「般若心経」の真実を公開し、「空」とは何かの真説を発表します。

真説・般若心経

『般若心経』とは?
クマラージ訳「般若心経」
玄奘訳「般若心経」
サンスクリット語「般若心経」
サンスクリット「般若心経」ローマナイズ
サンスクリット原文からの直訳
サンスクリット原文に漢訳テキストを加味した意訳
本文解説

『般若心経』とは?

  『般若心経』とは大乗仏教の経典で、古代インドで成立しました。600巻にわたる「大般若経」のエッセンスを凝縮したものだといわれています。ひと言で『般若心経』といっても「広本」と「略本」の二種類があり、世間一般に流布しているのは略本の方です。『般若心経』の内容は広本の序文(略本にはない部分)によると、仏教の世尊であるゴータマ・シッタルダー(ブッダ=釈迦牟尼=釈尊)が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法中に、ブッダの弟子であるシャリープトラー(舎利子=舎利弗)に対してアポロキティシュヴァラー(観自在菩薩=観世音菩薩)が説いたものとなっています。本文は「空」という言葉がキーワードになり、その解説という進行で内容は進みますが、最後は真言(マントラ=呪文)でしめくくられています。(広本には、さらにその後に流通文があります。また、日本に伝わる写本にのみ、読誦功徳文がついているものもあります)
  『般若心経』はもともと古代インド語であるサンスクリット語(梵語)で書かれており、そのほかチベット語訳もありますが、日本で流布しているものは中国語(古代中国語=漢文)に翻訳されたものです。中国語訳も数種類あり、最初はインド人の鳩摩羅什(クマラジーヴァ)が翻訳したもの、後には「西遊記」の三蔵法師として有名な玄奘が翻訳したものが有名で、日本で一般的に『般若心経』というとこの「玄奘訳」を指します。

クマラージ訳「般若心経」

玄奘訳「般若心経」

サンスクリット語「般若心経」

サンスクリット語「般若心経」ローマナイズ

サンスクリット原文からの直訳

  すべてを熟知した聖なるアポロギータシュヴァラ・ボディサトヴァは深遠で最上の叡智を実践しつつ、五つの集合体が自性として空であると観察した。
  シャリープトラーよ。物質と空は、空はそのまま物質であり、物質は空と別のものではなく、空は物質と別のものではない。物質というものは空であり、空というもの、それは物質である。感覚、想念、行い、認識もまたそうである。
  その上、シャリープトラーよ。一切の存在は空の性質がある。生じることがないもの、消滅することもないもの、煩悩はなく浄いもので、減損するものではなく、増大することもない。
  それゆえにシャリープトラーよ。空の中には物質はなく、感覚はなく、思いはなく、行いはなく、認識はなく、眼、耳、鼻、舌、触覚、心はなく、物質の声、香り、味、触覚、存在はなく、目に見える界に至るまでない。さらに意識の界に至るまでなく、煩悩も、知識が尽きることもない。さらに老い、死、老いや死が尽きることすらない。苦しみも、その原因も、消えることも、道もなく、知恵もなく、獲得すべきものはなく、獲得すべきものがないので覚有情の智恵の第一義に順応するため、心に煩悩の妨げなく、妄想を超越し、究極の智恵を持つ。三界の生存者、聖なる覚者は智恵の第一義に順応したゆえに、この上なき真の正しい覚りに正しく智慧を得たのである。
  そこで知るべきことは、智恵の第一義は偉大な真言、偉大な智恵の真言、この上ない真言、比類なき真言で、一切の苦しみを抑止する。真実は虚妄なきゆえに、智恵の第一義の真言は説かれた。それはすなわち、道よ、道よ、彼岸への道よ。彼岸に到る道よ。智恵を成就せよ。

