イェナのアパートには生活感というものがない。
  調度品の類が妙に少なく、飾り気もないからだ。
  長く放浪を続けてきた習性で、イェナは私物というものをほとんど持たない。
  それらは全て代用が利く。かろうじて外界との繋がりがありそうな物はベッド脇のマガジンラック差し込まれたペーパーバック雑誌だけだ。
  スミスは驚きをもってその部屋を眺め回していたが、イェナはそれに気づいて苦笑した。
「ああ、殺風景な場所でごめんなさいね」
「いえいえ。わざわざお招きいただいてありがとうございます」
「適当に腰掛けてて。コーヒーで良いかしら?インスタントだけど」
「どうぞお構いなく。それにしてもこの街は本当に不思議なところですな」
  不思議な場所。なるほどそう捉える人間もいるだろう。暗黒街などと呼び習わされても、繁栄と汚濁を共にする悪徳の都とは程遠い。
  繁栄はある。汚濁もある。堕落も暴力も、死さえ日常に組み込まれている。それなのに、この町全体に漂うどこか厭世的な影は何なのか。
  スミスの問いはそういう意味だ。
  だがイェナはその疑問には答えない。
「ずっとここはそうよ。ウォーターフロントからの荷揚げ、それに絡む利権、密輸。時々は麻薬とか銃器なんかも、ね。それは永久不変の定理」
  イェナは過去そのものだ。だから過去しか語らない。過去をもって、現在を語る。
  その意味するところを汲み取ったのか、スミスはうなずいた。
「そうですな。犯罪はペイする。もはや犯罪はビジネスとして成立しつつあり、それをコントロールする者が利益を手にする。今も、昔も。―――この街ではあなたがそうだ、ということですかな?」
  どこか探るような目つき。
  しかし本心ではないだろう。富を得たものがこれほど殺風景な部屋に住んでいるとは普通は考えられない。考えてもいないはずだ。
「はずれ。私は仕組みの一部でしかないわ。異邦人から抜け出すには歯車の一つに組み込まれるしかない。それが一番安全な方法。ただ、その歯車は他よりちょっと長持ちするだけよ」
  長持ち、とは自重した物言いであろう。スミスの調べでは少なくとも200年。
  その若さにはいささかの陰りもない。
「ふむ。すると、あなたは本当に不死であると?」
  老化の影さえ見えないとなれば事実上の不老。すなわち、時の流れで滅びることはない.そう見ることも出来る。
「死んだことのない人間がどうやって不死を証明できるかしら?」
  スミスはカップから手を離し、うなずいた。
「ごもっともです」
「記事にしてみる?」
「いや、それはどうですかな。これを記事にしても信憑性がない。それを確かめに人が殺到するようなことにも『おそらくは』ならないでしょうなあ。すると、私はペテン師だということにもなりかねません」
「察しがいいわね」
「ただ、私個人としてはこれほど興味深い人物に出会った機会を、このままふいにするのも忍びないと思っているわけでして」
「なるほど。あなたとしては私と個人的に情報交換をするような関係を構築したいという事かしら?」
「有り体に言ってしまえばその通り。ただ、個人的に興味がないわけでもないのですよ。あなたの持っている知識は、ひょっとしたら過去の重大な事件や歴史を覆すかも知れません。それは記者として非常に面白い出来事です。センセーショナルな発見と刺激。世界に楔を打ち込むのはそういうものだとは思いませんか?」
「情熱と探求心だけでこの街に? それは大した蛮勇だわ」
「いやいや、無謀とも言われますがね。お宅の若い人には護衛を連れてくるべきだった、と言われました」
「丸腰でここに来たのは大した度胸だと褒めておくわ。昔何か格闘技でも?」
「いえ、これがさっぱり。見た目の通り、運動はからきしです」
「そのようね。少なくとも見た限りは」
「信仰心のない私が言うのもあれですが、命あってあなたに会えたのは神のお導きという奴なのでしょうな」
  イェナは笑い、それからスミスを凝視した。
「たいしたものね。別人になりすますというよりは、別人になってしまうのかしら。これは確かに、間近で見る甲斐のあるものだわね」
「何の話です?」
「ただ死なない女よりも珍しい見せ物が見れた、という話よ」
「交代だ」
  スミスの口調が変わった。
  どこか人好きのするような表情は失せ、抑揚を押さえた声が取って代わる。
「いつから気づいていた?」
「確信したのは今。疑っていたのは最初から」
「ほう」
「どうやら私を殺しにきたのとは違うみたいだけど、何が知りたいのかしら? 昔話? スリーサイズ? それともデートのお誘い?」
「とぼけても無駄ってことか」
「そうね。あれだけ殴る蹴るされて全部急所を外しているなんてありえないものね」
