光。
 私には、それが邪魔だ。
 だが朝はやってくる。人間の都合など知った風ではない、というように。
 憂鬱な気分になりながら、私は階段を下りた。
 日がだいぶ高くなっているせいか、それほど寒いという感じはない。もはや季節は春になっている。
 わずかに冷え込む日はあっても窓間の外は緑で染まっている。
 日に日に募る苛立ちは、心の底で腐敗していくようだ。
 世界がどんなに明るくとも、人の心には闇が差す。
 それは物理的な光など関係ない。目を灼く光でも照らす事の出来ない原初の闇だ。
 だからこそ、光もまた存在できる。どちらか片方の世界など無い。2つの力は共存しているからこそ互いを主張できる。人は得てして世界を光だけで染めたがるが、強い光を求めればこそ影もまた濃く映る。
 この世界は灰色であるべきだ。
 だが私にはこの世界など最早どうでもいい事の一つにすぎない。月日などただ流れていくだけだ。
 食堂へと降りていくと、明香の姿はなかった。
 線の細い字で書き置きがしてある。食料品の買い出しに行っているらしい。
 人気のない食堂は、ひんやりとした空気が漂っている。日が僅かに西へ傾いているせいで、室内は薄暗く感じる。
 時計を見上げると、もう11時を過ぎている。
 随分と寝坊したものだ。
 テーブルの上には煮物が器に盛りつけられており、ガスコンロの上にかけられている鍋はたぶん味噌汁だろう。
 実際近づいて蓋を取ってみると、豆腐とネギの味噌汁だった。
 暖めるのも面倒なので、冷えたまま食べる。
 思っていたよりは冷たくなく、まだほんのりと暖かいような気もした。しかし湯気はない。ただの気のせいなのだろう。
 食器を流し台に置くと、私は書斎へ行くことにした。
 別に仕事がたまっているわけではないが、他にやることもない。
 趣味、と呼べるようなものを私は持っていない。何か没頭できるものがあるかと言えば、それは本を読むか大量の書類と格闘するかぐらいだ。
 どちらにせよ、私の領域は書斎と言う事になる。
 これだけ大きな屋敷だというのに、私の領地と呼べるのはそこだけだ。
 あとは・・・・・・おそらく、明香の領域なのだろう。
 そんな気がする。
 階段へと向かおうとすると、ベルが鳴った。
 確か、今日は来客の予定はなかったはずだが。
 火急の用件か。
 一瞬居留守を使おうと思ったが、すぐにばれることに気がつき、玄関へと向かう。
 ドアを開けると、そこには見知った顔があった。
「おはよう、六道君」
 にこやかな笑顔で西遠寺が立っている。
 私は即座に後悔した。
 居留守を使えば良かった。
「何の用だ」
 私は嫌悪感を隠しもせずに言った。
「いきなりご挨拶だな。旧知の友がわざわざ訪ねてきたというのに」
「おまえと友人になった覚えはない」
 私が友と呼べる、いや呼べた人間はただ一人だ。
 それ以外の人間など、私にとってはどうでもいい、ただの動く生き物に過ぎない。
 物を友と呼ぶ人間は居ない。
 私にとって、人間など物だ。
 物に過ぎない。
 同じ言葉を喋り、同じ形態を持ち、同じ論理で動いたとしていても。
「私には友人などいない」
 昨晩、明香に言ったのと同じ台詞を言い、私はドアに手をかけた。
 だが西遠寺が一歩踏みだし、ドアの間に割ってはいる。
「ところで少々喉が渇いたので茶の一杯も貰いたいのだが」
 図々しい奴だ。
「駄目だ」
 私の拒絶を、西遠寺は笑って受け流した。
「ただとは言わんよ。今日は面白い話を一つ持ってきた」
「話なら別に聞きたい気分ではない」
 帰れ、という言葉が出かかる。
 出なかったのは、西遠寺の一言が私の全てを押しとどめたからだ。
「君が処理したはずの恭也の遺産についてでもかね?」
「何だと?」
 自分でも思いがけず大きな声が出る。
 それは私の心中を見透かしたような提示だった。