サンスクリット原文に漢訳テキストを加味した意訳

  ボディサトヴァの境地に達したアポロギータシュヴァラは、深遠なるパンニャ智でもって陽霊を開く、すなわち霊眼に達する修行をしていたとき、生命の根源を構成する五つの要素は霊が主体であると看破し、サトリを開かれた。
  シャリープトラーよ。物質と霊質の関係は、霊はそのまま物質であり、物質と霊とは異なったものではなく、霊もまた物質と別のものではない。物質の根源は霊であり、霊はそのまま物質となるのである。物質的な感覚や想念、行い、認識もまた霊が主体である。
  その上、シャリープトラーよ。一切の万象万生の存在の根本は霊が主体である。霊とは新たに生じることも消滅することもなく、物質的迷いもなく、増減したりもせず、穢れのないものである。そこには過去・現在・未来という時間の概念も存在しない。
  それゆえにシャリープトラーよ。霊の世界には物質は存在せず、物質的感覚もなく、物質的な心もなく、物質的な行為というもの、物質的な認識も存在しない。肉体的な眼、肉体的な耳、肉体的な鼻、肉体的な舌、肉体的な体、肉体的な心もない。物質としての音、物質的な匂い、物質的な味覚、物質的な触角、物質的な存在はなく、目に見えるもの一切がないのである。さらには意識の世界さえなく、煩悩も、知識が尽きることもない。さらには霊界では年をとることもなく、死ぬこともない。苦しみも、苦しみの原因も霊智が滅することもなく、知ではなく、物質的欲望もなく、欲望ゆえの物質欲もないために、ボディサトーヴァの境地に達したものはパンニャ智による霊眼が開かれることによって心に迷いもなくなり、妄想を超越して究極のサトリに達する。神・幽・現の三界を貫く諸神・諸聖霊はパンニャ智による霊眼が開かれているため、究極の真理に到達したのである。
  そこでパンニャ智の霊眼は偉大な言霊、最高の言霊、比類なき言霊となり、それによってすべての苦しみは解放されるのである。真理には迷いはない。それゆえにパンニャ智の霊眼の言霊を発するべきである。その言霊とは、「霊智よ、霊智よ、霊眼への霊智よ。霊眼に到達する霊智よ。智慧を完成させよ」

本文解説

觀自在菩薩。

  サンスクリット語ではアポロギータシュヴァラ・ボディサトヴァ(avalokitesvara bodhisattva)といいます。これをクマラージは「観世音菩薩」と訳しました。「svara(音)」を「avaloKika(見る)」と考えたからです。それに対して玄奘は「isvara(主)」を「avalokika(見る)」と考えました。「isvara」は漢訳では「自在」と訳されますので、そこで玄奘は「観自在菩薩」としたのです。「観世音」にしろ「観自在」にしろ、その漢訳はそれぞれ「音(乙)姫の世を見る」「自在の世を見る」という意味もあって、神界の秘め事にかかわる重大な意味があるのですが、ここでは割愛します。ちなみに標準的な観音は「聖観音」であるとされますが、「聖観音」と「観世音菩薩」は全く別の存在です。「聖観音」とは天地創造の時に実際に地球と人類をお創りになった神様の別名で、六次元神霊界に御出現になり、次の第五次元神霊界を統治なさっている神様なのです。すなわち、聖書でいう「ヤハエの神様」のことであります。
  それに対して「観世音菩薩」は実在の人物で、南インド・マラーバル地方マラヤ(Malaya)山の東Potalaka(補陀落)山で大慈・大悲(Mahamaitri・mahakaruna)を説いていた南海大師のことなのです。この南海大師の所へ善財童子(Sudhana)が28人の弟子をつれて教えを請いに行っていますが、この善財童子こそが若い頃のゴータマ・シッタルダーなのです。つまり、観世音菩薩は、釈尊の師ということになります。(このあたり「華厳経」に出てくる話は事実と違っています)。
  さらに菩薩とは「ボディサトヴァ(bodhisattova)」の音訳の「菩提薩土垂」を縮めたものです。このような漢字は本来表意文字である漢字を全く表音文字として使っているわけで、ただ発音を示しているにすぎず、漢字自体には全く意味はありません。この「ボディサトヴァ」を言霊で説くと、「炎去った場」であり「炎から出て去った場」ということであります。すなわち、神様の世界である五次元以上の神界・神霊界からホドケて仏(ほとけ)となり、人々の救済のために四次元界(第四兜率天=Tusita界)の内院(霊界)にまで天下られた御存在をいいます(四次元界の外院が、いわゆる人間が死んでから行く死後の世界=幽界)。

