船団が来たという知らせは、ここ最近では二度目であった。だが三年程前の最初の船団はヤマトからではなく、韓の地からのものであった。その船団の主こそが、今彼の隣で相談役ともなっているスクナヒコナである。その時は知らせを聞いて、まだオオクナトの主になる前のオオアナムチが、コトシロヌシとタケミナカタとともに三人だけで杵築の浜まで行った。
  そこまでは優にまる一日はかかる。着いてみると、船団から下りてきた人々は浜辺で露営していた。その頭目らしき人は小柄な若者で、服装からヤマト(びと)ではなく韓の地からの人物だとすぐに分かった。顔に刺青がなかったことにもよる。韓の地の最南端の弁韓あたりから船出すれば、ほとんど帆も艪も使わなくても黒潮に乗って自然と流れつくのが出雲の杵築の浜である。
  さて、その船団に乗ってきた頭目は、オオアナムチが何を聞いても答えなかった。要は韓の地から来たばかりで日本語が分からなかったのである。仕方なくオオアナムチはそのまま近くに露営し、コトシロヌシだけを意宇(おう)の里へ使いに走らせた。ソミン(ソーラン)の配下の五十猛(いそたけ)なら韓の言葉を解するからである。
  やって来たクエヒコという男は、見事に通訳を果たした。とにかくソミン王のもとへ連れて行き、実はソミン王が韓の帯方郡にいた頃に親交があった人のせがれで、父が死んだのでその遺言によってソミン王を訪ねて来たのだということだった。
  それ以来ソミン王のもとで、その若者とオオアナムチは兄弟のようにして過ごした。それが今やオオアナムチの副官ともなっている、スクナヒコナである。
  だから今回の「船団が着た」騒ぎも、韓の地からの可能性も高い。だから、
  「私が行きましょう」
  と、もうすっかり言葉を覚えたスクナヒコナが言った。韓の地からの人なら、スクナヒコナが行けば前の時のように通訳がいなくて困ることもない。ところが翌日になってスクナヒコナがつれてきたのは、韓の地の人ではなかった。金髪に高い鼻、青い目のソミン王と同じ人種ではあったが、その金髪を(みずら)に結い、顔に刺青がある。紛れもなくヤマトの大人(うし)(高官)であった。国庁に緊張が走った。
  オオクナトの主の宮殿は、かなり高い高床式であった。ヤマトと異なるのは、階段が正面にないことである。切妻の側面の右側に階段があって、中は中央に太い柱が通り、その右だけに内部の仕切りの壁があった。つまり入り口を入ると正面は壁で、一度左に廻って壁の後ろ側に行けば、そこにオオクナトの主であるオオアナムチは座っている。しかも入り口から向かって、左側面を向いている。その前にヤマトの使者はうずくまった。これは意外だった。居丈高にオオクナトの主と同列の座を要求するものと、誰もが構えていた。もしそうしたら引きずり降ろしてでも下座に座らせようと思っていたが、肩透かしを食らった形となった。さらに使者は、床に手をついて頭を下げた後、ヤマトの風習どおり手を打ち鳴らした。
  オオアナムチも相手にそう出られては、戸惑いつつもふんぞり返っているしかなかった。
  「用向きは?」
  オオアナムチの方から、声をかけた。何しろ長期にわたる交戦国からの使者である。しかもまだ、勝敗は決していない。それが長い間沈黙があった後の使者とあっては、無気味である。和睦を申し出でてきたのではないかという期待も、オオアナムチの中にあった。
  そもそもヤマトと当時のクナト、すなわち出雲との戦いは、これより十九年も前の西暦二四六年から端を発し、その翌年あたりから本格化していた。
  その頃、オオアナムチなどはまだ九歳の子供であった。だが状況は、育ての親ともいえるソミン王から聞いて知ってはいた。それまで百余国に分かれてそれぞれ戦闘が絶えなかったこの列島国であるが、今でいう九州に勃興した一大勢力が次々に周辺諸国を配下において、連邦国家を作り上げていった。
  その女王が太陽神を斎き祀る巫女であったところからの()巫女(みこ)と呼ばれた。日の巫女とはオオクナトの主と同じような地位の名で、固有名詞ではない。その頃の日の巫女の実名は、オオヒルメといった。