「俺を殴った奴の中にやけに手馴れているのがいると思ったら、そういう仕込みか。────急所に関しては今後の課題だな」
「そういうこと。話に聞いたことがあるわ、「穏行の術」という奴ね。察するにあなたがシュナイダーかしら。系統としてはハンスの使っていた技に似ているもの」
  忍術。
  伝え聞いたのみでその仔細はイェナも詳しくは知らない。ただ、練達の技と特殊な思想によって培われた、不可解な技を用いると聞く。
  そもそも忍術を用いるもの――忍者――はその身をさらさず、影なることをもって目的を達成する。
  姿形はおろか、どのような技術を有しているかさえも秘匿されている。イェナが知っているのはごく一般的な、ありふれた術に関してのみだ。
東洋の技、とは聞いたが、目の前の白人がそれを用いていても不思議ではない。
  かつてより、世界は狭くなっている。
  シュナイダーはにやりと笑い、イェナの問いを肯定した。
「当たりだ。そろそろ奴を連れ帰ろうと思ったが姿が見えないな」
「いまバカンス中よ」
「ほう。ずいぶん丁重な扱いをしているな」
「見所のある若者は好きよ。あの子は逸材だわ」
「フン。何百年も生きているような化け物が、生まれてたかだか十数年の子供に入れ込むとはな」
「変態の児童性愛者に言われたくはないわ」
「一緒にされちゃ困る。俺が愛しているのはハンスだけだ。あいつが男であろうと女であろうと関係は無いが、他の生き物は俺にとって対象外だ」
「なるほど。筋が通っているといいたいわけね。でも彼は渡さないわよ―――あの子は私のものだから」
「すると俺たちは恋敵ってわけか」
「私はあの子の保護者よ。出来ることなら真っ当な道に戻してやりたいと思っているわ。だけどそれにはどうやらあなたが邪魔なようね、シュナイダー」
「あいつも俺も死を見すぎた。たぶんあんたもな。
  変態どもの慰み者にされて、解体ショーの嬲り者になっていたあいつを救い上げたのは俺だ。
  生きるために戦う技を教えたのも俺だ。
  あいつの素質を見出し、磨き上げたのも俺だ。
  あいつは一度死に、俺によって新しい生を得た。あいつを形作ったのは俺だ。わかるか?」
  それは自らがハンスの所有者であるという宣言。
  だが、イェナはそれを一笑に付す。
「言っておくわ、シュナイダー。ハンスにとってあなたなど唯の通過点に過ぎない。
  あなたは過去であり、忘れ去られるものであり、葬られるものよ。それに彼の身体がどうなっているか、知らないでもないでしょう」
「知ってるさ。廃人になりかけたあいつを救うためにそうしたんだからな。あの時選択肢は二つしかなかった。そのまま死ぬか、苦痛の中で生をつかむかだ。大分無茶な施術だったが、俺と同じになればあいつはまだ十分に生きられる。それ以外に方法はない」
「どうかしら?」
「死は救いだが、あの歳で福音を授かるのは早すぎるとは思わないか」
「ふふん。なるほど面白い男だわ、シュナイダー。殺さなければいけないのが残念なくらい」
「俺を殺すか。噂通り物騒な姉さんだな」
「もちろん、色々喋ってくれたら苦しまないようにしてあげる」
「あはははははははは。こいつはいいな、俺にそんなことを言ったのはあんたで二人目だ」
「最初の一人は誰かしら」
「賭場の用心棒だ。今はあの世で賭場のお守りをしている」
「良いことを聞いたわ。向こうへ行った時の楽しみにしておこうかしら」
「あんたも面白い女だな。伯爵が入れ込むのも判るぜ。そうそう、俺もあんたに聞いてみたかった。……何であんたはブッ壊れていない? パピヨンと同類だろう、あんたは」
「いつか死ねる日が来るのを信じているからよ」
「俺が送ってやろうか? 痛みも悩みもない国へ」
「あなたが神父だとは知らなかったわ」
「神父じゃないが日曜のミサは欠かしたことがないぜ。こう見えても神の存在を信じてるし、殺しの後はちゃんと懺悔もするさ」
「それはいいわね。今度神様にあったら「とっととくたばれ」って言っておいて」
「そいつは―――」シュナイダーがカップに手を触れると、それは真っ二つに『斬れた』。「自分で言いに行けばいい」
  割れたカップを指先で弾く。
  軽い動作のはずである。だが破片の速度は弾丸のそれに匹敵した。
  空を裂く鋭い音がイェナの耳に届く。
  無論、破片はすでにその先を行っている。見る間もなく、イェナは軽く首を動かしてそれを避けていた。破片は背後の壁に突き刺さり、埋没する。
  お互いにそれを見ることはない。
  テーブルの上にあるのは静寂。しかし、次の手を読むべく水面下での攻防が続いている。
  どう来る。どう出る。相手の手の内は定かではない。