行深般若波羅蜜多時。

  「般若」とは日本では鬼の面を「般若の面」と呼んだりしますので、あまりいいイメージはないかもしれません。また、飲酒が禁じられた仏教界では、酒を「般若湯」などと呼んでひそかに飲んでいたりもしました。
  しかし、本当の「般若」は「鬼」とは関係ありません。サンスクリット語原文の般若心経では、この部分は「プラジャナー(prajna)」となっており、「般若」というのはパーリ語で同じ意味の「パンニャ(panna)」を音訳したものです。このような意味もない字を当てたものですから訳が分からなくなっていますが、「パンニャ智」とは宇宙万象生成化育の原理を基(もとい)とした「神の霊智」で、それは「真の智恵」を意味します。「ちえ」とひとことでいいますが、「知恵」も「智恵」も「智慧」もあり、それぞれが微妙に違います。「パンニャ智」の智は「知」ではない「智」、つまり火・日・陽・霊・神・ヒを土台、基(もとい)、源とした「智」のことで、それらを土台としない「知」とは立て分けされる訳です。
  言霊で説きますと「パ=強く開く。ン=上下を一体化させる。ニ=つなぐ、十字に結ぶ。ヤ=縦の働き」となり、「強く開く働きが縦の働きと一体化して十字に結ばれ、そこに一切の産土力が生じる」ということです。言霊は万国で統一して造られているものなのです。次に「波羅蜜多」とは「パーラミター(Paramita)」の音訳です。これは「パーラム(彼岸)」と「ミター(到達する)」の合成語ですが、「彼岸」というのは当て字もはなはだしいのです。本当は「霊眼(ひがん)」で、「パーラミター」とは「到霊眼」ということになります。すなわち、「肉体としての眼を閉じて霊の眼を開く」ということで、「彼岸」などという蛍狩りのような当て字をしたために訳が分からなくなってしまったのです。言霊でいえば、「パ=開く。ラ=陽。ミター=見た」ということになり、「陽霊が開くのを見た」ということです。

照見五蘊皆空。度一切苦厄。

  「五蘊(panca skandha)」とはこの世を構成する五つの要素で、物質、感覚、想念、行為、認識の五つであるが、「五」というのはただ「五つある」というだけでなく、「五」という数霊を表しています。「五」は「火・日・霊」を示します。よく「五官」「五感」「五濁」などといわれますが、その真意は数霊を知らなければ永遠に解けません。そしてその「五蘊」が「空」であるとここでいわれますが、その「空」とは「虚しいもの」、「実体がないもの」などと解説されています。しかし、そのような抽象概念、哲学的概念は、私には何のことだか分かりません。そもそも釈尊が教えを説いたのはクシャトリヤばかりでなく、無学なバイシャやスードラさえ対象にしていました。そんなスードラたちに今の仏教哲学のような宏遠な内容を説いたところで、理解できたでしょうか? 理解されなければついてくる人もなく、仏教は今のような五大宗教の一つにはなり得なかったはずです。釈尊が説いたのはもっと誰にでも分かる簡単な理論だったわけです。神理とは本来分かりやすいものなのです。そして聞いたらすぐに実践できるものです。真如逆法ほど難解で、人知の哲学でこねくり回した訳の分からないものになっているのです。
  さて、では「空」とは本当は何なのでしょうか。それはずばり「霊」のことです。「霊」といっても何も幽霊ばかりが霊ではありません。実は今この世に生きている私たち一人一人の肉体の中にも、「霊」は入っています。「霊」が入っているからこそ、「生きている」のです。「霊」の本質は「火」であります。「霊」が入っているからこそ、生きている人や生物には体温があります。体のどこにも発火装置や発熱装置がないのに体温があるのは、まさしく霊が入っているからです。そして人間の体の本質は「水」で、肉体の大部分は水分でできています。だから肉体から「霊」が抜けると、すなわち人が死ぬと、体は「水」の本質を発揮して急激に冷えて冷たく固くなっていきます。そこで、霊が抜けたあとの体を「霊が抜けてなくなった殻=無き殻(亡骸)」というのです。つまり、人間の本質は「霊」であり、物質でできた体はその入れ物にすぎません。「火」である霊と「水」である体という相反するものが十字に結ばれて、生命が生じている訳です。しかし、あくまで「霊が主体」です。「五蘊皆空」とは、物質だけでなく感覚も想念も行為も認識も、すべてが「霊が主体」であるということを看破したということになります。つまり、物質の世界がすべてではなく、厳として実在する「霊の世界」があり、むしろその「霊の世界」の方が主体であり、根源であり、大元であるということです。すべての現象は、まず霊界現象が物質の世界であるこの世に反映します。すべての物質は霊による霊成型(ひながた)があって、それが現象化したものが物質であるということになります。霊が主体というのは、霊の世界こそ川上でこの世は川下であるということ、言い換えれば霊の世界こそ実相の世界でこの世は仮の現象界ということになります。ちなみに「度一切苦厄」というのはサンスクリット原文にはないので玄奘の「意訳」と思われがちですが、実はその前のクマラージ訳にすでにこの部分はありますので、玄奘はクマラージ訳を踏襲したということになります。

