「……百八十日日(ももやそかび)の今日の生日足日(いくひたるひ)に出雲の国の国造(くにのみやつこ)畏み畏みも(まを)さく、『百八十六社(ももやそまりむやしろ)()皇神達(すめみおやかむたち)を、某甲(それがし)が弱肩と雖も太襷取り掛けて、朝日の豊坂登りに、伊波比(いはひ)神賀(かみほ)吉詞(よきこと)(まを)したまはく……』」

  出雲の国に過去最大の国難が訪れたのは、西暦二六四年であった。発端は出雲の西の果ての杵築(きつき)の浜に、船団が押し寄せたことである。
  その日――十月一日、出雲の国の国庁がある意宇(おう)の里は大賑わいの最中だった。オオクナトの主であるオオアナムチの婚儀が執り行われていたのであるが、今後の出雲の運命を左右する船団が押し寄せたという知らせは、婚儀が終わるのを待っていたかのように飛び込んできた。しかもその船団は、ずっと出雲と交戦状態にある一大敵国の、ヤマトからのものだった。
  出雲といえば現代の島根県東半分の出雲地方を想起しがちだが、古代といっても三世紀前後における出雲ははるかに広範囲の地域で、東の畿内大和地方や遠く信州までをその範囲に含むものであった。
  出雲が島根県の東半分になったのは五世紀以降、「国」という概念ができて大化の改新以降に律令制導入されてから五幾七道制が整備された後のことである。
  もっとも現在の中国・近畿・長野地方がすべて出雲の勢力範囲下であったかというと、実際はそうではなく、出雲と敵対関係にある九州福岡県一帯を本拠地とする女王国ヤマト(邪馬台国)に属する国も周囲に点在していた。
  例えば、吉備の国(支惟国)、播磨の国(巴利国)、伊予の国(伊邪国)、讃岐の国(蘇奴国)、土佐の国(対蘇国)、紀伊()の国(鬼国)、志摩の国(斯馬国)、伊賀の国(為吾国)、美濃の国(弥奴国)、(こし)の国(躬臣国)、毛野(けぬ)の国(姐奴国)などで、こういった国々と複雑に境を接しながら出雲の国は存在していたのである。
  そもそも「出雲」という名称すら初めからあったわけではなく、当初は来名戸(くなと)の神((ふなと)の神=(サエ)の神=熊野の神)を信奉するところからクナトの国(狗奴国)と呼ばれていた。その国を出雲と名付けたのは、西暦二四九年に邪馬台鉄人族(やまたのをろち)を破り(暴漢断滅(やくもたち))、略奪結婚(妻込(つまごめ))を禁じた新しい掟である「出雲八重書十二箇条(いずもやゑがきともどりつぎ)」を制定したスサの王のソミン(ソーラン)(蘇民将来)であった。時にソミン王は、二十三歳の若さであった。
  この頃の大陸は魏・呉・蜀が対立する三国時代であり、魏では曹芳が帝位にあってその後見役の曹爽が権力を振るっていた時期である。
  だが、ソミン王が「出雲八重書」を制定した年には、かつて五丈原にて蜀の諸葛孔明を破り、後に三国を統一する晋王朝の基盤を築いた魏の将軍司馬懿仲達が、一時は曹爽によって退けられていたものの曹爽を誅殺してクーデターを起こし、再び政権を奪回していた。

  オオアナムチの新妻はスサの王ソミンの娘、スセリ姫である。婚儀は、姫が十六歳になるのを待って執り行われた。儀式には掟どおり、新婦の父のスサの王も母のクシイナダも同席した。その出雲の国のオオクナトの主として婚礼を挙げようとしているオオアナムチは六代目のオオクナトの主で、幼い頃はその兄たちからアシハラ醜男(シコヲ)などと呼ばれていたが、スサの王ソミンの「出雲八重書」制定の頃はまだ十歳の少年であったオオアナムチもすでに二十五歳の若者になっていた。
  そしてこの年、つまり西暦二六四年、いよいよ「出雲八重書」の掟にのっとり、オオアナムチは妻を娶ることになった。

  オオアナムチがオオクナトの主となった背後にも、スサの王ソミンの力が働いていた。
  ソミン王がヤマトを追放されてからもといた韓の地に一度帰り、捲土重来して倭の地に戻ってヤマトの敵国のクナトに身を寄せ、と戦って製鉄権を手に入れてクナトの国に客分として迎え入れられた。その頃のオオクナトの主は、寝たきりの老人であった。その末子がオオアナムチである。だがオオアナムチは母の出自が貧しかったため、多くの兄からは虐げられていた。
  そのオオアナムチに、ソミン王は一目見たときから目をかけていた。この少年のみ(たま)は尋常なものではないと、ソミン王の霊眼(ひがん)は見抜いたようだ。だが、兄たちによるオオアナムチのいじめは陰湿に続き、またソミン王の助言には耳を貸さなかった。彼らはソミン王を韓の地から来て民衆を手なずけようとしている、クナトにとっては侵略者以外の何者でもないと思っていたからだ。
  だが、ソミン王の民衆からの人気はすさまじいものがあった。邪馬台鉄人族を駆逐しただけでなく、植林や先進の製鉄法を教え、さらにそれまでの穴居という造るのが困難を極める横穴住居を廃し、簡易天幕のようなセブリを人々に広めたからである。