 何故、どうして、この男が。
 いや。
 だからこそ、か。
 私の知る限り、事の核心に一番近い位置にいるのはこの男だ。
「ほら興味がわいてきたな」西遠寺は「してやったり」、という表情をする。「さて、それでは取引と行こうか」

 まるで我が家にいるが如く、西遠寺は台所まで入り込んでくる。
「応接室で大人しくしていろ」
「あそこは堅苦しくていかん。私はアットホームな雰囲気が好きでね」
 何処までも無礼な奴だ。
「ここの主は私だ」
「客の希望は優先されないのかね?」
「この屋敷では私がルールだ」
「今どき凄いことを言う。まるで暴君ネロだ」
 私が食器棚からカップを出すのを見ると、西遠寺は椅子に座った。
「砂糖は一つで結構」
 西遠寺の要請を私は無視した。
「自分で入れろ。これは私の分だ」
「どうしてそんな意地の悪い事をする」
「お前が嫌いだからだ」
「ふむ。子供が自分の好きな相手にわざと嫌がらせをするという、アレだな」
「私の許可無く好意的な解釈をするな」
「するな、といわれてもポジティブなのは性格だ。他人の言う事にいちいち目くじらたてていると長生きできんぞ」
「余計なお世話だ」
 私が椅子に座ると、入れ替わりで西遠寺が立ち上がった。
 食器棚から私と同じカップを取り出し、インスタントコーヒーを作る。
 カップに注がれていた西遠寺の視線は流し台の中の食器に移る。
 注視していなければ判らないような、僅かな時間だけ。
 無言のままカップを持って椅子に座る。
「なるほど。明香は不在か」
「それが目的か」
「いいや。私の目的は、いつだって君だ」
「そういう台詞は女に言え」
「そうだな。今度使ってみよう」
 これがこの男のペースなのだ。
 こうやって籠絡し、攪乱し、隠す。
 だから苛立つ。
「西遠寺。私はお前と談笑したくてここにいるわけではない。用件を簡潔に、話せ」
「命令形ときたか。…………まぁ、いいだろう」
 西遠寺はコーヒーを一口のみ、それからむせた。
「ちょっと濃く入れすぎたな」
 私の視線に気がつくと両手を上げておどける。
「そう、怒るな。なんだか尋問されているような気分だぞ」
「それが望みなら、そうしてやってもいい」
「望むものか」口の中で小さく呟く。「恭也の遺産についてだったな」
 西遠寺は椅子を少し引いて足を組んだ。
「簡潔に言えば、あれはまだ存在する。何故7年も経って、それがまた話題になったかはわからんが」
「だが恭也の遺産は」
「そう、君が凍結した。ほんの一部だけ、な」
「一部?」
「恭也があれだけ手広く事業をやっていて、有価証券の類があの程度、というのはどう考えても少ないとは思わなかったか?」
「しかし、あれで全てだ」
「そう思うのは無理もない。死の直前、君には事業から手を引くようなことを言い残していたからな。だが、それは嘘だ。恭也が存命中に減らしたはずの財産は、全部書き換えられていまだに存在する。金銭的な価値以外の物も含めてだ」
「仮にそうだとして、何故それをお前が知っている」
「ふむ、知っていると言うよりは、知らされた、が正しいな」
「恭也の遺産を蒸し返したのはお前ではないといいたいのか」
「当然だ。独自に調査はしていたが、確証を持てたのは「介入」があってからだ」
「誰が」
「その答えは大体見当がついている。私を知り、君をよく知る人間など、数えるほどしかいない。消去法でいけば誰が残るか言うまでも無かろうよ」
 そういって西遠寺は笑った。
「本人がこの場にいないのは残念だがね」
 誰、か。
 考えるまでもなく、また予想もついていた。
 そういう絡繰りなのだということを、何処かで認めたくなかったのも判っていた。
「遺産の相続は、その人物が決定する。相続できる権利がある人間はおそらく二人。私と、君だ」
「だからどうした」