  そして日の巫女は、その勢力範囲拡大の手をこのクナトの国まで伸ばしてきたのである。
  だが、それまで穴居しながらも平和に暮らしてきたクナトの人々にとって、女王国の配下に入れという要求は侵略以外の何ものでもなかった。そのヤマトが急に勢いに乗ってクナトに征服の手を伸ばしてきた背後には、外交があった。当時の中国大陸は漢が滅んだ後の魏・呉・蜀の三国時代である。だが、劉備玄徳も諸葛孔明も関羽も、もうこの世にはいない。
  日の巫女はその三国の中でも列島国に一番地理的に近い、洛陽に都する魏の皇帝に使者を送った。西暦二三八年のことである。大陸の情報はすべて韓の地を経て、渡来人によって島国にもたらされていた。距離的には大差はないにせよ、大陸とは海を隔てた大和の人々より、地続きである韓の地の人々の方が大陸の状況に精通していたのである。
  そもそも従来ヤマトが通じていたのは、もっと倭に近い朝鮮半島中央部の現在のソウル付近、当時で言えば韓の地の北方にあった帯方郡である。
  帯方郡とは漢の武帝が紀元前一〇八年に設置した楽浪郡を掌中にした公孫康が、楽浪郡の南半分を分割して設置したもので、ヤマトは最初この帯方郡に使いを送ることで公孫氏と通じていた。
  公孫氏とはもともと後漢の遼東郡の太守であったが、公孫度は漢が滅んで三国時代になると独立色を強め、その子の公孫康は漢のものであった楽浪郡を支配下に入れたあと帯方郡を設置し、その子公孫淵は燕王と称して常に魏を脅かしていた。
  ところがその公孫淵が魏の軍師司馬懿によって討たれたのが西暦二三八年で、帯方郡は楽浪郡とともに魏の支配下に入ることになった。だからその年のうちに日の巫女は、早速にも帯方郡の新しい主の魏に使いを送ったのである。
  当時の魏の皇帝は明帝、すなわち曹叡である。その曹叡は帯方郡の太守である劉夏によって洛陽に送り届けられた日の巫女の使者ナシメに対し、日の巫女を「親魏倭王」に任命するという旨の詔書を下して、ナシメを魏の朝廷における率善中郎将(蛮族の将軍)に任じた。  わざわざ大陸の王朝から列島支配の正当性を保障するというお墨付きをもらわなければならなかったのは、日の巫女をはじめヤマトで「大人(うし)」と称される支配者階級は列島土着ではない紅毛碧眼の異民族で、黒毛黒眼の黄人である列島先住民の「下戸(げこ)」を支配していたからである。
  ただし、その詔書が建中校尉によってヤマトにもたらされたのは二年後の西暦二四〇年、魏の年号では景初四年(この年は途中で正始元年と改元される)で、その時にはすでに明帝の曹叡は亡く、その子である曹芳が帝位に就いていた。
  ヤマトは三年後にその少帝曹芳に詔書の御礼の使者を送り、さらにはヤマトに服従しないクナトというけしからぬ国があるなどと告げ口したのである。それに対して曹芳は詔書と黄幢をヤマトに授け、それらは新たに任ぜられた帯方郡の太守によって二四七年にヤマトにもたらされた。
  さらにヤマトはクナトのことに関し、帯方郡にはつぶさに状況を報告していたので、太守は塞曹掾賜の張政を軍事顧問として大和に派遣した。
  ヤマトがこのお墨付きに鼓舞されたのは、いうまでもない。黄幢という錦の御旗と軍事顧問までも頂戴し、ヤマトは一気にクナト攻略の手を打ってきた。
   激戦は今の山口県北部から島根県西部の石見地方の海岸で、主に水軍同士の戦いとして繰り広げられた。そして、戦局は明らかにヤマトに有利だった。
  だが、ある象徴的な自然現象に、ヤマトの人々は恐れおののいてしまった。まだ、黄幢も軍事顧問の張政もヤマトに至っていない春先のことである。夕方になって太陽が急に欠け始めたかと思うと、たちまちあたりは夜のような闇に包まれ、人々が恐れおののく叫び声の中で、真っ黒い太陽は燦然とコロナを輝かせながらそのまま西の山に沈んでしまったのである。
  その晩は一晩中、人々の祈りと恐れのため泣き叫ぶ声が村という村に充満した。もう二度と、太陽が昇らないのではないかと、人々は恐れていた。