舎利子

  「舎利子」は「舎利弗」とも呼ばれますが、ゴータマ・ブッダ(釈尊)の十大弟子の一人のシャリープトラー(Sariputra)のことで、目連(Mahamoggallana)と並んで二大弟子ともいわれています。裕福なバラモンの家に生まれましたが、目連と共にサンジャという人のもとで出家しました。しかし二人はサンジャの教えに物足らなくなり、新しい師を探しているうちに釈尊と出会って弟子になったのです。シャリープトラーは智慧第一といわれた人です。このお経は観世音菩薩がシャリープトラーに語りかけるという構成で展開されます。

色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。

  「空=霊」について、もう少し突っ込んで考えてみましょう。ここでは、「空」の対極としての「色」が登場しますが、それは対極であって対極ではありません。すなわち「色」とは「物質」のことですが、物質である「色」と霊である「空」は同じものであって、異なる存在ではないということが、角度を変えてしつこいくらいに述べられています。つまり、物質と霊は別のものではなく同じもので、霊界と現界もどこか別の所にある別の世界ではないということです。物質の世界と霊界は地続きで、相即相入、不即不離、密実一体ということで、ぼけて入り組んでいる訳です。布の表と裏も、どこまでが表でどこまでが裏ということはなく、いつの間にか表が裏になっていくのと同じです。
  では、「ない」という意味にもとられる「空」がなぜ「霊」なのでしょうか。そこで、物質の構成元素を考えてみましょう。人間にしろ豚にしろ桜の木にしろ、細かくは細胞に分かれています。その細胞をさらに細かくすれば分子となります。その奥に原子があるわけですが、原子とは中性子と陽子からなる原子核の周りを電子が回っているものです。電子が一つ回りますと水素原子、二つ回るとヘリウム原子というように、電子の数で何の原子となるかが決まります。物質というものはこの原子の集合体の訳ですが、電子がゼロだったらどうなるでしょうか。その電子の数がゼロである、すなわち原子核のみの集合体は目に見えません。これを「霊」というのです。つまり、原子核の周りを電子が回ってはじめてそれは目に見える物質となるわけで、電子は物質化する働きがあります。電流は電子の流れではなく、中性子の移動です。電子がゼロだから数は「零」、すなわち「霊」なのです。霊=零=無=空となるのです。原子核と電子の間はスカスカで、人間の体もすべての物質もすかすかの固まり、穴だらけなのです。そのスカスカの部分は真空かといいますとそうではなく、そこは智・情・意の充満界です。無から有へと「創造」する宇宙意志、見えざる手なのです。そしてその目に見えない原子核の集合体=霊こそが、存在の主体であります。人の体も肉体と同形に幽体、そして霊体が重なっており、さらにすべてを司る霊(主魂・魂)が入っています。この魂は死とともに肉体を離れて幽界生活に入り、さらに転生再生を繰り返します。これを輪廻転生といいます。また、物質の肉体で感じる感覚、物質の肉体で考える思想の奥の想念、物質の肉体の動きによる行動、物質の肉体の五官によって感得する認識なども、すべて霊が主体となります。原子核が電子を持って物質化する以上、物質、感覚、想念、行動、認識などいずれも霊がその元であり、霊が主体なのであるということです。そしてすべての存在するものの法則も、その主体、大元は霊であるということになります。
  つまり、霊界とこの世は密接に連動し、互いにその影響下にあるということを忘れてはなりません。神・幽・現の三大霊界は観念界や哲学界のものではありません。それは、実在界、実相界であって、しかも相互に連動し合っている世界であります。ちょうど万生と生命界や空気界が相連動しているのと同じような性質の世界であります。