  ソミン王に対する民衆の人気が上がるほど、そのソミン王に目をかけられているオオアナムチへの兄たちによるいじめは次第にエスカレートし、ついにはオオアナムチの命さえ奪いかねない状況になった。古記によると兄たちはオオアナムチを赤猪の住むという山に連れて行き、
  「上から赤猪を追い出すけん、走り下りてきたら両手でしっかり受けとめてこせ。逃がしたりしたら、お前を殺すけんな」
  と言っておいて、実際には火で真っ赤に焼いた大石を転がり落としたという。そのようなものを両手で受けとめてはたまらない。オオアナムチは全身やけどで瀕死の重傷を負った。その時はオオアナムチの母が赤貝の汁を蛤の貝に入れて練ったものを塗って治療したので、事なきを得た。しかし、それでも兄たちの鮮烈ないじめは続けられた。
  次に木の切り株を二つに裂いて棒でつっかえをし、言葉巧みにその裂け目にオオアナムチの身を入れさせた兄たちは、その支えをはずした。オオアナムチは木の切り株に挟まれてまたもや重傷を負った。今度も母によって助けられたが、こうなると命が幾つあっても足らなくなる。
  「おまえはいつ殺されるかも分からんけん、早うソミン(ソーラン)様のところへ逃げた方がええ」
  母にそう勧められてオオアナムチは、国庁のある意宇の里(松江市大庭町)を見下ろす宮山にいるソミン王の所に、庇護を求めて転がり込んだのである。
  ソミン王がオオアナムチのみ魂を再認識したのは、切り株に挟まれたオオアナムチを蘇生させた母の施した(わざ)であった。母はオオアナムチに手をかざして息子を蘇生させたが、これは太古より伝わる神業(かむわざ)の奥の座で、相当のみ魂でなければ駆使できない業である。オオアナムチ自身少年の頃、隠岐の兎族と海人族である鰐族との抗争で傷ついた兎族の兵士を、手をかざすことで癒してしまったりしている。
  こうしてオオアナムチは、宮山のソミン王のもとで息子同然にして育てられた。
  その頃、ソミン王とその妻のクシイナダの間には、女の子が生まれていた。これがスセリ姫である。したがって、オオアナムチとスセリ姫は兄妹同然にして育てられた。そしてソミン王は、いずれはオオアナムチを娘の婿にと考えていたようだ。
  さらにソミン王は自分が得ていた民衆の支持力によって、オオアナムチをオオクナトの主の地位に就けようと目論んだ。すでに「出雲八重書」によって、すべてはオオアナムチの兄たちのような権力者の好き勝手に事は運ばなくなっている。毎年十月にクナトの(やしろ)(現・八束郡八雲村の熊野大社)で、出雲じゅうの国知一(クズシリカミ)が集まって「(カミ)集い」が開催されるが、この最高決議機関である「一集い」における「一議(カムはか)り」において決せられることがすべてであり、これが「出雲八重書」による規定であった。
  そしてソミン王の息のかかった「一議り」によって、オオアナムチはオオクナトの主に選出されたのである。しかしそれがそのまま、オオアナムチとスセリ姫との結婚には結びつかなかった。この婚儀にたどり着くまでは、容易ではなかったのである。
  昔なら結婚は略奪結婚が主流で親元から盗み出し、娘の実名を聞き出せばそれで結婚が成立した。しかし、結婚相手の父親がそういった略奪結婚を禁じたスサの王ソミンその人であったから、状況はなおさら厳しかった。
  娘の相手にはオオクナトの主のオオアナムチと早くから決めていたソミン王だったが、一筋縄で結婚を承諾しようとはしなかった。なぜなら、ソミン王のオオアナムチに対する期待が大きいだけに、わざと結婚を認めないことに寄ってオオアナムチを鍛えぬいてひとまわりもふたまわりも大きく育てようとしたからである。
  まずはオオクナトの主になってからオオアナムチは「出雲八重書」にのっとって宮山を登り、その上に居を構えるソミン王にその娘との結婚の承諾を受けに行った。時に新芽が一斉に芽吹きいづる明るい季節のことで、山の上り口の道の両脇の熊笹の緑がまぶしかった。
  神坐(かもす)の社(神魂神社)への上り段を右に見て、宮山へと登る。神坐の社はクナトの社に並んでこの地方の祭祀の中心地だが、この頃は本殿はまだなくて磐座(いわくら)があるだけだった。
  そもそも神社建築というものが発達するのはもっとずっと後世のことで、この頃の社は自然の岩の配列や山などが神の依代(よりしろ)であった。
  少々肥満気味のオオアナムチにとって、その急な坂道は結構こたえ、顔は汗だくになった。それでも少年の頃から、兄たちの荷物を大きな袋に入れて肩にかけ、供をさせられたことによって足腰は鍛えられている。そして坂を登りきった所から見る神道(しんじ)の海(宍道湖)やその背後の山脈のパノラマのごとき眺めの荘厳さと美しさが、彼の疲れを完全に癒してくれた。