  幸い翌朝にはいつもと変わらずに太陽は昇り、また夏になると魏からの使いもヤマトに到着していたので、どうにかクナトに対する戦意も盛り返した。それでも人々の間には、いつまでも不吉な経験の記憶がしっかりと刻み込まれたに違いない。ちなみに、この日食については漢籍にも記録があり、魏で権力の座にあった曹爽もその意味について人々に尋ねている。
  さて、次の年の秋、ヤマトは急に兵を撤退させざるを得なくなった。ヤマトの政治的補佐として韓の地から来て入り込んで日の巫女の弟扱いされていたスサの王ソミンに、日の巫女であるオオヒルメが殺されたからである。
  日の巫女が殺された秋の日の翌朝、またもや不吉な現象が人々を恐怖のどん底に陥れた。今度は太陽が真っ黒な状態で昇り、いつまでも夜が明けなかった。コロナに囲まれた黒い太陽の日の出を目撃した人々の恐怖は、想像に余りある。ましてや、日の巫女が殺された翌日なのだ。
  そもそも皆既日食とは、一生に一度お目にかかれるかどうかの代物である。それがこの時代のこの国の人々は、二年連続で目にしたことになる。天文ショーなどという悠長な言葉で日食をとらえるような時代ではない。まさしく天が落ち、地が裂けた以上の恐怖であった。しかも、前年のときは、太陽神に仕える日の巫女がいた。今度は、それもいないのである。
  スサの王も、運が悪かったといえば言える。この日食のせいで半狂乱となって暴徒と化したヤマトの人々によって、スサの王は追放されてしまう。
  こうしてソミン王は、一時は我がものにしたヤマトを離れて結局は一時韓の地に戻った。そして、新たに日の巫女となった若いトヨヒルメ(漢籍では壹与と表記されているが、臺与が正しい)の代となってからは、ヤマトが再びクナトに攻めて来る気配はなくなった。
  このトヨヒルメの頃になると、ヤマトはその直轄の領土を東に広げたので、そのあたりが後に「豊の国」と呼ばれることになる。ちなみにトヨヒルメは先代日の巫女オオヒルメの宗女(一族内の娘)であって、オオヒルメの実の娘ではなかった。
  また、トヨヒルメが積極的にクナト攻略に身を入れなかったのは、後ろ盾である魏からの援助が次第に薄れていったことにもよる。
  この頃、魏の敵国である呉が一斉に魏を攻撃し始めた。かつて蜀の名宰相といわれ、魏との戦いの最中に五丈原で病死した諸葛孔明の兄諸葛瑾と、その息子で孔明からは甥にあたる諸葛恪は、この頃は呉に仕えて魏攻撃の先鋒となった。
  ヤマトとクナトの戦いが始まった頃はそれもすでに下火となっていたが、魏では大尉の司馬懿が後に巻き返すものの一時は失脚し、魏の国力自体が弱っていた。
  さらには司馬懿の死後、その子で撫軍大将軍の司馬師が曹芳を廃して曹芳の従弟である曹髦を擁立し、帝位につけたりしている。つまり、内部事情と敵対する呉や蜀との攻防で手一杯の魏としては、東方の蛮夷の国で部族衝突があったとて、構っている暇はなかったのである。
  外交も戦争のうちなら、出雲こそが魏と提携しているヤマトとに対抗するため、魏と敵対している呉や蜀と手を結ぶというのが戦時外交における手腕であろう。しかし残念ながら、出雲にはそのような手腕や発想を持つものはいなかったし、魏を通過せずに直接呉や蜀に使いを遣わすには危険な東中国海を横断せねばならず、当時の航海技術ではまだ無理だったのである。
  こうして小康状態を保っていたヤマトとの戦いであったが、その沈黙を破ってヤマトの使者が十数年ぶりに訪れた。しかも、オオアナムチの前で、平身低頭している。
  「それがし、ヤマトのホヒと申します」
  これにはオオアナムチをはじめ、同席している人皆が目をむいた。自らの実名を敵に名乗るということは、降伏を意味する。
  「ヤマトは、この出雲に降伏するって言うんかね」
  「いえいえ、それがし、むしろ降伏勧告を仰せつかっとりますとたい」
  こうなるとますます訳が分からなくなる。
  「ヤマトは、盛り返して来っとですよ」
