなのは確かだ。
  こうして考えてみれば、私はひどく由梨香に遠慮しているような気がする。
  いや、実際遠慮している。
  それは何故か、と言われれば、由梨香は結局のところ客にしか過ぎない。客が作った食事に文句は言えない。
  そして、実のところ由梨香のやることと明香の仕事を比較している。無意識のうちに。それは良いことではない。それは発展に繋がることではなく、質の悪い懐古に過ぎない。過去は常に美化される。そして、それは、醜い。
  故に未だに明香のことを考える自分に嫌悪を抱く。
  そして、心の何処かでは、それを喚起する由梨香の存在を疎ましく思う自分がいる。
  だが、本当は知っているのだ。
  由梨香が疎ましいのではなく、そう転嫁することで、葛藤から逃げようとしているのだと。
  こうして食卓を囲み週末に由梨香を待つのは、私の贖罪であると同時に自己と向き合うために必要な過程なのだ。そうせねばならないのだ。
  何故なら、私に残されただ一つの役割を果たすためには。
  私は、己自身さえも押さえつけて由梨香の良き後見人を演じ続けねばならない。
  身につけた仮面が真実になるためには、自らの肉を削いで仮面をはめ込まなければならない。
  優しさを演出させるために、あらかじめ手を水に浸すように。
  警戒を解かせるための笑顔を鏡の前で練習するように。
  そう、かつて明香が皮肉を言ったように、良き足長おじさんであるために。
  誰かにとって、それが真実であるかどうかなどは問題ではない。問題なのは、相手がどう捉えるか。そして、それをどう表現できるか。それだけだ。
  この馬鹿げたホームドラマを続けなければならない。
  少なくとも、由梨香自身が自分の道で歩く道を見出すまで。
  その時こそ、私は本当の意味で屍になることが出来る。誰はばかることなく、滅びていくことが出来る。選択できる。つまりは、生きながらにして、全てを放棄できる。
  仮面はいつか、本当の顔になる日が来るかも知れない。
  いつか、人並みの平穏を手に入れることが出来るかも知れない。
  だが、仮面を仮面としている限りそれは手に入らない。ここにパラドックスがあり、ここに真実がある。つまり、人は己自身であることを捨てることは出来ない。どれほど多くの仮面を手にしようと、それは詰まるところただの仮面に過ぎない。仮面は、仮面であり、それは表現のためのシンボルにはなるが、本質そのものではない。それを誤解すると、其処には自己の喪失が待っている。
  最早何者にもなれなくなった人間は、死ぬことさえ出来ない。陳腐な言い方をすれば魂が失われるのだ。自らを定義することの出来なくなった者は、死さえ安息にはならないだろう。死もまた唯の仮面になってしまう。
  私が自らに望むのは滅びであり、消失であるが、それは己自身の望みでなくてはならない、果たすべき事を果たし、何もかもを放棄したのでなければ、それは贖罪にはならない。
  それは、捨てればいいのではない。全て、あらゆる事が私無しで為し遂げられることによってのみ、成就する。私は私自身が必要とされなくなることをただ望む。
  だが、約束は果たされなければならない。それだけが、私をこの世につなぎ止めている楔だ。
  日は過ぎていく。ただ過ぎていく。季節も重なり、少女は成長する。
  時は止まらない。流れる水を遮ることは出来ない。終わりは必ずやってくる。どんなことにも。永遠など無いからこそ、この世は素晴らしい。
  かつて恭也が望んだように、私もまた由梨香の成長を楽しみにしている。
  彼女が私のもとから離れたとき、私の手には一体何が残るのか?