  表情を読み、些細な動作の流れに気を配り、全身の神経をとぎすまして動向を探る。
  殺気などというものは存在しない。二人の間にあるのは不気味なほどの沈黙。
  イェナが頬を緩める。
「面白いわ。武器は現地調達するタイプなのね」
「貧乏なんでね」
  ティースプーンを手に取る。
  それはまたしても二つに裂かれ、刃物となってシュナイダーの両手に収まった。
「便利ね、その手。何でも二つに出来るみたい」
「ダイヤモンドは斬れなかったな」
「あら弱点を教えて良いのかしら?」
「宝石のカットは職人に任せた方がうまくいく」
「そうね」
  イェナの膝蹴りがテーブルを宙に舞わせた。
  椅子に座ったまま足を伸ばしてテーブルをシュナイダーへ蹴り込む。
  テーブルは宙空で四つに割れた。
  扉を開けるようにシュナイダーが割れたテーブルの隙間から飛び込んでくる。
  イェナは地を蹴って椅子ごと飛び退いた。
  間合いが離れる。
「さて、見るところあんたは丸腰みたいだが武器は何処にある」
「取りに行かせてくれるのかしら?」
「いや場所が判ればそっちに行かせないようにしようと思ってな」
「話すわけ無いでしょう」
「それもそうだ」
  太った見た目は偽装だ。
  信じられないほどの身の軽さ。
  面白い。
「ケヴィン・マクガイアが貴方ほどの男を抱えていられるとは思えないわね。ボスは誰?」
「ハンスと交換で教えるってのは駄目か?」
「人身売買は趣味じゃないの。うちの商売じゃないし」
「いくら出せば逢える?」
「非売品よ」
「あーそうかい。興が冷めたぜ。やめだ、やめ」
  シュナイダーは手にしたスプーンを床に放り投げた。
「自分から仕掛けておいたくせに」
「金にならない殺しはやらん主義だからな」
「いいわね。犯罪はペイする。至言だわ。でも私の家を荒らしたことの落とし前はどうつけてくれるのかしら?」
「根に持つなよ。テーブル一個とティーセットだけだろうが」
「あなたの命よりは高いわ」
「ふん。ふ、はははははは。なるほどなるほど。そいつは確かにその通りだ。じゃあこんなのはどうだ?『俺たちのボスは移民ビジネスをやりたがっている』」
「いまさら?と言いたいところだけど意図するところは別にありそうね。ウォーターフロントを欲しがっている理由は入国管理を通らない港を押さえたいって事かしら?」
「そっから先は別料金だ。事によっちゃあんたの命より高い」
「言うわね。……いいわ。今日の所は手打ちにしましょう。本当なら首の一つも貰っておきたいところだけど」
「それは困る。一個しかないからな」
「全く、よく回る口だこと」
  イエナは呆れた口調で言い、緊張を解いた。
「それよりどうだ、あんたがこちら側へ来るというのは?」
「今度は引き抜き? 節操のない男ね。
―――『ノー』『嫌よ』『お断りだわ』。どれでも好きなのを選んで頂戴」
  シュナイダーは頭を振った。
「金にならない殺しはしないが、かといってあんたの相手をするのはどうも料金以上の仕事をする羽目になりそうだからな。聞いてみただけさ」
「あなたのボスにも伝えておきなさい。余計なちょっかいを出すと町ごと吹っ飛ぶ羽目になる、と」
「あんたが言うと全く冗談に聞こえないあたりが素晴らしいな」
「冗談ではないわ。規定の料金を払わないのなら、取り立ては命で払ってもらう、ということよ」
  シュナイダーは頭をかきながらため息をついた。
「ここだけの話、俺もそうは思うんだがなあ。マクガイアは強欲でいけねえ。
  ま、上の戯言につきあうのにも下っ端の仕事だ。あきらめてくれ」
「つまり行き着くところは『誰が最後に立っているか』ということね」
  それは究極のゼロサム。
  愚かな解決方法。
  おおよそ、組織と言われる物すべてが選択すべきではない結末。
  だが、相容れぬもの同士が存在するならば避けようのない終焉。
「そういう事らしいな。次に会うときは初対面かもしれないが楽しみにしているぜ」
「顔を覚えていたら、ね」
「最後まで手厳しいな」
  シュナイダーは肩をすくめると、おもむろに笑みを浮かべて一礼した。
「今日は大変興味深いお話が聞けて有意義でした。それではまた」
  もはやそこにいるのはシュナイダーではなく、クライン・プレスのスミス・エリオットであった。
  スミスとなったシュナイダーはドアの前でもう一度頭を下げ、それから出て行った。
  殺気は霧散し、足音さえもドタドタと重い物に変わっている。
「とんだ化け物もいたものだわ」
  イェナは床にうち捨てられたスプーンを拾い、そう嘆息した。


EPISODE6. END

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