 絞り出すように、私は言葉を吐き出した。
 私に許される、唯一の抵抗だった。
 西遠寺はカップに口を付け、一呼吸おいてから私を見据えた。
 だが、そこには何の感情も窺い知る事は出来なかった。
 ガラス玉のような、無表情。
「つまり、私の言い分は一言に集約される。君が相続した場合、それを私に譲れ」
 要請ではない。
 要望でもないだろう。
 それが自分の当然の権利であると言わんばかりの言葉。
 これがこの男の本質なのかも知れない。
 親しみのある隣人の顔と、冷酷な支配者。
 かといって、どちらが真か、などという単純な問題ではない。人間の持つ顔というのは2つや3つでは割り切れない。
 これも、西遠寺悦也という男。
 だが誰であろうと、私の意志は一つだ。
「断る」
 沈黙は短かった。
「予想通りの答えだ」
「だろうな」
「交渉は決裂か」
「交渉以前の問題だ。恭也の遺産は闇に葬る。それが私の役割だ」
「律儀だな。死人に意志など無いというのに」
「私の趣味は嫌がらせでな。お前の嫌がる顔を見られるなら喜んで邪魔をしよう」
「ひねくれ者め」西遠寺は苦笑いすると席を立った。「では今日のところはお暇しようか」
「二度と来なくていいぞ」
「私の趣味も嫌がらせなんだ。君の嫌がる顔が見られるなら何度でも参上しよう。なんといっても君ような男の嫌がる顔などそう見られるものではないからな」
 西遠寺は笑い、それから台所から去っていった。
 見送る気にはならないし、そのつもりもない。
 やがて庭先でエンジン音がし、遠ざかっていった。

 私は意味もなく天井を見つめた。
 そこに何かがあるわけではない。
 ただ、何となくそうせずにはいられなかった。
 天井があり、電灯があり、シミがあり、汚れがあり、それだけだった。
 私の驚き、苦悩、放心、それらとは何の関係もなく、物というものはそこにある。
 存在というものは、意志があるから在るのではなく、ただ在るからこそ在るのだ。
 自らの居場所を確立するのに理由が居る人間という生物は、なんと無意味で愚かなのだろう。
 存在を理屈で証明しなければならないからこそ、互いに殺し合う。
 理由がなければ自己の存在を確立できないというのは不便なものだ。
 西遠寺は謀略のなかで生き残ることに生き甲斐を見いだしている。
 私は恭也の遺産を守ることで、自己を繋ぎ止めている。
 私が命を繋ぎ止めているのはそのためだ。
 その理由がなければ、私は自分の存在を肯定できない。必要性を認めることが出来ない。私として存在することを許されない。
 今の、今までの、これからの私は、そのためだけに存在するのだ。
 西遠寺がそれでも恭也の遺産を欲するならば、奴とはやはり正面から向き合うことになるだろう。
 だが、決定権を私が所持していないのであれば、それを第三者が決定するのであれば、私の出来る事というのは限られてくる。
 目眩がする。
 ただ時間だけが過ぎていくが、それは拭い去れないカーテンのようにのし掛かってくる。
 判っているのだ。この目眩の原因が。
 苦悩する必要など無い。それは事実なのだ。
 恭也の遺産があるというのに、私自身が何も出来ないという事実。
 私が私に課した責務、債務を、実行できないという現実。
 この渦巻くような苛立ち。
 何もかも破壊してやりたいような、そんな衝動に駆られる。
 だがそれは何の解決にもならない。
 私は今どうすべきか。
 それが最も重要で、最も大きな問題なのだ。
 何も出来ないならば、何をすべきか。
 待つか、追うか。
 何をすればいいのか。

 まだ外は明るい。
 明るいはずなのに、私にはその光が霞んだものに見えていた。


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