  ホヒが言うには、昨年魏は滅亡したという。そこにいた誰もが初耳だった。それは事実で、かつて曹芳を廃して曹髦を帝位につけた司馬師は、魏の内部で毋丘倹や文欽が反司馬師のクーデターを起こした際、何とか反乱分子を鎮圧させたものの本人も陣中で病死し、その弟の司馬昭が大将軍を継いだが、その専横ぶりは皇帝曹髦の憎むところとなっていった。ついに曹髦は司馬昭討伐の兵を挙げるが反撃に遭って、逆に曹髦は殺されてしまい、司馬昭は曹髦の祖父であった曹丕(文帝)の甥である曹奐(元帝)を帝位につけ、自らは晋王と称した。
  そうして魏はついに蜀を滅ぼすが、司馬昭が死ぬとその子の司馬炎が相国・晋王となり、曹奐に譲位させて自ら帝位に就いた。こうして魏が滅亡し、司馬炎は西晋の太祖武帝となったのが一年前の二六五年のことである。魏・呉・蜀が鼎立していた三国時代は終わり、今や晋と呉のみが残ったことになる。後に呉も晋に滅ぼされることになるが、三国を統一したのは三国のうちのどれでもなく、第四者の晋となるのである。
  「魏が滅んだのなら……」
  オオアナムチはうなった。魏が滅んだのなら、後ろ盾を失ったヤマトは一気に弱体化するのではないかと思うのが、この座の人々の希望的観測だ。
  「いいえ、それだからこそヤマトは、死に物狂いでこの国との戦いに決着ばつけようとしとっとです」
  それも道理だ。そうなるといよいよヤマトは、本格的に出雲攻略に乗り出してくることになる。
  「それに、」
  ホヒはまた、話を続けた。
  「今年、ヤマトの日の巫女のトヨヒルメ様は、新しい晋王朝にも使者を送っとります。引き続きよしみを通じるつもりのようですたい」
  そう言われても、新興晋王朝などまだ海のものとも山のものとも判断がつかない。
  「ところで、」
  オオアナムチは、先ほどから感じていた疑問を、やっと口にした。
  「そなたは、なあしてそげなことを全部話すんかね。第一、そなたはどげな使いなんかいね。降伏勧告の軍師だって言うたがあ」
  「はあ、確かに日の巫女様はそれがしに、クナトに降伏するよう説き伏せて来いといって遣わされました」
  それだけ言うと、ホヒはひと膝分後ずさりして、さらに平身低頭した。
  「ばってん、それがしの心情はすでにヤマトを離れておりますたい。先ほども申しました通り、すでに魏は滅んでヤマトの後ろ盾はありまっしぇん。張政もすでに洛陽に送り返しておりますけん、」
  ホヒは言葉を切った。
  「もう、ヤマトに帰るつもりはなかとですたい。こちらに、こちらにおいてください」
  ホヒは出雲への帰順を願い出た。いわば政治亡命である。これには、オオアナムチをはじめ、誰もが即答できなかった。ただ、やけにホヒの腰が低かった理由が、ようやく納得できただけである。
  ホヒの身柄はとりあえず国庁内に留め置き、オオアナムチは早速スクナヒコナやコトシロヌシ、タケミナカタと諮った。夜、小さな明かりに照らされるだけの暗い部屋だ。スクナヒコナはホヒの亡命は受け入れ、ヤマトともこのへんで対等な立場で和睦し、よしみを通じる国になればいいと主張した。激怒したのはコトシロヌシである。そのような条件を、ヤマトが受け入れるはずはないと怒鳴った。ここは徹底抗戦あるのみというのが彼の主張だ。だが、勝てるかどうかということは当然問題となる。タケミナカタは、自信はあるといった。オオアナムチは終始目をつぶって、黙ったままその議を聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
  「(カミ)集いしかないな」
  それが「出雲八重書」にのっとった、正当な手続きだ。
  「無理です」
  と、スクナヒコナは言った。
  「時間がかかります。国知一(クズシリカミ)たちが参集する前に、ヤマトが攻めて来たらどうなさいます」
  正論である。またもやオオアナムチはうなった。ただ、ホヒの亡命だけは受け入れたいというのが、彼の考えであった。
  「あのお方に伺うしかないな」
  オオアナムチはそれだけ言って、ゆっくりと立ち上がった。

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