不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味触法。

  このあたりから、いよいよ霊界の諸相についての内容に入っていきます。霊界とは一切の根源で、すべての事象は霊が元となっています。従って霊界とはこの世の元になる世界で、霊界現象がこの世に反映し、現象化してこの世の出来事になるのです。その霊界とはどのような所かが、この下りに書かれています。まず霊界は、始まりと終わりというものはないのです。つまり「時間」や「空間」という概念はなく、「聖書」でいえば「α(アルファ)でありΩ(オメガ)」ということになります。そして霊界は、いうまでもなく物質の世界ではありません。だから物質でできた肉体による感覚も、肉体的な脳で考える思考も、肉の体による行為も、肉体的な認識も存在しないのです。そうなりますと、物質の肉体の五官(眼、耳、鼻、下、皮膚)は存在せず、それらによって知覚できる感覚というものも存在しないことになります。

無限界乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。

  つまりは霊界とは、肉の目には見えない不可視(unseen)の世界ということになります。しかも人間の頭脳で「知覚」できる世界ではなく、この世の悩みというものもありません。寿命というものもなく、年齢という概念もありません。当然、死というものもない世界です。つまり、霊界とは光の息吹の界であり、妙なる法の充満界です。当然「無明」というものはなく、永遠の光明の世界なのです。

無苦集滅道。無知亦無得。以無所得故。菩提薩多。依般若波羅蜜多故。心無罫礙。無罫礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究境涅槃。

  さらに霊界にはこの世的な苦しみも存在せず、苦しみの原因となるものもないのです。そのような永遠の世界が霊界であり、そこには人間が考える「道」というものもありません。あるのは「非知」であり、すなわち「霊智(ひち)」、「霊智(ミチ)」があるのみです。つまり、「日」を土台とした「智」ではない人知の「知」などは存在しない世界で、裏返せばそこは「叡智」の充満界ということになります。そして叡智より次元の高い世界を、「霊智(れいち)」といいます。「霊智(れいち)」は真に霊妙不可思議な智力であります。それは人知・才知の及ばざるミチであり、霊眼・パーラミターの界に他なりません。これを真(まこと)の正法のミチというのであります。そのミチに乗って行くことが致命的に重要であります。霊智(れいち)はついに「神の霊智(ミチ)」となり、惟神(かんながら)の大道に乗り行くべき「神智(しんち)」の世界に至るのであります。最も高次元にあるものを神智といいます。宇宙天地弥栄えの神の大仕組みの置き手は大乗(おおのり)にして、神智によりて創られたものであります。神智はまさしく神の智であって、人知を絶した名状しがたい大霊界のことをいいます。人知では到底及ばざるところの神界・神霊界の智と言えば想像がつくかもしれません。それは神の智力、智の固まりといわんか、真の神智であり、パンニャ智の固まりであり、妙智力の本体と言えます。神・幽・現の三界を貫き通し、かつ大千三千世界を織りなす、人知の想像を絶した智の界を神智というのです。このように「神の智」と「人の知」とでは、天地の懸隔(けんかく)であることを識らなければなりません。従って大霊界、即ち大千三千世界には現界のような物質が主体の損得勘定、利害関係などというものは通用しない世界で、一切の執着とは無縁の世界なのです。その執着を断ったときにはじめて「ボディサトヴァ」の境地になり、つまりは高次元より四次元幽界に天下った神霊の世界と神上がりが許され、パンニャ智を得て自由無碍界に到ることになります。肉の目に見えないものを信じないものは本当は偽善者で、信じるものは必ず光明の世界を見ます。これが「パーラミター(到霊眼)」の本体で、霊の世界こそ不可視(unseen)の力(power)界なのです。そこはこの世の物質的な煩悩に振り回されることは決しなく、輪廻よりも解脱して神と人との差を取る「差取り(悟り)」、すなわち神人合一の境地に達するわけです。
  ちなみに「遠離一切顛倒夢想」の「一切」は、玄奘訳でも日本で流布されているものにだけある語句で、中国の写本にはなく、ただ「遠離顛倒夢想」となっています。これは、クマラージ訳に「一切」の語句があるので、日本でそのクマラージ訳の一部が玄奘訳に挿入されたようです。