  それは失われるのか、それとも回り続ける運命の環の、ほんの一部に過ぎないのか。
  自ら為すべき事を見いだせない人間は、ただ待つことしかできない。
  さしずめ、週末の由梨香の来訪は時の環に刻まれた赤い目印、と言ったところだ。
「おかわり、いる?」
「そうだな。あと少しだけ貰おうか」
  そしてこの茶番劇が終わると、また暗黒がやってくる。
  時は停滞する。運命は澱む。
  また、次の週末が来るまで。

 時は巡る。
  ほんの少しだけ、動きを変えて。
  それは、環ではなく、緩やかな螺旋なのだと、人はあるときに気が付く。同じなのではなく、ずれていくのだと。
  同じ日々は来ない。それは限りなく似た、違う座標の出来事。
「悔しいけどこれは私の手には負えないわ」
  そういったのは、秋ももう終わりになるころの、薄寒い日の夕方だった。
  音を上げた、というと聞こえが悪いが、よく頑張ったほうだとは思う。
  正直に言えば、由梨香には全然期待をしていなかった。それでも力の限り掃除をし、庭の雑草を引っこ抜き、まあ何とか味のする食事も作った。
  これ以上を望むのは酷というもので、もともとは由梨香にやる小遣いのための方便なのだから、ここまでやってもらう必要はなかった。適当に埃だけ払ってもらえれば後はどうなろうと私は大して困らないのだから。
  さらに言えば、私の生活圏は書斎と寝室の二つだけ、風呂はシャワーで済ませてしまうのでほとんど湯船につかることもなかったのだから、あの悪趣味な浴槽を磨いてもらう必要もなかった。
「ねぇ、おじ様。もう一人、助っ人を頼んでもいいかしら」
「助っ人?」
「うん。私の友達に、こういうことが得意な子がいるんだけど、多分頼めば手伝ってくれると思うの」
「別にそこまでしてもらういわれはない」
「おじ様だって若い子がたくさん来たら嬉しいでしょ?」
  嬉しいかどうかは時と場合による。
「あまり屋敷に他人を入れたくはないが、お前の推薦なら、まあ良かろう」
「うん、わかった。話しとく。頑張ってみてもさすがに、これを私一人でやるのはやっぱり無理みたいだし、私も部活始めたから週末の時間も取りにくくなって来ちゃったし」
「部活は入らないと言っていなかったか」
「そうなんだけど、なんか内申書とかに響くから形だけでもやっといたほうが良いって。面倒くさいけど、まあ将来のためだから仕方ないわよね」
  由梨香は照れ笑いをして付け加えた。
「ま、あれはあれで、やってみると面白いのよ」
「何の部活に入ったんだ」
「バレーボール」
  根拠は何もないが、背が伸びて良いかもしれない。
  母親に似れば、もう少し大人しかったのかも知れないが、西遠寺の血は濃い。
  この勝ち気な少女は、家の掃除よりも体を使って発散する物事の方が明らかに向いている。なんと言っても、彼女は恭也の娘なのだから。
「でね、毎週は来られないみたいだから、隔週とかでもいいかな?」
「来たいときに来ればいいさ」
「うーん。本当はね、ここから通いたいぐらいなのよ。おじさまの生活、思った以上に滅茶苦茶だし。危なっかしいのよね」
  それを言われると身も蓋もない。
「お前は、お前に出来ることをすればいい。その、友達とやらが来るのも無理にではなくていいんだぞ」
  由梨香は頭を振った。
「そういうわけにはいかないわ。今や私はおじさまの保護者なんだから」
「何を言っている」
「おじさまに必要なのは、バシッと決める人間よ。自堕落は人生の墓場だわ」
「それは手厳しいな」
「まあ見ててよ。おじさまに人並みの生活が出来るようにしてみせるんだから」
「さては西遠寺に何か吹き込まれたな」
「私が、吹き込んだのよ」
「この間の偵察もそれか」
  由梨香は西遠寺から遠ざけたほうが良いのかもしれない。
「なんのこと?」
「いや、いい。何でもない」
「とにかく、おじさまには絶対に監視する人間が必要だわ。例え週一回でも」
  何か話がおかしな事になってきた。
  屋敷の掃除をすることから、監視を付ける方向に話が進んでいる。
「とりあえず、おじさまのお眼鏡にかなう人間じゃなくちゃ駄目だろうから、来週の日曜日はこっちに来てね。面接するから」
「こら、勝手に決めるな」
「いいじゃない。おじさま引きこもりみたいなものなんだから、たまには外に出て空気吸わないとカビが生えるわよ」
「断っても駄目なんだろうな」
「逃げたら悦也おじさんに連れてこさせるわよ」
「わかった、わかった。来週だな」
「いい?これはおじさまのためなんだからね?」
「判っている」
  私の周りには、何故こんなにお節介ばかりが多いのだろうか。
  私はもはや苦笑するしかなかった。


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