  ソミン王の住む所は大きな磐座を横目に見て、さらに登った所にある。そこはオオアナムチにとっては少年期を過ごしたいわば実家みたいなもので、帰れば父親代わりのソミン王がいる。 ところが、この日ばかりはソミン王は自分の父親ではなく、花嫁の父になるべき人である。そして、坂を登きった後の展開は、オオアナムチの予想を越えていた。出て来たのはスセリ姫であった。赤子の頃から知っているこの姫も、今は娘盛りだ。金髪で青い目の父の血を受け、幾分鼻が高く髪も黒くはない。
  「いけんわ、お兄さま。お父さまったら、お兄さまのことを追い返せって」
  それでは求婚の申し入れもできない。
  「ソミン様はわしが何で来たか、知っちょうとじゃなあですかいね」
  すべてを知っていると、スセリ姫は言った。そして宮山をオオアナムチが登って来るのも、すべて見ていたという。確かにここからなら、山の上り口から登山道まで、さらにはオオアナムチが今住んでいる国庁までが一望できる。それでは話が違う、ぜひにとオオアナムチはねばったが、スセリ姫は悲しげに首を横に振るだけだった。
  結局おめおめと帰るわけにも行かず、オオアナムチは座り込みを続け、それが三日間も続いた。その間何も食べなかったのだから、一種のハンストである。それでもソミン王は断固として拒み続けることで、オオアナムチの素質を試していたようだ。そしてついに四日目の夜、オオアナムチは決行した。昔のの風習よろしく姫をさらって逃げた。ソミン王はそれも知っていたようで、月明かりを頼りに手を取り合って坂を降りかけた二人に向かって叫んだ。
  「お前が手にした弓矢で、お前の兄たちを追放しろ」
  オオアナムチがオオクナトの主に選出されたとはいえ、兄たちがはいそうですかと引き下がるはずもなく、まだこの意宇の里にくすぶっていた。いつかはオオアナムチを殺そうと虎視眈々と狙っていたのである。今やオオアナムチは母が違うとはいえ血を分けた兄弟たちを、自ら武力でもって駆逐する運命を授けられてしまった。
  そしてソミン王は、こうも言った。
  「もし兄たちを追放できたなら、娘との結婚は許そう。オオクナトの主として、しっかりとこの国を治めるんだぞ、この野郎!」
   最後の「この野郎(古記では『この(やっこ)』)」という言葉には、憎くてではなく多分に花嫁の父としての複雑な心境がこめられていたのであろう。
  こうして、オオアナムチとその兄たちの手勢との戦闘が始まった。オオアナムチの武力といっても、ほとんどがソミン王が韓の地からつれてきた配下の五十猛(いそたけ)のものである。戦闘は一日で決着がつき、そして兄たちを殺すに忍びず他国へと追放した後、オオアナムチはオオクナトの主としての実権を手に入れたが、彼にはまだ課題があった。
  それは出雲の国の勢力範囲の確定と、未開地方の平定である。だがこれには、かつてソミン王がこの地方の製鉄権を掌中にしており、それを譲り受けて製造された鉄の武器は大いに役立った。その時、常に彼とともに行動したのがスクナヒコナであった。
  こうして約一年がかりでオオアナムチは、わが国で最初に開発された鉄器で、畿内大和地方をはじめヤマトの支配下であった伊勢、熊野などの紀伊半島全域、および播磨の国、越の国、信濃の国などを出雲の支配下に置いた。
  その過程でどうしても避けて通れないのが、長年にわたって紛争が絶えず、いまだ決着を見ていないヤマトとの戦闘であった。何しろ畿内大和地方にも、ヤマト勢力の諸国が点在している。しかし、そのヤマトとの間には、ここ十何年にわたって無気味な沈黙が続いている。人々はもうすっかり、平和に慣れてしまっているが、決して戦いは終わってはいないのだ。
  こうして、ようやくスセリ姫との婚儀の運びとなったが、今やオオアナムチを取り囲むのは先代オオクナトの主の父の代からの重臣たちの二世であり、兄たちには靡かずにソミン王にひそかに通じていた若者たちで、それがそのままオオアナムチの重臣となった。その一人はコトシロヌシ、もう一人はタケミナカタである。二人ともオオアナムチより少しだけ若かった。さらには昔からの重臣ではないが、スクナヒコナ(漢籍では狗古智卑狗と書かれているが、須古那卑狗の誤記とも思われる)という若者もソミン王のところで寝起きを共にしていた間柄であり、オオクナトの主の副官ともいえるべき立場に就いた。そういった人々に囲まれて、婚儀の酒宴は盛り上がりを見せていた。
  そんな宴たけなわの頃、先ほどから席を外していたタケミナカタが、血相を変えて宴席に飛び込んできた。西の杵築の浜辺に船団が押し寄せてきたというのである。

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