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

  霊界とひと口で言いましてもまず四次元があり、その外院はいわゆる人の「死後の世界」です。そこを「幽界」といい、幽界は二百以上もの段階(霊層界)に分かれていて、違った段階である霊層界は互いに交流はできません。その下の方を「地獄」といいます。上になればなるほど明るくて温かい温暖遊化界で、いわゆる「天国」です。同じ四次元界でも内院ともなりますと、そこは人間霊の中でも神への聖と化し且つ功績者で、神上がりした「霊界」です。そしてその上の五次元と六次元が「神霊界」、七次元が「神界」で、さらにその上に八次元の「最奥」があります。 神界と幽界、幽界と現界、これら三つの世界は密実一体・相即相入の法則によって生き生きと動いている「実相界」です。その連動した大いなる世界を『大千三千世界(おおちみちのよ)』といい(三千大千世界は誤り)、神・幽・現三界の一環連動した法則の世界で、その三界を貫き結ぶ三十字の置き手(掟)を神の法といいます。大千三千世界の大は、霊的には「天」であり「神」であり「日」であり、数霊(かぞだま)では「五」ということになります。千という言霊は「地」であり「霊」ということで、すなわち大千の本義は『大霊界』を意味しています。それゆえ、神・幽・現の大千三千世界は、天・空・地、日・月・地、火・水・土、霊・心・体の“三位(さんみ)”で構成されています。これを、数霊で示せば、五・六・七の“ミロク”ということになります。「大千」の「千」は「ち」と読み、「大千(おおち)」は大きい霊、すなわち「大霊」であります。大霊は神霊の世界であって大仏霊の世界であり、これを大千世界といいます。大霊界は厳密な法則によって構成されておりますので、「神と人との差を取って行くこと」=「差取り→悟り」が最も重要な課題となってまいります。また、「三千」は「みち」と読み、神・幽・現三界にわたってタテに連なって生き生きとして動く理、いいかえれば三大霊界の動きとその法則・実相を智ることを「霊智(みち)」といい、その法に乗って人生を生きていこうとすることをマコトのミチというのです。この神・幽・現のミロクの仕組みはそのまま霊・心・体であり、あくまで主体は「霊」であります。「霊」が主体で「心」は従で「体」は属しているにすぎません。唯物主義の現代科学文明では目に見える物質こそがすべてで、目に見えない世界など「迷信だ」で片付けてしまいます。実はそのことこそ大いなる「迷信」なのであり、「迷信」といわれていた世界こそが「明真」の世界なのです。科学で証明できないから「ない」のではなく、今の科学は霊の世界も証明できないような幼稚な科学ということになります。
  もう少し進んで、いわゆるブレーキ宗教は「心」の重要性を説きます。ところが宇宙の真理では、あくまで「霊」が主体であって「心」はその次となります。いくら心が「死にたくない」と思っても、「霊」が抜ければその人は死んでしまうのです。この「霊主心従体属の法則」こそが宇宙の究極の神理なのであります。これを「阿褥多羅三藐三菩提」という言葉で表していますが、かつてこの言葉は子供向けドラマで、ヒーローが変身するときの呪文として使われました。それを見ていた子供が「阿褥多羅三藐三菩提」というのが聞き取れず、まねして言っているつもりで「余ったら三百三十円」といっているのを見て笑った母親がいました。しかしその母親も、この言葉の本当の意味は全く分かっていなかったでしょう。この「三藐三菩提」の部分は、もとのサンスクリット語原文の「samyak-sambodhim」の音訳で、漢字は当て字です。(現代中国語でコカ・コーラを「可口可楽」と書くのと同じ)
  ちなみに「三世諸仏」の「仏」は「ブッダ」であって「ほとけ」ではありません。今では同じ漢字で書くので紛らわしくなっていますが、本来「ブッダ」と「ほとけ」は別のものです。「ブッダ」といえばゴータマ・シッタルダー(釈尊)の専売特許のようになっていますが、誰でも究極のサトリを得て輪廻から解脱し、神霊界に神上がりすれば「ブッダ」と呼ばれるのです。それに対して「ほとけ」とはもともと仏教ではなく日本の神道用語です。火と水のように相反する性質のものを十字に組んだときに、そこに産土力もしくは観音力、すなわち生産力が生じます。火である「男」と水である「女」の産土(むすび)によって生命が誕生し、火である「霊」と水である「体」が結ばれて霊止(人)となるのです。ところが、人が死にますと「霊」が「体」からほどけます。このほどけた状態を「ほとけさん」という訳で、人は死ねば「ほとけ」となるというのはこのあたりからきているのです。つまり、人は死ぬと「霊」と「体」が「ほどける」というだけのことであって、決して死んだ人は「ブッダ」になるという訳ではありません。

故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。即説咒曰 

  最後に偉大な叡智に到る真言(マントラ)で、この経文は締めくくられます。マントラ=真言とは読んで字のごとく「真(まこと)の言霊」で、言葉の持つ霊力によって神霊に祈り、儀式に効力を与え、あるいは他者に恩恵・祝福を与え、自身を守り、精神を統一し、サトリの智慧を獲得するために誦する神秘的な呪文です。マントラとは唱えるだけで言霊の力の恩恵に預かれるものです。ですから、クマラージも玄奘も「般若心経」のこの次の続くマントラの部分だけは漢訳せず、サンスクリットの原音を漢字を使っただけで音訳しています。
  ただし、「マントラ」は確かに「言霊」の世界ですから唱えるだけで霊力が発揮できますが、それ以外の経文は唱えるものではなくその内容を理解し、しかも頭で理解しただけではだめで、己の血とし肉として生活の中で実践するためのものです。その実践を伴わないものを「空念仏」といいます。今や21聖紀に入ってから「空念仏、観念神仏弄びの時代」は終わっており、実在の神仏把握の要機となっています。生活の中に神理正法プラグマチズム(実践)時代となっているのです。

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心經

  この部分はクマラージも玄奘も、あえて翻訳しませんでした。それは原文の「言霊」を大切にしたかったのでしょう。つまり、「gate  gate  para-gate  para-samgate  bodhi  svaha」というサンスクリット語原文の発音に漢字を当てていっただけです。日本語でいうなら、この部分だけは日本語に翻訳せずに、原語の発音をカタカナで書いたのと同じです。そのサンスクリット語原文の意味は、「霊智よ、霊智よ、霊眼への霊智よ。霊眼に到達する霊智よ。智慧を完成させよ」となります。この真言は単に自分だけがサトリの智慧を獲得するのみならず、一人ひとりがおのれの魂の使命を自覚し、全人類がともに手をとりあってこのサトリの世界に入り、神界・神霊界の写し絵である地上天国をこの世に顕現しましょうという意味(祈り=意乗り)も含まれているのだと思います。漢訳してしまうと字面ばかり追って、この深遠なる意味が読み取れないのではないかという危惧から、クマラージも玄奘もあえてこの部分だけは原語のままにしておいたのでしょうか?  いずれにせよそれが天地創造の大親神様の御意志であり、大計画で、等しく神の子である我われ人類が共通で目指すべき聖使命なのです。



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